「 多利思北孤 」一覧

第1210話 2016/06/17

鞠智城の造営年代の考察

 鞠智城の創建が大野城・基肄城よりも古いとする新説を紹介しましたが、わたしもその結論自体には賛成です。問題は、その年代と根拠や背景が一元史観の論者とは異なることです。これまでの論稿の編年を整理するために、わたしの年代観を再度説明します。
 わたしは『隋書』「イ妥国伝」の記述にあるように、隋使が阿蘇山の噴火が見える肥後の内陸部にまで行っていることを重視し、いわゆる古代官道の西海道を筑後国府(久留米市)からそのまま南下し肥後国府(熊本市付近か)に進んだのではなく、「車路(くるまじ)」と呼ばれている古代幹線道路を通って鞠智城経由で阿蘇山に向かったと考えました。
 また、国賓である隋使一行が無人の荒野で野営したとは考えられず、国賓に応じた宿泊施設を経由しながら阿蘇山へ向かったはずです。その国賓受け入れ宿泊施設の有力候補の一つとして鞠智城に注目したのですが、当地には6世紀の集落跡や7世紀第1四半期、第2四半期の土器が出土しており、考古学的にもわたしの仮説に対応しています。
 このように、『隋書』の史料事実と考古学的出土事実から、九州王朝における鞠智城の造営は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて開始され、九州王朝が滅亡する701年頃まで機能していたと思われます。従って、九州王朝滅亡時の7世紀末頃には機能を停止し、無人化(無土器化)したと考えられます。現在の考古学者の編年では、その無人化(無土器化)を8世紀の第2四半期頃とされていますが、この編年はたとえば「須恵器杯B」編年の揺らぎなどから、30〜40年ほど古くなることは、わたしがこれまで論じてきた通りです。
 なお、鞠智城内の各遺構の編年はまだ十分には検討できていませんが、たとえば鼓楼(八角堂)の初期の2塔は前期難波宮の八角殿との類似(共に堀立柱で板葺き)から、7世紀中頃ではないかと、今のところ考えていますが断定するには至っていません。引き続き、勉強しようと思います。(つづく)


第1207話 2016/06/09

鞠智城7世紀前半造営開始説の登場

 歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんからご紹介いただいたのが『鞠智城東京シンポジウム2015成果報告書「律令国家と西の護り、鞠智城』(熊本県教育委員会、2016年3月31日)です。同書に収録された鞠智城東京シンポジウム(明治大学)の基調講演「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(国立歴史民俗博物館名誉教授・岡田茂弘さん)に次のような注目すべき発言が記されていました。要点部分のみ抜き出しました。

 「鞠智城から出た瓦は単弁八葉の蓮華文瓦です。これと類似する瓦は大野城跡の主城原で出土しています。(中略)これは大野城でも一番古いタイプです。鞠智城でも、この瓦に伴う、丸瓦、平瓦は一番古いタイプだということが判っています。そうすると大野城のこの瓦と、鞠智城の瓦葺の建物はほぼ同じくらいの時期に造られたということがいえます。この辺は文献に出てこない鞠智城が大野城とほぼ近いということがいえる証拠になります。」(p.40)

 「鞠智城内には六世紀代の古代集落があり、それに伴った土器もあります。ところが七世紀の第1四半期、第2四半期、第3四半期、第4四半期という形で、第3四半期から急激に量が増えてくるという状態が分かると思います。この第3四半期から第4四半期はまさに大野城や基肄城が造られた時期です。」(p.40)

 「考えてみますと。古い土器が出てくるということに注目しますと、鞠智城の台地の部分は実は改変されていまして、層位が攪乱されているから、きちんと分かる状態ではないのです。しかし貯水池の場合は低地ですから、出土層位が残っています。特に貯木場の周辺では、瓦のでる、つまり大野城の創建期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけ出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めているわけです。」(p.41)

 「大化の改新の直後に、南九州に対する施策があったにもかかわらず、それは『日本書紀』には書かれていません。なぜか消えてしまったということを示しています。鞠智城はその段階で、まさに南に対する前線本拠地として造られたのだと私は考えています。」(p.42)

