古賀達也一覧

第2012話 2019/10/12

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(7)

 九州王朝(倭国)官道の名称や性格について一通り説明可能な仮説が成立しましたので(当否は別として)、次にこの仮説と関連諸史料・諸研究などとの整合性を精査し、必要であれば修正を施し、仮説の精度を向上(ブラッシュアップ)させたいと思います。というのも、下記の九州王朝官道の位置づけについて、わたしにはいくつか気になることがありました。その一つは、「西海道」の終着国がこうやの宮(福岡県みやま市)の御神像と不一致という問題でした。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「隋」「唐」(中国の歴代王朝)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 こうやの宮の五体の御神像は、中央の比較的大きな主神(九州王朝の天子・倭王、玉垂命か)と四方の国からの使者からなるのですが、古田先生の見解によれば、七支刀を持つ人物が百済国(西)からの使者、鏡を持つ人物が近畿天皇家(東)からの使者、厚手のマントを着た人物が高句麗(北)からの使者、そして南洋の原住民のような上半身裸の人物は「南の国」からの使者とされています。
 この中で国名が明確に想定できるのが七支刀を持つ人物で、百済国からの使者です。その他の御神像は推定の域(作業仮説)を出ません。他方、七支刀といえば奈良県の石上神社に伝わる神宝(国宝)であり、その銘文により、泰和四年(369)に百済王から倭王に贈呈されたものであることがわかります。従って、「七支刀」を持つ御神像を百済の官人とされた古田先生の見解にわたしも賛成ですし、これ以外の理解は根拠がなく成立困難です。
 こうやの宮の御神像が、九州王朝の歴史を反映(伝承)したものであれば、九州王朝官道が向かう東西南北の外国は蝦夷国・百済国・流求国・粛慎国となります(東からの使者を近畿天皇家とするのは、他の使者がいずれも国外からであり、東だけが倭国内のしかも九州王朝(倭王)の臣下である近畿天皇家とするのはアンバランスです)。特に、御神像の国として明確な百済国との対応は無視できません。こうやの宮の御神像という〝史料根拠〟に従う限り、「西海道」の終着国を百済国とするのが学問の方法上穏当なのです。この場合、「西海道」のルートは、太宰府を起点として肥前(松浦半島付近)・壱岐・対馬・済州島(タンラ国)・百済国とするのが妥当ではないでしょうか。
 以上の考察結果から、九州王朝官道の位置づけとして次のケースも有力となりました。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 なお、時代によって四方の終着国が変わるという可能性はありますが、「軍管区」としての「西海道」の終着点を東アジアの〝上位国〟である唐や隋とするよりも百済国とする方が自然ではないでしょうか。(つづく)


第2009話 2019/10/09

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(4)

 九州王朝(倭国)官道名称の考察結果として、「東」の大国「蝦夷国」に向かう「東海道」「東山道」、「北」の大国「粛慎国」へ向かう「北海道」「北陸道」とする仮説を提起できました。次に、残された「西海道」と「南海道」についても考察を続けます。
 九州王朝から見て「西」の大国とは言うまでもなく「中国」でしょう。七世紀段階であれば、「隋」か「唐」としてよいと思います。しかし、「南」は難解です。「東」と「北」の国名を求めた方法論上の一貫性を重視すれば、「蝦夷国」「粛慎国」と同様に『日本書紀』に記された九州王朝との関係(交流・交戦記事など)が確認できる国を有力候補とすべきです。その意味でも、「西」の大国候補の「隋」「唐」は共に『日本書紀』に見える国なので、方法論上の一貫性というハードルをクリアしています。
 それでは『日本書紀』に記された「南」の大国候補はあるでしょうか。九州島よりも南方にあると思われる国として、『日本書紀』には次の名前が見えます。初出記事のみ記します。

○「掖久」(屋久島か)推古二四年条(616年)
○「吐火羅」(トカラ列島か。異説あり)孝徳紀白雉五年条(654年)
○「都貨邏」(トカラ列島か。異説あり)斉明三年条(657年)
○「多禰嶋」(種子島か)天武六年条(677年)
○「阿麻彌人」(奄美大島か)天武十一年条(682年)

