古賀達也一覧

第2179話 2020/07/01

「倭」と「和」の音韻変化について(1)

 「洛中洛外日記」に連載中の「九州王朝の国号」について、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、『日本書紀』歌謡における「倭」の音韻変化とその成立時期の理解についてご指摘が寄せられました。九州王朝の国号変化をテーマとする同シリーズの主旨や目的と離れますし、専門的になりすぎることもあって、この音韻変化の説明には深入りしなかったのですが、この機会にわたしの理解を詳述したいと思います。
 古代中国語音韻研究では、「倭」の字の発音が変化(音韻変化、音声変化)していることが知られています。音韻学上の正式な表現ではありませんが、「wi」「wei」から「wa」「wo」に変化したとされています。その影響や痕跡が『古事記』『日本書紀』に残されており、その時期は『日本書紀』成立以前、恐らくは六~世七紀頃ではないかと「九州王朝の国号(6)」で論じました。また、中国での音韻変化発生の理由として、南朝から北朝への権力交替が考えられ、南朝に臣従していた九州王朝の独立や北朝との交流により、その音韻変化の影響が日本にも及んだと推察しました。
 古代日本語で詠われた歌が一字一音の漢字で表記されている『記紀』歌謡の分析により、この音韻変化をとらえることが可能で、今回の拙論「九州王朝の国号」は次のような論理展開に基づいています。

①『古事記』に掲載された歌謡の、たとえば「われ」「わが」という言葉の「わ」の表記に使用されている漢字は「和」であり、その訓みは現代日本まで続いている。
②『日本書紀』も神武歌謡などでは「和」が使用されているが、雄略紀や継体紀などの歌謡では「倭」の字が使用されており、若干の例外を除き「和」は使用されなくなっている。
③この『日本書紀』の史料状況からも、「wi」と読まれていた「倭」の字が、『日本書紀』成立以前に「wa」へと音韻変化していることがわかる。
④『古事記』と『日本書紀』の「わ」表記の差から、『古事記』は「わ」の音に「和」の字を使用した古代歌謡史料を採用しており、『日本書紀』編者は何らかの理由で「和」と「倭」を併用したと考えざるを得ない。
⑤『古事記』と『日本書紀』の「わ」表記の漢字使用状況の差から、元々は、「わ」表記に「和」の字を使用した時間帯があり、その後、「倭」の音韻変化により、「わ」表記に「倭」の字も使用されるようになったと考えられる。
⑥『日本書紀』では神武歌謡などの古い時代の歌謡に「和」が使用され、そこでは「倭」との混用がされていないことも、「和」表記が先行し、その後、音韻変化した「倭」表記の採用が開始されたとする理解に有利である。
⑦付言すれば、『日本書紀』に記された歌謡がその天皇紀の時代のものかどうかは別途論証が必要だが、神武東征説話やそこでの歌謡が天孫降臨説話の転用であることがわかっており、神武の時代ではないものの、九州王朝内で伝承された天孫降臨時代の古い歌謡である。
⑧恐らく、九州王朝内で伝承・記録された古代歌謡には「和」が採用されており、『古事記』や神武紀などはその用法を引き継ぎ、他方、雄略紀・継体紀などの歌謡には音韻変化後の「倭」の字を採用したと考えることができる。
⑨ただし、「倭」の音韻変化の時期とそれを歌謡の「わ」表記に採用し始めた時期は未詳であり、とりあえずは「『日本書紀』成立以前」のこととし、可能性としては九州王朝が南朝から独立し、北朝(北魏、隋、唐など)と交流し始めた六~七世紀頃としておくのが学問的に慎重な姿勢である。

 以上のような考察の結果、「倭」の字の音韻変化と『記紀』歌謡への採用過程について、一応の「解答」は出せたのですが、森博達さんの『日本書紀』研究の成果を援用することにより、更に理解は進展しました。(つづく)


第2168話 2020/06/06

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(9)

