九州年号一覧

第2517話 2021/07/11

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (13)

九州年号「正和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か

 「善記」(522~525年)の次の九州年号は「正和」(526~530年)です。鎌倉時代にも同じ年号「正和」(1312~1317年)があり、大分県臼杵市満月寺の五重石塔に刻された「正和四年乙卯」が九州年号か否かを調査したこともありました(注①)。正和四年の干支が乙卯であることなどが根拠となり、鎌倉時代の年号「正和」と結論しました。
 今回の『大正新脩大蔵経』調査でも、鎌倉時代の年号「正和」が少なからずヒットしましたが、九州年号「正和」(526~530年)よりも早く漢訳された経典としては、竺法護(239~316年。注②)訳『大乘菩薩藏正法經』に「正和合」としてありました。

○『佛説大乘菩薩藏正法經卷第三十五』竺法護 訳
 「於正和合無所合智。」

 この『佛説大乘菩薩藏正法經』は九州年号「蔵和」(559~563年)の出典候補としても紹介したもので(注③)、この仮説が正しければ、6世紀初頭までには伝来していて、年号策定にあたり、九州王朝内で重視された経典だったと思われます。(つづく)

(注)
①古賀達也「臼杵石仏の『正和四年』は九州年号か」『九州倭国通信』194号、2019年4月。
古賀達也「満月寺石塔『正和四年』銘の考察 ―多層石塔の年代観―」『東京古田会ニュース』191号、2020年1月。
②ウィキペディアによれば、竺法護(じく ほうご、239~316年)は西晋時代に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典にたずさわった代表的な訳経僧である。別に敦煌菩薩、月氏(または月支)菩薩、竺曇摩羅刹とも称され、漢訳した経典は約150部300巻に及ぶ。
③古賀達也「洛中洛外日記」2514話(2021/07/08)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史 (10) ―九州年号「蔵和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か―〟
 ○『佛説大乘菩薩藏正法經卷第二十』竺法護 訳
  「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」


第2516話 2021/07/10

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (12)

 ―九州年号「善記」の出典は『十誦律』か―

 九州王朝の最初の年号は、『二中歴』(注①)では「継体」(517~521年)、その他の九州年号群史料では「善記」(522~525年)とされています。古田先生はこの「善記」を、九州王朝の王者、筑紫君磐井の律令に基づく「教命之書」にちなんで創始した年号とされました。そしてその根拠として『礼記』や『漢書』『後漢書』『宋書』の記事などを提示されました(注②)。
 ところが、今回、『大正新脩大蔵経』を検索したところ、仏典に「善記」が少なからず現れることがわかりました。たとえば、古田先生が『失われた九州王朝』(注③)の「第三章 高句麗王碑と倭国の展開 阿蘇山と如意宝珠」において、「如意宝珠」の〝出典〟として紹介された『大宝積経』に「善記」がありました。次の通りです。

○『大寶積經卷第二十八』
 「善記善修彼法界中所有諸相。」
 「以實智慧如實證知。彼諸法中有諸名字。善説善知善修善記。以善知故。以善修故。以善記故。』

 更に注目されたのが、『四分律』『五分律』と並んで有名な『十誦律』(注④)に、「善記事」という用語で多出していることです。その一部を紹介します。

○『十誦律卷第三十六』(弗若多羅、鳩摩羅什訳)
 「第四師者。不善記事自言善記事。弟子共住故。知師 画像不善記事自言善記事。若我説師實者。或當不喜。若師不喜當云何説。我等蒙師故。得衣服臥具湯藥飮食。師好看我等者。自當覺知。如是師者爲弟子覆護善記事。是師亦從弟子求覆護善記事。是名世間第四師。」
 「如來是善記事。自言我善記事。諸弟子不覆護如來善記事。如來亦不求諸弟子覆護善記事。」

 「洛中洛外日記」2515話(2021/07/09)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史 (11) ―九州年号「僧聴」の出典は『五分律』か―〟において、わたしは「仏典の中でも九州年号は『律』からの採用が多いのかもしれません。」としたのですが、どうやらその推測は的外れではなかったようです。こうして、仏典中の「律」を出典とする可能性がある九州年号として、「善記」「僧聴」「僧要」の三つが明らかとなりました。(つづく)

