九州年号一覧

第1251話 2016/08/12

『二中歴』国会図書館本の旧蔵者

 『二中歴』国会図書館本(小杉榲邨氏影写本)の旧蔵者が著名な蒐集家の大島雅太郎氏だったことがわかりました。昭和12年の尊経閣文庫『二中歴』出版の解説によると「大島雅太郎氏蔵小杉榲邨博士自筆本」と紹介されています。その頃までは大島氏が所蔵しており、戦後の財閥解体により散逸したようです。国会図書館本に押されている丸印が大島氏と関係するものかどうかは、まだ不明です。知られている大島氏の蔵書印とは異なるようです。
 下記はウィキペディアの「大島雅太郎」の解説です(一部修正しました)。

 大島 雅太郎【おおしま まさたろう、新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年/明治元年1月1日) – 1948年(昭和23年)6月9日】は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。
 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。


第1247話 2016/08/06

『二中歴』国会図書館本の書写者と「影写」

 『二中歴』国会図書館本が明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の蔵書であったらしいことをつきとめたのですが、その書写も小杉榲邨氏によるものであることがわかりました。
 「洛中洛外日記」第1242話「『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料」を読まれた齋藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、「国会図書館本の書写は収蔵している古典籍資料室に尋ねたところ、第1冊の最後に書かれている明治10年に東京の小杉さんが書写したと思うと言っていました」とのご連絡をいただきました。わたしは問題の「年代歴」が収録されている第2冊ばかりを集中して読んでいましたので、第1冊末尾に書かれた小杉氏自らによる書写の経緯を記した「奥書」を、迂闊にも見落としていました。
 その「奥書」の冒頭には次のように、小杉氏が前田尊経閣本を書写したことが明記されていました。

 「二中歴十三帖 従四位菅原利嗣君〔舊加賀候前田家〕曽ノ秘蔵シ給フ所ノ古寫本ナリ 今茲明治十年六七月間タマタマ被閲スルコトヲ得テ頓ニ筆ヲ起シテ影寫神速ニ功成了」(後略)
 ※〔〕内は二行細注。一部現代字に改めました。

 そして最後に「九月廿?五日」「於東京駿臺僑居小杉榲邨 識」と、日付と所在地が記されています(?の部分の字は「又」のようにも見えます)。「僑居」とは「仮住まい」のことですので、明治10年に東京の駿河台に小杉氏は住んでいたことがわかります。
 以上から、国会図書館本の書写者が小杉榲邨氏であることが判明したのですが、わたしはこの「奥書」に見える「影寫」という表記に注目しました。「影写」とは、書写するときに底本の上に薄く丈夫な紙を置き、下の字を透かし写す書写方法のことで、「透写」とも呼ばれています。国会図書館本は「影写」技法を用いて前田尊経閣本を書写していたのです。
 このことを知り、わたしはずっと疑問に思っていた謎がようやく解けました。というのも、国会図書館本を初めて見たとき、わたしは前田尊経閣本と思ったのです。特に「年代歴」部分は幾度となく精査しましたから、その筆跡や文字の配置が前田尊経閣本にそっくりだったからです。しかし、全体の雰囲気や細部が異なり、やはり別物だと気づいたのですが、それにしてもなぜこんなにそっくりなのだろうかと不思議に思っていたのです。
 通常、写本は原本の内容を写すのですから、筆跡は書写者のものであり、原本とは異なるのが当然と考えていましたし、実際、これまでの古文書研究に於いて、原本と写本とでは筆跡や文字配置が異なるものばかり目にしてきたからです。
 小杉氏による「奥書」の「影寫」の二字を見て、この疑問が氷解しました。文献史学の醍醐味の一つは原本や写本調査にあります。活字本による研究とは異なり、その時代の筆者の息づかいまでが感じられるのですから。「奥書」の存在を教えていただいた齋藤さんに心より御礼申し上げます。なお、わたしのFacebookに同「奥書」を掲載していますので、ご覧ください。


