「 難波宮 」一覧

第1766話 2018/10/05

土器と瓦による遺構編年の難しさ(3)

 土器の相対編年はその様式(スタイル)や大きさの変化に基づいて行われており、先後関係は出土層位の差を利用したり、遺構の成立年を文献(主に『日本書紀』)の記述にリンクすることにより定められています。その結果、『日本書紀』に記述されている畿内(飛鳥地方)の遺構の暦年とのリンクで成立した「飛鳥編年」を基本にして、全国の遺跡から出土した土器や遺構を編年するという手法が一般的にとられています。近年ではそれを基本にしながらも地域差に配慮した補正も行われるようになりましたが、根本は近畿天皇家一元史観に基づく『日本書紀』リンク編年(飛鳥編年)が一元的に採用されているのが実態のようです。
 「飛鳥編年」はその基礎データの数値や認識が間違っており、信頼性に疑問があることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が既に発表されています。更に10年単位で7世紀の土器編年が可能とする「飛鳥編年」に対して、そこまで厳密に断定することはできず、逆に編年を間違ってしまう可能性があるという意見をある考古学者からお聞きしたことがあります。わたしもこの意見に賛成です。
 そもそも土器に製造年が書いてあるわけでもありませんし、土器そのものも破損するまで長期間使用されるのが普通と思われますから、ある様式の土器が出土したからといって、その出土層位や遺構の編年を土器の「飛鳥編年」にリンクするというのは危険です。更には土器様式そのものにも発生期から流行期・衰退期・生産中止期という恐らく数十年という変遷(ライフサイクル)をたどりますから、「飛鳥編年」により10年単位で遺構を編年できると考える方がおかしいと思います。
 その具体的事例を紹介しましょう。前期難波宮整地層から極少数出土した「須恵器坏Bと思われる土器」を根拠に、それが「飛鳥編年」では660年頃と編年されていることから、前期難波宮造営は660年を遡らないとする批判が少数の考古学者から出されたことがありました。そこで難波宮発掘に関わってこられた複数の考古学者の見解を聞いてみたところ、大阪府文化財センターの考古学者は「その土器はやや大きな須恵器であり、いわゆる須恵器坏Bの範疇には入らない」とのご意見でした。また大阪歴博の考古学者の見解は「須恵器坏B発生の初期段階のものであり、7世紀中頃と見なせる」というものでした。その上で、前期難波宮整地層や前期難波宮の水利施設から大量に出土した土器が7世紀前半から中頃とされる須恵器坏Gであることが決定的証拠となり、前期難波宮を孝徳期の造営とする説がほとんどの考古学者に支持されるに至ったと説明されました。(つづく)


第1764話 2018/09/30

土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)

 わたしは古田先生から主に文献史学の方法論を学んで来ました。古代史学の関連分野である考古学については体系的に勉強する機会がありませんでしたので、この10年ほどは7世紀の土器編年や瓦の変遷について専門書や考古学者から学ぶようにしてきました。そうした経験から、思っていたよりも土器や瓦による遺構の編年が難しいこと、7世紀における「難波編年」が比較的正確であることなどを知りました。そこで今回はその難しさについて説明することにします。
 土器による遺構の編年について、大阪歴博の考古学者から基礎的な編年方法について教えていただいたことがあります。まず前提として、出土土器により遺構の年代を編年する場合の条件として、対象遺構の整地層の中とその上から土器が出土しないと正確な編年ができないことです。
 たとえば整地層から7世紀中頃の土器が出土しても、そのことから導き出せるのはその遺跡が7世紀中頃以後に造営されたということだけで、それ以上の年代編年は原理的にできません。ところが整地層の上の層位から7世紀後半の土器も出土していれば、その遺構は7世紀中頃から後半の造営とする編年が可能となります。
 逆に整地層からは編年できるような土器が出土せず、その上の層位から7世紀中頃の土器が出土している場合は、その遺構は7世紀中頃以前の造営とすることはできますが、それ以上のことは判断できません。
 このように遺構の層位を挟むように整地層の中と上からの出土土器が揃ったときに造営年代の編年が可能となります。この原理をしっかりと押さえておくことが重要です。遺構から「何世紀の土器が出土した」という情報に対しては、それが遺構のどの層位から出土したのか、遺構の層位を挟むように複数の土器が出土したのかを見極めることが重要であり、そうした情報がない報道や論稿は要注意です。(つづく)