 以上のような地名が散見するのですが、「蝦夷国」「粛慎国」「唐」と並ぶ「南」の大国とは言いがたく、いずれも比較的小さな島(領域)のようで、候補地と見なすのは難しいと思われます。『日本書紀』にこだわらなければ『隋書』に沖縄県に相当すると思われる「流求國」が見えますが、先に述べた方法論上の一貫性を保持できません。そこで、「よみがえる『倭京』大宰府 ―南方諸島の朝貢記録の証言―」(『発見された倭京』収録)などの『日本書紀』に見える「南島」に関する論文を発表されている正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご意見を仰ぐことにしました。(つづく)


第1994話 2019/09/19

福島原発事故による古田先生の変化(3)

 古田先生が、ミネルヴァ書房版『ここに古代王朝ありき』巻末の「日本の生きた歴史(五)」(2010年8月6日)を執筆された翌年の3月11日に東北大震災が発生し、数日後には福島第一原発が爆発しました。この災難に「古田史学の会」も翻弄されました。とりわけ、「古田史学の会・仙台」の会員の方々と連絡がとれず、何ヶ月も憂慮する日々が続きました。東北大学ご出身の古田先生には尚更のことと思われました。たとえば、阪神淡路大震災のときも古田先生は被災者に心を痛められ、当時出版されたご著書の印税などを神戸市に寄贈されたこともあったほどですから。
 特に原発の爆発事故には深く関心を示されたようで、翌2012年11月20日には東京大学教授の安冨歩さんの著書『原発危機と東大話法』(2012年1月、明石書店)が古田先生から贈られてきました。今までも歴史関係の本や論文を頂いたことは少なくなかったのですが、この種の本を先生から頂いたのは初めてのことでした。
 そうしたこともあって、古田先生と原発問題などについて話す機会が増えました。そのことを記した「洛中洛外日記」を紹介します。

【以下、転載】
「洛中洛外日記」514話(2013/01/15)
「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であり、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあり、今回書いてみました。
【転載おわり】

 おそらく、福島第一原発の爆発事故により、古田先生は核兵器や原発についての考察をより深め、考えを変えられたのではないかとわたしは推測しています。(つづく)


第1991話 2019/09/15

福島原発事故による古田先生の変化(2)

 今から10年ほど前のことです。「古田史学の会」役員の間に〝激震〟が走りました。「古田史学の会」全国世話人のAさんから、「古田先生は日本の自衛隊は核武装すべきと言っておられる」と驚きと共に心配のお電話がありました。Aさんは古田先生のご自宅の比較的近くに住んでおられたこともあり、古田先生と連絡を取り合う機会も多く、おそらくそうした個人的会話の中での先生の発言と思われます。そのとき、わたしがどのような返事をしたのかははっきりと記憶していませんが、否定はしなかったはずです。わたしは直接的な表現では聞いたことはありませんでしたが、古田先生がそうしたご意見を持っておられることに気づいていたからです。
 このようなことは、ほとんどの古田ファンや読者の方には信じてもらえないかもしれませんが、古田先生は常々、「世界最強の在日米軍が駐留している日本は真の意味での独立国家ではなく、そのため自衛隊には二流の兵器しか与えられていない」と語っておられました。そして自国の防衛は自国(一流の兵器を持った自衛隊)によってなされるべきと考えておられました。ですから、先生がいう「一流の兵器」とは、恐らく核兵器のことであろうとわたしは受け止めていました。しかし、先生から直接的な表現で自衛隊の「核武装」についてお聞きしたことはありませんでした。
 そのようなときに、次の一文を古田先生が発表され、わたしは驚愕したのでした。ミネルヴァ書房から復刊された『ここに古代王朝ありき』(2010年)巻末に付された「日本の生きた歴史(五)」の「第五 若者の頭脳」です。そこには放射能を発見したキュリー夫人の評価に触れ、次のように書かれています。

【以下、転載】
 (前略)
 事実、彼女(キュリー夫人)の娘イレーヌやその夫ジョリオが「発見」した人工放射能の秘密、またマイトナーやフェルミなど、ヨーロッパ・アメリカ文明の中から生まれた俊秀たちが「アッ!」というまに、「広島・長崎への原爆投下」の道を、その技術を切り開いたではありませんか。わたしの両親は広島(西観音町)でその洗礼を受けました。投下後、一週間して仙台から広島に帰り、傷死体の累積した市街をうろつきまわっていたわたしも、「第二次放射能の被爆者」です。いわば「広がる犠牲者」の末端に位置している人間の一人です。