第1243話 2016/08/01

『二中歴』国会図書館本の履歴

 「年代歴」末尾の「不記年号」問題に決着をつけた『二中歴』国会図書館本でしたが、その成立年代や書写者が不明でした。何とかその履歴を知りたいと思い、国会図書館デジタルコレクションで公開されている同写本の画像を拡大熟視したところ、「杉園蔵」と読める蔵書印があることに気づきました。
 杉園(すぎぞの)さんという蔵書家のお名前に全く心当たりがなかったため、インターネット検索で調べたところ、杉園(すぎぞの)さんではなく、明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の号、「杉園(さんえん)」のことのようなのです。ネット検索によれば次のようにありました。

「天保5年12月30日生まれ。阿波徳島藩主蜂須賀氏の陪臣。江戸で古典などをまなび、尊攘運動にくわわる。維新後は文部省で「古事類苑」を編集し、明治15年東京大学講師、32年東京美術学校(現東京芸大)教授。帝国博物館にも勤務し、美術品の調査や保存にあたる。明治43年3月29日死去。77歳。号は杉園(さんえん)。編著に「阿波国徴古雑抄」など。」

 文部省で「古事類苑」を編集されたり、帝国博物館では美術品の調査や保存に関わられたとのことてす。前田尊経閣文庫本の虫喰まで書き写すという国会図書館本『二中歴』の書写方法は、他の一般的な写本とは異なっており、「学術的原型模写」のための書写とすれば、よく理解できます。こうしたことから帝国博物館で美術品の調査や保存に関わっていた小杉榲邨であれば、国会図書館本を所持していたとしても不思議ではありません。ですから「杉園蔵」という蔵書印は『二中歴』国会図書館本の出所が小杉榲邨蔵書であることを示し、学術的模写の痕跡から、おそらくは明治時代に作成されたものと推測できます。
 以上のような『二中歴』国会図書館本の履歴が正しければ、前田尊経閣本の「不記」の虫喰や欠損は明治末年頃から更に進んだことになります。わたしの数少ない経験から考えても、虫喰が進んだ古本の取り扱いはとても難しく、虫喰でボロボロになった部分の破損が書写などの取り扱い時に更に進むことは避けられません。もしかすると国会図書館本作成(模写作業)時に、前田尊経閣本の劣化が更に進んだのかもしれません。そのため、後世になって「不記」論争が発生してしまったようです。
 なお、学問的に真の問題はここから始まります。31個の九州年号を列記した直後の文書になぜ「不記年号」などと史料事実に反しているような記述がなされたのかという問題です。この「不記年号」問題の本質はここにあります。このことに対するわたしの見解(回答)については拙論「『二中歴』の史料批判 — 人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(『古田史学会報』No.30、1999年2月。ミネルヴァ書房『「九州年号」の研究』に収録)に示しましたのでご参照ください。
 今回の新史料発見について、8月20日(土)の「古田史学の会」関西例会にて発表予定です。


第1242話 2016/07/31

『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料

 6月の「古田史学の会」関西例会にて、わたしは『二中歴』年代歴の九州年号記事末尾の「不記年号」問題を報告しました。この「不記年号」問題とは、『二中歴』の九州年号を列記した最後にある文章中の「不記年号」とされてきた部分が虫喰により「不記」の二字部分が読めないため、「不記」とする説と「記」とする説とで論争が続けられている問題です。
 『二中歴』の古写本は前田尊経閣文庫本があるだけで、他はその再写本という「天下の孤本」です。従って、虫喰などで不明な部分を他の写本で確認することができません。問題の記事は次のようなものです。

