九州年号一覧

第2100話 2020/03/04

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(2)

 鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの指摘に基づき国内の古代史料を調査したところ、先に紹介したように法隆寺釈迦三尊像光背銘や『法華義疏』のように、九州王朝系史料に「撥(はね)型」が認められました。このことは九州王朝の時代の七世紀ではこの書体が流行だったのではないでしょうか。
 特に『法華義疏』冒頭の「上宮王」という署名の「宮」がこの「撥型」であることは、九州王朝の上宮王(多利思北孤か)自身がこの筆法を採用していたことを示します。更に、法隆寺釈迦三尊像光背銘も「上宮法皇」(多利思北孤)のためのものですから、「撥型」が当時の九州王朝公認の筆法と考えてよいと思われます。
 それではこの筆法はいつ頃どこから伝わったのでしょうか。そこで、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を調査しました。(つづく)


第2099話 2020/03/03

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)

 「洛中洛外日記」2097話(2020/03/01)「三十年ぶりの鬼室神社訪問(8)」において、鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの新説を紹介しました。それは同碑文の「室」の字のウ冠二画目が、筆を勢いよく抜き、先端が細く尖った「撥(はね)型」〔ノ〕となっており、この筆跡は古代に見られるというものでした。
 確かにウ冠の2画目やワ冠の一画目が左下へ鋭く撥ねている筆跡は珍しく、古代史料でもそれほど多くはありません。八世紀以降や中近世になれば「押(おし)型」〔丨〕が普通となり、「撥型」は更に珍しい筆跡となっています。そこで、古代の書跡が収録された『書道全集9』(平凡社、昭和46年版)を改めて精査したところ、収録された古代書跡中に、次の「撥型」の字がありましたので紹介します。

○法隆寺釈迦三尊像光背銘(国宝、623年)
 「上宮法皇」「三寶」「當」「勞」
 下に撥ねています。

○『法華義疏』(御物)
 「寶」「窮」 ※「宮」
 左下へ鋭く短く撥ねています。
※冒頭署名の「上宮王」の「宮」は同書では判別できませんが、ネット上の写真や他の本では左下へ撥ねています。

○『千手千眼陀羅尼経』(国宝)「天平十三年」(741年)
 「密」「受」
 左下へ鋭く短く撥ねています。


第2097話 2020/03/01

三十年ぶりの鬼室神社訪問(8)

 鬼室集斯墓碑江戸期偽造説を見事に否定された胡口康夫さんご自身は「鬼室集斯墓碑をめぐって」(『日本書紀研究』第十一冊、1979年)において、同墓碑は「平安時代中期以降のある時期」に鬼室集斯の子孫たちにより「小野で造立された」とされ、「平安時代後期から鎌倉時代後期の可能性がかなり高いものとしてさほど誤りはないのではなかろうか」と結論付けられました。
 その根拠として、同墓碑のような八面体の造形が現れたのが平安時代後期を上限として、鎌倉時代後期には石造の八面体の造形が確立していることや、「朱鳥三年戊子」のように干支(戊子)を小文字で横書きにする最古の例が天慶九年(946)であり、鎌倉時代にもっとも多く普通になり、次の南北朝・室町時代になると少なくなることを示されました。
 ところが、『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、1996年)に収録された新しい論文「鬼室集斯墓碑再考Ⅱ―筆跡から見た墓碑―」において、造立時期が古代まで遡る可能性を示唆されたのです。墓碑造立時期が古代まで遡る可能性の根拠として、墓碑の「室」の筆跡に胡口さんは着目されました。
 碑文の「室」という字のウ冠の第二画が筆を勢いよく抜き先端が細く尖った「撥(はね)形」になっていることを指摘され、これは古代に多くみられる筆跡であることから、現地の金石文調査や古代金石文との比較調査を精力的に行われました。その結果、日野地域に存在する中近世金石文には「撥形」がほとんど見られず、逆に国内各地に存在する古代金石文に多く見られる傾向であることを確認されたのです。そしてその結論として、自説の鬼室集斯墓碑の平安後期から鎌倉後期造立説に加えて、「筆跡から考察すると造立年代を古代にまで遡らせる可能性があながち否定できない」とされるに至ったのでした。
 この新視点は画期的です。わたしは論理上から同時代金石文と見て問題ないと考えたのですが、胡口さんの筆跡研究による新視点は、同碑を古代墓碑と見るべきという積極的論点だからです。実証的研究を重視される胡口さんならではの研究成果と言えそうです。(つづく)