       四

 わたしの言いたいこと、それは次の一点に尽きます。
 「わたしたちは未だに、キュリー夫人の願いに答えていない」
と。
 このような「巨大な爆発力」が実在する以上、それに〝打ち克つ力〟もまた、必ず実在するはずだ。
ーーわたしはハッキリとそう思っています。たとえば、
 第一、この「巨大爆発力」の研究がさらに進展して、「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟能力を持ったとき、すなわちどの国もこれを「使用」することができなくなります。
 第二に、かりに「宇宙全体」ではなく、「地球全体」であったとしても、同じく「使用」できないのは、自明のことです。
 マイトナーやフェルミ段階では、その爆発力があまりにも「リトル」であり、「マイナー」だったから「使用可能」だったのです。

      五

 問題は、自然科学の分野にとどまりません。
 この「使用」は、人間の「個人」の手によるものではなく、同じく人間の「組織」によらなければならないこと、当然です。
 とすれば、そのような「人間の組織」に対してその組織の「生みの親」である人間の頭脳によって、徹底的な「再点検の手」が加えられなければなりません。「国連」も、「国家」も、「教会」も、「学校」も、「学会」も、そのすべてに対する徹底的な再批判です。
 それが最初にのべた「日本実証主義」の辿り、そして突き進むべき道です。わたしにはそう見えています。
 (後略)
【転載おわり】

 どう控えめに読んでも、この前半部分は相互確証破壊という核抑止理論と同様の考え方に基づいていることは明白でした。古田先生の持論を突き詰めれば、核兵器の使用(核戦争)をとどめるために一流の兵器による自国防衛という理論にたどり着くことも理解できないわけではありません。しかし、ここまであからさまな表現(「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟)で発表されるとは思ってもいませんでした。
 この文が書かれた2010年8月6日は広島に原爆が投下された日です。当然、原爆の悲惨さを体験されている古田先生は、3度目の原爆投下をどうすればとどめることができるのか、考えに考え抜いて執筆されたことをわたしは疑えません。
しかしこの半年後、古田先生のこの考えを180度変えさせた大事件が発生します。2011年3月11日、東北大震災と福島第一原発の爆発事故です。(つづく)


第1990話 2019/09/14

福島原発事故による古田先生の変化(1)

 9月16日、東京の文京区民センターで『倭国古伝』出版記念講演会(古田史学の会・主催)を開催するのですが、お世話になった「東京古田会」「多元的古代研究会」の役員の方へのお土産を何にしようかと考えていました。そんなとき、明石書店からいただいた古田先生の『わたしひとりの親鸞』(明石選書。2012年12月発行)の「明石選書版 あとがき」の抜き刷り数冊が目に入り、それを明後日に持参することにしました。
 同「あとがき」前半には、和田家文書に記された親鸞が佐渡に流罪されたとする伝承が新潟県高田にも残っていたことなどが紹介されています。後半は、晩年の先生の持論であった「原水爆」「原発」を「人類の未来に対する敵」として、それを否定する宗教家・思想家、新宗教・新思想の誕生を訴えられています。この「あとがき」の末尾には「二〇一二年十月二十六日 古田武彦記了」とあります。同様の主張は各講演会や著書でも述べられており、古田ファンの方ならよくご存じのことと思います。
 しかし、30年という永い間、古田先生の謦咳に接してきたわたしは、この先生の崇高な思想や主張が困難に満ちた思想的格闘と変転の末に発せられたものであることを知っています。そうした先生の内奥で発展した仮説や思想について、その経緯をわたしが書き残しておかなければならないのではないかと思い、「洛中洛外日記」で取り上げることを決意しました。
 というのも、わたしが「先生からこのように聞いた」というようなことを書いたり発言したりすると、著書や論文を全て読んでもいない人から「古田先生はそんなことは言われていないし、著書にも書かれていない」とか「古賀が嘘をついている」などと批難されたこともあり、こうした〝小さな真実〟を記すことに躊躇することが多々ありました。しかし、わたしも還暦を過ぎ、来年65歳になります。記憶が鮮明なうちに、そして資料調査(ウラ取り)する体力があるうちに書き残しておかないと、後世、古田先生への誤解が生じたりするかもしれないと思い、少しずつでも用心深く、資料根拠を明示して書き残すことにしました。もし、わたしの記憶違いなどがあれば、是非、ご指摘下さい。(つづく)