「已上百八十四年々号丗一代〔虫食いによる欠字〕年号只有人傳言自大寶始立年号而巳」

 わたしは虫喰の部分は「不記」とあったと考えており、「以上百八十四年、年号三十一代、年号は記さず。只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号を立つのみ』」と訓んでいます。詳細は拙稿「『二中歴』の史料批判 — 人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(『古田史学会報』No.30、1999年2月)をご覧いただきたいのですが、「不記」と理解した根拠は次の点です。

1.八木書店版『二中歴』の写真本を熟視したところ、やはり下半分は「記」と読める。ただし、前後の文字よりも小さな文字であり、従って上半分にも一字あったと見るべき。
2.同古写本は弘治三年(一五五七)興福寺の実暁により書写されており、更に元禄時代にそれを清写した新写本、いわゆる「実暁本」が現存しており、その「実暁本」には、問題の欠字部分が「不記」と記されているので、虫喰前の姿を表していると考えざるを得ない。
3,文章の意味からすれば「丗一代」の九州年号を記した後の文なので、「不記年号」では意味不明。本来「記年号」とあったのなら、わざわざ意味不明となる「不記年号」と書き換えたり、誤写することは考えにくい。従って、元々「不記年号」とあったと考える方が論理的である。

 以上のように尊経閣本の観察と「実暁本」の「不記年号」を重視した結果、わたしは虫喰部分を「不記」と理解したのですが、今回この理解を決定的に証明する新史料の存在を知りましたので、ご紹介します。
 その新史料とは国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている『二中歴』写本です(以下、国会図書館本と記す)。インターネットで閲覧可能ですので確認したところ、同写本は尊経閣本の虫喰の形まで書き込んであり、かなり正確に書写されたもので、まるでコピーのような写本なのです。虫喰の形まで書き込んだ写本など、わたしは初めて見ました。その国会図書館本の当該部分は「不記」とありました。そして、尊経閣本の当該部分と比較したところ、虫喰の形も正確に一致しており、かつ国会図書館本では明確に「不記」と読めるのです。すなわち、国会図書館本はまだ虫喰がそれほど進行していない時点の尊経閣本を書写したものだったのです。
 虫喰以前の姿を書写した国会図書館本の証明力は決定的です。こうして、『二中歴』年代歴の「不記年号」問題は最終的に完全に決着したと思います。なお、国会図書館本について国立国会図書館デジタルコレクションでは解題が付けられていないようですので、誰によるいつ頃の再写本か調査中です。ご存じの方がおられたらご教示ください。

 

 

申し訳ありません。初めに閲覧された方のみ、誤字がございます。
 
「不記年号」とされてきた部分が虫喰により   →  「不記年号」とされてきた部分が虫喰により
デジタルコレクションでは題が   →   デジタルコレクションでは解題が
 

第1237話 2016/07/24

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(13)

 九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』に見える次の記事などが根拠でした。

 「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)

 九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
 当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
 また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
 倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
 他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。(つづく)


第1215話 2016/06/21

健軍社縁起の九州年号「兄弟」

 熊本から島原に向かう高速フェリーの中で書いています。午前中に熊本駅に着きましたので、駅の近くの図書館で時間待ちをしました。地震で図書館も被災したようで、開架されているスペースが制限されており、歴史書や地誌はほとんど閲覧できませんでしたが、幸いにも『熊本市史』が並んでいましたので、「史料編 第三巻 近世1」(平成6年発刊)を大急ぎで調べたところ、探していた健軍社縁起「文化五年辰 詫摩健軍社縁起控」が収録されていました。
 その冒頭に次のような興味深い記事が、予想に違わず記されていました。

「健軍大明神縁起
一 天照大神六代之孫神、神武天皇第二之王子阿蘇大明神是也、兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳、保昌国司、阿蘇大明神四社之一社、健軍ニ御建立被成候、」

