九州年号一覧

第606話 2013/10/06

「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号

 「洛中洛外日記」第604話で紹介しました「表米宿禰」伝承について、追跡調査をしましたので御報告します。
 表米宿禰の子孫が日下部氏を名乗っているとのことなので、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」と「日下部系図別本 朝倉系図」(以下「別本」と記します)を調べてみたところ、「表米」という人物について記録されていました。「日下部系図」では孝徳天皇の孫(有馬皇子の子供)として「表米」が記されており、「別本」では孝徳天皇の子供で、有馬皇子の弟として「表米」が記されています。その記された年代から判断すると、「別本」にあるように孝徳天皇の子供の世代としたほうがよいようです。もっとも、本当に孝徳天皇の子孫であったのかどうかは不明です。何らかの理由があり、後代において近畿天皇家の子孫として系図が創作された可能性が大きいのではないでしょうか。
 「日下部系図」には「表米」について次のように記されています。( )内は古賀による注です。

「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。朱雀元年甲申(684、九州年号)三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉祝表米大明神。」

 九州年号の「朱雀」が使用されていることが注目されます。赤渕神社縁起では「常色元年」(647)に新羅と交戦したとあるようですが、ここでは「天智天皇御宇異賊襲来時。」とありますから、これが正しければ九州王朝と唐・新羅連合軍との交戦(白村江戦など)の時期ですから、年代的にはよくあいます。
 「別本」では「日下部表米」とあり、次のように記されています。

 「難波ノ朝廷。戊申年(648、常色二年)養父郡(評)ノ大領(評督か)ニ補佐(任か)セラル。在任三年。」

 難波朝廷の戊申年(648、常色二年)に養父評の評督に任命されたことか記されていますが、この時期こそ「難波朝廷天下立評給時」に相当します。なお、 表米には子供が二~三人あり、長男の「都牟自」も「難波朝廷癸丑(653、白雉二年)養父郡(評)補任少領(助督か)。」と記され、己未年(659、白雉 八年)に大領(評督)に転じたと記されています。「都牟自」の没年は「癸未歳死(683、白鳳二十三年)」とありますから、父の「表米」よりも一年早く没したことになります。
 両系図の記録をまとめると、「表米」の年表は次のようになります。

648(常色二年)養父評の評督に就任。
653(白雉二年)長男の都牟自が養父評助督に就任。
659(白雉八年)長男の都牟自が評督に転任。
662頃 襲来した異賊(新羅か)と交戦し勝つ。この功績により「日下部」姓をおそらく九州王朝から賜る。
683(白鳳二十三年)長男の都牟自没。
684(朱雀元年)表米、三月十五日没。

 おおよそ以上のようになりますが、「日下部系図別本」はその後も天文二年(1533)まで続いていることから、当地には御子孫が今でも大勢おられるのではないでしょうか。
 以上の追跡調査の結果から、赤渕神社縁起の「表米宿禰」伝承は歴史事実と考えられ、白村江戦頃に新羅軍が丹後まで来襲し、表米が防戦し勝利したことも歴史事実を反映した伝承の可能性が高いのではないでしょうか。また、九州王朝による7世紀中頃の「難波朝廷天下立評」により、表米も養父評督となり、その子孫が評督職を引き継いだこともわかりました。
 疑問点として残ったのは、なぜ「表米」が孝徳天皇の孫や子供とされたのかということです。本当に孝徳の子孫だったのか、九州王朝の当時の天子(正木説に よれば伊勢王)の子孫だったのか、あるいは後世における全くの創作だったのか、今後の研究課題です。いずれにしても、九州年号「常色」「朱雀」付きの現地伝承・系図ですから、とても貴重です。まさに現地伝承恐るべし、です。