第1989話 2019/09/13

わが家と梅原末治さんとの昔話

 わたしが上京区の拙宅で暮らすようになって30年ほどになります。拙宅は妻の実家で、元々は大黒屋地図店という当時日本では三店しかないという珍しい地図専門店でした。「宮内庁御用達」だったそうです。
 妻の祖父、山下喜代吉が創業したお店で、大学の先生などもお客様としてお付き合いが多かったとのこと。そのお一人に梅原末治さんもおられたようで、喜代吉さんは「梅原君は土や石ばかり扱っている」とよく話していたとのこと。昭和30年代中頃のことのようです。先に紹介した「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文が発表された頃に当たります。なお、喜代吉さんは若い頃、淡路島で教師をしていたそうです。
 妻は古代史や考古学には興味はないのですが、その「梅原君」という名前は今でもはっきりと覚えており、おそらくお店にも梅原さんは出入りしていたのではないでしょうか。国土地理院発行の全国各地の地図も置いてありましたので、発掘や遺跡調査のために大黒屋地図店で購入されていたものと思います。
 また、妻の話では、お店には緑色に錆びた銅鐸(高さ約20cm)が飾ってあったそうで、妻が子供の頃に落としてしまい、「耳」の部分が割れたとのこと。それが本物なのかレプリカなのかはわかりませんが、梅原さんや京都大学とお付き合いがあったことなどを考えると、案外本物だったのかもしれません。割れた銅鐸がその後どうなったのかも不明で、「棄てたのではないか」などと恐ろしいことを妻は言っています。
 以上のように、京都に住んでいるといろんな話を聞くことが多いのですが、今回はわが家で伝えられてきた梅原末治さんのエピソードをご紹介させていただきました。


第1986話 2019/09/10

天武紀「複都詔」の考古学

 古田学派には文献史学の研究者は多士済々なのですが、残念ながら本格的に考古学を研究分野とされている方は少数にとどまっています。たとえば関西では小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表、神戸市)や大原重雄さん(古田史学の会・会員、大山崎町)、その他の地域でも古代信州の条里などを研究されている吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)の活躍が管見では注目される程度です。
 こうした背景もあり、「古田史学の会」では各地の著名な考古学者を講演会にお招きして、考古学の最新研究に触れられるよう取り組んできました。わたし自身も、特に七世紀の須恵器編年の勉強をこの十年ほど続けてきました。難解でなかなか理解できなかった考古学論文も初歩的ではありますがようやく読み取ることができるようになってきました。そのため、当初はその重要性を理解できずに読み飛ばしていた部分も、今では正しく認識できるケースが増えてきました。今回は、その一例を紹介します。
 前期難波宮九州王朝複都説の研究において、わたしが注目してきた『日本書紀』の記事がありました。天武12年(683)12月条に見える「複都詔」と呼ばれる次の記事です。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 この記事について当初わたしは、天武の時代には既に前期難波宮が存在しているのに、難波にもう一つ都を造れというのは明らかにおかしい、従って既にあった前期難波宮は天武(近畿天皇家)の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿と理解すべきと指摘したことがありました。
 しかしその後更に理解は進み、「洛中洛外日記」1398話(2017/05/14)「前期難波宮副都説反対論者への問い(3)」では次のように論じました。

【以下、転載】
 (前略)この「副(ママ)都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副(ママ)都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。(後略)
【転載おわり】