 「同時に鞠智城については、いつ造られたのか、築城についての記載がありません。なぜないのかというと、一番合理的な解釈は、大野城や基肄城のより前に造られていたからです。南に対する防衛の拠点として、前に造られていたから、既にある城として大野城や基肄城とともに整備はされたが、既にあるから、新たに山城を造ったとは書かれていないと解釈すれば合理的です。結局、鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られたのです。」(p.43)

 「鞠智城というのは七世紀の中葉に、東北の越国に造られた城柵に対応するように、南九州の熊襲・隼人に対する根拠地として建設された西日本の最初の城柵です。」(p.46)

 以上のように、岡田さんは鞠智城創建時期が7世紀中葉とする考えを述べられたのですが、その根拠は大野城出土瓦よりも古い土器が鞠智城から出土していることと、『日本書紀』の「大化改新」直後に南九州施策が記されていないということのようです。従来説よりも一歩前進した仮説と思いますが、学問的に論証が成立しているとは言い難く、まだ「作業仮説(思いつき)」程度の位置づけが妥当の様に思われます。
 その理由は次のような点です。

1.大野城の造営年代が従来説に依っている。瓦が大野城と鞠智城と同時期とする意見は考古学的出土事実の比較に基づかれているので、学問の方法論として問題ありません。しかし「土器」の比較は大野城出土「土器」となされるべきです。

2.鞠智城から出土する古い土器に注目されているにもかかわらず、7世紀第1四半期の土器の位置づけをスルーされています。7世紀第1四半期の土器の存在は鞠智城創建とは無関係とされるのなら、その考古学的理由を示されるべきでしょう。自説に都合の悪い土器(データ)を無視して、都合のよい土器(データ)だけで「論」を立てるのは学問的にアンフェアです。理系の論文や学会発表で同様のことを行ったら、「研究不正」と見なされ、即アウトでしょう。

3.近畿天皇家一元史観に依っておられるため、『日本書紀』の史料批判が不十分です。特に「大化改新詔」については一元史観の学会内でも見解が分かれています。九州王朝説に立てば、『日本書紀』「改新詔」の記事が九州年号「大化(695〜702)」の頃の事績か7世紀中葉の事績か、個別に検討が必要です。

4.南九州勢力の服属時期には、九州王朝への服属と大和朝廷への服属という多元史観的課題がありますが、一元史観の限界により、そうした検討・考察がなされていません。

5.「熊襲」と「隼人」の定義や位置づけが、現地の最新研究に基づいていない。この点、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の指摘があります。

 以上のような課題や論理的脆弱さは見られるのですが、一元史観内においても鞠智城創建年代を古く見る岡田説が出現したことは貴重な動向と思います。(つづく)


第1206話 2016/06/08

大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営

 従来説では鞠智城の造営時期は大野城や基肄城と同じ7世紀の第3四半期から第4四半期頃とされていました。近年では大野城出土木柱の年輪年代測定により、白村江戦(663年)よりも前ではないかという説が有力になりつつあるようです。文献には鞠智城創建記事が見えないのですが、さしたる有力な根拠もないまま、鞠智城も大野城・基肄城と同じ頃に造営されたと考えられてきたのです。
 他方、わたしは近年の「聖徳太子(多利思北孤)」研究の進展により、『隋書』「イ妥国伝」に記されているように、隋使は肥後まで行き阿蘇山の噴火を見ていることから、その隋使を迎える宿泊施設があったはずで、その有力候補が鞠智城ではないかと考えました。肥後国府(熊本市付近か)では阿蘇山の噴煙は見えても噴火は見えませんから、やはり内陸部の鞠智城が有力なのです。この推察が正しければ鞠智城からは7世紀初頭の住居跡が出土するはずですし、同時期の土器も出土するはずです。
 このように、わたしは鞠智城6世紀後半〜7世紀初頭造営説に到着しつつあり、そのことを久留米大学での公開講座(5月28日)や和水町での講演(5月29日)で発表しました。そしてその翌日(5月30日)に訪れた歴史公園鞠智城・温故創生館で木村龍生さんから、近年、鞠智城の造営時期は従来説よりも早いとする説が出されていることを教えていただいたのです。