第604話 2013/10/03

赤渕神社縁起の「常色元年」

 このところ「洛中洛外日記」も史料批判など、やや理屈ぽいテーマが続きましたので、今回は息抜きに九州年号付きの面白そうな地方伝承を紹介します。
 「洛中洛外日記」第602話で 紹介した『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき)の活字本の所在調査のためインターネット検索をしていたら、粟鹿神社が鎮座する兵庫県朝来市に赤渕神社という神社があり、その縁起書に九州年号の「常色元年」(647)が記されているとの記事がありました。それによると、御祭神の一人で表米宿禰命という人物に関する伝承があり、常色元年に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰命は孝徳天皇の第二皇子という伝承 もあるようで、当地の日下部氏の祖先とのことです。
 『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えませんし、この時期に新羅との交戦をうかがわせるような記事もありません。倭国(九州王朝)と新羅の関係が悪化するのは、もう少し後のことですので、何とも不思議な伝承なのです。しかも九州年号の「常色元年」とする具体的な年次を持つ伝承ですから、何の根拠もない創作や誤記誤伝とも思えません。もしかすると九州王朝の王族に関する伝承ではないかとも想像しています。
 表米宿禰命が現地氏族の日下部氏の祖先とされていることも気にかかります。というのも、九州王朝の天子の家系と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫が日下部氏(草壁氏。後に稲員〔いなかず〕を名乗り、現在に至っています)を名乗っているからです。偶然の一致かもしれませんが、何とも気になる伝承で す。ちなみに、丹後半島の「浦島太郎」の御子孫も「日下部」を名乗っています(「洛中洛外日記」第58話「浦島太郎は『日下部氏』」をご参照ください)。
 是非とも同縁起書を実見したいと願っています。どなたか、現地調査をしていただければ有り難いのですが。


第600話 2013/09/28

九州年号「大長」史料の性格

 文献史学の研究で、まず最初に行う作業が「史料批判」という、その史料性格の調査検証です。簡単に言えば、その史料が誰によりいつ頃どのような目的や利害関係に基づいて書かれたのかを検証する作業です。それにより、その史料の記述内容がどの程度信頼できるのかを判断します。不正確な、偽られた史料を根拠に仮説や論を立てると、不正確で誤ったものになるので、史料を見極める眼力といえる「史料批判」は文献史学の基礎的で重要な作業なのです。
 たとえば九州年号が記された史料の場合、古田学派内でも史料批判抜きで「九州王朝系」と判断されているケースが見られますが、九州年号があるからといっても、その記事が九州王朝系のものとは限らないケースがあります。たとえば近畿天皇家の年号が無い時代、700年以前の記録を後世になって編集する場合、 『二中歴』など九州年号が記された「年代記」類を参考にして九州年号を追記して記事の暦年を特定するというケースも考えられます。したがって九州年号とともに記録された記事が、元々から九州年号により記録されたものか、後世に編集されたときに九州年号が付記されたものかを判断する作業、すなわち史料批判が必要となるのです。
 ところが『伊予三島縁起』に見えるような「大長」年号記事の場合、九州王朝系記事の可能性が論理的にかなり高くなります。それは次の理由からです。最後の九州年号である「大長」は元年が704年(慶雲元年)、最終年の九年は712年(和銅五年)で、すでに近畿天皇家の年号が存在している期間です。ですから後世に編集する場合、近畿天皇家の年号が採用されるはずで、最後の九州年号「大長」をわざわざ使用しなければならない理由がありません。それにもかかわ らず「大長」で暦年が特定されているということは、王朝交代後の701年以後でも九州年号を使用する人々、すなわち九州王朝系の人々により記録された可能性が高くなるのです。
 この場合、注意しなければならないことがあります。『二中歴』以外の九州年号群史料には700年以前に「大長」が移動されて記録されているケースが多 く、その移動された「大長」を使用して、後世の編纂時に700年以前の記事として「大長」年号とともに記録されている場合は、本来の九州王朝系記事ではない可能性が高くなります。『伊予三島縁起』のように701年以後の記事として「大長」が記されているケースとは異なりますので、この点について注意が必要です。
 こうした視点から『伊予三島縁起』を見たとき、「大長」年号とともに記された記事は九州王朝系記事とみなすべきとなり、その他の九州年号記事も本来の九州王朝系記事に基づかれたものとする理解が有力となるのです。従って、『伊予三島縁起』の原史料を記した人々、合田洋一さんがいうところの「越智国」は九州王朝との関係が深い地域ということになり、王朝交代後も九州年号「大長」を使用していたと考えられます。すなわち、大長九年(712)時点でも近畿天皇家の「和銅五年」ではなく、九州王朝の「大長九年」を使用するということは、近畿天皇家よりも九州王朝を「主」とする大義名分に越智国は立っていたことを指示していると思われます。こうした史料事実は、8世紀初頭の日本列島の状況を研究するうえで貴重なものと考えられます。
 同様に、701年以後の記事として「大長」が使用されている『運歩色葉集』の「柿本人丸」の没年記事「大長四年丁未(707)」も九州王朝系記事と見なされ、柿本人麿が九州王朝系の人物(朝廷歌人)であったとする古田説を支持する史料なのです。この他にも「大長」が記された史料がありますので、もう一度精査したいと思います。

