九州年号一覧

第458話 2012/08/25

『日本帝皇年代記』の九州年号

 昨日の深夜、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールが届きました。『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)のことが紹介されており、その中に九州年号が使用されていることや、白鳳10年条(670)に「鎮西建立観音寺」という記事があることなどをお知らせいただきました。『日本帝皇年代記』という年代記はわたしも初めて聞くもので、阿部さんもインターネット検索で「発見」されたとのこと。
 さっそく、お知らせいただいた長崎大学リポジトリ(山口隼正「『日本帝皇年代記』について:入来院家所蔵未刊年代記の紹介」2004.03.26)を閲覧したところ、たしかに今まで見たことのないタイプの九州年号群史料でした。神代の時代から始まり、歴代天皇へと続く年代記ですが、九州年号の善記元年(522)からは九州年号を用いた編年体年代記となり、大化6年(700)までは九州年号を、それ以降は近畿天皇家の大宝年号へと続いています。
 多くの史料から集められた様々な和漢の記事が記されている年代記ですが、なかでもわたしが注目したのは、阿部さんも指摘された白鳳10年(670)の 「鎮西建立観音寺」という記事でした。太宰府の観世音寺創建年を記す貴重な記録ですが、同様の記事が山梨県の『勝山記』に見えることは既にご紹介してきたところです。観世音寺白鳳10年建立を記した史料が、山梨県から遠く離れた鹿児島県の入来院家所蔵本『日本帝皇年代記』にも記されているという史料状況は、観世音寺白鳳10年建立の記事が誤記誤伝の類ではなく、九州王朝系史料に確かに存在していたことを指し示すものです。同年代記の「発見」により、観世音寺白鳳10年建立説は創建瓦の編年との一致も含め、ますます確かなものになったといえます。(つづく)

参考

『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介(上) PDF


第448話 2012/07/28

松山市出土「大長」木簡

 芦屋市出土の「元壬子年」木簡が九州年号の白雉「元壬子年」(652年)木簡であることは、これまでも報告してきたところですが、当初、この木簡は「三壬子年」と判読され、『日本書紀』の「白雉三年」のこ とと『木簡研究』などで報告されており、九州年号群史料として有力史料と判断していた『二中歴』とは異なっていました。

 わたしは奈良文化財研究所HPの木簡データベースでこの木簡の存在を知ったとき、この「白雉三年」との説明に驚きました。『二中歴』を最も有力な九州年 号史料としていた自説と異なっていたからです。そこで、わたしはこの木簡を徹底的に調査実見し、その「三壬子年」と判読されてきたことが誤りであり、「元 壬子年」と書かれていたことを発見したのでした。

 このとき、わたしは自説に不利な史料から逃げずに、徹底的に立ち向かって良かったと思いました。このときの体験は、わたしの歴史研究生活にとって、大きな財産となりました。

 それ以後も九州年号木簡を探索してきましたが、奈良文化財研究所の木簡データベースを閲覧していて、もしかすると九州年号木簡かもしれない木簡を見いだしましたので、ご紹介します。

 それは愛媛県松山市の久米窪田II遺跡から出土した木簡で、「大長」という文字が書かれているようなのです(前後の文字は判読不明。「長」の字も推定の ようです)。最後の九州年号「大長」(704~712年)の可能性もありそうですが、断定は禁物です。人名の「大長」かもしれませんし、法華経など仏教経 典の一部、たとえば「大長者」の「大長」という可能性も小さくないからです。

 『木簡研究』第2号によれば、「大長」木簡は1977年に出土しており、その出土層は八世紀初期を前後するものとされており、まさに九州年号の大長年間(704~712年)にぴったりなのです。

 こうなると、実物を見る必要がありますので、松山市の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)に連絡し、愛媛県埋蔵文化財センターに問い合わせていた だいたところ、同木簡は「発掘へんろ」巡回展に出されており、現在は高知県で展示されていることがわかりました。そのため、同木簡が愛媛県に戻るのは来年三月とのこと。