第1201話 2016/06/05

鞠智城出土炭化米のC14測定年代

 「洛中洛外日記」1200話で、鞠智城創建時期は7世紀初頭の多利思北孤の時代まで遡るのではないかと述べましたが、Facebook での読者(西野さん)から鞠智城出土炭化米の炭素同位体年代測定がなされており、7世紀よりも古いという測定結果が出されているとのご教示をいただきました。こうしたリアルタイムでの応答や情報交換ができることはFacebook などの強みで、「古田史学の会・WEB例会」を構築したいという、わたしの希望の良き先例となりそうです。
 西野さんからご紹介された『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)の「第七節 出土炭化物について」(p.51)によると「平成3年度の第13次調査で炭化米が出土したので、カーボンの年代測定を京都産業大学理学部の山田治教授に依頼した。結果は下記の通りであるが、若干の補足説明を行う。」として、次のように記されています。

①山田教授によれば、一年生植物である炭化米の測定年代は、年輪を有する木材等と違い、試料自体に原因を持つ誤差は生じないという。
②南側八角形建築址の堀形埋土を切る柱穴より出土した炭化米の年代は1000±15BPで、これは西暦950±15年に該当するが、この値は更に細かく考察すると第21表の14C年代と年輪年代との対照表では、標準偏差2倍、信頼度95%でAD(西暦)1000〜1020年になる。しかるに、文献上から鞠智城が消える年代が879年(『三代実録』による)なのでカーボン測定値と文献資料の年代は大体一致する事になる。
③17調査区の北東隅から検出された炭化米の年代測定結果は1450±15BPとなり、これは西暦500±15年という事になる。同じく、第21表によりAD590〜640年(6世紀後半〜7世紀中葉)という事になる。この年代は大きな問題である。そもそも文献上に鞠智城が現れるのは西暦698年(『続日本紀』による)であるので、年代が若干、遡ることになる。平成2年度に鞠智城の第9次調査(昭和62年度調査)で長者山より出土した炭化米を同教授のもとで測定した所、西暦650±30年(第21表によりAD660〜770年)という文献記録と照合しても妥当な線がでているが、今回はその年代よりも70〜130年程以前のものとなってしまう。この件に関し、鞠智城の築造年代にもかかわってくる問題なので(これまでの調査結果では城内から検出される竪穴住居址の最終年題が6世紀後半であるので、それ以前に鞠智城の築造年代が遡る事は考えられない。炭化米の年代はギリギリの線である)、今回は山田教授の結果報告のみの掲載に留める事にする。

 以上のように、この炭化米の測定年代の取り扱いに困っているのですが、わたしの多利思北孤の時代に創建されたとする説にはよく対応しており、自説に自信を深めました。この報告書の存在をご教示いただいた西野さんに感謝申し上げます。


第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1125話 2016/01/21

合田洋一さんが愛媛大学で講演

 1月20日(水)に「古田史学の会」全国世話人(古田史学の会・四国 事務局長)の合田洋一さん(松山市)が愛媛大学に招かれ、学生に対し「古代に真実を求めてー聖徳太子を事例として」と題し講演を行なわれました。
 講演では、「一元史観」と「多元史観」という視点から、神武天皇に始まる大和の天皇家が日本列島を連綿と統治していたとする「一元史観」と、古代には日本列島各地に王国・王朝があったとする「多元史観」のどちらが真実なのかについて、志賀島の「漠委奴国王」の金印や『三国志』「魏志倭人伝」の邪馬壹国と女王・卑弥呼、「日出ずる処の天子」と「聖徳太子」、『旧唐書』に別国と記される「倭国」「日本国」などを例にあげ、「古田史学」が追及してきた問題を解りやすく解説しました。工学部など理系の学生(2回生)が中心でしたが約110人が熱心に聴講されたとのことです。
 古田先生はご逝去されましたが、追悼講演会が大阪府立大学で盛大に開催され、その直後に国立愛媛大学でも古田史学に基づく講演が開催されたことは、多元史観にもとづく古代史学のうねりを感じます。今後も、各地の会員の皆さん、友好団体の方々のご協力を得て、講演活動を積極的に展開し、古田武彦先生の切り開かれた多元史観の発展に努めていきたいと思います。