(追記)プロ野球で楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝しました。わたしは楽天ファンではありませんが、心から祝福したい気持ちです。球団誕生時のいきさつから思うと、本当に強いチームになったものです。絶対にあきらめない強い心を保ち、古田史学を世に認めさせると、楽天の優勝を見て決意を新たにしました。本当におめでとうございます。


第599話 2013/09/22

『伊予三島縁起』にあった「大長」年号

 本日の関西例会では、古田説に基づき『「倭」と「倭人」について』を発表された張莉さんのご夫君(出野さん)を始め初参加の方もあり、盛況でした。わたしにとっての今日の例会で最大の収穫は、多摩市から参加されている齊藤政利さんにいただいた内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真でした。九州年号史料として有名な『伊予三島縁起』原本(写本)を以前から見たい見たいと私が言っているの を齊藤さんはご存じで、わざわざ内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して例会に持参されたのでした。
 まだそのすべてを丁寧に見たわけではありませんが、一番注目していた部分をまず確認しました。それは「天長九年壬子」の部分です。五来重編『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』には「天武天王御宇天長九年壬子」と記されており、この部分は本来「文武天皇御宇大長九年壬子」ではないかと、わたしは考え、 701年以後の九州年号「大長」の史料根拠の一つとしていました(『「九州年号」の研究』所収「最後の九州年号」をご参照下さい)。
 齊藤さんからいただいた内閣文庫の写本を確認したところ、『伊豫三島明神縁起 鏡作大明神縁起 宇都宮明神類書』(番号 和42287)には「天武天王御宇天長九年壬子」とあり、『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』と同じでした。ところが、もう一つの写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には 「天武天王御宇大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。わたしが推定していたように、やはり「天長九年」は「大長九年」を不審とした書写者による改訂表記だったのです。
 「大長九年壬子」とは最後の九州年号の最終年である712年に相当します。近畿天皇家の元明天皇和銅五年に相当します。なお、「天長九年壬子」という年号もあり、淳和天皇の時代で832年に相当します。『伊予三島縁起』書写者がなぜ「天武天王御宇」と記したのかは不明ですが、九州年号「大長」が 704~712年の9年間実在したことの史料根拠がまた一つ明確となったのです。内閣文庫写本の詳細の報告は後日行いたいと思います。齊藤さんに心より感謝申し上げます。
 9月例会の報告は次の通りでした。古田史学の会・東海の竹内会長が久しぶりに出席され、報告していただきました。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 日名照額田毘道男伊許知邇の考察(大阪市・西井健一郎)
2). 記紀の原資料と二倍年暦の形(八尾市・服部静尚)
3). 九州年号から考えた聖徳太子の伝記の系統(京都市・岡下英男)
4). 倭王武は武烈でありヒト大王だった(木津川市・竹村順弘)
5). 倭王武の時代の版図(木津川市・竹村順弘)
6). 邪馬壱国の南進(木津川市・竹村順弘)
7). ワニ氏の北方系海人族としての歴史的考察(知多郡阿久比町・竹内強)
8). 鬯草を献じたのは「東夷の倭人」か「南越の倭人」か(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代に真実を求めて』16集初校・ミネルヴァ書房からの古田書籍続刊・張莉さんと古田先生の仲介・古田先生自伝刊行記念講演会の報告・古田先生八王子セミナーの案内・浄瑠璃「妹背婦女庭訓」の説明・『大神宮諸雑事記』の紹介・その他