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論として、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」との訓みを思いついたのは2004年頃でした。この訓みが成立するのか古田先生と検討してから16年経ちました。そのとき成立困難との結論に至りましたが、今回もまた同様でした。しかし、今回はより深く認識することができ、同時に『三国志』全編を読み通しましたので、様々なことに気づき、有意義でした。
 わたしの仮説(思いつき)を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでしたが、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。同時に「女王之所都」〔女王の都(みやこ)する所〕の「之所」について、どのような用例があり、どのような文法ルールを持っているのかを今回調べてみました。
 「之所」という用例は『三国志』にはそれほど多用されていませんが、各所に散見されることから、特殊な用例ではないようです。東夷伝中の印象的な用例としては次の記事があります。

 「長老説有異面之人、近日之所出」(三 840頁、魏書)

 これは粛慎の長老の言葉ですが、「近日之所出」(日が出る所に近し)のように「女王の都(みやこ)する所」と同様に、「之所」の直後に「出」という動詞が続きます。次に紹介する用例でも同様ですが、「之所」の直後に動詞が続くのが文法ルールのようです。

 「周公之所以用、大舜之所以去」「在陛下之所用」(二 503頁、魏書)
 「不以舜之所以事」(三 572頁、魏書)

 これとは別に、「之」の字がなく、「所」だけで、その後に動詞が続く用例は多数ありますが、「之」の有無にどのような意味の差があるのかは、まだわかりません。勉強はこれからも続きます。(おわり)


第2167話 2020/06/05

『東京古田会ニュース』192号の紹介

先日、『東京古田会ニュース』192号が届きました。本号には拙稿「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」を掲載していただきました。観世音寺の創建を七世紀後半の白鳳時代(正確には白鳳10年、670年)とする各種史料を紹介し、その結果、太宰府条坊成立が観世音寺創建に先行するという井上信正説(太宰府市教育委員会)により、九州王朝(倭国)の首都太宰府条坊都市が大和朝廷(日本国)の藤原京条坊都市よりも早く造営されたことになると指摘した論稿です。
 コロナ禍により、「東京古田会」も今年の会員総会開催を断念されたため、同会決算書や事業報告などが同封されていました。コロナ禍の中で、どのようにして研究会活動を継続するのか、わたしたち「古田史学の会」にとっても試練のときを迎えていますが、それは同時に新時代の歴史研究のあり方を他に先駆けて提案・構築できるチャンスでもあります。皆さんからの画期的な提言やアイデアを求めます。


第2162話 2020/05/29

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(8)

 『三国志』(中華書局本)本文に見える「都」で、名詞の「みやこ」や動詞の「みやこする」ではなく、「全て」「全ての」という意味で使用されていると考えられる次の例について、訳を検討してみました。

(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
《訳案》
①景初(年)中、詔を受けて都(すべて)の官の考課を作る。
②景初(年)中、詔を受けて官を都(す)べる考課を作る。
③景初(年)中、詔を受けて都官(とかん)の考課を作る。

(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
《訳案》
①詔す、都(すべて)の講に祭酒を立てよ。
②詔す、講を都(す)べる祭酒を立てよ。
③詔す、都講(とこう)に祭酒を立てよ。

(33)「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
《訳案》
①身長は八尺、儀貌(容貌)は都(すべて)雅(みやび)なり。
②身長は八尺、儀貌(容貌)は都雅(とが)なり。