 残念ながら、それまでは本格的な調査はできませんが、九月には香川県で展示されるようですので、せめてガラス越しにでも見に行こうと思っています。


第420話 2012/06/02

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。第352話「和歌木簡と九州年号」でもふれましたが、万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。

 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」 (647)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(652)の可能性もありますが、『日 本書紀』によれば652年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。

 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。 そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。 ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。

 さらに言えば、7世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(661)、「朱雀元年」(684)、「朱鳥元 年」(686)、「大化元年」(695)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となるのですが、661年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。 684年と686年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。

 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は7世紀中頃にならざるを得ないと言 う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を7世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。


第380話 2012/02/02

聖徳太子と九州年号

先日、NHKのBS放送で聖徳太子の特別番組が放送されたそうです。事前に何人かの会員の方からその番組のことをお知ら せいただいたのですが、あいにく我が家のテレビではBS放送は映らず、同番組を見ることができませんでした。放送を見た人のお話では、あいかわらず近畿天 皇家一元史観による「陳腐」な内容だったようです。
ちょうど良い機会ですので、聖徳太子と九州年号が意外と関係が深いというテーマについてご紹介したいと思います。
たとえば後代に編纂された『聖徳太子伝』などの聖徳太子の伝記類には、九州年号の「金光」「勝照」「端政」などが散見されます。おそらく、九州王朝の天 子・多利思北弧やその太子、利歌彌多弗利の九州年号付きで記された年代記を盗用する際、九州年号がそのまま残されたものと推察しています。
さらに、法隆寺にも九州年号が記された文書が存在しているようなのです。それは「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているもので、X写真によれば、その箱の中 に3枚の文書が入っており、それらは聖徳太子と善光寺如来との間で交わされた書簡とされています。その内、1通は国立東京博物館に明治時代の写しが現存し ています。他の2通の内容は不明です。
法隆寺側は「御文箱」を永久に封印する方針とのことなので、その聖徳太子の書簡を見ることはできないのですが、残りの2通に九州年号が記されている可能 性が濃厚なのです。そこで、何とかその往復書簡の内容を調べたいと思い、わたしは善光寺側の史料を調査したのですが、なんと善光寺側はそれら書簡を公開し ていたのでした。
詳しくは拙論「九州王朝仏教史の研究」(『「九 州年号」の研究』に収録)を読んでいただきたいのですが、聖徳太子からの手紙に「命長七年」という九州年号が記されていたのです。すなわち、聖徳太子と善 光寺如来の往復書簡とは九州王朝の天子と善光寺との書簡だったのです。おそらく、それら書簡が法隆寺移築時か後に法隆寺にもたらされ、聖徳太子の書簡とし て伝来されたようです。
このように聖徳太子と九州年号は結構関係が深いのですが、こうした史料状況は聖徳太子伝説の多くが九州王朝の伝承だった可能性を強く感じさせるのです。


第377話 2012/01/20

日本刀と九州年号

今日は岐阜県関市に来ています。関市といえば「関の孫六」で有名な日本刀の産地で、今でも日本刀が関市で造られているようですが、日本刀と九州年号に関係があることをご存じでしょうか。
『刀剣美術』384号(昭和64年、新年号)に掲載された間宮光治さんの「刀剣古伝書と九州年号」によれば、『銘尽正安本写』(刀剣博物館蔵)などに九 州年号が散見されることが報告されています。たとえば『佐々木氏延暦寺本銘尽』によれば、「海中 継体天皇御宇、善記年中、二尺三寸剣竜王作」「宗(方+ ム) 法清年中、走雲鬼作、号野干剣焼無之夜暗ヲハラス」「長光 師安年中 鬼作、忠崎(ナカゴサキ)三ニ破タリ 長二尺」「天雲 継体天皇御宇 教到年 中、天(火+兼)切作之」といった記事があり、九州年号の「善記」「法清」「師安」「教到」「朱鳥」が記されています。
刀剣の作成時期が九州年号で記されており、興味深い史料です。刀剣博物館でそれら刀剣古伝書を実見したいものです。
この他にも、刀剣古伝書には九州年号に関して面白い史料があり、いつかご紹介できればと思っています。関市への出張のおかげで、間宮さんの論稿を思い出 しましたので、ご紹介しました。ちなみに、間宮稿には製鉄加工技術の伝来は北部九州にもあったのではないかとされておられます。


