九州王朝(倭国)一覧

第1152話 2016/03/20

考証・和紙の古代史(2)

 日本列島での国産和紙製造は、倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)造籍に膨大な紙が必要ですから、この時期までには行われていたと思われますが、更に遡る可能性が高いのではないでしょうか。
 たとえば現在も越前和紙の産地として有名な福井県越前市今立町には、5世紀末〜6世紀初頭(継躰天皇が子供の頃)に「岡太川の女神」から製紙の技術が伝えられたという伝承があります。もちろんその伝承が歴史事実かどうかただちには判断できませんが、時代的に考えて、荒唐無稽とは言い難く、歴史事実を反映した伝承ではないかと推定しています。機会を得て、現地調査したいと考えています。
 もし越前への製紙技術伝播がこの頃だとすれば、おそらく九州王朝のお膝元である北部九州への製紙技術導入は更に遡ると考えられますから、古墳時代には伝わっていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。なお、九州最古の和紙産地とされる福岡県八女地方では、その製紙技術は文禄4年(1595)に越前からやってきた日蓮宗僧侶の日源により伝えられたとされています。これも歴史事実かどうか検証が必要ですが、日本最古の和紙製造伝承を持つ今立町と福岡県八女地方との間に和紙製造で関係があったこととなり、興味深いものと思われます。
 なお、大寶2年(702)筑前国戸籍断簡が正倉院に現存しており、これには現地の和紙が用いられていると考えられており、当時の筑前か筑後では和紙生産が行われていたことを意味しますので、16世紀に伝わった八女の和紙を「九州最古」とすることの根拠が不明です。「現存最古」という意味でしょうか。


第1151話 2016/03/19

律令時代の中央職員数は九千人強

 本日の「古田史学の会」関西例会では、冒頭に服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)よりミネルヴァ書房から出版された『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』の説明があり、会場で特価販売を行いました。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)も刊行され、2015年度賛助会員へは明石書店から順次発送されるとの報告がなされました。
 その服部さんから、古代律令時代の中央職員数に基づく考察が発表されました。養老律令によれば総勢九千人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとのこと。従って、7世紀中頃に九州王朝が評制による全国支配をしていた宮殿として、九千人が勤務したり、家族と共に生活できる都は前期難波宮か太宰府しかないとされました。一元史観の通説では孝徳天皇没後に前期難波宮から飛鳥宮へ遷都したとされていますが、九千人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も飛鳥宮にはありません。この矛盾を一元史観では全く説明できないのです。
 こうしたことから、前期難波宮が造営された難波には、職員やその家族が生活する「宅地分譲」のために条坊が同時に造営されたとする高橋工さん(大阪文化財研究所)の説を紹介されました。わたしもこの7世紀中頃の前期難波宮と条坊造営説に賛成ですので、服部さんの数字を示しての発表には説得力を感じました。
 3月例会の発表は次の通りでした。高知市から別役(べっちゃく)さん(古田史学の会・会員)が夜行バスで初参加されました。

〔3月度関西例会の内容〕
①「宮城と官僚」-難波宮・飛鳥宮・太宰府政庁・藤原宮・平城京(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(姫路市・野田利郎)
③中国風一字名称について -『二中歴』年代歴の「武烈」の理解-(高松市・西村秀己)
④定策禁中(京都市・岡下英男)
⑤弥生の硯が証明する古田論証(川西市・正木裕)
⑥ニギハヤヒを考える(東大阪市・萩野秀公)
⑦『日本書紀』の盗用手法について -大和中心にベクトルを転換-(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田光河氏より来信・史跡巡りハイキング(大東市立歴史民俗資料館)・ミネルヴァ日本評伝選『三好長慶』を読む・東大寺二月堂「お水取り」に関する水野説(長屋親王への慰霊)・TV視聴・その他


第1148話 2016/03/12

『邪馬壹国の歴史学』ついに刊行

 『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』がついに刊行されました。先日、ミネルヴァ書房から『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』が届いていました。古田先生の追悼も兼ねた渾身の一冊です。
 収録論文には古田先生の遺稿も含まれ、「古田史学の会」会員の論文は『三国志』倭人伝の最先端研究を収録しました。論文採否に当たっては、一切の妥協を排し、完全に納得したものだけを編集部で選びぬきました。古田先生の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった』の後継論文集と自負しています。古田先生からも御生前にお褒めいただいた力作です。ご協力いただいた皆様や執筆者の方々に心から感謝申し上げます。
 この一冊を古田武彦先生に捧げます。