第1079話 2015/10/21

『新唐書』日本国伝の新理解

 先日の「古田史学の会」関西例会で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から『新唐書』日本伝についての研究が発表されました。そのときの討論を経て、興味深いことに気づきましたのでご紹介します。
 ご存じのように『旧唐書』(945年成立)には倭国伝(九州王朝)と日本国伝(大和朝廷)とが併記されており、多元史観・九州王朝説を直接的に証明する史料として古田史学では重視されてきました。その後に編纂された『新唐書』(1060年成立)では日本伝のみであり大和朝廷のみの記述となっていることから、大和朝廷一元史観の学界では「同じ国である倭国と日本国を別国として表記した『旧唐書』は信頼性が劣る」とされ、日本伝に統一した『新唐書』こそ正しいとして重視する姿勢をとってきました。
 しかし、今回の服部さんの研究報告に触発され、『新唐書』を改めて読んでみると、『新唐書』編者は九州王朝と大和朝廷両国の存在を認識しており、その内の日本伝のみを記述していた可能性があることがわかりました。日本伝は日本側史料や歴代中国正史を参考にしてその歴史を記述しているのですが、具体的には『後漢書』の倭(委)奴国の時代から記述し、天御中主や神武頃からは「自らいう」として日本側の情報によっており、それまでは「筑紫城」に居住し、神武のときに「天皇」を名乗り「大和州」へ移ったとしています。いわゆる「神武東征」を史実として採用しています。
 他方、その日本国の歴史には「志賀島の金印」も「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」も一切登場しません。意図的に避けていると思われるのです。歴代中国史書に登場する倭国の有名人や金印授与などの歴史的事件が見事にカットされているのです。これらを偶然とすることは考えにくく、やはりその主体が異なると『新唐書』編者は認識していたのではないでしょうか。
 そうした九州王朝の有名人や重要事件がカットされた日本伝なのですが、不思議な記述がありました。それは「目多利思比孤」です。『隋書』国伝の「阿毎多利思北孤」と関係することは一目瞭然なのですが、「目」の意味が不明でしたし、九州王朝の多利思北(比)孤がなぜ近畿天皇家の歴代の天皇と並んで記されているのかが不審とされてきました。

 「(前略)次用明、次目多利思比孤、直隋開皇末年始與中国通、次崇峻(後略)」(『新唐書』日本伝)

 「目多利思比孤」は用明(585〜587年)と崇峻(587〜592年)の間の在位とされていますが、こうした人物は『日本書紀』などには当然見えません。従って、『新唐書』編者は別の情報に基づいて上記記事を書いたと思われます。ここで注目されるのが、古田先生が指摘されたように「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事です。『新唐書』日本伝では隋の開皇年間(581〜600年)の末に初めて日本国は中国(隋)と国交開始したと記しているのです。ですから、日本伝に「志賀島の金印」や「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」などの古くからの国交記事が全く記されていないことと整合しています。
 『隋書』国伝によれば開皇20年に多利思北孤は遣隋使を派遣しています。先の記事はこの遣隋使記事と年代が一致しています。しかし『隋書』によれば倭国(国)は古くから中国と交流していることが記されていますから、『新唐書』の編者は日本伝の日本国と『隋書』の国(倭国)は別国と認識していたと考えざるを得ないのです。
 それではこの「目多利思比孤」とは何者でしょうか。古田先生によれば「目」は代理を意味する「目代」(代理人)などと同類の「称号」ではないかとされ、おそらく多利思北孤が派遣した遣隋使に同行した近畿天皇家の使者を「目・多利思比孤」、すなわち多利思北(比)孤の代理人(目)として『新唐書』に記したのではないでしょうか。
 歴史事実がどのようなものであったか、その詳細はまだわかりませんが、『新唐書』編者の認識は、九州王朝の天子・多利思北孤の「目(代理)」として「目多利思比孤」という人物を近畿天皇家(日本国)の代表者として用明と崇峻の間に記録したと考えざるを得ません。
 以上のように、『新唐書』日本伝は多元史観・九州王朝説に立って読んだとき、初めてその成立過程が理解可能となります。近畿天皇家一元史観では「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という一文を全く説明できないのです。