第2096話 2020/03/01

三十年ぶりの鬼室神社訪問(7)

 鬼室集斯墓研究の第一人者、胡口康夫さん(1996年当時、神奈川県立相模台工業高校教諭)は『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、1996年)において、鬼室集斯墓碑江戸期偽造説を否定する新発見の史料を紹介されました。それは、村井古厳『古廟陵併植物図』という史料です。そこには当八角石の初見記事があり、「人魚墓 文字有不見 八角高サ墓トモ二尺二三寸」と記されています。
 『古廟陵併植物図』は『西遊旅譚』より早く成立しており(村井古厳は天明六年に没している)、司馬江漢は村井古厳の『古廟陵併植物図』を知っていた可能性が高いことも指摘されました。「八角」の「人魚墓(鬼室集斯墓碑)」に「文字有不見」とする、この新史料の発見により、同墓碑の江戸期偽造説は完全に否定されたのです。
 ところが、胡口さんの『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』には、更に驚くべき画期的な研究結果が記されていました。(つづく)


第2095話 2020/02/29

三十年ぶりの鬼室神社訪問(6)

 約三十年前、わたしが鬼室集斯墓碑の研究を始めた頃、同墓碑研究の先学の存在を知りました。胡口康夫さんという研究者です。実地調査に基づく実証的な研究を得意とされる方で、その論文「鬼室集斯墓碑をめぐって」(『日本書紀研究』第十一冊、1979年)に興味深い史料が紹介されていました。それは胡口さんが現地調査により見いだされたもので、鬼室集斯の末裔を称しておられる日野町小野の辻久太郎家に伝わる『過去帳』の次の記事です。

「鬼室集斯が庶孫ニシテ室徒中ノ
 筆頭株司ナリ代々庄屋ヲ勤メ郷士
 トシテ帯刀御免ノ家柄ナリ名ハ代々
 久右衛門ト称ス
 近江国蒲生郡奥津保郷小野村
 ノ住人(略)
       辻久右衛門尉
 宝永三年(一七〇六)正月 釈 念心」

 この『過去帳』などから、小野では鬼室集斯の末裔が鬼室神社の氏子や神職として代々続いていたことが判明したのです。
 その後、わたしと胡口さんとの間で学問的交流が始まり、著書『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、1996年)を贈呈していただきました。その中に、鬼室集斯墓碑江戸期偽造説を否定する新発見の史料が紹介されていました。(つづく)


第2094話 2020/02/29

三十年ぶりの鬼室神社訪問(5)