第1753話 2018/09/19

7世紀の編年基準と方法(1)

 歴史研究において遺跡・遺物や史料の編年は不可欠の作業で、年代が不明では歴史学の対象になりにくい場合があります。わたしも九州王朝史研究において、いつも悩まされるのがその研究対象の編年の基準と編年方法についてです。そこでこの問題について、比較的研究が進んでいる7世紀について改めて論じることにしますが、一般論や抽象論ではなく、なるべく具体的事例をあげて説明します。
 最初に紹介する事例は前期難波宮です。前期難波宮の編年についてはこの10年間わたしが最も研究したテーマですから、かなり自信を持って説明できます。前期難波宮の造営年代については一元史観の古代史学界でも孝徳期か天武期かで永く論争が続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期(7世紀中頃)とすることを支持しており、事実上決着がついています。その根拠となったのが次の基準や研究結果によるものでした。私見も交えて説明します。

①宮殿に隣接した谷(ゴミ捨て場)から「戊申年」(648年)木簡が出土。
②井戸がなかった前期難波宮に水を供給したと考えられている水利施設遺構の造成時に埋められた7世紀前半から中頃に編年されている土器(須恵器坏G)が大量に出土した。
③その水利施設から出土した木樋の年輪年代測定値が634年だった。その木材には再利用の痕跡が見当たらず、伐採後それほど期間を経ずに前期難波宮の水利施設の桶に使用されたと考えられる。
④宮殿を囲んでいた塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値が583年・612年であった。
⑤出土した前期難波宮の巨大な規模と様式(日本初の朝堂院)は、『日本書紀』孝徳紀の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記されている〝言葉に表すことができないような宮殿が完成した〟という記事に対応している。
⑥天武期に造営が開始され、持統天皇が694年に遷都したと『日本書紀』に記されている藤原宮の整地層から出土した主流土器は須恵器坏Bであり、前期難波宮整地層から出土した主流土器須恵器坏Gよりも1〜2様式新しいとされている。すなわち、整地層からの出土土器は天武期造営の藤原宮より前期難波宮の方が数十年古い様相を示している。
⑦瓦葺きで礎石造りの藤原宮よりも、板葺きで掘立柱造りの前期難波宮の方が古いと考えるのが、王宮の変遷として妥当である。

 以上のような多くの根拠や論理性により前期難波宮の創建は孝徳期とする通説が成立したのですが、ここでの編年決定において重要な方法が自然科学ではクロスチェックと呼ばれる方法です。すなわち、異なる実験方法・測定方法や異なる研究者が別々に行った実験結果(再現性試験)が同じ結論を示した場合、その仮説はより確かであるとする方法です。
 今回紹介した前期難波宮の編年も、それぞれ別の根拠でありながら、いずれも天武期ではなく孝徳期を是とする、あるいはより妥当とする結論を示したことが、自然科学でのクロスチェックと同じ効果を発揮したものです。
 これが例えば根拠が①の「戊申年」木簡だけですと、〝たまたま古い木簡がどこかに保管されており、何故か30〜40年後に廃棄された〟という「屁理屈」のような反論が可能です。同様に③④の木材の年代にしても〝たまたま数十年前に伐採した木材がどこかに保管されており、なぜかそれを使用した〟というような「屁理屈」も言って言えないことはないのです。しかし、上記のように多数の根拠によるクロスチェックがなされていると、それらを否定するためには〝すべてのケースにおいて、古いものがなぜか数十年後に使用された、捨てられた結果である。『日本書紀』の記事も何かの間違い〟というような根拠を示せない「屁理屈」を連発せざるを得ません。もちろん「学問の自由」ですからどのような主張・反論・「屁理屈」でもかまいませんが、そのような研究者は自然科学の世界では、研究者生命を瞬時に失うことでしょう。ことは歴史学でも同様です。(つづく)