 このように天武による難波京造営の命令と理解されてきた「複都詔」の原文は「難波に都が欲しい」という記事だったことに気づいたのでした。また、この詔勅の約2年後の朱鳥元年(686)正月には前期難波宮は焼失しており、もし天武12年(683)12月に難波宮都造営を命じたとしても、それまでの短期間に上町台地を整地し、巨大宮殿を完成できるはずもなく、この「複都詔」を根拠とした前期難波宮天武朝造営説は常識的にみて成立不可能なのです。
 他方、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは別の視点から「複都詔」への新理解を提示されました。それは「34年遡り説」というもので、天武12年条(683)に記された「複都詔」は34年前の649年に九州王朝が前期難波宮造営(難波複都建設。完成は652年)を命じた記事であり、『日本書紀』編纂時に34年ずらされたものという仮説です。
 このように文献史学では「複都詔」について諸仮説が提起され、研究が深化していました。ところが考古学の分野でも同様に「複都詔」などに基づく前期難波宮天武朝造営説が明確に否定されていたことに改めて気づきました。それは佐藤隆さん(大阪歴博)の論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要 第15号』(平成29年3月)の次の記事です。

 「また、天武12年(683)には『凡都城・官室非一処。必先欲都難波。』といういわゆる『複都制の詔』が出されているが、土器資料からみるかぎり、難波宮の宮城およびその周辺における動きは低調である。」(10頁)
 「(前略)水利施設が廃絶した後の堆積層(第6a層)から難波Ⅳ古段階の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に機能していなかった(後略)」(15頁)

 この記事に見える水利施設とは前期難波宮の北西側の谷から出土した水利施設(石積みの水路と木桶など)で、井戸がなかった前期難波宮に水を供給した施設と見られています。この水利施設造営時の層位から7世紀前半から中頃の土器が大量に出土したことや、木桶に使用された木材の年輪年代測定値(634年伐採)などが決め手となり、前期難波宮の造営が『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年。九州年号の「白雉元年壬子」に当たる)に見える巨大宮殿完成記事に対応するという見解が通説となりました。
 そして、この水利施設廃絶後に堆積した層位(第6a層)から難波Ⅳ古段階(7世紀第4四半期)の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に水利施設は機能していなかったと指摘されています。すなわち、「複都詔」が出された頃には前期難波宮の水利施設は廃絶されていたわけで、そのことは前期難波宮自身も大勢の官僚が勤務できる状態ではなかったことを意味します。おそらく、その頃には前期難波宮の官僚群は完成間近の藤原宮(京)に移動していたのではないでしょうか。そうでなければ、水利施設は整備利用されていたはずだからです。
 以上のように、文献史学の研究成果と考古学の最新知見の双方が前期難波宮天武朝造営説を否定し、天武紀に見える「複都詔」を疑問視しています。この文献史学と考古学のダブルチェックともいえる研究成果は大きな説得力を有しているのですが、前期難波宮天武朝造営説論者からの史料根拠(エビデンス)を明示した論理的(ロジカル)な反論は聞こえてきません。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えています。エビデンスとロジックを明示したご批判を待っています。


第1977話 2019/08/31

古田先生からの宿題「ポアンカレの二著」

 今朝、FACEBOOKを開いて見ると、3年前に投稿した写真、ポアンカレの二著『科学と仮説』『科学と方法』(岩波文庫)が掲載されていました。いずれも古田先生から「勉強するように」といただいたものですが、わたしの理解力では難しくて、未だほとんど読んでいません。このままでは、冥界で先生に再会したとき、また叱られるのは必定です。怖いような嬉しいような、複雑な気持ちです。
 この二著のことをちょうど3年前の「洛中洛外日記【号外】」で配信していましたので、転載します。

古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2016/08/30
古田先生からの宿題 ポアンカレの二著

 わたしが古田先生に入門して以来、多くの本や論文をいただきました。5年ほど前だったと記憶していますが、科学や物理学に関する「モデル」という概念と九州年号研究における原型論に使用する「モデル」という表現について、わたしの使用方法が誤っていると、先生から厳しく叱責されたことがありました。それでも、わたしが納得できないでいると、先生から二冊の岩波文庫が送られてきて、読んで勉強するようにとのことでした。その二冊とは高名な数学者ポアンカレの『科学と仮説』『科学と方法』でした。
 わたしには難しくて、結局、読破できずに放置していましたが、8月の「古田史学の会」関西例会で、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)から、学問における実証と論証について論理学からの解説がなされたこともあり、もう一度挑戦してみようと、書棚から取り出したのですが、やはり難しくて理解できませんでした。
 この二冊は昭和36年版なのですが、初版は昭和13年と28年ですから、わたしが生まれる前のことです。古典的名著とされるだけあって、素晴らしい本だとは思うのですが、残念ながらわたしの理解力では歯が立ちません。
 この二冊の勉強は、古田先生からの宿題なのですから、せめて生きているうちには読んでおきたいと思います。それにしても、古田先生の勉強や学問の幅の広さに、今更ながら驚かされる二冊ではありました。