 紹介してきた瀬川欣一さんによる鬼室集斯墓碑江戸期偽造説は、坂本林平の『平安記録楓亭雑話』や司馬江漢の『江漢西遊日記』を史料根拠として実証的に成立しており、簡単には否定し難い有力なものでした。しかし、それでも古田先生とわたしは論理的考察(論証)の結果から、偽造説に納得できませんでした。それは次のような考え方によります。
 偽造説では、偽造者がわざわざ疑われるような『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記したりするだろうか、という基本的な疑問をうまく説明できない(『日本書紀』では朱鳥は元年で終わっている)。すなわち、偽造者を『日本書紀』天智紀の鬼室集斯を知っている博学な知識人とする一方で、『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記す「うかつ者」とする、矛盾した人格に仕立て上げる「無理」を偽造説では回避できません。
 従って、わたしたちは論理の上から、同墓碑は七世紀末に成立した同時代金石文と見て問題ないという立場にこだわったのです。この研究姿勢こそ、村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」ということに他なりません。そして、この論証を支持する史料根拠を探し求めました。そこで、「発見」したのが司馬江漢の『西遊旅譚』です。
 司馬江漢は『江漢西遊日記』とは別に、この時の旅行記を『西遊旅譚』として刊行しています。同書は旅行から帰った翌年の寛政二年(一七九〇)四月に出版のための原稿が成立しており、その年に出版されているようです。その『西遊旅譚』の日野に立ち寄った当該記事には、この八角石について「人魚墳八方なり文字あれども見えず」と記しているのです。すなわち、文字があったと司馬江漢は述べているわけで、「文字見えず」あるいは「文字ナシ」とした『江漢西遊日記』とは異なっています。史料の信憑性から見れば、旅行から帰った翌年に成立した『西遊旅譚』に比べ、『江漢西遊日記』の成立は文化十二年(一八一五)、『西遊旅譚』に遅れること二五年であり、司馬江漢最晩年のものです(司馬江漢の没年は文政元年、一八一八)。したがって、旅行と刊行時期が近い『西遊旅譚』の方が信頼性が高いのです。
 こうした史料成立状況から見れば、江漢晩年発刊の『江漢西遊日記』の記事をもって、八角石に文字無しと決めつけるのは不適切です(この件については、後に紹介する胡口康夫氏の『近江朝と渡来人–百済鬼室氏を中心として』雄山閣刊、一九九六年十月、にも同様の指摘がなされています)。こうして、江戸期偽造説の根拠の一つを否定できる史料事実を見つけ出したのです。(つづく)


第2093話 2020/02/28

三十年ぶりの鬼室神社訪問(4)

 瀬川欣一さんの「鬼室集斯をめぐる謎」(『東桜谷志』日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)には、坂本林平『平安記録楓亭雑話』の記事の他にも、偽造の根拠として司馬江漢の『江漢西遊日記』も掲げられています。

〝江戸時代の洋風画家司馬江漢が、天明八年(一七八八)に江戸から長崎へ旅する途中、日野に立ち寄り、八月十二日にこの八角石を見に来ている。司馬江漢がこの旅のことを詳しく書き留めた『江漢西遊日記』という旅日記が後年刊行され、この石のことが次のように記されている。
 「夫れより田婦案内にて人魚塚を見んと行く事四五丁、路の傍に四角なる塚を指し示す。吾が聞く八角なりと云ふに、又一人の老婦来りて、此処より西の方不動堂の前に有りと教ふる。行き見るに小さき草葺きの堂あり。ガマの大樹ありて其傍ら八角の塚あり。是れ人魚塚なり。前に僅の流れあり蒲生河是れなり。人魚塚は八角にして文字見えず。高さ一尺一二寸、下の台石横一尺三寸位、また四角の塚は救世菩薩の塚といふ。」
 以上の記述が『江漢西遊日記』の本文部分であり、その時の江漢のスケッチ(別掲の図参照)にも八角石の解説として「文字ナシ」と記している。画家であり進歩的な科学者でもあった司馬江漢が、天明八年のこの時にかすかでも文字の形跡が、この珍しい八角石に彫られてあったとすれば「人魚塚は八角にして文字見えず」と日記に書くはずがなく、その文字を見落とすとは到底考えられない。
 この天明八年(一七八八)より十八年後の文化三年(一八〇六)に、西生懐忠が同輩の谷田輔長とともに、この八角石が鬼室集斯の墓であると発表するのである。しかも、この石を小野から仁正寺藩庁へ持ち運び、調査したら「鬼室集斯之墓」その他の文字が陰刻されていたとしている。現在でもそれらしく読める文字が、司馬江漢にも坂本林平にもなぜ読めなかったのか。それは仁正寺藩へ持ち帰った間に、何らかの工作がされたと考えてしかるべきではないだろうか。〟

