「 藤原宮 」一覧

第1827話 2019/01/19

浄御原令の都城はどこか

 先週末、インフルエンザ(A型)を発症し、他者にうつさないようこの一週間は自宅で安静にしていました。良い新薬のおかげで、身体はすぐに楽になりました。インフルエンザに罹ったのは初めてで、還暦を超え免疫力が落ちているのかもしれません。他方、会社を休んでいる間は古代史の勉強、特に前期難波宮出土須恵器とカール・ポパーの「反証主義」の勉強を集中して取り組むことができました。仕事がなければこれだけ勉強ができるのかと驚いた次第です。一年半後の定年が待ち遠しくなりました。
 今日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。2月はi-siteなんば、3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンターで開催します。
 恒例の新春古代史講演会は2月3日(日)に大阪府立ドーンセンターで開催します。皆さんのご参加をお願いします。
 例会では服部さんが発表された、飛鳥浄御原令の成立と運用が行われた九州王朝の宮殿の所在地を太宰府とする仮説について、質疑が活発に行われました。わたしからは、太宰府条坊都市内に七世紀中頃の大規模な官衙遺構は出土しておらず、浄御原令が運用された宮殿・官衙は前期難波宮ではないかと問いただしました。正木さんからは「飛鳥宮」は小郡の上岩田遺跡が時代や規模が対応しており、古田先生が提唱された小郡飛鳥説でよく、浄御原令は小郡の飛鳥宮で作られ、前期難波宮の官僚群により運用されたとする見解が述べられました。
 この服部説の優れている点は、九州王朝論者が律令による全国支配を九州王朝が行っていたとするのであれば、数千人の官僚とその家族などの生活の場としての巨大条坊都市が不可欠であり、それは七世紀においては前期難波宮と太宰府、そして近畿天皇家の藤原宮だけであり、浄御原令もその例外ではないとされたことです。この服部説以後の九州王朝都城論や律令論を述べる研究者はそれに相応しい条坊都市の提示が不可欠となりました。抽象論や思いつきのような九州王朝都城論ではなく、これからは考古学的根拠を伴った仮説の提起が不可欠な時代に入ったのです。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔1月度関西例会の内容〕
①天皇と対等な大臣・大連・臣(高松市・西村秀己)
②倭王武の上奏文と磐井の勢力範囲(茨木市・満田正賢)
③山の神の猪(京都府大山崎町・大原重雄)
④島根県田和山遺跡の環濠施設について(京都府大山崎町・大原重雄)
⑤河内巨大古墳の造営者についての論点整理(奈良市・日野(奈良市・日野智貴)
⑥条坊都市はなぜ造られたか -浄御原は太宰府-(八尾市・服部静尚)
⑦九州王朝の官僚機構整備と評制施行(川西市・正木 裕)
⑧香坂皇子・忍熊皇子の反乱は何故起きたのか(奈良市・原 幸子)
⑨ヤマトから外界へ -崇神・垂仁の銅鐸圏への展開-(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
 新入会員、会費納入状況の報告・『古代に真実を求めて』22集編集状況・02/03新春古代史講演会(大阪府立ドーンセンター)の案内、講師:山田春廣氏(会員・千葉県鴨川市)、清水邦彦氏(茨木市立文化財資料館学芸員)・04/19『古代に真実を求めて』出版記念講演会「古代大和史研究会(原幸子代表)」主催、奈良県立情報図書館にて(講師:正木裕さん、服部静尚さん、古賀達也)・「水曜研究会」(豊中倶楽部自治会館)の案内、最終水曜日に開催、連絡先:服部静尚さん・01/25「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮キューズモール)、講師:中尾智行さん(大阪府立弥生博物館主任学芸員)・02/19「市民古代史の会・京都」講演会(キャンパスプラザ京都)、毎月第三火曜日18:30〜20:00・02/15「和泉史談会」講演会(和泉市コミュニティーセンター)、講師:正木裕さん・02/01「続日本紀研究会」で服部静尚さんが発表・「古田史学の会」関西例会会場、2月はi-siteなんば、3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター・06/16「古田史学の会」会員総会と懇親会(I-siteなんば)・その他


第1675話 2018/05/23

太宰府と藤原宮・平城宮の鬼瓦(鬼瓦の論証)