 

掲載 歴史ビッグバン 古田武彦
(『新・古代学』第3集 1998年 新泉社)


第1072話 2015/10/09

条坊と摂津国分寺推定寺域のずれ

 摂津国分寺跡から7世紀の古い軒丸瓦が出土していたことをご紹介し、これを7世紀初頭の九州王朝による国分寺建立の痕跡ではないかとしましたが、この他にも同寺院跡が7世紀前半まで遡るとする証拠について説明したいと思います。それは、摂津国分寺の推定寺域が難波京条坊(方格地割)とずれているという問題です。
 『摂津国分寺跡発掘調査報告』(2012.2、大阪文化財研究所)によれば、摂津国分寺跡の西側には難波京の南北の中心線である朱雀大路が走り、更にその西側には四天王寺があり、東側には条坊の痕跡「方格地割」が並んでいます。その方格地割の東隣に摂津国分寺跡があり、その推定寺域は約270m四方とされています(11ページ)。ところがその推定寺域が条坊の痕跡「方格地割」とは数10mずれているのです。いわば、摂津国分寺は難波京内にありながら、その条坊道路とは無関係に造営されているのです。これは何を意味するのでしょうか。
 難波京の条坊がいつ頃造営されたのかについては諸説ありますが、聖武天皇の国分寺建立詔以前であるとすることではほぼ一致しています。わたしは前期難波宮造営(652年、九州年号の白雉元年)に伴って条坊も逐次整備造営されたと考えていますが、いずれにしてもこの条坊とは無関係に摂津国分寺の寺域が設定されていることから、難波京の条坊造営以前に摂津国分寺は創建されたとする理解が最も無理のないものと思われます。もし条坊造営以後の8世紀中頃に摂津国分寺が聖武天皇の命により創建されたのであれば、これほど条坊道路とずらして建立する必要性がないからです。既に紹介した7世紀前半頃と思われる軒丸瓦の出土もこの理解(7世紀前半建立)の正当性を示しています。
 したがって摂津国分寺の推定寺域と条坊とのずれという考古学事実は、摂津国分寺が7世紀初頭における九州王朝の国分寺建立命令に基づくものとする多元的国分寺造営説の証拠と考えられるのです。ちなみに、一元史観のなかには、このずれを根拠に朱雀大路東側の条坊は未完成であったとする論者もあるようです。同報告の「第3章 まとめ」には、そのことが次のように記されています。

 「古代における難波朱雀大路の東側の京域整備の状況には、条坊の敷設を積極的に認める説と、これに反対する説があるが、摂津国分寺の推定寺域が、難波京の方格地割とずれていることからも、この問題に話題を投げかけることになった。」(13ページ)

 このように摂津国分寺と条坊とのずれが一元史観では解き難い問題となっているのですが、多元的国分寺造営説によればうまく説明することができます。やはり、この摂津国分寺跡は九州王朝・多利思北孤による7世紀の国分寺と考えてよいのではないでしょうか。