第1976話 2019/08/30

『多元』No.153のご紹介

 友好団体の「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.153が届きました。同号には拙稿「難波から出土した筑紫の土器 -文献史学と考古学の整合-」を掲載していただきました。同稿において、前期難波宮九州王朝複都説に対して、当地から九州との関係を示すものは出土していないという批判への反論として、上町台地から出土した北部九州の須恵器などを紹介しました。末尾には次の一文を加えました。

【以下、転載】
《補記2》「副都」と「複都」
 本稿では前期難波宮を「九州王朝複都」と表記しましたが、当初わたしは「九州王朝副都」と理解していました。その後、複数の研究者からのご意見もいただき、「副都(secondary capital city)」とするよりも、「複都(multi-capital city)」(太宰府倭京と難波京の両京制:dual capital system)とするのが妥当との理解に至りました。
【転載おわり】

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「二つの古田説 天皇称号のはじめ」も掲載されており、近畿天皇家の天皇称号の始まりを7世紀初頭からとする古田旧説と「船王後墓誌」に見える「天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説を紹介され、古田旧説を支持する古賀論稿への批判を展開されました。当テーマは「古田史学の会」関西例会でも続けられている論争テーマでもあり、興味深く拝読しました。わたしは、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えていますので、服部さんからのハイレベルな批判は大歓迎です。重要かつ難しいテーマですので、時間をかけて検討していきたいと考えています。
 この他に内倉武久さん(富田林市)の「継体紀のなぞと福岡・巨大前方後円墳」では、福岡県田川郡赤村で「発見」された「巨大前方後円墳」を「ほぼ間違いなく安閑天皇の陵墓」と紹介されていました。同テーマについては「洛中洛外日記【号外】」で触れたことがありますので、ご参考までに転載します。

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2018/07/21
『九州倭国通信』No.191のご紹介
 (前略)
 同紙には松中祐二さんの秀逸の論稿「『赤村古墳』を検証する」が掲載されていました。本年三月、西日本新聞で報道された「卑弥呼の墓」「巨大前方後円墳」発見かとされたニュースに対して、松中さんは現地(福岡県田川郡赤村)調査や国土地理院の地形データを丹念に検証され、結論として前方後円墳とは認め難く、自然丘陵であるとの合理的な結論を導き出されました。
 松中さんは北九州市で医師をされており、古くからの古田ファンです。その研究スタイルは理系らしく、エビデンスに基づかれた論理的で合理的なもので、以前から注目されていた研究者のお一人です。今回の論稿でも国土地理院の等高線からその地形が前方後円墳の形状をなしておらず、上空からみたときの道路が「前方後円」形状となっているに過ぎないことを見事に説明されました。
 当地の自治体の文化財担当者の見解も、新聞報道によれば「丘陵を『自然地形』として、前方後円墳の見方を否定している」とのことで、そもそもこの丘陵を前方後円墳とか卑弥呼の墓とか言っている時点で“まゆつばもの”だったようです。松中さんは論稿を次の言葉で締めくくっておられますが、深く同意できるところです。
 「なお、赤村丘陵の後円部だけを取り出し、『卑弥呼の墓』だとする意見もあるようだが、本会会員にとっては、この説は長里に基づく謬説である、という見解に異論はないところであろう。」


第1969話 2019/08/20

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(3)