第375話 2012/01/15

「これから出る本」

昨日の賀詞交換会に相模原市から参加された冨川ケイ子さんから面白いパンフレットをいただきました。「これから出る本」(2012年No.2、日本書籍出版協会)というもので、近々発刊される本を紹介するものです。
その歴史図書の欄に『「九州年号」の研究』が紹介されていたのですが、同じ欄に久保常晴著『日本私年号の研究(新装版)』(吉川弘文館、14700円) も掲載されていました。この本は九州年号研究者であれば知らない人はいないという一冊なのです。九州年号偽作説に立っていますが、九州年号史料をが多数紹 介されており、史料調査に大変役立ちました。わたしが研究を始めた20年前には既に市販されていませんでしたので、京都府立総合資料館で長時間閲覧したも のでした。
このような古代や中世の逸年号の研究書が復刻発刊されるということに驚きましたが、おそらく九州年号に対する興味が古代史ファンに広がっている反映だと 思われます。古田説や九州王朝説が確実に浸透していることが、このことからもうかがえます。2012年が古田史学にとって画期となる年となる予感がしてい ます。


第373話 2012/01/13

『「九州年号」の研究』編集後記

 今日は大阪で仕事をしています。お昼休みを利用して、紀伊国屋書店(本町店)をのぞいてきました。もちろん目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかどうかの確認です。その結果は、幸いなことに何と古代史コーナーに平積みで並んでいました。ありがたいことです。わたしは紀伊国屋書店が大好きになりそうです。
 ミネルヴァ書房の田引さんの話では、『「九州年号」の研究』は順調に売れているそうです。そこで、田引さんのご了承を得ましたので、『「九州年号」の研究』の編集後記を転載します。まだお読みになっていない方に、同書の概要をご理解いただけると思いますので。

『「九州年号」の研究』編集後記

 古田武彦先生が日本古代史学の分野に多元史観を提唱され、その中核をなす九州王朝説はそれまでの大和朝廷一元史観の閉塞を打ち破り、真実の古代史像をわたしたちの眼前に示されたのであるが、その主要テーマの一つが九州王朝(倭国)の年号「九州年号」であった。
 以来、古田先生を初め古田説支持者による九州年号研究は、各地に遺存する九州年号や九州年号史料の調査発掘という第一段階を経て、その年号立ての原形論研究という第二段階へと発展したのであるが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号が最も原形に近いとする一定の「結論」を迎えた後は、その九州年号に基づいた九州王朝史の究明というテーマを中心とする第三段階へと進んだ。本書はその第三段階での主たる研究論文などにより構成されている。
 本書には、正木裕さんと冨川ケイ子さんの秀逸の論文を収録できた。お二人は「古田史学の会」における優れた研究者であり、わたしも関西例会などで繰り返し意見を闘わし、共に研究を進めてきた学問的同志である。
 正木さんの、九州年号を足がかりとした『日本書紀』の史料批判による九州王朝史復原研究は、近年の古田学派における質量ともに優れた業績である。冨川さんによる、明治時代における九州年号研究の発掘は、古写本「九州年号」の実在を鮮明にしたものであり、同写本の再発見をも期待させるものである。
 最近の十年間における最も大きな九州年号研究の成果といえば、やはり「元壬子年」木簡の「発見」であろう(芦屋市三条九ノ坪遺跡、一九九六年出土)。当初、この木簡は『日本書紀』の白雉年号にあわせて「三壬子年」と解読されてきたが、わたしたちによる再検査により、その文字は「元壬子年」であり、『二中 歴』などに記されている九州年号の白雉元年壬子(六五二)に相当する九州年号木簡であることが判明したのである。
 同木簡の写真と赤外線写真(大下隆司さん撮影)を本書冒頭に掲載した。九州王朝や九州年号を認めない大和朝廷一元史観の古代史学界はこの九州年号木簡の 「発見」に対して、今も黙殺を続けているが、それでこの木簡が消えて無くなるわけではない。九州王朝と九州年号の真実の歴史の「生き証人」として、この木 簡は古代史学界を悩ませ続けるに違いない。
 本書の序文は「古田史学の会」代表水野孝夫さんからいただいた。水野さんもまた「古田史学の会」草創の同志であり、人生の先輩でもある。本書を「古田史学の会」の事業として出版することに御賛同いただいたものであり、感謝に堪えない。古田先生からは巻頭論文を新たに書き下ろしていただいた。ありがたい御配慮である。
 わたしが古田武彦先生の著作に感銘し、その門を叩いたのは今から二五年前のことである。以来、古田先生の学説や学問の方法に学び、主たる研究テーマの一 つとして九州年号の研究に没頭してきた。その二五年間の集大成ともいうべき本書を上梓することにより、学恩に僅かでも報いることができれば、まことに幸いとするところである。
二〇一一年七月二四日記    古賀達也


