「 難波宮 」一覧

第2132話 2020/04/11

南秀雄さんから「研究紀要」を頂きました

 昨年6月、I-siteなんばで開催された古代史講演会(「古田史学の会」共催)で、「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」というテーマで講演していただいた考古学者の南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)から『大阪市文化財協会 研究紀要 21号』(2020年3月)を御贈呈いただきました。
 同書には南さんらの論文「難波堀江の学際的検討」が掲載されています。同論文は『日本書紀』仁徳紀に記されている「難波堀江掘削」記事の実態に迫った学際的研究で、大阪の考古学者を始め地質学・堆積学・河川工学の研究者が参加されています。詳細については精読させていただいてから、紹介したいと思います。
 『古田史学会報』155号や「洛中洛外日記」の「法円坂巨大倉庫群の論理」1923~1927話(2019/06/16-20)でも触れましたが、昨年六月の南さんの講演で、わたしが特に注目したのは次の点でした。

 「古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。」

 古墳時代において、日本列島内最大規模の都市で七世紀には前期難波宮がおかれた大阪市上町台地北端と九州王朝の中枢地域である博多湾岸(比恵・那珂遺跡)が「国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」とする指摘は重要です。
 前期難波宮九州王朝複都説に反対される論者の中には、古代の筑紫と難波の関係を疑問視する意見もあるようですが、南さんら考古学者の指摘を無視することなく真摯に受け止めていただきたいと願っています。


第2073話 2020/01/30

難波京朱雀大路の造営年代(8)

 都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。更に、年代が経るにつれて尺が長くなるという一般的傾向とも両者の関係は整合しています。
 しかし、意外なことに大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺とそれよりも先に造営された太宰府条坊(井上信正説)の設計尺は、前者が29.6〜29.8cm、後者が29.9〜30.0cmと、わずかですがより古い条坊設計尺の方が大きいのです。ただし、両者の尺の推定値には幅がありますから、より正確な復元研究が必要で、現時点では不明とすべきかもしれません。しかしながら、652年に造営された前期難波宮設計尺(29.2cm)よりも大きいことから、前期難波宮と太宰府条坊の造営の先後関係については自説(太宰府条坊の造営を七世紀前半「倭京元年」頃とする)の見直しを迫られています。
 自説の見直しや撤回は学問研究においては避けられないことです。なぜなら、「学問は自らが時代遅れとなることを望む領域」(マックス・ウェーバー『職業としての学問』)だからです。わたしはこの言葉が大好きです。(おわり)


第2072話 2020/01/29

難波京朱雀大路の造営年代(7)

 今回のシリーズでは、使用尺の違いに着目して、前期難波宮造営勢力や造営工程を考察しました。この視点や方法論により、都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年や造営勢力の異同を推定することが可能なケースがあり、古代史研究に役立てることができそうです。
 ただし、そのためにはいくつかの条件とどのような手段で暦年とリンクさせ得るのかという課題がありますので、このことについて説明します。まず、この方法を安定して使用する際には次の条件を満たす必要があります。

①対象遺構が王朝を代表するものであること。例えば宮都や宮都防衛施設、あるいは王朝により創建された寺院などであること。これは使用尺が王朝公認の尺であることを担保するための条件です。
②使用尺の実寸を正確に導き出せるほどの精度を持った学術調査に基づいていること。かつ、必要にして十分な測定件数を有すこと。
 この点、藤原京からは造営当時のモノサシが出土しており、かつその尺(29.5cm)が出土遺構から導き出した数値(整数)に一致しているという理想的な史料状況です。

 このようにして導き出された使用尺の実寸を利用して、その遺構の相対編年が可能となるケースがあります。というのは、尺は時代や権力者の交替によって変化していることが知られており、一般的には年代を経るにつれて長くなる傾向があります。この傾向を利用して、遺構造営使用尺の差による相対編年が可能となります。このことは「洛中洛外日記」でも何度か取り上げたことがあり、七世紀の都城造営尺について次の知見を得ています。

【七〜八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年・九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳10年) 29.6〜29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9〜30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された「小尺」(天平尺)とされる。

 各数値はその出典が異なるため、有効桁数が統一できていません。精査の上、正確な表記に改めたいと考えています。この不備を、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からのご指摘により気づきました。(つづく)


第2071話 2020/01/28

難波京朱雀大路の造営年代(6)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という現象の発生理由が(B)のケース、すなわち造営に関わった勢力が異なっており、前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営したのだとすれば、都市設計と造営工程の常識的な理解として次の展開が推定されます。

(1)難波京造営にあたり、最初に都市のグランドデザインとして、宮殿の位置とそれに繋がる中央道路(朱雀大路)や条坊区画が決定される。この決定は九州王朝(倭国)によりなされた。