 なお、(9)(28)については、「都官」を「みやこの官僚たち」、「都講」を「みやこの講」と訓めないこともありませんが、〝みやこの「官」や「講」〟という表記は『三国志』中の他には見えませんので採用しませんでした。また、「都(す)べる」と訓む場合は、日本語では「統(す)べる」の表記が通常で、その意味は「統括する」です。『三国志』でも「統括する」の意味には「統」の字がよく使われています。
 他方、『後漢書』や漢和辞典類には「都官」「都講」「都雅」という熟語が見え、「都官:役職名(『後漢書』)」「都講:塾頭」「都雅:みやび」などが見えます。このことを加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からご教示いただきました。この点を重視すると、「都講」の訓みは「講を統(す)べる」「講を統括する」が適切となります。あるいは、『三国志』編纂時代には「都督」「都尉」などのように、「都講」という役職名が既に成立していたのかもしれません。また、同様に「都雅」という二字で「みやび」という意味が『三国志』の時代に成立していた可能性も考慮する必要がありそうです。
 引き続き検討を進めますが、今回の『三国志』調査においては「全て」「全ての」という意味で「都」の字が使用される確かな例(他の字義では意味が通らないケース)は今のところ見つかっていません。また、わたしの仮説を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでした。現時点での結論としては、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。(つづく)


第2159話 2020/05/24

正木裕さんが八王子セミナー2020で発表

 本年11月、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念として開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で研究発表することを「洛中洛外日記」2154話〝八王子セミナー2020 発表タイトルと要旨〟でお知らせしました(【演題】古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―)。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も研究発表されることになり、わたしのFACEBOOKにテーマと要旨がコメントされました。下記の通りです。同テーマは関西でも好評の正木さんの〝鉄板〟研究です。とても有意義で面白そうなセミナーになりそうです。

【演題】裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」

【要旨】故古田武彦氏が唱えられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸である」ことの正しさを、様々な考古学上・文献上の「新たな発見・知見」にもとづいて証明する。

※正木さんからの追加コメント
 邪馬「台」国はなかった以降、特に近年、古田氏がふれることが出来なかった様々な考古学的発見や文献の発掘により博多湾岸邪馬壹国説はその信頼度を増しています。セミナーでは、ヤマト一元説が無視・スルーしてきた「新証拠」を紹介し、改めて古田説を裏付けていく予定です。


第2158話 2020/05/23

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(7)

 『三国志』(中華書局本)に見える「都」には動詞と名詞、そして「全て」の意味を持つ用例がありました。特に三国時代(後漢末期)の遷都記事に関わるものとして、190年の「長安」遷都関連記事(1)(7)(25)、196年の「許」遷都関連記事(2)(3)(4)(6)(10)(11)、呉の遷都記事(26)(27)(30)(31)(30)(39)(41)(42)(43)(45)(46)(47)があり、いずれも「みやこする」(文語的表現)「みやことする」(口語的表現)と訓むのが妥当と思われます。
 他方、注目すべきは倭国と高句麗の次の「都」関連記事です。

(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」魏書毋丘儉(カンキュウケン)伝(三 762頁)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」魏書倭人伝(三 855頁)

 共に「所都」という表記で、丸都が高句麗の都であること、邪馬壹国が女王の都であることを説明する文脈で使用されており、「都」を動詞とする「みやこする所」「みやことする所」の訓みが最も適切で、記事の意味を的確に表しています。なお、倭人伝(20)には「女王之所都」と「之」の字があり、毋丘儉伝(17)「屠句麗所都」にはありません。この差異により文意にどのような影響が出るのか、今のところよくわかりません。(つづく)


第2157話 2020/05/22

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(6)

 『三国志』(中華書局本)を久しぶりに全巻読み通しました。わたしの好みでもありますが、「蜀書」姜維伝を読むと、なぜか胸が熱くなりました。横山光輝さんの漫画『三国志』に描かれた姜維の印象が強いこともあり、わたしは諸葛孔明と姜維のファンです。
 『三国志』での「都」の字は、「都督」「都尉」などの役職名や行政名称の「京都」、地名の「成都」「陽都」「武都」などに使用される例が多いのですが、今回のテーマに関係しそうな、それ以外の「都」の例を下記に紹介します。見いだした全てを記載はしていませんし、重要な使用例の見落としがあるかもしれません。その場合はご教示下さい。