 この「兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳」の右横に細字で「是年号考ルニ、天平十年ナラン」と書き加えられています。活字本ではなく原文を見てみないと断定はできませんが、「兄弟天正五年」という表記について、干支の「戊寅ノ歳」から「天平十年(738年)」のことではないかと書き加えられたのと思われます。この冒頭の一見意味不明の「兄弟」こそ九州年号であり、558年に相当します。
 この「詫摩健軍社縁起控」は書写が繰り返されたようですので、本来は九州年号の「兄弟元年」とあったものが、書写段階で誤写誤伝されたようです。ちなみに「天正十五年」という表記が同縁起中に散見されることから、別の記事の「天正十五年」という表記が九州年号「兄弟元年」部分に書写段階で混ざり合ったものと思われます。
 他方、健軍神社の創建は欽明19年(558)と紹介されることが一般的ですから、これも本来の伝承は九州年号の「兄弟元年」であったものが、『日本書紀』成立以後に近畿天皇家の『日本書紀』紀年による表記「欽明天皇の19年」に置き換わったことがわかります。
 熊本駅でのわずかな待ち時間を利用しての図書閲覧でしたが、やはり健軍神社は九州王朝により「兄弟元年」に創建されたと考えてよいようです。健軍神社の縁起は他にも残されているはずですから、引き続き調査したいと思います。熊本県在住の方のご協力をいただければ幸いです。

 これからまたフェリーで天草に向かいます。大雨が心配です。


第1176話 2016/04/30

白鳳大地震と朱雀改元

 このたびの九州の大地震のこともあって、古代における大地震として有名な筑紫大地震(678年)と白鳳大地震(684年)について調べてみました。筑紫大地震は『日本書紀』天武7年12月条や『豊後国風土記』に記されており、この地震により九州王朝の中枢は壊滅状態になったと思われます。

 「筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余条。百姓の舎屋、村毎に多くたおれやぶれたり。」『日本書紀』天武7年12月条
 「大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」『豊後国風土記』日田郡五馬山条

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の説によれば、この地震により九州王朝は前期難波宮(副都)に遷都しました。ところがそれに追い打ちをかけたのが白鳳大地震でした。この四国や近畿・東海を直撃した地震は東南海トラフによるものと考えられています。この年、天武13年(684)10月は九州年号の白鳳24年ですが、この地震により九州年号は朱雀に改元されたと正木裕さんは指摘されています(「隠された改元」『「九州年号」の研究』所収)。
 7世紀後半に発生した二つの巨大地震により九州王朝は大きく疲弊し、滅亡に向かったとわたしは論じたことがあります(「朱鳥改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。筑紫大地震から6年後に白鳳大地震が発生したことから、もしかするとこの熊本・大分大地震の6年後に東南海大地震が発生するのではないかと思うと、ぞっとしました。テレビなどで地震学者は九州から更に東の中央構造線への地震には繋がらないと発言していましたが、学者の地震予知がこの38年間当たったことがないという事実を思い知らされていますから、御用地震学者の言うことは信用できません。
 わたしたちは歴史に学ぶために古代史を研究していますから、日本列島はどこでも大地震が発生するという覚悟で防災に取り組まなければと改めて考えさせられました。


第1166話 2016/04/11

近江朝と庚午年籍

 『古田史学会報』133号に発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「『近江朝年号』の実在について」は九州王朝説の展開について重要な問題を提起していることに気づきました。
 『二中歴』などに見える九州年号とは別に「中元(668〜671)」「果安(672)」という不思議な年号が諸資料に散見されることが、九州年号研究者には知られていました。正木さんはこの「中元」を天智天皇の年号(天智7年〔即位元年〕〜10年)、「果安」を大友皇子の年号、すなわち「近江朝年号」と理解されました。「中元」を天智の年号ではないかとする見解は竹村順弘さんやわたしが関西例会で発表したことがあるのですが、正木さんは更に「果安」も加えて「近江朝年号」と位置づけられたのです。ここに正木説の「画期」があります。
 九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻が白村江戦敗北により唐の捕虜となっている間、九州年号「白鳳」(661〜683)は改元もされず継続するのですが、その最中に「中元」「果安」が出現しているのです。すなわち、日本列島内に二重権力状態が発生したと正木さんは主張されました。そこで、正木さんとの懇談の中で、「それでは庚午年籍(670)は誰が命じて造籍したのか」というわたしの質問に対して、「近江朝でしょう」と答えられました。その瞬間、わたしの脳裏は激しく揺さぶられました。(つづく)