○「善記」(522~525年)『十誦律』
○「僧聴」(536~540年)『彌沙塞部和醯五分律』
○「僧要」(635~639年)『四分律』

(注)
①『二中歴』は鎌倉期初頭に成立した辞典で、その中の「年代歴」冒頭には、「継体」から「大化」まで31個の九州年号が掲載されている。同書は九州年号群史料としては現存最古。九州年号研究の基本資料である。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(1985)。ミネルヴァ書房版、55~59頁。
③古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
④ウィキペディアによれば、十誦律(じゅうじゅりつ)とは、仏教教団における規則や作法、戒律などをまとめた律書のひとつで、四分律・五分律・摩訶僧祇律とともに四大広律のひとつに上げられている。404年から409年にかけて弗若多羅・鳩摩羅什によって漢訳され、61巻からなる。


第2515話 2021/07/09

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (11)

 ―九州年号「僧聴」の出典は『五分律』か―

 『大正新脩大蔵経』を対象とした九州年号出典調査は、「僧要」(635~639年)、「蔵和」(559~563年)に続いて、「僧聴」(536~540年)へと入りました。「僧聴」使用例の検索では、『佛説長阿含經』を始め、多くの経典がヒットしましたので、普通に使用されている仏教用語と思われます。ですから、九州王朝がどの経典から「僧聴」を年号として採用したのかは判断し難いのですが、それでも興味深い史料状況がありました。
 それは、『彌沙塞部和醯五分律』(『五分律』とも呼ばれる)に「大徳僧聽」という用例で繰り返し使用されていることです。「巻三」だけでも下記の通りです。当該部分を抜粋します。

○『五分律卷第三』
 「差一比丘白言。大徳僧聽。今此陀婆比丘欲爲僧作差會及分臥具人。若僧時到僧忍聽。白如是。大徳僧聽。此陀婆比丘欲爲僧作差會及分臥具人。」
 「一比丘唱言。大徳僧聽。此彌多羅比丘尼自言陀婆汚我。僧今與自言滅擯。若僧時到僧忍聽。白如是。大徳僧聽。此彌多羅比丘尼自言陀婆汚我。」
 「一比丘唱言。大徳僧聽。今差舍利弗往調達衆中。作是言。若受調
達五法教者。彼爲不見佛法僧。若僧時到僧忍聽。白如是。大徳僧聽。今差舍利弗往調達衆中。」
 「一比丘唱言。大徳僧聽。此某甲比丘爲破和合僧勤方便。」
 「若不捨復應唱言。大徳僧聽。此某甲比丘爲破和合僧勤方便。」
 「一比丘唱言。大徳僧聽。此某甲比丘行惡行汚他家。行惡行皆見聞知。汚他家亦見聞知。僧今驅出此邑。若僧時到僧忍聽。白如是。大徳僧聽。此某甲比丘。」

 『五分律』三十巻全体では、検索でヒットした「僧聽」(「大徳僧聽」の他に「阿夷僧聴」等も含む)は168件に及びました。先に「僧要」の出典と推定した『四分律』と共に、仏典の中でも九州年号は「律」からの採用が多いのかもしれません。この点、何か理由があるはずですので、留意したいと思います。
 なお、ウィキペディアなどによれば、「五分律」とは、仏教における上座部の一派である化地部によって伝承された律のことで、十誦律、四分律、摩訶僧祇律と共に、「四大広律」と呼ばれるとのこと。『彌沙塞部和醯五分律』は佛陀什と竺道生(355?~434年)らにより漢訳されたものです。竺道生は、東晋末期から劉宋期において中心的役割を果たした仏教哲学者とされています。(つづく)


第2514話 2021/07/08

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (10)