(1)「(初平元年)二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室」(一 7頁、魏書)
(2)「天子都許、拜洪諫議大夫」(一 278頁、魏書)
(3)「太祖議奉迎都許」「太祖遂至洛陽、奉迎天子都許」(二 310頁、魏書)
(4)「太祖迎天子都許」(二 322頁、魏書)
(5)「伍員絶命於呉都」(二 376頁、魏書)
(6)「天子都許、以(日/立)為尚書」(二 428頁、魏書)※(日/立):「日」の下に「立」
(7)「是時董卓遷天子都長安、卓因留洛陽」(二 466頁、魏書)
(8)「趙都賦」「許都」「洛都賦」(三 618頁、魏書)
(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
(10)「建安初、太祖迎天子都許」(三 665頁、魏書)
(11)「太祖始迎獻帝都許」(三 668頁、魏書)
(12)「時新都洛陽」(三 678頁、魏書)
(13)「凡帝王徙都立邑」(三 711頁、魏書)
(14)「都城禁衛」「都圻之内」(三 718頁、魏書)
(15)「時都畿樹木成林」(三 744頁、魏書)
(16)「楚王彪長而才、欲迎立彪都許昌」(三 758頁、魏書)
(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」(三 762頁、魏書)
(18)「積穀干許都以制四方」(三 775頁、魏書)
(19)「都於丸都之下」(三 843頁、魏書)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」(三 855頁、魏書)
(21)「興復漢室、還干舊都」(四 920頁、蜀書)
(22)「曹公議徙許都以避其鋭」(四 941頁、蜀書)
(23)「陛下大軍、金鼓以震、當轉都宛、鄧、若二敵不平、軍無還期」(四 993頁、蜀書)
(25)「卓尋徙都西入關、焚燒雒邑」(五 1097頁、呉書)
(26)「權自公安都鄂、改名武昌」(五 1121頁、呉書)
(27)「權遷都建業」(五 1135頁、呉書)
(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
(29)「此都無所損、君意特有所忌故耳」(五 1160頁、呉書)
(30)「從西陵督歩闡表、徙都武昌」(五 1164頁、呉書)
(31)「晧還都建業」(五 1166頁、呉書)
(32)「呉都言掘地得銀」「呉都言臨平湖自漢末草穢壅塞」「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」(五 1171頁、呉書)
(33)「自權西征、還都武昌」「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
(34)「自今蔽獄、都下則宜諮顧雍」(五 1239頁、呉書)
(35)「事畢還都」(五 1250頁、呉書)
(36)「後召還都、拜(津)右護軍、曲領辭訟」(五 1287頁、呉書)
(37)「權破羽還、都武昌」(五 1310頁、呉書)
(38)「及還都建業」(五 1311頁、呉書)
(39)「黄龍元年、權遷都建業」(五 1340頁、呉書)
(40)「及求詣都」「葬送東還、詣都謝恩」「太元元年、就都治病」(五 1354頁、呉書)
(41)「權遷都建業」(五 1364頁、呉書)
(42)「又恪有徙都意、使治武昌宮、民間或言欲迎和。及恪被誅、孫峻因此奪和璽綬、徙新都、又遣使者賜死」(五 1370頁、呉書)
(43)「晧徙都武昌」(五 1400頁、呉書)
(44)「非王都安國養民之處」(五 1401頁、呉書)
(45)「既定荊州、都武昌」(五 1411頁、呉書)
(46)「權下都建業」(五 1414頁、呉書)
(47)「初、權黄龍元年遷都建業」(五 1434頁、呉書)
(48)「北方都定之後、操率三十萬衆來向荊州」(五 1436頁、呉書)
(49)「太元元年、權寝疾、詣都」(五 1443頁、呉書)
(50)「而都下諸官、所掌別異」「定送到都」(五 1468頁、呉書)

 ※『三国志』中華書局本(2000年北京第15次印刷)

 以上のような「都」の用例が見られました。(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」が今回のテーマである倭人伝の記事です。なお、『三国志』本文中で夷蛮の諸国に「都(みやこ)」記事があるのは、毋丘儉(カンキュウケン)伝(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都」と倭人伝(20)と高句麗伝(19)だけです。このことを検討会で古田先生が指摘されたのを懐かしく思い出しました。(つづく)