第1713話 2018/07/24

律令と評制で全国支配が可能な王宮

 孝徳紀から出現し始める「封戸」記事などに着目された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究により、わたしの認識も一歩進むことができました。律令制による中央集権的国家体制維持に不可欠な地方官僚の俸禄を「現地調達」するという「封戸」などの徴税権の中央集約という問題の重要性に気づくことができたからです。この問題も、当時の人々の認識を再認識するというフィロロギーによる研究や論証が有効です。7世紀中頃における九州王朝の評制による全国支配を可能とするために論理的に考えて何が必要であり、そのことに対応した実証的な証拠として何が存在するのかについて論じることにします。
 まず「封戸」制度に必要な公地公民制と律令制にとって不可欠な「律令」そのものについて考えてみます。近畿天皇家の最初の律令は「大宝律令」ですから、それ以前の7世紀の評制施行時の律令は九州王朝「律令」と理解せざるを得ません。
 次に律令に規定された大規模な中央官僚(服部静尚さんの試算によれば約8000人)を収容できる王宮・官衙が必要です。古田学派であれば、ここまでは反対する人はいないでしょう。
 次にその宮殿の規模はどのくらいかについて考えてみます。これにも参考とすべき「後例」があります。それは701年以降九州王朝に替わり、文字通りの「大和朝廷」として大宝律令で全国支配を行った近畿天皇家の王宮、平城宮です。あるいはその直前までの藤原宮です。これら「大和」にあった朝堂院(朝廷)様式の巨大宮殿の規模こそ、全国支配に必要な規模の「後例(8世紀)」となります。このことにも異論は出されないでしょう。
 それでは平城宮や藤原宮と同規模・同様式の7世紀中頃の宮殿・官衙遺構はあるでしょうか。日本列島内でひとつだけあります。言うまでもなく大阪市中央区法円坂から出土した前期難波宮です。規模も両宮殿に匹敵し、様式も国内初の朝堂院様式です。宮殿の南方からは条坊跡も出土していることから、それは北闕様式の「難波京」でもあります。
 その造営年代が7世紀中頃(孝徳期)であることも、整地層・水利施設出土主要土器(須恵器坏G)編年・水利施設出土木製品の年輪年代測定(634年)・出土「戊申年(648年)」木簡・出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)などを実証的根拠として、わが国のほぼ全ての考古学者・歴史学者が認めています。
 以上の出土事実・理化学的測定事実から、7世紀中頃に施行された評制により全国支配した律令制の宮殿・官衙は前期難波宮であるとの結論が導き出されます。このことをもって、近畿天皇家一元史観の論者は前期難波宮は『日本書紀』の記述通り孝徳天皇の難波長柄豊碕宮であり、全国を評制支配した宮殿である、九州王朝など無かったと主張します。
 わたしたち多元史観・九州王朝説(古田史学)の支持者であれば、評制は九州王朝が施行した制度と考えますから、そうであるならば前期難波宮は九州王朝の宮殿であると言わざるを得ません。この一点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至らざるを得なかった最大の理由なのです。もし九州王朝説に基づく代替案(前期難波宮以外の律令制による全国支配が可能な規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿官衙遺構)があるのなら出してください。わたしはその代替案の当否について真剣に検討します。学問研究とはそうした真摯な営みなのですから。