第1113話 2015/12/29

『江の島縁起絵巻』に九州年号「貴楽元年」

 12月の関西例会では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から九州年号史料の県別分布が報告されました。その上で九州年号史料の「空白」地域があることを指摘され、何か意味があるのではないかとの問題提起がなされました。それに対して、九州年号が記された中近世史料の所在地分布は古代において九州年号が使用されていた分布とは異なるので、分けて考えた方がよいと、わたしは主張しました。
 服部さんが作成された分布図では神奈川県が九州年号史料の空白県となっていたことから、神奈川県在住の冨川けい子さん(古田史学の会・会員、相模原市)が同県藤沢市の『江の島縁起絵巻』(室町時代成立)に九州年号の「貴楽元年壬申」(552)が記されていることを発見され、ご自身のfacebookで報告されました。わたしはこの史料の存在を全く知らなかったので、この地域で「貴楽」という九州年号が使用されていたことに驚きました。『江の島縁起』は平安時代には成立していたようで、今後の古写本の調査と史料批判が期待されます。
 この「貴楽」という九州年号は元年が552年(欽明13年)に相当し、いわゆる「仏教伝来」の年と一元史観の通説ではいわれています。また、この年が「末法時代の始まりの年」とする説もあり、このことと九州年号が貴楽と改元されたことに、何か関係があるのかという点に、わたしは興味を持っているのですが、今後の検討課題です。
 いずれにしましても、まだ発見・報告されていない九州年号史料が各地にあることと思われますので、会員の皆さんによる調査が待たれるところです。


第1107話 2015/12/19

『日本書紀』安閑紀に

 「九州年号建元」記事発見!

 先月公開されたテキサス医科大学の研究者による下記論文は、損傷筋細胞からいわゆる「STAP現象」による幹細胞の発現を確認したというものらしいのですが、ネイチャーの電子版に掲載されています。残念ながらわたしの英語力では全く理解できませんでした。もちろん、門外漢のわたしには当否も判断できません。

 『Characterization of an Injury Induced Population of Muscle-Derived Stem Cell-Like Cells』
 損傷誘導性による筋肉由来の幹細胞様細胞(iMuSCs)
  http://www.nature.com/articles/srep17355

 願わくは、小保方さんや笹井さんの時のような集団バッシング(マスコミなどによる日本型リンチ)にあうことなく、発表者たちが落ち着いた環境で研究を進められますように。仮に間違っていたり不正確な仮説であっても、自由に発表しあえる学問的寛容性もまた科学を発展させてきたのですから。
 本日の「古田史学の会」関西例会では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、『日本書紀』安閑紀に「九州年号建元」記事発見を報告されました。従来から『日本書紀』編纂にあたり漢籍(「芸文類聚」等)からの転用があることは知られていましたが、その漢籍転用は九州王朝が先行して行っており、その転用した九州王朝史書を『日本書紀』編纂にあたりそのまま引用した可能性があることを指摘されました。
 そうした研究過程で安閑紀に「九州年号建元」記事なるものを発見されました。さらに、この方法論による『日本書紀』史料批判の結果、九州王朝の漢籍受容の検証が進み、九州王朝思想史の研究にも道を拓くことが予想されます。とても興味深く重要な発表でした。今後の展開が楽しみです。
 12月例会の発表は次の通りでした。