 古田先生が筑紫の「飛鳥」と考えられた小郡市井上地区の小字「飛島(とびしま)」ですが、その小字「飛島」の形が元々は沼か水路のようで、『日本書紀』や『万葉集』に記された「あすか」のような比較的大きな領域とは考えにくく、わたしは古田先生の小郡「飛鳥」説に納得できないでいました。
 たとえば『万葉集』196番歌には「わが大君(吾王)」の名前「明日香」は「明日香川」に由来すると歌われています。従って、「明日香川」はそれなりの規模を持つ有名な川と考えざるを得ません。しかし、小郡市の小字「飛島(とびしま)」が元々は川であったとしても小規模であり、とても九州王朝の天子の名前の由来となるような川とは考えられません。
 そこで、わたしはこの「明日香川」にふさわしい川として、筑前と筑後の間を流れる九州随一の大河筑後川ではないかと考えました。筑後川という名称は筑紫国が前後に分国された後に付けられたものであり、分国以前(六世紀末以前)には別の名前があったはずですから、筑後川の古名が「明日香川」だったのではないかとする作業仮説(思いつき)に至ったのです。しかし史料調査の結果、筑後川には「一夜川」の別名や地元の通称である「大川」という名称しかみつかりませんでした。また、その上流や源流域の地に「アスカ」という地名や山名も見つかりませんでしたので、筑後川を「明日香川」とすることにはエビデンスがなく、仮説成立は困難とせざるを得ませんでした。
 次に検討したのが筑後川の支流で小郡市を流れる宝満川の古名が「明日香川」とする作業仮説(思いつき)を検討しました。通常、宝満川の名前の由来は宝満山(御笠山)を源流域とすることによるとされています。他方、同地域から博多湾へ流れる川として御笠川が存在しています。宝満山の古名が御笠山であることから、御笠川の名称はその山名に基づいています。同じように御笠山を源流域に持つ宝満川は、御笠山が宝満山と名前が変わって以降に成立した名称となりますから、筑後川と同様に別の名前(古名)を持っていたはずです。それが「明日香川」ではないかと考えたのですが、やはりそれを証明するためのエビデンスは見つかりませんでした。
 このように筑紫「飛鳥」説を証明するため、史料調査や検討を続けたのですが、成果は得られませんでした。(つづく)


第1967話 2019/08/18

古代史と化学の話で盛り上がる

 昨日、「古田史学の会」関西例会が福島区民センターで開催されました。9月はI-siteなんば、10月、11月はアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)で開催します。
 今回の例会では『隋書』国伝に関する報告が二件(野田さん、岡下さん)なされました。満田さんは、復元が困難とされている百済史研究について、『日本書紀』百済記事と『三国史記』との比較という方法で挑戦されました。
 わたしが注目したのは、原さん(古代大和史研究会・代表)が紹介された『筑前国那珂郡住吉神社縁起』です。それには、イザナミやイザナギなどが活躍した日向は筑紫(福岡県)のことで、日向国(宮崎県)ではないとする社伝が記されていました。わたしの記憶では『雷山千如寺縁起』にも同様の伝承が記されています。筑前ではそのような伝承が各地の寺社縁起に残されているようです。
 例会には九州大学で物理を研究されていた佐々木さん(古田史学の会・新会員)が初参加されました。懇親会にも参加され、夜遅くまで歓談しました。佐々木さんはケミストということで、古代史の他にも、最近発表された東大の研究グループによるモリブデン触媒とサマリウム薬剤(還元剤)を使用したアンモニアの常温常圧合成法の開発についても意見交換しました。ついにハーバー・ボッシュ法(400℃以上、約300気圧)に替わるアンモニア合成の工業化が可能になるということで、わたしは感激していたのですが、佐々木さんは「遅すぎる。今まで化学者は何をしていたのだ」とのこと。確かに100年もかかっていますから、それだけハーバー・ボッシュ法は素晴らしかったということになりそうです。
 ちなみに、ドイツ人のハーバーとボッシュによるこのアンモニア合成の成功には日本人技術者の貢献がありました。学生時代、こうした化学史の話に胸を躍らせた記憶がよみがえりました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①論証による事実(明石市・不二井伸平)
②三国史記と日本書紀の百済関連記事との違いに関する考察(茨木市・満田正賢)
③小戸域民が知る「石井の乱」(大阪市・西井健一郎)
④『隋書』国伝を考える(京都市・岡下英夫)
国と倭国は同一の存在である -千歳氏の論文の紹介-(姫路市・野田利郎)
⑥薬師経受容経緯から法隆寺薬師像後背銘の偽作を論ず(八尾市・服部静尚)
⑦「倭姫命世紀」についてⅢ(東大阪市・萩野秀公)
⑧日向から近畿を目指したのは誰か(奈良市・原 幸子)
⑨「磐井の乱」は虚構だった(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆新入会員情報(神戸市・函館市・高槻市から入会)。