第1712話 2018/07/23

孝徳紀から出現する「封戸」記事

 先日の「古田史学の会」7月度関西例会では、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からの捕鳥部萬(ととりべのよろず)の墓守(塚元家・岸和田市)訪問報告の他にも、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な研究発表がありました。「天武五年の封戸入れ替え」です。『日本書紀』に見える「封戸」関連記事に着目されたもので、『日本書紀』天武五年条に見える「封戸入れ替え」記事はこの時期としては不自然であり、約30年遡った孝徳期の頃の事績を天武紀に転載されたとする仮説です。
 「封戸(ふこ)」とは古代における官人や貴族への俸禄制度で、与えられた封戸からの税収(食封)が官人らへの俸禄とされます。従って、公地公民制と律令制を前提として成り立つ制度です。
 服部さんの発表の中で特に重要と感じたことは、『日本書紀』で封戸記事が現れるのが孝徳紀からという史料事実の指摘でした。孝徳期(7世紀中頃)は九州王朝(倭国)が全国に評制を施行した時期であり、そのことと『日本書紀』に封戸記事が孝徳紀から現れることは無関係ではないと考えられます。中央集権的評制により、諸国の国宰・評督の任命や派遣が九州王朝によりなされますから、それらの官人の俸禄を封戸制度という「現地調達」で賄ったことになります。このことは、それまで現地の豪族などの支配下にあった「徴税権」が公地公民制と律令の規定により、部分的とは思われますが中央政府に取りあげられることを意味し、中央政府(九州王朝)の強大な権力(軍事力)がなければ成立し得ない制度であることは論を待たないでしょう。
 前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者に、7世紀中頃の九州王朝の勢力(評制による全国支配力)を過小に評価する意見もあるようですが、今回、服部さんが指摘された「封戸」問題を見ても、九州王朝説(古田説)に立つ限り、7世紀中頃には九州王朝の全国支配力が最盛期を迎えていたことを疑えません。そうした意味でも服部さんの九州王朝説による「封戸」研究は貴重なものと思われます。


第1648話 2018/04/12

発見された後期難波宮の大規模区画と官衙群

 前期難波宮には律令官制に対応した東西の官衙遺構が発見されています。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究によれば、律令官制を支える中央官僚は八千名に及ぶとの試算が示されています。他方、前期難波宮の上部に造営された聖武天皇の後期難波宮には前期難波宮のような大規模官衙遺構の発見がありませんでした。
 ところが、大阪文化財研究所発行『葦火』185号(2017年4月)に高橋工さんの「後期難波宮西方で官衙地区を初めて発見」という報告が掲載されていることに気づきましたので紹介します。
 発見された遺構は難波宮史跡公園の西、大阪医療センター内に位置し、後期難波宮の五間門区画の塀と官衙(役所)建物群が見つかりました。8世紀の土器が出土しており、後期難波宮の遺構と見て問題ありません。しかも南北の規模は約200m、東西は100m以上あることもわかりました。これは内裏をも凌駕する規模をもっていた可能性もあるとされています。
 今回の調査区は「五間門区画」と呼ばれているもので、後期難波宮大極殿の西方にあり、東面に2棟の五間門を持つ、掘立柱塀を巡らせた一画です。五間門は宮殿の正門などに採用される格式の高い門とされ、この区画を天皇や上皇の御在所とする説もあるそうです。その南側からは堀立柱建物群も発見されており、これらは官衙の一部と見られています。このことから「五間門区画」の南方に官衙群が展開していたと推定されています。
 後期難波宮は、神亀3年(726)から聖武天皇によって造営が始められ、天平16年(744)に一時的に皇都として定められましたが、遷都期間が短かったこともあり、実際に都の機能を有していたか不明でした。しかし今回の発見により、政治を行う機能が備わっていたことが証明されたと思われます。このことは多元史観・九州王朝説にとっても無関係ではありません。今後、七世紀における九州王朝の都城を論じる場合、宮殿だけではなく、律令官制の中央官僚群が政務に就いていた大型官衙遺構の出土が不可欠となったからです。
 たとえば、7世紀における律令官制による全国統治が可能な官衙遺構を持つ王都は、太宰府(倭京)、前期難波宮(難波京)、近江大津宮(近江京)、藤原宮(藤原京)が知られています。7世紀において、これら以外の地に九州王朝(倭国)の王都があったとする場合は、宮殿・官衙遺構の明示を一元史観論者から求められることでしょう。この一元史観論者からの指摘や批判に答えられるような理論構築がわたしたち古田学派の研究者には必要です。先月発行した『発見された倭京 太宰府都城と官道』もそうした取り組みの一環なのです。