第598話 2013/09/21

「二年」銘刻字須恵器を考える

 本日、ミネルヴァ書房主催の古田先生の自伝刊行記念講演会に行ってきました。遠くから見えられた懐かしい方々ともお会いでき、楽しい一日となりました。東京古田会の藤沢会長や多元的古代研究会の和田さん、福岡からは上城さん、埼玉からは肥沼さんも見えられ、挨拶を交わしました。
 古田先生も三角縁神獣鏡の三角縁に関する新説の発表など、お元気に講演されました。ミネルヴァ書房の杉田社長と席が隣だったこともあり、二倍年暦に関する本を早く出すようご助言をいただきました。

 中国出張から帰国した19日のテレビニュースなどで、石川県能美市の和田山・末寺山古墳群から出土した5世紀末の須恵器2点に、「未」と「二年」の文字が刻まれていることが確認されたとの報道がありました。当初、わたしは「未」と「二年」が本体と蓋のセットとなった須恵器 に刻字されていたと勘違いしていました。もしセットとしての「未」と「二年」であれば、二年が未の年である九州年号の正和二年丁未(527)ではないかと考えたのですが、報道では5世紀末の須恵器とありますから、ちょっと年代が離れています。
 その後、インターネットで詳細記事を読みますと、「未」と「二年」の刻字須恵器は別々であることがわかりましたので、正和二年丁未とするアイデアは根拠を失いました。それから、今日までずっとこの「二年」の意味付けに悩んでいたのですが、古田先生の講演を聞きながら突然あるアイデアが浮かんだのです。
 もし、ある年号の「二年」ということであれば、暦年を特定するためにその年号を記すか、干支を記す必要があります。そうでなければ「二年」だけでは暦年を特定できず、「二年」と記しても、それを見た人にはどの年号の二年か判断がつかず、意味がないからです。たとえば、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した 「元壬子年」木簡の場合は、元年が壬子の年ですから、九州年号の白雉元年壬子(652)と特定でき、「元壬子年」と記す意味があるのです。ところが今回確認された須恵器には「二年」とあるだけですので、刻字した人が何を知らせたかったのか、その人の「認識」を考え続けました。
 そして、「二年」だけでも暦年を特定でき、刻字した人も、それを見た人にも共通の暦年を認識できるケースがあることに気づいたのです。それは最初の九州年号の二年に刻字されたケースです。具体的には、『二中歴』によれば「継体二年」(518)のケースです。その他の九州年号群史料によれば「善記二年」(523)となります。すなわち、倭国で初めての年号の時代であれば、「二年」の年は一つしか無く、刻字した人にも、それを読んだ人も、倭国(九州王朝) が建元した最初で唯一の年号の「二年」と理解せざるを得ないのです。
 おそらく、倭国(九州王朝)が初めて年号を制定・建元したことは国中に伝わっていたでしょうから、この須恵器に「二年」と刻字した人も建元されたばかりの九州年号を強烈に意識していたと思われます。こうしたケースにのみ、「二年」という表記だけで具体的な暦年特定が可能となり、意味を持つのです。
 編年上でも継体二年(518)であれば、6世紀初頭であり、須恵器の編年の5世紀末とそれほど離れていません。もちろん、これは九州王朝説多元史観に立った理解と仮説であり、他に適当な仮説が無ければ有力説となる可能性があるのではないでしょうか。まだ当該須恵器を実見していませんし、遺構の状況や性格も報道以上のことはわかりませんので、現時点では一つの作業仮説として提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第589話 2013/08/31