九州年号「蔵和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か

 『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)を利用して、九州年号「僧要」(635~639年)に続いて、九州年号「蔵和」(559~563年)の出典を調べました。検索すると多くの経典がヒットしますが、その多くが「三蔵和尚」「三蔵和上」などで、その他に「○○蔵和合」(菩薩蔵和合、如来蔵和合、衆生蔵和合、地蔵和合、他)もありました。いずれにしても単語や文章中の二文字です。しかし、九州王朝(倭国)の時代、七世紀以前の漢訳となりますと、次の経典が検索されました。

○『佛説大乘菩薩藏正法經卷第二十』竺法護 訳
 「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」

 ウィキペディアによれば、竺法護(じく ほうご、239~316年)は西晋時代に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典にたずさわった代表的な訳経僧とのこと。別に敦煌菩薩、月氏(または月支)菩薩、竺曇摩羅刹とも称され、漢訳した経典は約150部300巻に及ぶとあります。
 九州年号「蔵和」の出典がこのような経典でしたら、『万葉集』「梅花の歌」序文中の漢字二文字を〝集成〟した「令和」(注②)と同様に、九州王朝も経典内の「大菩薩藏」と「和合」の二つの単語から、その末尾と冒頭の二文字を〝集成〟して「蔵和」という年号にしたことになります。この理解が正しいかどうか断定はできませんが、一仮説として提起したいと思います。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。
②現在の年号「令和」(2019年~)は、『万葉集』巻五「梅花の歌」序の一節「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」を出典とする。


第2513話 2021/07/07

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (9)

 九州年号「僧要」の出典は『四分律』か

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から紹介していただいた『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)のおかげで、連日のように発見が続いています。
 たとえば、九州年号には仏教関連の用語や漢字が多用されていますが、それらの九州年号の出典はおそらく仏典ではないかと、わたしは推定していました。しかし、膨大な仏典を調べることは大変な作業のため、なかなか調査に取り組めなかったのですが、今回、大蔵経検索サイトを利用して、九州年号の出典を片っ端から調べています。その成果の一端をご披露します。
 かなり確実な安定した成果として、九州年号「僧要」(635~639年)のケースがあります。「僧要」で検索するといくつかの経典がヒットしますが、その中で最も可能性が高いのが『四分律』六十巻で、そこには次の「僧要」用例がありました。

○『四分律卷第四十六三分之十』
 「隨如法僧要。隨如法僧要不違逆。如法僧要不入違逆説中。(中略)如法僧要、如法僧要違犯、如法僧要呵説。入如法僧要呵説中。」
 「云何如法僧要不隨。如因縁相貌。如法僧要不隨、比丘見此相貌。知此比丘、如法僧要不隨。若不見此比丘、如法僧要不隨。聞彼某甲比丘如法僧要不隨。(中略)云何如法僧要違逆如因縁相貌。如法僧要違逆。比丘見此相貌。知此比丘如法僧要違逆。若不見此比丘如法僧要違逆。聞彼某甲比丘如法僧要違逆。(中略)某甲比丘如法僧要違逆。(中略)某甲比丘入如法僧要違逆説中。」

○『四分律卷第六十第四分之十一』
 「隨如法僧要。如法僧要不呵。不隨如法僧要呵説中。」

 このように「僧要」の文字が集中して現れます。この「僧要」の教義上の正確な意味はわかりませんが、〝僧の求め〟のようなことでしょうか。ご存じの方があれば、ご教示下さい。
 『四分律』とは僧侶の戒律として伝えられたもので、罽賓国の僧、佛陀耶舎らにより東晋代に漢訳されています。「オンライン版 仏教辞典」(注②)には次のように解説されています。一部抜粋します。

【四分律】
〔漢訳〕『四分律』六十巻は、カシュミール(罽賓)の佛陀耶舎が、四分律を暗記して長安に来て、自己の暗記に基づいて訳した。訳時は410~412年のことである。
〔特徴〕四分律は曇無徳部、すなわち法蔵部が伝えた広律である。中国における律学は、はじめは鳩摩羅什などが訳出した説一切有部の十誦律が主流を占めていたが、北魏仏教の隆盛と共に慧光(468~537年)らが四分律を宣揚し、その系統に道宣が出るに及んで全土を風靡するに至った。道宣の起こした律宗を〈南山(律)宗〉と呼び、日本律学の実質的な祖と目される鑑真もこの系統に属する。したがって本書は日本や中国の律宗の原典というべき特に重要な位置にある。