第1647話 2018/04/11

後期難波宮の基幹排水路と谷の整地

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』188号(2018年1月)に高橋工さんによる「後期難波宮の石組 基幹排水路を発見」という発掘調査報告が掲載されており、その中に興味深い記事がありましので、ご紹介します。
 今回発見されたのは後期難波宮の東側に南北に伸びる基幹排水路で、前期難波宮造営時に埋め立てられた谷の整地層(厚さ2.4m以上)の上に造られた石組溝として出土しました。この溝について、次のように説明されています。

 「これらの溝は、宮殿の雨水や廃水を集めて流した基幹的な排水溝とみてよいでしょう。排水溝に集まった水は、地形にそって南へ流れ、調査地付近で暗渠となって、整地層の下から埋められていない谷へ排出されたものと考えられます。」

 そして、わたしが最も注目したのは次の指摘です。

 「整地層の分布から、宮殿の中枢部に近い谷の北部のみを埋め立て、調査区より南側は谷が埋め立てられずに残っていたとみられます。また、整地層のすぐ北側には、朱雀門から東へ延び、宮の南を画する塀があるはずです。塀のすぐ外側は谷が埋め立てられていなかったことになり、大規模な土木工事である整地が、必要最小限の範囲で行われたことを示しているとみてよいでしょう。」

 このように前期難波宮造営時に、上町台地に入り組んでいる急峻な谷を平地にまで埋め立てているものの、それは必要最小限だったようです。逆から言えば、宮殿造営に必要であれば大きな谷も埋め立てたということを意味します。次のような記述もあります。
 「調査区はこの谷を東西方向に横断していたので、谷の幅が約40mであることがわかりました。谷の中は、約3.5m掘っても底が出なかったので、それ以上の深さです。
 これほど急峻な谷は、難波宮を造営する際には障害となったはずです。実際、この谷は2.4m以上の厚さをもつ整地層で埋め立てられ、平地として造成されていました。」

 前期難波宮朱雀門の南側に谷が入り込んでいることを根拠に、難波京には朱雀大路が無かったとする見解があったのですが、今回の調査で、宮殿のすぐ側で平地にまで埋め立てた整地層が発見されたことにより、難波京造営にあたり、朱雀大路にかかる谷も埋め立てられたと考えてもよいと思われます。難波宮は発掘調査のたびに新発見が続き、前期難波宮九州王朝副都説を提唱するわたしとしては目が離せません。


第1625話 2018/03/09

九州王朝の高安城(5)

 「九州王朝の高安城」と銘打った本テーマを文献史学の視点から深く考察してみますと、新たな問題点が見えてきます。その一つは高安城の初見が『日本書紀』天智6年(667)条の次の記事であることです。

 「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」

 通説では白村江戦(663年)の敗北により、大和朝廷が防衛の為に高安城など三城を築城したとされています。九州王朝説によれば九州王朝(倭国)が自国防衛のために築城したと理解するのですが、従来の九州王朝説では首都太宰府防衛とは無関係な屋嶋城や高安城の築城はほとんど取り上げられてきませんでした。ところが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に基づき、屋嶋城や高安城も九州王朝による難波副都防衛のための九州王朝による築城とする正木説が登場したわけです。
 ここで着目すべきは、天智6年(667)という築城年次です。近年、正木さんが発表された「九州王朝系近江朝廷」説によれば、このとき九州王朝の天子薩夜麻は唐に囚われており、高安城築城の翌年(668)に天智は九州王朝(倭国)の姫と思われる倭姫王を皇后に迎え、九州王朝の権威を継承した九州王朝系近江朝廷の天皇に即位します。そうすると、高安城の築城は天智によるものとなり、それは難波副都の防衛にとどまらず、近江「新都」の防衛も間接的に兼ねているのではないかと思われるのです。
 その結果、高安城築城主体について、太宰府(倭京)を首都とする九州王朝(倭国)とするよりも、九州王朝系近江朝廷(日本国)の天智によるものではないかという結論に至ります。そしてこの論理性は、同じく天智紀に造営記事が見える水城や大野城などの造営主体についても近江朝の天智ではないかとする可能性をうかがわせるのです。(つづく)