第372話 2012/01/11

八重洲ブックセンター

東京から名古屋に向かう新幹線の車中にいます。今日のお昼に、東京駅八重洲口にある有名な書店、八重洲ブックセンターに 寄りました。目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかの確認です。というのも、正月明けに名古屋の知人から、名古屋駅ビルにある大型書店の三省堂に 『「九州年号」の研究』が並んでいないとの連絡があったからです。それでちょっと心配になり、出張を利用して八重洲ブックセンターに行くことにしました。
四階(だったと思います)の古代史コーナーに古田先生のコーナーがあり、そこに『「九州年号」の研究』が先生の著作とともに並んでいました。「古田史学 の会」の会誌『古代に真実を求めて』も全巻そろえてあり、改めて古田先生の人気と存在感を実感したしだいです。(名古屋に着いてから駅ビル11階にある三省堂書店ものぞきましたが、『「九州年号」の研究』があり一安心でした。)
「古田史学の会」の事業の一環として、来年度からは『「九州年号」の研究』の全国主要図書館や大学図書館への寄贈も検討していきたいと思います。大和朝 廷一元史観に風穴をあけるため、古代史ファンの目に入る場所へ「九州王朝」説や「九州年号」説を届けたいと考えています。皆様のご協力もよろしくお願いい たします(ご近所の図書館へ推薦してください)。


第354話 2011/11/30

副題「近畿天皇家以前の古代史」

 東京に向かう新幹線のぞみの車中で書いています。あいにくの曇り空で富士山が見えなくて残念です。
 『「九州年号」の研究』第3校の校正もようやく終わり、現在は表紙レイアウトや帯の内容作成に入っています。順調に行けば年内発刊となりますが、全国の書店に並ぶのは年明けになるかもしれません。編集や刊行に向けてずっと支えていただいたミネルヴァ書房の田引さんに感謝しています。
 表紙のレイアウトも送られてきましたが、わたしは大変気に入っています。「元壬子年」木簡や『二中歴』などがデザインとして用いられており、本の内容ともうまくマッチしています。皆さんにもきっと気に入っていただけるのではないでしょうか。
 また、本の題名だけでは九州王朝や九州年号をまだご存じない人にはわかりにくいのではないかと考え、「近畿天皇家以前の古代史」という副題をつけました。古田先生の『失われた九州王朝』の副題「天皇家以前の古代史」を参考にしたものです。
 『「九州年号」の研究』の校正を終えて、最初に思ったことは、10年後には続編を必ず出そうということでした。同書編集中にも優れた論考が発表されたことや、水野さんの指摘にあった「なぜ『二中歴』が九州年号史料として優れているのか」という説明などが未収録となったからです。
 具体的には、正木さんの「法興」「聖徳」「始哭」に関する考察、「洛中洛外日記」に連載した「九州年号の史料批判」などを続編に掲載したいと思っています。発行前に気の早いことではありますが、これからの10年間、さらに九州年号研究を進めたいと決意も新たにしています。そして、この本の読者から九州年号研究者が誕生することを期待しています。
 なお、ミネルヴァ書房からは「二倍年歴の研究」の上梓もお勧めいただいており、こちらも少しずつでも取り組み始めなければと、自分に言い聞かせているところです。