第1071話 2015/10/08

摂津国分寺跡(天王寺区)出土の軒丸瓦

 九州王朝の多利思北孤による7世紀初頭(九州年号の告貴元年、594年)の国分寺(国府寺)建立と8世紀中頃の聖武天皇による国分寺建立という多元的国分寺論のひとつの検証ケースとして、摂津国分寺が二つあるというテーマを「洛中洛外日記」1026話で紹介しましたが、ようやく『摂津国分寺跡発掘調査報告』などを閲覧することができました。
 二つの摂津国分寺とは、ひとつは大阪市北区国分寺にある護国山国分寺で、「長柄の国分寺」とも称されています。もう一つは天王寺区国分町にある国分寺跡です。その発掘調査報告書によると、古代瓦などが出土しており、現地地名も天王寺区国分町であることから、ここに聖武天皇による摂津国分寺があったとする説が有力視されています。ですから、北区に現存する国分寺は摂津国府が平安時代(延暦24年、805年)に上町台地北側の渡辺に移転したことに伴って「国分寺」を担当したとされているようです(『摂津国分寺跡発掘調査報告』2012.2、大阪文化財研究所)。
 今回閲覧した『四天王寺旧境内遺跡発掘調査報告1』(1996.3、大阪市文化財協会)に記された出土軒丸瓦に大変興味深いものがありました。摂津国分寺跡出土瓦の図表にある「素弁蓮華文軒丸瓦」片です(SK90-2出土)。同遺跡からは他に8世紀のものと見られる「複弁六葉蓮華文軒丸瓦」や「重圏文軒丸瓦」が出土しているのですが、この「素弁蓮華文軒丸瓦」だけは7世紀前半のものと思われるのです。
 同報告書にもこの瓦について「ほかに1点だけこれらの瓦より古い瓦が出土しているので、奈良時代にこの地に国分寺が造られる以前にも寺があった可能性も考えなければならない。」(105ページ)と解説しているのです。『大阪市北部遺跡群発掘調査報告』(2015.3、大阪文化財研究所)においても、この瓦のことを「一方で、SK90-2次調査では7世紀代とみられる素弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、国分寺以前にこの地に寺のあった可能性も指摘されている。」(160ページ)としています。
 この出土事実から、天王寺区国分町にあった摂津国分寺の創建は7世紀にまで遡り、このことは国分寺多元説、すなわち九州王朝・多利思北孤による国分寺(国府寺)建立説を支持するものではないでしょうか。(つづく)


第1055話 2015/09/16

阿蘇山噴火と古代史

 阿蘇山噴火のニュースに接し、改めて『隋書』の次の記事を反芻しました。

 「阿蘇山があり、その石は故無くして火をおこし天に接す。俗人これを異となし、因って祭祀を執り行う。」『隋書』(タイ)国伝

 わたしたち古田学派はこの記事などを根拠に九州王朝説を主張しているのですが、大和朝廷一元史観の研究者も『隋書』を「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の根拠としていたことをご存じでしょうか。意外と思われるかもしれませんが、彼らのロジックは次のようなものでした。

1.「魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。」とあるから、『三国志』の時代の「邪馬台国」から隋の時代の7世紀まで同一王朝である。
2.7世紀に遣隋使を大和朝廷が派遣したことは『日本書紀』に記されており、7世紀の倭国の代表王朝は大和朝廷である。
3.『隋書』にある通り、7世紀の大和朝廷も3世紀の「邪馬台国」も連綿と続いた同一王朝である。
4.従って、「邪馬台国」の所在地は大和である。
5.だから、『隋書』に見える多利思北孤は大和朝廷の聖徳太子として問題ない。隋使が聖徳太子を倭国の天子と勘違いしただけである。

 およそこのようなロジックにより、「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の根拠として『隋書』を利用してきました。しかしこのロジックにはいくつもの学問的誤りがあります。たとえば次の通りです。

A.大和朝廷が自らの「歴史」を自ら編纂した『日本書紀』の記述を無批判に信用している。『日本書紀』がどの程度正しいかという史料批判がなされていない。犯罪捜査で言えば、容疑者の「俺は無実だ」という証言を無批判に信用するというレベルで、まともな裁判官・検察ならこのようなことはしません。
B.『隋書』に記された国の人物名が『日本書紀』には一人として記されていない。犯罪捜査で言えば、名前や性別(多利思北孤は男性。妻も子供もいる。推古天皇は女性。)も異なる別人を逮捕するという冤罪そのものです。
C.『隋書』に記された「阿蘇山」や「竹斯」といった九州の地名は無視し、近畿地方の地名など一切記されていないのに、「舞台は奈良県だ」と主張する。

 他にもありますが、このレベルの話しが大和朝廷一元史観の学者によれば、「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の「根拠」「論証」とされてしまうのですから、日本古代史学界は摩訶不思議な世界です。こんなことだから「阿蘇山が怒って噴火する」と言いたくもなります。