第1624話 2018/03/09

九州王朝の高安城(4)

 高安城が難波副都防衛のための、大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる「監視施設(物見櫓)」とする仮説を支持する史料根拠があります。『日本書紀』天武紀に見える次の記事です。

 「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条

 「壬申の乱」の一場面ですが、高安城を制圧した天武軍(坂本臣財ら)が翌朝に大津道と丹比道から進軍する近江朝軍を発見したことが記されています。この記事から高安城が「監視施設(物見櫓)」の機能を有する位置にあることがわかります。
 なお、この記事には続きがあり、進軍する近江朝軍に対して坂本臣財は高安城を下山して交戦しますが、「衆少なくして距(ふせ)ぐこと能わず」退いたと記されています。すなわち、高安城には大軍がいなかった、宿営できなかったようです。せいぜい「守備隊」程度の兵士が高安城に「見張り番」として、通常は置かれていたと推定できます。この推定が正しければ、高安城は、大規模な大野城や「神籠石」山城とは目的が異なっていることになります。恐らく高安城の性格は難波副都の地勢に対応したものと思われます。
 拙論「『要衝の都』前期難波宮」(『古田史学会報』一三三号)にて詳述しましたが、九州王朝の副都として前期難波宮が造営された上町台地は、後に摂津石山本願寺や大阪城が置かれたように、歴史的にも有名な要衝の地です。三方を海や河内湖に囲まれているため、南側の防御を固めればよく、しかも上町台地北端の最高地付近に造営された前期難波宮は、周囲からその巨大な容貌を見上げる位置にあり、王朝の権威を見せつけるのにも適しています。
 したがって、このような難波副都防衛のために高安城に「見張り番」を常駐させれば、瀬戸内海からの海上船団や南から難波大道を北上する集団を発見することが可能です。すなわち、三方を海や湖で囲まれた難波副都にとって必須である南の守りの一環として高安城を築城したと考えることができるのです。(つづく)


第1622話 2018/03/07

九州王朝の高安城(2)

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」(『多元』一四四号、二〇一八年三月)で発表された高安城九州王朝造営説が成立するのか、まず地勢的に考察してみました。
 『日本書紀』天智6年(667)条には高安城築造について「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」と記されてあり、その場所を「倭国(やまと国、奈良県)」とするだけで、屋嶋城のように「讃吉国山田郡」と郡名(山田郡)までは記されていないことから、「高安」という城名だけで『日本書紀』読者にはその場所がわかると考えるべきと思われます。従って、現存地名の高安山近辺(奈良県生駒郡平群町・大阪府八尾市)とする理解は穏当と思われます。ただし、倉庫跡の礎石は発見されていますが、明確に城跡と確定できるような城壁の石積みや土塁が未発見であることに、本当に高安山近辺としてよいのか一抹の不安はあります。ちなみに、対馬の金田城や讃岐の屋嶋城は城跡と見なし得る遺構が出土しています。
 ここで注目されるのが竜田関との位置関係です。竜田関は高安山の東南方向にあり、大和川沿いの竜田道の関所です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究(「関から見た九州王朝」『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)によれば、竜田関は竜田道峠の大和側にあり、大和から河内・摂津への侵入を防ぐ位置にあることが判明し、九州王朝副都難波京防衛の為の関とされました。従って、竜田関よりも河内・摂津側に近い高安城も難波京防衛を目的とした城と考えても問題ないようです。(つづく)