(2)その都市設計や条坊造営は、「尺(29.49cm)」を採用する勢力が担当した。

(3)難波京条坊の設計尺(29.49cm)と藤原宮・京の設計尺(29.5cm)がほぼ同じであることから、難波京条坊と藤原宮・京の設計や造営は同一勢力によりなされたと考えられる。藤原京が近畿天皇家の都であることから、難波京条坊の設計・造営を担当したのも近畿天皇家(後の大和朝廷)などの在地勢力と考えるのが穏当である。

(4)その条坊都市設計に基づいて、条坊区画内に前期難波宮やその周辺官衙が築造された。その築造は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が担当した。この勢力とは、九州王朝が動員した「番匠」(『伊予三島縁起』に見える)のことと思われる。

 以上のような造営工程が考えられます。条坊都市の区画割りと平地の造成、谷の埋め立てなどのような膨大な労働力が必要とされる整地作業を、九州王朝が近畿天皇家を初めとする在地の豪族に命じたのではないでしょうか。その在地勢力の使用尺(29.49cm)と宮殿を築造した勢力の使用尺(29.2cm)がなぜ異なるのかという疑問は未だに解決できませんが、同一宮都の造営に二つの異なる尺が採用されたという事実は、前期難波宮九州王朝複都説であれば説明が可能です。他方、前期難波宮を近畿天皇家(孝徳であろうと天武であろうと)の王宮とする説では説明困難です。
 このように、高橋さんから教えていただいた、二つの異なる尺が前期難波宮造営期には併存していたという考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しているのです。(つづく)


第2070話 2020/01/25

難波京朱雀大路の造営年代(5)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という問題に対する高橋さんの説明により、前期難波宮造営尺と難波京条坊造営尺は前期難波宮造営時期(七世紀中頃)に併存していたことがわかり、わたしの疑問は解決されました。
 一つの宮都造営に二つの異なる「尺」が使用されているという前期難波宮・京の考古学的事実に対して、わたしは次の二つのケースを想定していました。

(A)造営時期が異なっている。前期難波宮を「尺(29.2cm)」で築造した後に「尺(29.49cm)」で条坊を区画し、条坊都市を造営した。
(B)造営に関わった勢力が異なっている。前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営した。

 高橋さんの二つの異なる尺が前期難波宮造営時期に併存していたという考古学的事実を根拠とする見解は有力です。その知見を知り、わたしが想定した二つのケースのうち、(A)が否定されたため、孝徳期に限っては(B)が妥当であることが分かったのです。このことは前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しています。(つづく)


第2069話 2020/01/24

難波京朱雀大路の造営年代(4)

 今回の「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは大きな刺激と数々の考古学的知見を得ました。中でも、前期難波宮や難波京条坊の造営時期と発展段階について抱いていた論理上の作業仮説が考古学的発掘調査結果と整合していたことがわかり、これは大きな成果でした。しかし、わたしは更に重要な事実を高橋さんからお聞きすることができました。それは、以前から「解」が見つからずに悩んできたテーマ、すなわち前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という難問についてです。そのことについて質疑応答のときに高橋さんにおたずねしたのです。
 高橋さんの回答は次のようなものでした。

①前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)が異なっていることを根拠に、条坊造営を天武朝のときとする意見がある。
②しかし、両尺が前期難波宮造営時期に併存していた痕跡がある。
③それは、前期難波宮と同時期の七世紀中頃に造営された西方官衙の位置が条坊造営尺(29.49cm)により区画されていたことが判明したことによる。

 このような高橋さんの説明により、わたしの疑問は氷解したのです。(つづく)


第2068話 2020/01/23

難波京朱雀大路の造営年代(3)

 「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは次の指摘に注目しました。

①前期難波宮は七世紀中頃(孝徳朝)の造営。
②難波京には条坊があり、前期難波宮と同時期に造営開始され、孝徳期から天武期にかけて徐々に南側に拡張されている。
③朱雀大路造営にあたり、谷にかかる部分の埋め立ては前期難波宮の近傍は七世紀中頃だが、南に行くに連れて八世紀やそれ以降の時期に埋め立てられている。

 高橋さんが示された難波京条坊や朱雀大路の造営時期やその発展段階の概要には説得力があり、異論はないのですが、朱雀大路のグランドデザインや造営過程については、なお解決しなければならない問題があるように感じています。というのも、朱雀大路にかかる谷の埋め立ては八世紀段階以降のものがあるとされますが、他方、遠く堺市方面まで続く「難波大道」の造営を七世紀中頃とする調査結果があることから、全ての谷の埋め立ては遅れても、朱雀大路とそれに続く「難波大道」は前期難波宮造営時には設計されていたのではないでしょうか。
 二〇一八年二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」で、前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る「難波大道」を七世紀中頃の造営とする次のような考古学的根拠の解説を聞きました。
 通説では「難波大道」の造営時期は『日本書紀』推古二一年(六一三)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、二〇〇七年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥Ⅱ期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(六五三年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
 この「難波大道」遺構(堺市・松原市)は幅十七mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは三mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。
 この「難波大道」の造営時期と高橋さんの指摘がどのように整合するのかが課題のように思われるのです。(つづく)