 「洛中洛外日記」1673話「太宰府出土『鬼瓦』の使用尺」で紹介した『大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府への道 -古代都市と交通-』(九州歴史資料館発行)に掲載された太宰府出土鬼瓦ですが、鬼気迫る形相の芸術性の高さが以前から注目されてきました。そこでその芸術性という側面から多元史観・九州王朝説との関わりを指摘したいと思います。
 大宰府政庁や大野城から出土した古いタイプの鬼瓦は立体的で見事な鬼の顔ですが、大和朝廷の宮殿の鬼瓦は藤原宮のものは「弧文」だけで鬼は描かれていませんし、平城宮のものも何種類かありますが古いタイプは平面的な鬼の裸体があるだけで、太宰府のものとは雲泥の差です。すなわち、王宮の規模は大きいものの、鬼瓦の意匠性においては規模が小さい大宰府政庁のものが圧倒的に芸術的なのです。このことは次のようなことを意味するのではないでしょうか。

①王宮の規模の比較からは、藤原宮や平城宮の方が日本列島を代表する王朝のものにふさわしい。
②鬼瓦の比較からは、王朝文化の高い芸術性を引き継いでいるのは太宰府である。
③この現象は九州王朝から大和朝廷への王朝交替の反映と考えることができる。
④ということは、太宰府では王朝文化を継承した瓦職人がいたことを意味する。
⑤太宰府にいた高い芸術性と技術を持つ瓦職人により、優れた意匠性の軒丸瓦が造られたと考えるのが自然な理解である。
⑥従って、7世紀末頃に大和・筑前・肥後の三地域で同時発生したとされる「複弁蓮華文軒丸瓦」の成立と伝播の矢印は「北部九州から大和へ」と考えるべきである。
⑦観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期に使用された「複弁蓮華文軒丸瓦」(老司式瓦)の発生は、大和の藤原宮に先行したと考えざるをえない。
⑧この論理帰結は、観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期の造営を、藤原宮(694年遷都)よりもはやい670年(白鳳十年)頃とするわたしの理解と整合する。

 九州王朝説を支持する「鬼瓦の論証」として、以上を提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第1558話 2017/12/24

「天武朝」に律令はあったのか(1)

 前期難波宮九州王朝副都説への反論が、これまでの論争を通して、ほぼ前期難波宮「天武朝」造営説に収斂してきたように感じています。前期難波宮のような巨大宮殿が白村江戦以前の九州王朝(倭国)の興隆期に、九州王朝の配下である近畿天皇家の孝徳の宮殿と見なすことへの不自然さのためか、前期難波宮造営を天武の時代と見なし、その頃であれば九州王朝よりも近畿天皇家の勢力が優勢と考え、前期難波宮を近畿天皇家(天武天皇)の宮殿と理解することができるという見解です。
 しかし、この「天武朝」造営説には避け難い難問があります。それは「天武朝」に律令があったとするのかという問題です。一元史観の論者であれば、ことは簡単で、「近江令」や「浄御原令」が近畿天皇家には存在したとする通説通りの理解でなんの問題もありません。ところが、わたしたち古田学派は、701年以前の「近江令」「浄御原令」の内実は九州王朝律令であり、近畿天皇家の律令は大宝律令に始まるとする古田説を支持しています。この古田説は前期難波宮「天武朝」造営説と両立できないのです。
 大和朝廷の巨大宮殿、平城宮や藤原宮は朝堂院様式の中央官庁群を有しており、大宝律令・養老律令に基づく数千人(服部静尚さんの計算によれば約八千人)の官僚がそこで政務に就いていたことは古田学派の論者も反対はできないでしょう。とすれば、平城宮・藤原宮と同規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮でも律令による官僚組織が機能していたと考えざるを得ません。
 したがって、古田学派の論者による前期難波宮を天武の宮殿とする理解では、先の古田説と矛盾してしまいます。ところが、わたしの九州王朝副都説では、九州王朝律令に基づいて前期難波宮で九州王朝の官僚群が政務に就いていたとしますので、古田説と矛盾がないのです。(つづく)


第1554話 2017/12/15

飛鳥池の「冨本銭」と難波の「富本銭」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『大津の都と白鳳寺院』(大津市歴史博物館)を読んでいて気づいたのですが、飛鳥宮から出土した無文銀銭について、次のような紹介記事がありました。

 「3の無文銀銭については、飛鳥では飛鳥宮跡出土のこの一点のほか、飛鳥池遺跡、石神遺跡、河原寺跡などからも出土しています。
 『日本書紀』の天武天皇一二年(六八三)四月一五日条に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」(原漢文)という詔があり、ここに記されている使用禁止となった銀銭が無文銀銭であると考えられています。富本銭よりも古い、日本列島最古の金属貨幣といえます。ちなみに、近江は、崇福寺跡から舎利容器とともに出土した一二枚のほか、唐橋遺跡の橋脚遺構からの出土例などがあり、大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所です。」(9頁)