「九州年号」の証明(3)

 いわゆる九州年号が九州王朝(倭国)の年号であることは自明のこととわたしは考えていましたが、水野代表の御指摘を受けて改めてその論拠を考えてみました。それは次のような史料根拠と論理性に基づいています。
 まず基本認識として、古田先生の九州王朝説・多元史観に基づき、古代中国史書に記された九州王朝・倭国は7世紀末まで日本列島を代表する王朝であり、 701年のONラインを境として近畿天皇家が新王朝の日本国を建国し、九州王朝から列島の代表者の地位を交代します。そして、自らの史書『続日本紀』に 701年に「大宝」年号を「改元」ではなく「建元」したと記します。従って、近畿天皇家の日本国の年号は大宝元年から始まったことがわかります。
 この701年からの日本国とそれ以前の倭国については、『旧唐書』に倭国伝と日本国伝とが、その歴史や地形などが書き分けられていることとも対応しており、歴史事実と見なすに十分な史料根拠を有しています。
 他方、『二中歴』所収「年代歴」に掲載されている古代年号群も6世紀初頭から700年まで続く「継体」から「大化」までのいわゆる九州年号と、701年 からの「大宝」から始まる近畿天皇の年号群とが書き分けられていることが、先にあげた多元的歴史認識と見事に対応しており、いわゆる「九州年号」とされている年号群が九州王朝(倭国)の年号と理解することの史料根拠となるのです。
 以上のような史料根拠と論理性が九州王朝と九州年号を結びつける「証明」なのです。なお、701年以後も「大化」「大長」という九州年号が継続していたことが判明してきましたが、この点については『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)に詳述していますので、ご参照ください。


第587話 2013/08/25

観世音寺と観音寺

 太宰府の観世音寺の創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)に見える観世音寺創建記事から、白鳳年間(661~683)であることはわかっていましたが、その後、九州年号史料の『勝山記』(鎮西観音寺造)や『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳10年(670)の創建とする記事のあることが発見され、観世音寺創建が白鳳10年(670)であることが判明しました。
 考古学的にも、創建瓦が7世紀後半頃の「老司1式」であることにも対応しており、考古学編年とも一致しています。こうした文献と考古学の一致から、観世音寺創建白鳳10年(670)説は最有力説だと思うのですが、一つだけ気になっていたことがありました。『二中歴』では「観世音寺」と正式名称が記載され ているのですが、『勝山記』や『日本帝皇年代記』では「観音寺」となっていることです。
 ところが、この疑問は思ったよりも簡単に解決してしまいました。観世音寺は古代から「観音寺」とも称されていたことがわかったからです。それは有名な次の史料です。

 「沙彌満誓、綿を詠ふ歌一首 造筑紫観音寺別當、俗姓笠朝臣麿といふ
 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖かに見ゆ」『万葉集』巻三 336番

 『万葉集』の有名な歌ですが、その作者の沙彌満誓を「造筑紫観音寺別當」と紹介しているのです。この記事から、『万葉集』成立期には観世音寺を「観音寺」とも表記していたことがわかるのです。
 更にもう一つ見つけました。これも有名な菅原道真の漢詩「不出門」の一節です。