〔12月度関西例会の内容〕
①「九州年号」と「評」から見た九州王朝の風景(八尾市・服部静尚)
②多利思北孤の都は伊勢(三重県)にあった(姫路市・野田利郎)
③仮説「国伝」のご意見への回答(姫路市・野田利郎)
④狗邪韓国の一考察(奈良市・出野正)
⑤『三角縁神獣鏡研究の最前線』〜精密計測から浮かび上がる製作地〜(京都市・岡下英男)
⑥『日本書紀』における「神武紀」の役割及びニギハヤヒの位置付け 後編2(東大阪市・萩野秀公)
⑧『大唐青龍寺三朝供奉大徳行状』の空海(高松市・西村秀己)
⑦『日本書紀』の「原典」と九州王朝(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼会の準備・宮本美代志氏(米子市)から質問fax・史跡巡りハイキング(JR四条畷駅付近・市立歴史民俗資料館〔開館30周年特別展「継躰天皇と河内の馬飼い」〕・楠正行墓)・TV視聴(奈良大学文学講座)・別府史談会30周年記念投稿募集案内・蛭田喬樹『周髀算経』と「短里」、『歴史研究』No.636、2015/11・その他


第1103話 2015/12/08

九州年号の「地域性」について

 『東京古田会ニュース』165号に「法興」年号に関する二論稿が掲載されました。石田敬一さん(古田史学の会・東海、名古屋市)の「法興年号 その2」と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)の「『法興』年号について」です。いずれも学問的に刺激的なテーマを取り扱っておられ、とても興味深いものです。
 両者の論点の一つは「法興」年号を九州王朝・多利思北孤のものとするのか、近畿の蘇我馬子のものとするのかということですが、蘇我氏の年号とする論拠の一つが「法興」年号史料が主に近畿に分布していることにあるようです。よい機会ですので、この九州年号の「地域性(分布)」という史料状況を仮説の根拠に使用する場合の、学問の方法論上の問題点などについて説明したいと思います。
 九州年号史料の「地域性」を論じる場合、「史料は移動する」という避けられない問題があります。たとえば、青森県五所川原市の「三橋家文書」に九州年号「善記」が見られますが、同文書によれば三橋家の先祖は甲府地方出身であり、その「来歴」を綴った史料中に「善記」が使用されたのであって、6世紀初頭の津軽地方で九州年号「善記」が使用されていたことを意味しません。しかし「分布図」には青森県に1件とプロットされてしまいます。九州年号史料にはこのようなケースが少なからずありますので、その分布状況から九州王朝時代の歴史に迫る場合は、こうした「誤差」を無視できるほどの多数の母集団サンプルが必要です。
 さらに現在発見されている九州年号史料の分布には次のような問題もあります。本来なら九州王朝の中心領域として最も多くの九州年号史料が残っていてもよさそうな筑前には、首都(太宰府)所在地にふさわしいような濃密分布を示していません。その理由の一つとして、江戸時代の筑前黒田藩の学者、貝原益軒らが九州年号偽作説に立っていたことがあります。そのため、江戸時代に黒田藩で作成された地誌などに寺社縁起を収録する際に九州年号が消された可能性が高いのです。もっとも、江戸時代よりも古い現地史料の調査が進めば、筑前から新たな九州年号史料が発見される可能性もあります。しかし現状では近畿天皇家一元史観に基づいた史料改変が、九州年号分布に影響しているのです。
 また、現在までの九州年号史料調査における、古田学派の主体的力量の問題もあります。「市民の古代研究会」時代に九州年号史料の発掘を精力的に行った会員の所在地の偏在も、同様に九州年号史料の偏在の原因の一つになっています。当時の九州年号研究者はそれほど多くはありませんでしたから、その研究者の調査範囲でしか、九州年号史料は見つかっていないのです。
 たとえばわたしが地方に旅行したとき、なるべく現地の資料館や図書館を訪問し、現地史料に目を通すようにしていますが、その短時間の閲覧でも結構九州年号を発見できます。残念ながらそうして発見した九州年号史料は未報告のものが大多数なのです。それらを分布図に加えれば、九州年号史料の「地域性」も修正されますから、現時点の分布図を使用して何かを論じようとする場合は注意が必要なのです。
 以上のような基本的な史料批判の観点から「法興」年号史料の分布を見たとき、同様の問題点、すなわち「史料は移動する」「調査対象の偏在」「サンプル数が少ない」という課題の他に、史料性格上から発生する更に難しい問題があります。それは盗用された九州王朝の「聖徳太子」伝承とともに「法興」年号も盗用され、更に後代の「太子信仰」の拡散とともに、盗用された「法興」年号も拡散するという問題です。
 九州王朝の「聖徳太子」伝承の盗用問題は『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編。2015年、明石書店)に詳しく論じていますので、ご参照いただきたいのですが、わたしの見るところ、「法興」年号史料のほとんどは後代に「聖徳太子」伝承とともに「盗用」「転用」されたものであり、同時代史料、あるいは二次史料として史料批判に耐えうるものは法隆寺の釈迦三尊像光背銘と「伊予温湯碑(逸文)」くらいです。しかも、より厳密に言えば釈迦三尊像は「移動した史料」であり、その移動前の寺院の場所は不明です。ですから、「分布図」としての地域を特定できないのです。
 以上のように問題点の大きい「法興」年号史料分布状況を自説の根拠に使用することは、学問の方法論上の危険性を伴います。こうした九州年号の「地域性」について、学問の方法上の問題点があることを九州年号研究者には留意していただきたいと願っています。