第2155話 2020/05/20

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(5)

 

 話題を「南至邪馬壹国女王之所都」の「都」の字義に戻します。

 わたしの仮説が成立するのかどうかを古田先生と検討したときのことを紹介します。「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案について、最大の問題となったのが、「女王之所」をどう訓むのかということでした。

 たとえば、「之」の字義に「行く」という意味もあり、そのような他の字義での訓みや理解について古田先生と検討を続けました。しかし、結論としては妥当な訓みが成立しそうもなく、わたしの仮説はペンディングとなり、とりあえずは通説の訓み「南、至る邪馬壹国。女王之都する所」でよいということになりました。

 今回、わたしは久しぶりに『三国志』(中華書局本ですが)を全巻読破し、「都」の用例調査を改めて行い、特に「都」の「合計する」「全て」という使用例を探しました。(つづく)


第2153話 2020/05/15

倭人伝「南至邪馬壹国女王之処都」の異論異説(4)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」の里程表現が『三国志』倭人伝の行程記事に似ており、著者の申淑舟は倭人伝の表記を模倣したのではないかと、わたしは考えています。もちろん、〝偶然の一致〟あるいは行程を記載する場合の〝一般的な様式〟という可能性についても検討しましたが、やはり申淑舟は倭人伝を読んでおり、その影響を受けているという結論に至りました。
 『海東諸国紀』の冒頭には日本国や九州島、壱岐、対馬の地図が掲載されており、当時(15世紀)の朝鮮国が日本列島の位置や地形をどのように捉えていたのかがうかがえます。その中でわたしは、壱岐・対馬・九州島の形がほぼ四角に、または四角の枠内に描かれていることに注目しました。特に対馬に至っては強引に折り曲げて四角の枠内に描かれています。当初は本に掲載するために無理矢理に四角形のスペースに押し込めて描いたのかと思っていましたが、「道路里数」が倭人伝の里程記事を模倣していることに気づき、この強引で不格好な「四角形」の壱岐・対馬・九州の描き方は、倭人伝や『旧唐書』の次の表記の影響を受けたと考えるに至りました。

 「(対海国)方四百余里ばかり」「(一大国)方三百里ばかり」『三国志』倭人伝
 「四面に小島、五十余国あり」『旧唐書』倭国伝

 倭人伝では対海国(対馬)と一大国(壱岐)の大きさを「方」という面積表記方法、すなわち「四百余里」「三百里」の四角形に内接する面積表現(方法)が採用されており、申淑舟はこの「方」表記を意識して、『海東諸国紀』の「日本国一岐島の図」「日本国対馬島の図」として、四角の枠内に押し込めるように描いたのではないでしょうか。
 『旧唐書』では倭国を「四面」と表現しており、そのため「日本国西海道九州の図」には九州島がほぼ四角形に、その北・西・南の三面に小島が描かれています。なお、東面には島が描かれていませんが、別の「日本本国の図」に「四国島」が描かれており、四角形に描かれた「九州島」の四面に小島があることを示しています。
 このように、申淑舟は『海東諸国紀』の編纂にあたり、『三国志』倭人伝や『旧唐書』倭国伝を参考にしたことをわたしは疑えないのです。(つづく)


第2152話 2020/05/13

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(3)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」には、朝鮮国慶尚道から日本国の王城(京都)までの里程が次のように記されています。

 「我が慶尚道東莱県の冨山浦より対馬島の都伊沙只に至るまで四十八里。○都伊沙只より船越浦に至るまで十九里。○船越より一岐島風本浦に至るまで四十八里。○風本より筑前州の博多に至るまで三十八里。○博多より長門州の赤間関に至るまで三十里。《風本より直ちに赤間関を指せば則ち四十六里》○赤間より竈戸関に至るまで三十五里。○竈戸より尾路関に至るまで三十五里。○尾路より兵庫関に至るまで七十里。《並に水路》○兵庫より王城に至るまで十八里。《陸路》○都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。《我が国の里数を以て計らば則ち水路三千二百三十里、陸路百八十里なり。》」(120頁)※《》内は二行細注