 このように、司馬江漢と坂本林平の「証言」を根拠に、鬼室集斯墓碑は「発見者」の西生懐忠や谷田輔長による偽刻とする説が成立し、江戸時代偽造説が有力説として受け入れられました。(つづく)


第2092話 2020/02/27

三十年ぶりの鬼室神社訪問(3)

 九州年号「朱鳥三年」(688)が刻銘されている鬼室集斯墓碑は、江戸期文化二年(一八〇五)に仁正寺藩(のち西大路藩)の藩医西生懐忠(にしなりあつただ)らによって蒲生郡日野町小野から「発見」され、銘文が解読、広く世に紹介されました(発表は翌文化三年)。
 しかし、発見当時から偽造説が出され、真贋論争が勃発し、現在に至っています。たとえば蒲生郡の郷土誌『東桜谷志』(日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)所収、瀬川欣一さんの「鬼室集斯をめぐる謎」には次のような偽造の根拠が掲げられています。

〝西生懐忠と同時代の坂本林平という人が書き残した『平安記録楓亭雑話』に次の記事がある。
 「小野村の三町ばかり上み、西明寺へ行く道の左側の方に高さ三尺ばかりの自然石あり、昔より隣郷の里人人魚塚と言い伝えり、また同村西宮と称する社地に、高さ三尺に足らぬ子石立てり、是も人魚塚と唱へ来れり、然るに此石を西生と申す医、佐平鬼室集斯等の墓なりと申し出て、高貴の御聞に達し人を惑す罪軽からず、元より右の石は能くしりはべりしに文字は決してなし。本より拠なし、只此の辺石燈篭に室徒中とあり付ければ、是にて思い付きしならんか。」
 この記述でもわかるように、直接西生懐忠と出会っている坂本林平は、この石のことをよくよく前から知っており「文字は決してなし」と前に掲げた墓石の文字がこの時には無かったことを記し、鬼室集斯の墓でないと、この時にはっきりと否定している。〟

 このように、瀬川欣一さんは墓碑の「発見者」西生懐忠と出会っている坂本林平の証言「文字は決してなし」を偽造の根拠の一つとされました。(つづく)


第2091話 2020/02/26

三十年ぶりの鬼室神社訪問(2)

 三十年ほど前に古田先生と鬼室神社を訪れたのは、同神社に祀られている鬼室集斯墓碑の調査のためでした。雪が降るとても寒い日だったことを記憶しています。同墓碑には九州年号「朱鳥三年」(688)が刻銘されており、同時代九州年号金石文ではないかと、わたしたちは注目していました。当時は江戸時代に追刻されたとする偽造説が有力だったのですが、古田先生とわたしは真作ではないかと考えていました。
 そこで、鬼室神社を訪問し、社殿裏の石祠に祀られている同碑を拝見させていただきました。墓碑は高さ48.8cmのほぼ八角柱状で、頭部は擬宝珠状になっており、下部の水平断面は一辺約八〜九センチのほぼ正八角形です。石質は小野の石小山産黒雲母花崗岩とのことです。
 その前面と左右の計三面に、次のような文字が肉眼で確認できました。他の五面には文字は見えませんでした。
 その正面に「鬼室集斯墓」、向かって右側面に問題の「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。「殞」か〉」(戊子の二字は小字で横に並んでいる)、向かって左側面に「庶孫美成造」と彫られています。この刻銘をめぐって発見当時(江戸時代)から真偽論争が起きています。(つづく)

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉


第2090話 2020/02/25

三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)