第352話 2011/11/20

和歌木簡と九州年号

 昨日の関西例会で、わたしは「和歌木簡と九州年号」という研究発表を行いました。難波京整地層から出土した「春草」木簡と呼ばれるもで、650年頃のものとされています。「はるくさのはじめのとし」と読める万葉仮名が記されており、和歌木簡と見られています。
 「春草の」という言葉は万葉集でも「枕詞」の類として柿本人麿の歌にも見られますが、わたしはこの木簡の後半部分「はじめのとし」という表現に注目しま した。お正月を示す「年の始め」という表現はよく見られますが、「はじめの年」という表記を和歌で見た記憶がなかったからです。
そこでわたしは、この「はじめのとし」を「元(はじめ)の年」と理解し、ある九州年号の元年を意味するものとする説を発表しました。具体的にはその出土 地層の年代から、九州年号の常色元年(647)に読まれた歌ではないかと推測しました。「春草の」という「枕詞」も柿本人麿の歌では「大宮処」「わが大王」といったものに関わって使用されていることから、この和歌木簡の「はるくさの」も、 春草が勢いよく成長するように九州王朝の天子の権勢を形容したものであり、その天子の常色元年を言祝(ことほ)いだ歌ではなかったでしょうか。
 ちなみに九州年号の常色年間は評制が全国に施行され、我が国初で最大規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮の建設も始まっており、九州王朝史において 特筆される時期だったのです。そのことを言祝いだ和歌木簡が難波京整地層から出土したことも偶然とは思われません。
 このわたしの新説はいかがでしょうか。なお、11月例会の発表は次の通りでした。中でも、水野さんが紹介された「百済人祢軍墓誌」は7世紀後半の重要な内容が記されており、画期的な発見です。この点、今後報告したいと思います。〔11月度関西例会〕
1). ヘブライ語のミリアム(向日市・西村秀己)
2). 鬼前太后・干食王后・法興元で頓挫(豊中市・木村賢司)
3). 「伊都国」の論理 ーー邪馬一国、首都の変遷(姫路市・野田利郎)
4). 第八回古代史セミナー(八王子)主な項目(豊中市・大下隆司)
5). (彦島の)伊勢の地を探す(大阪市・西井健一郎)
6). 和歌木簡と九州年号(京都市・古賀達也)
7). 磐井討伐の詔の正体(川西市・正木裕)
8). 卑弥呼の名字(木津川市・竹村順弘)
9). 広開土王碑17年条と山海経記事(木津川市・竹村順弘)
10).南斉書の百済王名(木津川市・竹村順弘)○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・百済人祢軍墓誌の追跡・他。

第351話 2011/11/17

九州年号の史料批判(6)

 今日は東京へ向かう上越新幹線「Maxとき」の車中でこの原稿を書いています。車窓から見える山々の景色がとてもきれいです。

 『二中歴』の史料批判もいよいよ最後の局面となりました。なぜ『二中歴』には大長がなくて、他の年代歴には大長があり朱鳥が消えた理由の解明です。
 この謎をわたしは、「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」 という論文で明らかにしました。その謎解きのキーポイントは「大長は701年以降の九州年号」ということでした。詳しくは両論文を読んでいただきたいと思いますが、後代に成立した三次史料としての年代暦は基本的に701年以後の大和朝廷の年号へと続いており、『二中歴』も例外ではありません。すなわち、九州年号の時代は九州年号を用いて年代を特定し、701年以降は大和朝廷の年号(大宝から)を使用して歴史を記述するという体裁をとっているのです。
 たとえば『二中歴』は継体から始めて大化までの九州年号を記した後、701年からは大和朝廷の年号、大宝へと続いています。その他の年代暦を「集約」して提唱された「丸山モデル」では朱鳥が無く大化・大長と続いて、同じく701年からは大宝へと大和朝廷の年号へ継続しています。
 これらの史料状況から、わたしは最後の九州年号は大長であり、704年を元年として九年間続き、712年に九州年号が終わっているとする「古賀試案」を発表しました。比較すると次のようです。