 このように、倭人伝の行程記事と類似した書き方で里程を綴り、最後に水路と陸路の合計里数を「都計(すべて)」として記していることから、倭人伝の「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」という記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と理解した上で、『海東諸国紀』の読者が誤解しようのないように、「計」という字も加えて、「都計」という明確な表記にしたのではないでしょうか。
 この『海東諸国紀』の「都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。」を知り、わたしは国も時代も異なる知己を得たような気がしたものです。なお、同書の「琉球国記(ママ)」の里程記事も同様の表記「都計、五百四十三里なり。」を採用しています。(つづく)


第2151話 2020/05/12

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)

 倭人伝に見える「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案ですが、わたしのこの訓みと同じようにとらえた先人がいます。李氏朝鮮の最高の知識人とも評される『海東諸国紀』(1471年成立)の著者、申淑舟(1417-1475)です。
 『海東諸国紀』は「九州年号」史料としても著名で、近畿天皇家の天皇の記録が九州年号(善化~大長。※「善化」は「善記」の誤伝)と共に記されています。従って、申淑舟は九州年号が九州王朝の年号であることや九州王朝の存在そのものを認識していなかったことがわかります。他方、同書は李王朝の公的な史料として編纂されていますから、当時の李王朝による日本国や琉球国に関する情報や認識を推し量る上で貴重な史料でもあります。
 あるとき、わたしが九州年号の調査研究のため『海東諸国紀』(岩波文庫、田中健夫訳注、1991年)を読んでいたところ、朝鮮国慶尚道から日本国の京都までの行程が記された「道路里数」の記事を見て、その文章が『三国志』倭人伝を模倣していることに気づいたのです。(つづく)


第2150話 2020/05/11

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)

 わたしのFACEBOOKの〝ともだち〟のSさんから、『三国志』倭人伝の訓みについてコメントが寄せられました。それは邪馬壹国という国名が記された次の記事についてです。

 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」

 古田説では「南、邪馬壹国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と訓み、通説でも「南、邪馬臺(台)国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と、国名を原文改定(邪馬壹国→邪馬臺国)するものの、共に「女王の都(みやこ)するところ」と訓まれてきました。この訓みに対して、「都(みやこ)する」と訓むのは異様ではないかとSさんは指摘され、「都(す)べるところ」と訓む仮説を提起されたのです。
 「都」という字には、「合計する」や「統率する・統括する」という意味もあり、その場合は「都(す)べる」と訓むケースがあります(通常、「統べる」の字が使われます)。しかし、「女王の都(す)べる所」と訓んでも、「女王の都(みやこ)する所」と訓んでも意味的に大差は無いようにも思います。いずれの訓み(理解)でも、女王が邪馬壹国に君臨し、そこで「統率・統括する」とするのですから、そこを「都(みやこ)とする」と実態は同じです。
 実はこの記事の「都」をどのように理解すべきかについて、昔、古田先生に私見を述べたことがあります。それは「南至邪馬壹国。女王之所。都水行十日陸行一月」と区切り、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓み、「都」を〝合計して〟の意味に理解するというものです。
 この訓み(理解)に対して、古田先生も一定の理解を示され、通説の「都(みやこ)する」とわたしの仮説「都(す)べて水行十日陸行一月」がよいのか、二人で検討しました。しかし、結論は出ませんでした。そのため、とりあえず通説の訓み「都(みやこ)する」でよいと判断し、今日に至っています。すなわち、「都(す)べて水行十日陸行一月」が通説よりも妥当と他者を納得させられるだけの根拠(『三国志』中での同様の用例)や証明(自説に賛成しない他者を納得させることができる、根拠を明示した明解な説明)が提示できないため、通説に従うことにしたのでした。(つづく)