 以上のように説明されており、仏教教団にとって重要な律書のようです。なお、「四分律六十巻」は僧要年間に伝来した一切経『歴代三宝紀』(注③)にも小乗経典として収録されており、九州王朝(倭国)に伝わったていたことは確実と思われます。ただ、九州年号の「僧要」改元(635年)までに伝わっている必要があり、『歴代三宝紀』よりも先に伝来していたことになります。こうして、九州王朝(倭国)の仏典受容史の一つを明らかにし得たのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。
②「オンライン版 仏教辞典」 http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%A4
③隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。九州王朝(倭国)へ僧要年間(635~639年)に伝来したことが『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に見える。


第2512話 2021/07/06

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (8)

  後漢代に漢訳された阿弥陀経典『般舟三昧経』

 『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)で見つけた支謙訳「阿弥陀経二巻」(注②)でしたが、内容を精査したところ、残念ながら「命長七年文書」(注③)の語句とは異なっていました。関係する部分は次の通りです。

○「命長七年文書」
         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

○『佛説阿弥陀經巻下』(支謙訳「阿弥陀経二巻」)
 「如是法者。當一心念欲往生阿彌陀佛國。晝夜十日不斷絶者。壽命終即往生阿彌陀佛國。」

 このように、「名号称揚」と「當一心念欲往生阿彌陀佛國」、「七日」と「晝夜十日」と、両者は修行の内容やその期間が全く異なっており、直接的な影響関係はうかがえません。他方、参考になったのが『印度学仏教学研究』(注④)に掲載された眞野龍海氏の論文「小阿彌陀經の成立」でした。同論文には次の阿弥陀経典が紹介されていました。

Ⅰ『般舟三昧経』一巻経(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅱ『般舟三昧経』三巻経(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅲ『抜陂菩薩経』(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅳ『無量寿経』(魏代、康僧鎧訳)
Ⅴ『仏説阿弥陀経』(後秦、鳩摩羅什訳)
Ⅵ『大方等大集経賢護分』(隋代、闍那崛多訳)
 ※()内は略称。

 眞野論文はこれらの経典の成立年代・成立順位について論じたものですが、それは漢訳年代の先後関係ではなく、漢訳の元本(サンスクリット原文等)の成立順位についてです。なお、九州王朝に伝来した一切経『歴代三宝紀』(注⑤)にはⅠⅡⅣⅥが収録されています。また、「命長七年文書」と類似する部分は次の通りです。

Ⅰ『般舟三昧経』一巻経
 「一心念之。一日一夜若七日七夜。過七日已後見之。」
Ⅱ『般舟三昧経』三巻経
 「一心念若一晝夜。若七日七夜。過七日以後。見阿彌陀佛。」
Ⅲ『抜陂菩薩経』
 「淨心念一日一夜至七日七夜。如是七日七夜畢念便可見阿彌陀佛。」
Ⅳ『無量寿経』
 「皆積衆善無毛髮之惡。於此修善十日十夜。」
Ⅴ『仏説阿弥陀経』
 「聞説阿彌陀佛。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿彌陀佛。」
Ⅵ『大方等大集経賢護分』
 「或經一日或復一夜。如是或至七日七夜。如先所聞具足念故。是人必覩阿彌陀如來應供等正覺也。」

 以上のように、「名号」「七日」「阿弥陀仏」の語はありますが、「命長七年文書」に見える「名号称揚」の語は、今回の調査でも見つかりませんでした。しかしながら、『般舟三昧経』などに〝釈迦の時代のインドにおける二倍年歴(二倍年齢)の痕跡〟を発見することができました。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。同サイトには『大正新脩大蔵経』の影印画像ファイルも収録されていることに気づいた。研究者にとっては有り難い機能である。
②『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷上』『佛説阿弥陀經巻下』の二巻。
③『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立に集録。
④『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。本書を京都府立洛彩館の方に紹介いただいた。
⑤隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。九州王朝(倭国)へ僧要年間(635~639年)に伝来したことが『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に見える。