第1097話 2015/11/27

『赤淵大明神縁起』の史料状況

 「洛中洛外日記」第1093話で、永禄三年(1560)成立の『赤淵大明神縁起』をオール漢字の『赤淵神社縁起』を読み下したものと紹介したのですが、それはわたしのとんでもない勘違いでした。同書の存在を教えていただいた金沢大学のKさんから届いたメールによると、Kさんがわたしに提供されたものは『赤淵大明神縁起』をKさんが書き下ろして訳されたもので、原本は漢文とのことでした。
 『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)は福井県文書館に所蔵されており、同館のデジタルライブラリーで閲覧可能でした。パソコン画面で拝見しますと、本文は赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』とほとんど同文のようです(比較精査中)。また、両者の活字本の共通した「欠字」部分は、欠字ではなく、ワープロに無い文字(梵字か)であったため、共に「欠字」のような扱いとなっていたことも、赤淵神社で原文を実見して判明しました。『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)をワープロで活字起こしされたKさんからも、このことを確認できました。この点も、わたしの「早とちり」でした。
 既に指摘したことですが、『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)には末尾に「天長五年」という年次表記がなく、体裁としては永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸によるものとなっています。その理解が正しいとすると、赤淵神社にあるほぼ同文の『赤淵神社縁起』は才応総芸による『赤淵大明神縁起』の写本となってしまうのですが、その場合、末尾の「天長五年」という年次表記が意味不明となってしまいます。
 なお赤淵神社には、ともに「天長五年」の年次表記を末尾に持つ、内容が若干異なる「赤淵神社縁起」が2種類あり、このことも含めて才応総芸による『赤淵大明神縁起』との関係などを引き続き調査検討する必要があります。
 ちなみに、才応総芸が『赤淵大明神縁起』を書いたとき、九州年号の「常色元年(647)」「常色三年(649)」「朱雀元年(684)」をそのまま使用しており、永禄三年(1560)にそれら九州年号による表米の活躍を記した史料が存在していたことは疑えません。そして、才応総芸はそれら九州年号を『日本書紀』にある「大化(645〜649)」や「朱鳥(686)」に書き換えることなく、そのまま九州年号で『赤淵大明神縁起』を書いたとすれば、それが創作であれ書写であれ、才応総芸の「古代年号」認識を考える上で興味深い史料状況です。(つづく)