 「都府楼わずかに見る瓦色
  観音寺は只鐘の声を聴くのみ」

 ここでも道真は観世音寺を「観音寺」と表記しています。ただ七言律詩とするために、三文字の「観音寺」の方を採用したのかもしれません。いずれにしても「観音寺」と詠えば、聴く人にも「太宰府の観世音寺」のことと理解されることが前提(共通認識)となっていたから「観音寺」と作詩したと考えられま す。
 こうして『勝山記』『日本帝皇年代記』の「鎮西観音寺」を太宰府の観世音寺のこととする理解は妥当なものであることが、よりはっきりしました。なお、「鎮西」とありますから、この部分の成立は近畿天皇家の時代となります。恐らく、「観音寺」だけではどこのお寺か判断できないので「鎮西」(九州)という 表記を付け加えたのでしょう。この点、『二中歴』「年代歴」には「観世音寺」だけで、地名表記はありません。これは「年代歴」細注部分が北部九州で書かれ たため、地名をつける必要もなく、「観世音寺」と記すだけで太宰府の観世音寺のことだと、書いた人も読む人もそのように認識するということが前提の表記で す。
 同じ『二中歴』「年代歴」の細注でも、「難波天王寺」(倭京二年、619年)のように「難波」という地名表記があるケースとは対照的です。すなわち、北部九州の読者には「難波」と地名表記をつけなければ、どこの天王寺か特定できなかったからと思われます。したがって、この「難波」は北部九州ではなく、摂津難波の「難波」と理解することが最も穏当な理解となるのです。
 観世音寺を「観音寺」と表記するものは他の史料にもありそうですので、引き続き探索したいと思います。


第586話 2013/08/24

「九州年号」の証明(2)

 第585話に 続いて水野さん(古田史学の会・代表)からの御指摘について考察します。『襲國偽僣考』に記された古写本『九州年号』以外にも、「九州年号」が九州地方の 年号であることを記した史料があります。それは宇佐八幡宮文書で『八幡宇佐宮繁三』(元和三年〔1617〕、卜部兼従著)というもので、『襲國偽僣考』が著された文政3年(1820)より約200年前に成立した文書です。そこに次のような記事が見えます。

 「筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり」

 ある事件について、その年を九州年号の教到四年であり安閑天皇元年(534)に相当するという注記なのですが、「筑紫の教到四年」という表記から。「教到」年号を「筑紫」の年号であり、近畿天皇家の安閑元年と同年であるとの認識が示されています。
 管見では、いわゆる九州年号が九州地方の年号であることを直接的な表現で示された史料は、この『八幡宇佐宮繁三』が最も成立が早いと思われます。『襲國偽僣考』の著者、鶴峰戊申は現大分県の出身ですし、宇佐八幡宮も大分県にありますから、この地方ではこうした九州王朝系史料が江戸時代まで残っており、興味深い現象です。なお、宇佐八幡宮文書につきましては『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)に詳しく記していますので、ぜひご一読下さい。(つづく)


第585話 2013/08/22

「九州年号」の証明

 第584話「天智天皇の年号『中元』?」に 対して、水野さん(古田史学の会・代表)より、ちょっと意表をつかれた御指摘が寄せられました。それは、「白鳳」など『二中歴』などの諸史料に見える一連の古代年号が九州王朝(倭国)の年号であるという証明が必要ではないか、という御指摘です。今まで、それらの年号が九州年号であることは自明のことと考え てきましたので、水野さんの御指摘を受けて、改めて「九州年号」の証明について考えてみることにしました。
 とりあえず、水野さんには『襲國偽潜考』に「善記」から「大長」までの諸年号は『九州年号』という古写本より引用したと、著者の鶴峯戊申が記していますので、この「九州年号」という名称は、6~7世紀において「九州」地方で公布使用されていた「年号」ということを意味しているので、「九州年号」という名称こそ、九州王朝の年号であることを指し示していると返答しました。しかしながら、『襲國偽潜考』自体は江戸時代に成立した史料ですので、もっと古代まで遡った史料根拠に基づいた証明(論証)を考えてみたいと思います。(つづく)


第575話 2013/07/28

白雉改元「小郡宮」説

 わたしはこれまで、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、その時期は九州年号の白雉元年(652)であることを論証してきました。そのキーポイントは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)の白雉改元記事は、九州年号の白雉元年二月(652)に行われた 行事の白雉年号ごと二年ずらしての盗用であることを明らかにしたことです(宮殿完成記事は652年九月条)。
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤 海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。