第2511話 2021/07/05

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (7)

 現存していた支謙訳「阿弥陀経二巻」

 膨大な『大正新脩大蔵経』の調査と漢字だらけの経典読解に悪戦苦闘していたわたしに、強力な〝助っ人〟が現れました。西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からご紹介いただいた『大正新脩大蔵経』の全文デジタルデータによる検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)です。
 この検索機能のおかげで、『大正新脩大蔵経』調査のスピードが劇的にアップし、しかも正確になりました。それまで行っていた調査作業(自転車で洛彩館に行き、『大正新脩大蔵経総索引』からめぼしい経典を探し、その分厚い収録巻を書庫から何冊も出してもらい、当該経典を読み、必要な箇所をコピーし、それを自宅に持ち帰り、繰り返し読む)が自宅のパソコンで可能となったのです。研究者として、便利な時代に生まれたもので、なんとありがたいことか。しかし、最終的には『大正新脩大蔵経』を本で読まなければなりません。経典全体の雰囲気(文字配列、細注などの状況)や新旧字体の確認が学問研究には不可欠だからです。
 早速、このサイトで「支謙」「阿弥陀経」のキーワード検索したところ、『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷上(佛説阿彌陀經上)』『阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經下(佛説阿彌陀經下)』がヒットしました。この経典名には見覚えがありました。『歴代三宝紀』巻第五(注②)にある支謙訳「阿弥陀経二巻」の細注に「内題云阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經亦云無量寿經見竺道祖呉録」とあり、「阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經」「無量寿經」の内題・別名を持っているのです。この内題と「支謙訳」「二巻本」であることが一致しており、『歴代三宝紀』の「阿弥陀経二巻」と検索でヒットした『阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經上下巻』とは同じ経典と見てよいと思います。
 力強い〝助っ人〟のおかげをもって、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』中にある支謙訳「阿弥陀経二巻」を発見することができました。改めて、検索サイトをご紹介いただいた西村さんに感謝します。九州王朝(倭国)の仏典受容史研究は飛躍的に進展することでしょう。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
②隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。


第2510話 2021/07/04

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (6)

 『歴代三宝紀』にあった支謙訳「阿弥陀経二巻」

 九州年号の僧要年間(635~639年)に九州王朝(倭国)へ伝来したと思われる一切経『歴代三宝紀』(費長房撰述。1076部、3292巻)に鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』(402年頃訳出)を見つけることができずにいたのですが、『印度学仏教学研究』(注①)に掲載された眞野龍海氏の論文「小阿彌陀經の成立」によれば、鳩摩羅什訳よりも古い求那跋陀羅訳の「阿弥陀経」があるとのこと。そこで、『歴代三宝紀』の鳩摩羅什よりも前を重点的に探し直したところ、魏の文帝の時代(220~226年)に「阿弥陀経二巻」という記述を見つけることができました。その解説部分には「魏文帝世。月支國優婆塞支謙」とあり、月支國の僧、支謙が漢訳したとされています。同解説によれば支謙は「百二十九部百五十二巻」の経典を訳しており、その時代を代表する訳経僧だったようです。
 残念ながら、支謙訳「阿弥陀経二巻」そのものを見つけることはまだできておらず、内容を知ることができません。現存していないのかもしれません。
 九州王朝内で成立したと思われる「命長七年文書」(646年成立。注②)が「阿弥陀経」の影響を色濃く受けていることは確かですから、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』に含まれている支謙訳「阿弥陀経二巻」の影響を受けた可能性が出てきました。確かに、そう考えた方が良いと思われることがあります。それは「命長七年文書」と鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』とでは使用されている用語に異なる部分があるからです。

○「命長七年文書」
         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

○鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』
 「舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。」