 今日は仕事で滋賀県日野町へ出張しました。そのついでに近くにある鬼室神社を訪問しました。約三十年前に古田先生と訪れて以来となります。道路や神社も当時とは比較にならないほど整備されており、時の流れを感じました。
 鬼室神社がある蒲生郡日野町小野(この)の集落は、琵琶湖に注ぐ佐久良川の上流部川沿いの奥まった狭量の地にあり、なぜこんな所に近江朝廷に仕えた百済渡来の官人(学職頭)鬼室集斯(きしつ・しゅうし)の墓碑が祀られているのか不思議です。小野の集落には「人魚塚」と呼ばれている比較的小さな「石柱」もあり、今回、初めて拝見しました。このような山間部に「人魚塚」がある理由もよくわかりませんが、住民により古くから大切に祀られているようです。(つづく)


第2088話 2020/02/21

『元亨釈書』の「大化建元」記事

 観世音寺の創建を天平18年(746)とする通説の根拠の一つとされている『元亨釈書』に、年号に関して面白い表記がありますので、紹介します。
 「国史大系31」に収録されている『元亨釈書』巻第二十一「孝徳皇帝」の冒頭に次の記事が見えます。

 「元年、春正月。建元大化。」(『元亨釈書』巻第二十一)

 『日本書紀』には「改元」とされている「大化」ですが、『元亨釈書』では「建元」とされているのです。「建元」とはある王朝が最初に年号を建てることであり、それ以降に年号を改めることは「改元」とされます。『日本書紀』に記された最初の年号であるにもかかわらず、「改元」とされている「大化」は近畿天皇家の年号ではなく、九州王朝の年号であるとする論稿をこれまでもわたしは発表してきました。今春発刊される『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』(『古代に真実を求めて』23集、古田史学の会編、明石書店)にも拙稿「『大化』『白雉』『朱鳥』を改元した王朝」が収録されていますので、ご参照下さい。
 鎌倉時代の『元亨釈書』の編者は、『日本書紀』の「大化改元」記事を不審として、「大化」を「建元」と改定したものと思われます。同時に、『続日本紀』に「大宝建元」(701年)とされている記事については、次のように「改元」と改定しています。

 「三月甲午、改元大宝」(『元亨釈書』巻第二十一、文武四年条。701年)

 このように、『元亨釈書』には「大化」のみ「建元」とされ、他の年号は「改元」とされています。『日本書紀』や『続日本紀』の記述に従わない、かなり大胆な改定ですが、近畿天皇家一元史観の立場からは真っ当な改定です。すなわち、九州王朝や九州年号の存在が忘れ去られた鎌倉時代の認識に基づいて、古代史書の記述を改定するという方法がとられているのです。
 このことから、『日本書紀』『続日本紀』の「大化改元」「大宝建元」が、鎌倉時代の知識人にとって不自然に映っていたことがわかります。同様の現象は現在の年号関連書籍にも見て取れます。例えば所功編『日本年号史大事典』の次の記述です。

 〝日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。〟(第三章、54頁)
 〝『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。〟(127頁)
 所功編『日本年号史大事典』(平成二六年一月刊、雄山閣)

 この記述から、21世紀の今日まで近畿天皇家一元史観の影響が続いていることがわかります。恐らく、わが国で年号使用と改元が続く限り、『日本書紀』『続日本紀』の「大化改元」「大宝建元」記事の取り扱いに混乱が続くことでしょう。そして、そのことを合理的に説明できる古田先生の九州王朝説・九州年号説が、いつの時代においても古代史研究者の脳裏に蘇ることでしょう。


第2046話 2019/11/22

『令集解』儀制令・公文条の理解について(6)

 「庚午年籍」のような長期保管が必要な行政記録以外にも、後世に残すことを前提とした墓碑や墓誌銘にも九州年号の使用が許されていたのではないかとわたしは考えています。このことを示す史料を以下に紹介します。

○「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)
 『筑前国続風土記附録』に次のように紹介されています。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」(『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)

○「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)を参照してください。

○「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)を参照してください。

○法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。

 以上のように残された史料事実(木簡、詔報、墓碑等)から判断すれば、九州王朝律令には年号使用を定めた「儀制令」があり、その運用が「式」などで決められていたと思われるのです。(おわり)