第2067話 2020/01/22

難波京朱雀大路の造営年代(2)

 高橋さんの〝前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前〟という論理性に基づく指摘が正しいことを証明するかのように、近年、上町台地から次々と条坊の痕跡が出土しました。たとえば次の遺構です。

1.天王寺区小宮町出土の橋遺構(『葦火』一四七号)
2.中央区上汐一丁目出土の道路側溝跡(『葦火』一六六号)
3.天王寺区大道二丁目出土の道路側溝跡(『葦火』一六八号)

 以上の三件は、いずれも難波宮や地図などから推定された難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの発見により難波京に条坊が存在したと考えられるに至っています。とりわけ、2.の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層の溝は前期難波宮造営の頃のものとされており、七世紀中頃の前期難波宮の造営に伴って、条坊の造営も開始されたことがうかがえます。
 これらの出土事実に基づく論理の到着点について、『古田史学会報』123号(2014年8月)の「条坊都市『難波京』の論理」において、わたしは次のように説明しました。

 【以下、転載】
 それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次のような批判を避けられないでしょう。古田先生の文章表現をお借りして記してみます。 
 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第二に、中央区上汐一丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第三に、天王寺区大道二丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのです。
 しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。
 【転載おわり】(つづく)


第2066話 2020/01/21

難波京朱雀大路の造営年代(1)

 1月19日に開催された「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催)では、高橋 工さん(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)と正木 裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)による講演がなされました。テーマは次のとおりで、いずれも最新の研究テーマを含み、新年を飾るにふさわしい優れたものでした。

○「難波宮・難波京の最新発掘成果」高橋 工さん
○「令和改元と万葉歌に隠された歴史」正木 裕さん

 中でも高橋さんの難波京条坊と朱雀大路の発掘調査による最新の報告は新知見と示唆に富んだもので、とても勉強になりました。特に難波京の条坊の有無についての論争にふれられ、〝前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前〟という指摘は素晴らしく論理的です。考古学者からこれほどロジカルな発言を聞くのは初めてのことで、わたしは深く感動しました。
 というのも、わたしも前期難波宮九州王朝複都説に至る前から同様の考えを持っていたからです。そのことを『古田史学会報』123号(2014年8月)の拙論「条坊都市『難波京』の論理」において、次のように記したことがあります。

 【以下、転載】
 わたしは前期難波宮九州王朝副都説を提唱する前から、前期難波宮には条坊が伴っていたと考えていました。それは次のような論理性からでした。

1.七世紀初頭(九州年号の倭京元年、六一八年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。
2.従って七世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。
3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(十四朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。
4,以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上の理解は、その後の前期難波宮九州王朝副都説の発見により、一層の論理的必然性をわたしの中で高めたのですが、その当時は難波に条坊があったとする確実な考古学的発見はなされていませんでした。ところが、近年、立て続けに条坊の痕跡が発見され、わたしの論理的帰結(論証)が考古学的事実(実証)に一致するという局面を迎えることができたのです。この経験からも、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉を実感することができたのでした。
 【転載おわり】(つづく)


第2051話 2019/12/07

新春古代史講演会2020(1月19日)のご案内

 他団体との共催事業として「古田史学の会」では、来年1月19日(日)に恒例の「新春古代史講演会2020」を開催します。今回は大阪市文化財協会の考古学者で難波宮を発掘調査されてきた高橋工先生をお招きし、難波宮(京)発掘調査の状況などについて講演していただきます。「古田史学の会」からは、正木裕事務局長(大阪府立大学講師)に新年号「令和」と九州王朝との関係について講演していただきます。
 講師の高橋工先生の最近の主なお仕事は次の通りです。
○難波宮跡の発掘調査
 『難波宮址の研究』第15(前期難波宮東方官衙と後期難波宮「東南新宮」候補地の提唱)
 『難波宮址の研究』第20(前期難波宮造営と土地整備)
○難波宮関係著書
 「前期・後期難波宮跡の発掘成果」:『難波宮と都城制』中尾芳治・栄原永遠男編 吉川弘文館刊(2014年7月)

 講演会後は希望者による講師を囲んでの懇親会も開催します。多くの皆様のご参加をお願いいたします。

〔新春古代史講演会2020〕
【日時】1月19日(日) 開場13:00 開会13:30〜17:00
【会場】アネックスパル法円坂 3階2号室
(旧大阪市教育会館)℡06-6943-5021
*JR大阪環状線及び大阪メトロ森ノ宮駅、西に徒歩10分(中央線谷町4丁目から東に10分)難波宮跡の東隣り。

【演題・講師】
○「難波宮・難波京の最新発掘成果」 13時30分〜15時
 高橋 工氏(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)
○「令和改元と万葉歌に隠された歴史」 15時10分〜16時40分
 正木 裕氏(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
【参加費】1,000円 定員70名(事前予約不要)
【懇親会】当日、会場で受け付けます。(参加費は別途)
【共催団体】和泉史談会、古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会、ほか