 飛鳥宮跡から出土した無文銀銭の写真とともに、このように紹介されています。崇福寺出土の無文銀銭十二枚は有名ですが、唐橋遺跡の銀銭のことは知りませんでした。この記事では近江が「大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所」とされていますが、これは不正確な記事です。わたしの知る限りでは難波の四天王寺近郊から百枚に及ぶ無文銀銭が江戸時代に出土していたことが知られ、その内の一枚が現存しており大阪歴博にはレプリカが展示されています(ほとんどが鋳つぶされたとのこと)。ですから、無文銀銭の最多出土地は大和ではなく摂津難波なのです。この点、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝創建説との関係が注目されます。
 こうした記事に触発されて、以前から気になっていた大阪市細工谷遺跡から出土した冨本銭について、大阪歴博で関連の発掘調査報告書を閲覧しました。それらによると、細工谷出土の冨本銭の文字は「ウカンムリ」の「富」で、飛鳥池出土の冨本銭は「ワカンムリ」の「冨」とのこと。写真でも確認しましたが、細工谷出土のものは「富本銭」で飛鳥池出土は「冨本銭」なのです。また、重量も細工谷出土「富本銭」は飛鳥池のものの半分とのこと。この文字や重量の違いが何を意味するのか検討中です。
 古田先生は冨本銭は九州王朝の貨幣ではなかったかと考えておられましたが、前期難波宮九州王朝副都説や正木裕さんの九州王朝系近江朝説も視野に入れて、無文銀銭や冨本銭の位置づけを再検討しなければならないと考えています。


第1531話 2017/11/02

古田先生との論争的対話「都城論」(1)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』を読んで、わたしのことに触れられた箇所がいくつかあるのですが、中でも次の部分は学問的にも貴重で懐かしく当時のことを思い出しました。古田先生の三回忌も過ぎましたので、ご紹介したいと思います。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。」(223頁)

 ここで書かれているように、古田先生とは様々なテーマで意見交換や学問的討議、ときに激しい「論争的」応答もしてきました。わたしも先生も負けず嫌いな性格でしたので、先生のご自宅や電話で長時間論争したこともありました。ただし、わたしは終始一貫して敬語で応答しました。それは「師弟」間の礼儀ですし、31歳のとき古田史学に入門以来、何よりもわたしは古田先生を尊敬してきたからです。その気持ちは今でもまったく変わりありません(師弟間〔坂本太郎さんと井上光貞さん〕の学問論争のあり方について、古田先生から興味深いお話と関係論文をいただいたことがあるのですが、そのことは別の機会にご紹介します)。
 その「論争的」対話の一つに九州王朝や大和朝廷の都城論がありました。中でも最も長期間の応答が続いたのが、前期難波宮九州王朝副都説についてでした。大阪市中央区法円坂で発見された7世紀中頃の巨大宮殿「前期難波宮」を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とすることに疑念を抱いたわたしは、それを九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)を古田先生に話したことがありました。論文発表よりもかなり前のことでした。
 もちろん、古田先生は賛成されませんでしたが、それ以後、古田先生の反対意見に答えるべく10年間にわたり論文を発表し続けました。古田先生以外から出された反対意見に対しても、これでもかこれでもかと執念の研究と発表を続けたのです。そして2014年の八王子セミナーの席上で、ついに古田先生から「検討しなければならない」の一言を得るに至ったのです。もちろん、古田先生がわたしの説に賛成されたわけではありませんが、それまでの「反対意見表明」ではなく、検討すべき仮説の一つとして認めていただいたもので、その日の夜、わたしはうれしくてなかなか眠れませんでした。(つづく)


第1487話 2017/08/25

7世紀の王宮造営基準尺(3)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について、最も信頼性が高い数値が藤原宮の基準尺(1尺29.5cm)です。一寸刻みの目盛りを持つ物差しが出土したことと、遺構の設計数値がその物差しと一致していることにより、その信頼性が得られました。その物差しと設計基準尺について、木下正史著『藤原京 よみがえる日本最古の都城』(中公新書、2003年)には次のように紹介されています。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長29.5センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使用されたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが29.5センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」(84ページ)