 「命長七年文書」では「名号称揚」、『仏説阿弥陀経』では「執持名号」とあります。すなわち、「命長七年文書」では「斑鳩厩戸勝鬘」自身が七日間にわたり「名号称揚」(阿弥陀仏の名前を褒め称える)したと読めますが、『仏説阿弥陀経』では〝善男子や善女人が、阿弥陀仏を説くことを聞き、一心不乱に七日間「執持名号」すれば〟という内容であり、「執持名号」とは〝阿弥陀仏の名前を作意(思惟)する〟の意味とされています(注③)。従って『仏説阿弥陀経』の文章から、「名号称揚」という表現は生じにくいのではないでしょうか。
 こうした理由から、九州王朝に伝わった「阿弥陀経」は鳩摩羅什訳ではなく、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』に含まれた支謙訳「阿弥陀経二巻」ではないかと推定するにいたりました。もちろん、支謙訳「阿弥陀経二巻」の内容が不明ですので、断定することはできません。なお、先に『歴代三宝紀』に『仏説阿弥陀経』が見つからないとしたのは不正確でした。「鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』は見つからない」に訂正します。(つづく)

(注)
①『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。本書を京都府立洛彩館の方に紹介いただいた。
②『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立に集録。
③ワイド版岩波文庫『浄土三部経(下)』(岩波書店、1991年)175頁の解説による。


第2508話 2021/07/02

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (5)

  僧要年間(635~639年)に伝来した一切経

 昨日、洛彩館(京都市左京区)に行き、「如意宝珠」関連経典(『大宝積宝経』『大乗理趣六波羅密多経』『雑宝蔵経』)精査のため、『大正新脩大蔵経』を閲覧しましたが、それ以外にも目的がありました。九州年号の僧要年間(635~639年)に九州王朝(倭国)へ伝来した一切経『歴代三宝紀入蔵録』(費長房撰述。1076部、3292巻)の閲覧調査です。
 『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に次の記事があります。

 「自唐一切経三千余巻渡」

 僧要年間(635~639年)に「唐より、一切経三千余巻が渡った」とあり、この一切経は隋代(開皇十七年、597年)に成立した『歴代三宝紀』(費長房撰述。1076部、3292巻)に時代も巻数も対応しています。ありがたいことに、この『歴代三宝紀』は現存しており、『大正新脩大蔵経』に収録されています。ですから、同書を調べれば、そのときに九州王朝にもたらされた経典を明らかにできるわけです。
 この大量の経典名が記された『歴代三宝紀』を精査したのですが、当然、あるはずと考えていた経典が見つかりません。「洛中洛外日記」2506話(2021/06/30)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史 (3) ―九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』―〟で論じた『仏説阿弥陀経』が見あたらないのです。九州王朝内で成立したと思われる「命長七年文書」は『仏説阿弥陀経』の影響を色濃く受けていることから、命長七年(九州年号、646年)までには九州王朝へ伝わっていたはずです。恐らくは『二中歴』「年代歴」に記されているように、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経に含まれている可能性が高いと判断していたのです。
 『歴代三宝紀』全十五巻は、一巻から三巻までは年表になっており、周代から隋代まで各王朝の年表(干支・年号・王名)に経典関連記事などが付されています。『仏説阿弥陀経』は鳩摩羅什(注①)により漢訳されていますので、その時代が含まれる巻三「帝年下魏晋宋齊梁周大隋」の鳩摩羅什関連記事や、後秦(姚秦)時代の経典名が集録された巻八「譯経苻秦姚秦」、更には大乗仏典の総目録である巻十三「大乗録入蔵目」も探しましたが、みつかりませんでした。もちろん、僧要年間の一切経伝来とは別に『仏説阿弥陀経』が伝わっていたという可能性もありますが、それにしても著名な経典『仏説阿弥陀経』が『歴代三宝紀』に見えないことを不思議に思いました。
 そのようなとき、洛彩館の方に紹介された『印度学仏教学研究』(注②)が思わぬ視点と知見を与えてくれました。(つづく)

(注)
①ウィキペディアによれば、鳩摩羅什(くまらじゅう。344~413年、一説に350~409年)は、亀茲国(きじこく。新疆ウイグル自治区クチャ市)出身の西域僧。後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した。玄奘と共に二大訳聖と言われ、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
②『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。