西暦   二中歴  丸山モデル 古賀試案

686  朱鳥元年 大化元年  朱鳥元年
692  朱鳥七年 大長元年  朱鳥七年
695  大化元年 大長四年  大化元年
700  大化六年 大長九年  大化六年
701  大宝元年       大化七年
703  大宝三年       大化九年
704  慶雲元年       大長元年
712  和銅五年       大長九年

 このように『二中歴』とその他の年代暦の差異は九州年号と大和朝廷の年号とのつなぎ方の違いだったのです。
 『二中歴』では大和朝廷の最初の年号である大宝とつなぐため、大化を六年で終わらせたのであり、「丸山モデル」に代表されるその他多くの年代暦は朱鳥の九年間をカットし、更に大化も六年でカットし、その分だけ大長を700年までに押し込み、九州年号から大和朝廷の大宝へと続けたのです。
 九州王朝が滅亡し、史料としての九州年号が残った後代において、各年代暦編纂者たちは九州年号と大和朝廷の年号との「整合性」を保つために、『二中歴』 のような単純カットによるつなぎあわせか、「丸山モデル」のように朱鳥をカットして、最後の九州年号である大長から大宝へとつなぐという史料操作を行った のです。
 こうした理解に立って、初めて『二中歴』タイプと「丸山モデル」タイプの年号立てが後代において発生したことを説明できるのです。
 こうしてようやくわたしは『二中歴』の史料としての優位性と、701年以降の九州年号の存在という新たな歴史理解に到達することができたのです。
 九州年号の史料批判の方法と研究経緯を6回にわたって記してきましたが、三次史料の優劣を判断する史料批判を何年もかけて続け、ようやく真実に近づくことができたのです。歴史研究において三次史料の取り扱いの難しさについて、参考にしていただければ幸いです。


第350話 2011/11/16

九州年号の史料批判(5)

 今日は新潟県長岡市のホテルでこの原稿を書いています。昨日から新潟も冷え込んできたようです。

 『二中歴』の史料批判を続けます。「丸山モデル」が提起した疑問、朱鳥は本当に九州年号なのか、それとも『日本書紀』編纂持の造作なのかという問題は比較的早くに解決を見ました。
 「朱鳥改元の史料批判」 という論文で指摘したのですが、『日本書紀』の三年号のうち、大化は50年遡らせて盗用され、白雉は2年ずらして盗用されていますが、この二つの年号を孝 徳天皇の10年の在位期間(645−54)にぴったりあわせて盗用しています。ところが、朱鳥は一年間だけ天武天皇末年(686)という中途半端な盗用となっています。どうせ盗用するなら、あるいは造作するのであれば持統元年に盗用すればよいはずです。ところが、『日本書紀』編纂者は中途半端な天武天皇末 年の一年間だけを「朱鳥元年」としました。
 この不自然な史料状況は、逆に朱鳥こそ正しく九州年号通りに、その元年を686年とした結果であり、朱鳥年号の実在性を証明する史料状況と考えざるを得ないことに、わたしは気づいたのです。
 そして、朱鳥年号こそ九州年号からその元年のみを正確に『日本書紀』は盗用したという論理性を、わたしは「朱鳥改元の史料批判」で指摘したのでした。
 また金石文として「朱鳥三年」と記されている鬼室集斯墓碑の信憑性についても「二つの試金石ーー九州年号金石文の再検討」という論文で論証していましたので、朱鳥を持たない「丸山モデル」よりも、朱鳥を持つ『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いという確信を深めたのです。しかし、なぜ『二中歴』には大長がないのかという疑問は残されたままでした。(つづく)