 藤原宮は出土干支木簡の年代から680年頃から造営が始まったことが判明しており、当時の近畿天皇家(天武期)の公式な基準尺が1尺29.5cmであることがわかります。
 前期難波宮(652年)が1尺29.2cm、大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃)が1尺約29.6〜29.8cmであることから、7世紀において、基準尺が少しずつ大きくなっているようです。この変化がどのような理由によって起こったのかはまだわかりませんが、九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代期に何らかの事情により、基準尺にも変化が生じたのではないでしょうか。(つづく)


第1484話 2017/08/20

7世紀の王宮造営基準尺(2)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について現時点でわたしが把握できたのは次の通りですが、この数値の変遷が何を意味するのかについて考えてみました。

(1)太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(726年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺のうち、わたしが九州王朝のものと考える三つの遺構の基準尺は次のような変遷を示しています。

①太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm
②前期難波宮(652年) 1尺29.2cm
③大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm

 7世紀初頭頃に造営されたと考えている太宰府条坊は「隋尺」(30cm弱)ではないかと思いますが、前期難波宮はそれよりも短い1尺29.2cmが採用されています。この変化が何により発生したのかは今のところ不明です。670年頃造営と思われる大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺の1尺約29.6〜29.8cmは「唐尺」と思われます。この頃は白村江戦後で唐による筑紫進駐の時期ですから、「唐尺」の採用は一応の説明ができそうです。
 ここで注目すべきは、前期難波宮の1尺29.2cmで、藤原京の1尺29.5cmとは異なります。従って、こうした両王都王宮の設計基準尺の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する事実と思われます。同一王朝の同一時期の王都王宮の造営基準尺が異なることになるのですから。(つづく)


第1465話 2017/07/27

倭国王宮の屋根の変遷

 「古田史学の会」会員の山田春廣さんのプログ「sanmaoの暦歴徒然草」に学問的刺激を受けています。最近も九州王朝倭国の王宮に関する作業仮説(「瓦葺宮殿」考)を提起され、読者からコメントも寄せられています。当該仮説の是非はこれから論議検討が進められることと思いますが、コメントを寄せられた服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な疑問が提示されました。それは、倭国の王宮の屋根の変遷において、寺院などは瓦葺き建設なのになぜ前期難波宮など王宮は板葺きなのかという疑問です。
 たしかに考えてみますと、寺院建築では法隆寺や四天王寺(難波天王寺)のように7世紀初頭には礎石造りの瓦葺きです。比べて、近畿天皇家の飛鳥宮(板葺宮、清御原宮)や、わたしが九州王朝副都と考える前期難波宮、そして大津宮は堀立柱造りの板葺きとされています。そして7世紀後半頃になってようやく大宰府政庁Ⅱ期の宮殿が礎石造りの瓦葺きです。7世紀末の藤原宮も近畿天皇家の宮殿として初めて礎石造りの瓦葺きとなります。
 中国風の「近代建築」である瓦葺宮殿を建築できる技術力を持ちながら、自らの王宮は九州王朝も近畿天皇家も7世紀後半から末にならなければ採用しなかった理由は何なのでしょうか。わたしは次のように今のところ推定しています。それは日本古来の宗教思想に基づき、「天神の末裔」である倭国天子には、「神殿造り」の堀立柱と板葺きの宮殿こそが権威継承者としてふさわしいと考えられていたのではないでしょうか。現在でも伊勢神宮を瓦葺きにしないのと同様の理由です。
 仏教が伝来し、寺院建築には舶来宗教として中国風の礎石造りの瓦葺きがふさわしいと考えられたため、早くから瓦葺きが採用されたものと思われます。そして、7世紀後半頃になると中国風の宮殿が倭国天子にもふさわしいとされ、礎石造りの瓦葺きが採用されるに至ったものと考えています。
 既にこうした仮説は発表されているかもしれませんが、とりあえず作業仮説として提起します。皆さんからのご意見ご批判をお待ちしています。


第1458話 2017/07/16

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(8)