第2358話 2021/01/25

『嘉穂郡誌』の「天智天皇」伝承

 兵庫県立図書館から取り寄せていただいた『嘉穂郡誌』(注①)を拝読しています。同書中の同郡各村の沿革や寺社紹介を一読して、同地方は神功皇后伝承と八幡宮が多いことを知りました。神武天皇が同郡を通ったという神武伝承も散見されます。他方、九州王朝の痕跡は表面的にはほとんど見当たらず、「白鳳三甲戌年三月」(注②)開基とする同郡頴田村の郷社多賀神社が見えるくらいでした。引用されている『嘉穂郡神社明細帳』によれば次のようです。

 「(由緒)當社は白鳳三甲戌年三月若木連と云、(ママ)人下舛村上ノ山に勧請し北斗宮とす、其後八百五十有餘年を経て、天文元壬辰年仲秋當地に遷す、天正六年社殿兵焚に罹り神體を裏田に遷す、天正八年迄三ヶ年大楠の空洞に鎮座せしむ、同九年再び社殿を建築して當地に遷す、秋月孫右衛門大蔵種眞、神器祭田等寄附す、明治五年十一月三日村社に定めらる、下益神社と稱し本郡下益村々社なりしを、同十五年九月八日該村を廢し大隈町に合併す。(嘉穂郡神社明細帳)」『嘉穂郡誌』780頁

 ここに秋月孫右衛門大蔵種眞という人名がみえますが、この「大蔵種眞」は、七世紀中頃(孝徳の時代)に百済から渡来した高貴王(阿多倍)の末裔で注目されます。同じく、桂川村々社老松神社の社殿再興を記した棟札に「大願主太宰大監大蔵朝臣種貞」の名前が見えます。この棟札には「暦應元年」(1338年)と年次も記されており、大蔵氏は十四世紀に太宰大監の官位を称していたことがわかります。
 大蔵氏の同族の千手(せんず)氏は、「天智天皇」の家臣という伝承を持っており(注③)、今回の『嘉穂郡誌』閲覧もその調査が目的でした。しかしながら、既に調べていた『筑前国続風土記』以上に詳しい伝承はあまり見当たりませんでした。

 「千手
 村中に千手寺あり。これに依て村の名とす。本尊千手観音也。此寺山間にありて閑寂なる境地也。其側に石塔有。里民は天智天皇の陵なり。天智天皇の御子に嘉麻郡を賜りし事あり。其人天皇の崩し玉ふ後に、是を立給ふといふ。然れども梵字なと猶(なお)さたかに見ゆ。さのみ久しき物には非ず。いかなる人の墓所にや。いふかし。(後略)」貝原益軒『筑前国続風土記』巻之十二 嘉麻郡(昭和60年版)

 今回の『嘉穂郡誌』調査では、千手寺の項の次の解説に興味を引かれました。

 「(前略)現在の本尊は千手氏の安置するものにて、天智帝より賜りたるものは、千手氏日向の國高鍋に持参せるものと傅ふ。(嘉穂郡寺院明細帳)」『嘉穂郡誌』932頁

 豊臣秀吉の九州征伐に敗れた秋月氏に随って千手氏は日向国高鍋に移封されますが、そのときに「天智天皇」から賜った仏像を持参したとあります。九州王朝説に立てば、九州王朝の天子筑紫君薩野馬からもらった仏像という可能性もあり、今も宮崎県の千手家に伝わるのであれば、是非、拝見させていただきたいものです。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②「白鳳三年甲戌」は天武元年(672年)を「白鳳元年」とした後代改変型の九州年号である。本来の九州年号の白鳳三年の干支は癸亥(663年)であり、甲戌(674年)は白鳳十四年である。本来の開基伝承がどちらであるのかは未詳とせざるを得ない。
③古賀達也「洛中洛外日記」2326話(2020/12/18)〝九州王朝の家臣「千手氏」調査〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟


第2323話 2020/12/16

新井白石の学問(1)