 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書 紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測 されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117~118頁)

 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。
 そして、『日本書紀』に記されている三つの九州年号「大化」「白雉」「朱鳥」のうち、「白雉」のみがその改元の様子が詳細に記されていることから、近畿天皇家が改元儀式に参列し、その様子を見ることができたからこそ、『日本書紀』に記すことができたと思われます。そうすると、孝徳の宮殿と改元の儀式が行われた九州王朝の宮殿は参列可能な程度の近くにあったことになります。この点も、前期難波宮九州王朝副都説でしかうまく説明できない『日本書紀』の史料事実なのです。


第570話 2013/07/10

九州年号史料「伊予三島縁起」

 わたしが大三島の大山祇神社を訪れたかった理由の一つに、九州年号史料として 著名な同神社の縁起「伊予三島縁起」を実見したかったからでした。わたしが持っている「伊予三島縁起」は五来重編『修験道史料集(2)西日本編』所収の活 字版ですので、是非とも実物か写真版で九州年号部分を確認したかったのです。残念ながら宝物館には「伊予三島縁起」は展示されておらず、販売されていた書 籍にも「伊予三島縁起」は掲載されていませんでした。
 「伊予三島縁起」の九州年号史料としての性格が、四国地方にある他の九州年号史料とはかなり異なっており、このことが以前から気にかかっていました。と いうのも、四国地方の他の九州年号史料に見える九州年号は、「白雉」や「白鳳」といった『日本書紀』『続日本紀』などの近畿天皇家の文献にも現れるものが 多く、そのため本来の九州年号史料ではなく、それら近畿天皇家史料からの転用の可能性を完全には否定できないのです。この点、「伊予三島縁起」に見える九 州年号は、「端政」「金光」「願転(転願)」「常色」「白雉」「白鳳」「大(天)長」などで、これらは『日本書紀』や『続日本紀』などからは転用のしよう がない九州年号であり、「番匠初、常色二年」など九州王朝系史料からの引用と思われる貴重な記事も含まれており、その史料性格は格段に優れているのです。
 こうした理由から、わたしはどうしても「伊予三島縁起」原本を見たかったのです。『修験道史料集』に掲載されている「伊予三島縁起」の解題には、原本は大山祇神社にあり、善本は内閣文庫にあると記されています。引き続き調査してみたいと思います。


第569話 2013/07/09

伊予大三島の大山祇神社参詣

 7月6日(土)に松山市にて「王朝交替の古代史-7世紀の九州王朝」というテーマで講演しました。「古田史学の会・四 国」の主催によるものです。大和朝廷の養老律令や宮殿の規模・様式変遷、飛鳥出土木簡などを通じて、九州王朝から大和朝廷への権力交替期についての持論や 作業仮説(思いつき)を発表しました。幸い、「わかりやすかった」「また来てほしい」とお褒めの言葉もいただきました。「古田史学の会・四国」の皆さん、 ありがとうございます。
 講演会終了後の「四国の会」の会員総会では、会員や例会参加者を増やす方法について真剣に議論されていたのがとても印象的でした。懇親会でも熱心な質疑 応答が続き、わたし自身も啓発されました。高松市から参加された西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)を交えての論議もまた楽しいものでした。
 翌日の日曜日には合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会事務局長)のご厚意により、一度行ってみたかった大三島の大山祇神社を西村さんもご 一緒に三人で訪問しました。最初に社務所に寄り、『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)を進呈しました。宝物館は圧巻で、源義経奉納 の鎧(国宝)など重要文化財や国宝が多数展示してありました。国宝館には斉明天皇奉納と伝えられている大型の「禽獣葡萄鏡」がありました。「唐鏡」と説明 されていましたが、その大きさなどから国産のように思われました。
 大山祇神社の他にも、合田さんの案内で「しまなみ海道」の大島にある村上水軍の記念館なども見学できました。合田さんには何から何までお世話いただき、本当にありがとうございました。