 前期難波宮と藤原宮の差は出土土器の年代だけではありません。それは一元史観の学界でも論争が続いた都城様式差という問題です。
 倭国(九州王朝)も大和朝廷も王宮や王都の設計にあたり、中国の様式を取り入れているのですが、王宮には律令官制を前提とした左右対称の朝堂院様式が前期難波宮に最初に採用されています。王都(都城)についても条坊制の街区を太宰府や前期難波宮(後期難波宮からとする説もあります)、藤原京(『日本書紀』は新益京とする)、更には平城京・平安京に採用されています。そして、条坊都市の北側に王宮を置く「北闕型」と条坊都市の中央に置く「周礼型」が採用されています。
 この王宮を条坊都市の北に置くのか中央に置くのかは、その造営者の政治思想が反映していると考えられており、古田先生は「北闕型」を北を尊しとする「北朝様式」と見なされていました。本テーマで問題としている前期難波宮は上町台地の北端に位置し、「北闕型」の王都ですが、藤原宮は中央に王宮を置く「周礼型」で、この違いは両者の政治思想の差を反映していると考えざるを得ません。
 したがって、前期難波宮「天武朝」造営説では、同時期に政治思想が異なる都城、前期難波宮と藤原宮を天武は造営したことになり、そのことの合理的な説明ができません。このように、前期難波宮(京)と藤原宮(京)の都城様式の違いを、前期難波宮「天武朝」造営説では説明できないのです。このこともわたしは指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1376話 2017/04/24

『古田武彦の古代史百問百答』百考(1)

 古田武彦先生が亡くなられて一年半が過ぎました。わたし自身の気持ちの整理も少しずつついてきましたので、古田先生の学問学説やその基底をなしたフィロロギーなど学問の方法について振り返る時間が増えてきた昨今です。
 中でも晩年の古田先生の学説や学問的関心事などを要領よくまとめられた『古田武彦の古代史百問百答』(東京古田会編、ミネルヴァ書房刊。2015年4月)を集中して読み直しています。今回、あらためて気づいたことや懐かしく蘇った記憶についてご紹介していきたいと思います。

 同書223頁に次のような記述があります。わたしはここを読んで、当時の情景をはっきりと思い出しました。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。改めて、詳述の機を得たいと思います。」(223頁)

 古田先生のいう(論争的)応答とは、藤原宮の中心部を神社(鴨公神社が鎮座)と見るのか、王宮(701年以後は大極殿)と見るのかという数回にわたる応答でした。双方相譲らず、という結果だったと記憶しています。古田先生が亡くなられる10年ほど前から、わたしは様々なテーマで先生と意見交換を行いました。ときに激しい論争となったことも何回かありました。もちろん、先生に対して礼儀正しく応答したつもりですが、うるさがられたことでしょう。今となっては懐かしい思い出であり、得難い経験でした。
 古田先生は藤原宮の考古学的復元図に対して、大極殿は現代の学者による作図であり、現地にあるのは鴨公神社だと考えておられました。そのことが314頁に次のように記されています。

 「藤原京、難波京、近江京には大極殿はありません。藤原京、難波京共にあるべきであろうと思われる位置に、学者が作図して公にされています。藤原京はその位置には鴨公神社があります。大極殿の記録伝承はありません。近江京も当然無いと考えています。」(314頁)

 これに対して、藤原宮は発掘調査が行われており、その出土事実に基づいて復元図が作成されているとわたしは反論し、中公新書『藤原京』(木下正史著、2003年)を紹介しました。その後、古田先生との応答で、701年以降であれば文武天皇等が藤原宮の宮殿を「大極殿」と呼んだ可能性もあるということで、両者納得するに至りました。
 こうした古田先生との(論争的)応答の詳細については、わたしは今まで文章にすることはほとんどありませんでした。もし公にしたら、「古田と古賀が対立している」などとネットなどで反古田派による古田バッシングの材料に悪用されるのは目に見えていたからです。また、古田先生と異なる意見をわたしが発表すると、本来であれば純粋な学問論争ですので何の問題もないはずなのですが、非難される懸念もありましたので、こうしたテーマは慎重に取り扱ってきました。
 『古田武彦の古代史百問百答』でも次のように古田先生は記されています。

 「なかでも、印象に残ったのは、村岡さんの敬愛した本居宣長について、
 『本居さんは言っています。「師の説に、な、なづみそ。」と。自分の先生の説に“こだわる”な、と言うのです。それが学問なんですね。』
という言葉は、くりかえし聞きました。
 これが、わたしの村岡さんから学んだ『学問の精神』です。昨年(二〇〇五年)『新・古代学』(新泉社)の第八集(最終号)に載せた『村岡学批判』は、その表現です。
 もっとも、『師の意見』(A)と『師に反した自分の意見』(B)と、いずれが是か。それは後代の研究史が明らかにすることでしょう。
 慎重に、心をこめて、これをなすべきこと、それは当然のことです。」(344〜345頁)

 『古田武彦の古代史百問百答』百考をこれから連載するにあたり、慎重に、心をこめて、これをなしたいと思います。(つづく)