 小林秀雄さんの『本居宣長』を読んでいますと、段の「三十一」に新井白石(1657~1725年)について紹介されていました。そこには安積澹泊(あさか たんぱく、1656~1738年)や佐久間洞巌(さくま どうがん、1653~1736年)の名前が見え、懐かしく思いました。二十年ほど前に九州年号研究史の調査をしていたとき、京都大学文学部図書館で新井白石全集を読んだのですが、そのときに知った名前です。その調査に基づいて〝「九州年号」真偽論の系譜 新井白石の理解をめぐって〟(注①)を発表しました。
 白石は九州年号真作説ですが、九州年号を『日本書紀』から漏れた大和朝廷の年号と理解していました。ちなみに、偽作説の急先鋒だったのが筑前黒田藩の儒家、貝原益軒(1630~1714年)でした。江戸時代の方が九州年号について自由に学問的に論議しており、現在の学界とは大違いです。
 白石は九州年号について、水戸藩の知人、安積澹泊宛書簡で次のように問い合わせています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』(注②)という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻、284頁。古賀による現代語訳)

 このように、九州年号を偽作として無視する現代の日本古代史学界よりも、江戸時代の白石の姿勢の方が学問的態度ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「『九州年号』真偽論の系譜 新井白石の理解をめぐって」(『古田史学会報』60号、2004年2月5日)。後に『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、2012年、ミネルヴァ書房)に転載。
②『海東諸国紀』(申叔舟著、1471年)には次の九州年号が記されている。
 「善化」「発倒」「僧聴」「同要」「貴楽」「結清」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴」「煩転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和」「大長」(『海東諸国紀』岩波文庫)


第2213話 2020/08/25

アマビエ伝承と九州王朝(2)

 流行病を防ぐというアマビエ伝承に、わたしが関心を持ったのは九州王朝史研究において古代の感染症(天然痘など)記事が見出されたことによります。たとえば、九州年号史料に「老人死す」という記事が見え、それがどのような事件を意味するのか不明だったのですが、新型コロナウィルスによる高齢者の死亡や重症化が多いことから、同記事は感染症発生の痕跡ではないかと考えました。

①『二中歴』「年代歴」
 「蔵和」(559~563年)「此年老人死」

②『田代之宝光寺古年代記』
 「戊刀兄弟 天下芒鐃ト言 健軍社作始也 老人皆死去云々」
 ※「戊刀」は「戊寅」(558年)のこと。

 ①『二中歴』の九州年号「蔵和」の細注に「此年老人死」とあります。しかし、「此年」が「蔵和」年間(559~563年)のどの年のことか不明ですし、「老人」は特定の人物なのか、老人一般のことなのかもこの記事からはわかりません 。
 他方、②『田代之宝光寺古年代記』には九州年号「兄弟」(558年)の年の記事中に「老人皆死去」があり、「皆」とありますから、「老人」は特定の人物ではなく、やはり新型コロナの様な伝染病が発生し、「老人が皆死去した」と理解するのが穏当のように思われます。
 更にこの記事の前半部分「天下芒鐃ト言 健軍社作始也」は熊本市の健軍神社創建記事であることから、この「老人皆死去」という記事の場所も肥後地方のことと考えるべきでしょう。ちなみに、「田代之宝光寺」は鹿児島県肝属郡田代村にあったお寺のようですから、『田代之宝光寺古年代記』に記された同記事の舞台は肥後地方とする理解が支持されています。
 この記事以外にも、九州年号「金光」(570~575年)のときにも天下に熱病が流行ったため、仏像(善光寺如来)が百済から贈られてきたり、厄除けのために九州王朝で四寅剣(福岡市元岡遺跡出土)が作刀されたことが、正木裕さんの研究により明らかとなっています(注)。
 この肥後国を舞台とした健軍神社創建や流行病発生の記憶が、今回のアマビコ(アマビエ)伝承の淵源にあるのではないかと、わたしは考えたのです。(つづく)

(注)
 正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」(『古田史学会報』一〇七号、二〇一一年十二月)
 古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(同上)
 古賀達也「金光元年(五七〇)の『天下熱病』」(「洛中洛外日記」八四八話 二〇一五年一月三日)
 正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」(『古田史学会報』一五七号、二〇二〇年四月)
 古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」(『東京古田会ニュース』一九三号、二〇二〇年七月)