◆9/16(月・祝) 13:30〜17:00『倭国古伝-姫と英雄と神々の古代史』出版記念東京講演会(文京区民センター・会議室2A。参加費1000円)
 ①講演「筑紫の姫たちと対馬の法師〜九州王朝史復元の方法」(講師:古賀達也)。
 ②パネルディスカッション「徹底討議〜古伝承と九州王朝」(パネラー:正木 裕さん、橘高 修さん、井上 肇さん。司会:服部静尚さん)。

◆10/26(土) 13:30〜15:30 「古田史学の会・八尾」講演会 会場:八尾市文化会館プリズムホール(近鉄八尾駅から徒歩5分)
 ①「九州王朝説とは」②「恩智と玉祖-河内に所領をもらった神様」講師:服部静尚さん。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 9/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆8/18 『古代に真実を求めて』編集会議 福島区民センターにて。

◆10/14 久留米大学で『倭国古伝』出版記念講演会を企画中。

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)
 8/23 18:45〜20:15 「古墳・城等歴史資産を地域活性化に生かす」 講師:正木 裕さん。
 9/27 18:45〜20:15 「中国正史の東夷伝と短里-漢書から梁書まで」講師:谷本 茂さん(古田史学の会・会員)。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 9/03 10:00〜12:00 「失われた古代年号〜聖徳太子の生涯は『九州年号』で記されていた」講師:正木 裕さん。
 10/01 10:00〜12:00 「万葉集①〜白村江の戦い・開戦前夜」講師:正木 裕さん。
 11/05 10:00〜17:00 「万葉集②〜白村江の戦い」講師:正木 裕さん。    ※会場:奈良新聞本社西館(奈良市法華寺町2番地4)

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 9/10 14:00〜16:00 ①「日本古代史報道の問題とマスコミの体質」講師:茂山憲史さん(古田史学の会・会員)。②「徹底解説-邪馬「台」国九州説(2)」講師:正木裕さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
9/17 18:45〜20:15 「徹底解説-邪馬「台」国九州説(2)」講師:正木 裕さん。

◆水曜研究会(豊中倶楽部自治会館)
 8/21 13:00〜

◆邪馬壹(やまと)国阿波説の紹介


第1966話 2019/08/16

桂米團治さんからお礼状届く

 本日、桂米團治さんから「古田史学の会 代表 古賀達也」宛で、お礼状とパンフレット「還暦&噺家生活40周年記念 桂米團治独演会」が届きました。米團治師匠には、古田先生とご一緒にKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に出演させていただいて以来、ご厚情を賜っています(「古田史学の会」へは毎年のようにご寄付をいただいています)。
 同番組は2015年8月27日に収録され、翌月三回にわたって放送されました。同年10月14日に古田先生は急逝されましたので、同番組が最後の公の場となりました。わたしにとっても、古田先生との最後の想い出となりました。番組の抄録(茂山憲史氏による)は『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に収録しました。
 米團治師匠からいただいたお礼状をご披露させていただきます。

残暑お見舞い申し上げます。
 昨年暮れの還暦パーティーに際しましては、多大なるご厚情を賜り、まことにありがとうございました。
 今年の正月より始まりました全国巡業の独演会も七月七日の南座公演をもちまして無事終了することができました。行く先々で「待ってました!」のお声掛けを頂戴し、感無量…。 こんなに楽しい興業は初めてでした。すべてこれ、お客様のお蔭と、心より感謝申し上げます。パンフレットを同封いたしますのでどうぞご笑納下さい。
 今後は私、株式会社米朝事務所の代表としての業務を続けながら、ひたすら高座にも精進いたします。とは申せ、決して気負うことなく、皆様に喜んでいただける落語を披露する所存でございます。お気づきの点がありましたら、是非ともご助言下さいませ。
 まことに、略儀ながら、書面にて御礼申し上げます。
 時節柄、お身体ご自愛下さい。

   令和元年 立秋
             桂 米團治
古賀達也様