【目次】
はじめに -追悼の辞- 古田史学の会・代表 古賀達也
「短里」と「長里」の史料批判 -フィロロギー- 古田武彦
序 「邪馬台国」から「邪馬壹国」へ 古田武彦

Ⅰ 短里で書かれた『三国志』
1 「邪馬壹国」はどこか -博多湾岸にある- 古田武彦
2 『倭人伝』の里程は正しかった -「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算- 正木 裕
3 中国内も倭国内も短里 古田武彦
4 「倭地、周旋五千余里」の解明 -倭国の全領域を歩いた帯方郡使- 野田利郎
5 『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察- 古賀達也
6 短里と景初 -誰がいつ短里制度を布いたのか- 西村秀己
7 古代の竹簡が証明する魏・西晋朝短里 -「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」- 正木 裕
8 「短里」の成立と漢字の起源 -「短里」の成立は殷代に遡る- 正木 裕
9 『三国志』中華書局本の原文改訂 古賀達也

Ⅱ 「邪馬壹国」の文物
1 女王国はどこか -矛の論証- 古田武彦
2 銅鐸問題 古田武彦
3 「卑弥呼の鏡」特注説 古田武彦
4 絹の問題 古田武彦
5 鉄の歴史と「邪馬壹国」 服部静尚
6 三十国の使いと「生口」 古田武彦

Ⅲ 二倍年暦
1 陳寿が知らなかった二倍年暦 古田武彦
2 盤古の二倍年暦 西村秀己

Ⅳ 倭人も太平洋を渡った
1 裸国・黒歯国の真相 古田武彦
2 エクアドルの遺跡問題 古田武彦
3 エクアドルの大型甕棺 -「倭国南海を極むる也、光武以って印綬を賜う」- 大下隆司

Ⅴ 『三国志』のハイライトは倭人伝だった
1 『三国志』の歴史目的 古田武彦
2 『三国志序文』の発見 古田武彦

Ⅵ 「邪馬壹国」と文字
1 「卑弥呼」と「壹」の由来 古田武彦
2 『魏志倭人伝』の「都市牛利」 古田武彦
3 北朝認識と南朝認識 -文字の伝来- 古田武彦
4 『魏志倭人伝』の国名 古田武彦
5 官職名から邪馬壹国を考える 正木 裕
6 『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名の起源-「泄謨觚・柄渠觚・※馬觚」は周王朝との交流に淵源を持つ- 正木 裕
 (※=「凹」の下に「儿」)

Ⅶ 全ての史学者・考古学者に問う
1 纒向は卑弥呼の墓ではない 古賀達也
2 邪馬台国畿内説と古田説がすれ違う理由 服部静尚
3 庄内式土器の真相 -古式土師器の交流からみた邪馬壹国時代の国々- 米田敏幸
4 「邪馬台国」畿内説は学説に非ず 古賀達也

編集後記 服部静尚
巻末史料1 倭人伝(紹煕本三国志)原本
巻末史料2 倭人伝(紹煕本三国志)読み下し文 古田武彦
事項索引
人名索引


第1146話 2016/03/09

三雲・井原遺跡出土「硯」の使用者

 久留米市の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からメールをいただきました。3月5日に開催された「三雲・井原遺跡番上地区330番地現地説明会」の報告とともに説明会資料(糸島市教育委員会文化課)が添付されていました。弥生後期の硯が出土した遺跡で、貴重な説明会資料です。現地説明会などにはなかなか参加できませんから、こうして資料を送っていただき、ありがたいことです。
 資料によれば、この硯が出土した番上地区は50点以上の「楽浪系土器」が集中して出土するという、他の遺跡には見られない特徴を有していることから、「渡来した楽浪人の集団的な居住(滞在)を示す。」とされています。すなわち、出土した硯は楽浪からの渡来人が使用したとされて、次のように解説されています。

【硯出土の意義】
①これまでも三雲・井原遺跡番上地区には楽浪郡から来た人々が滞在したことが想定されていたが、硯の出土により楽浪郡(中国)との正式な文書のやり取りや、銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された可能性が高まった。つまり、楽浪郡からの使者が渡海する目的の一つが伊都国の王都とされる三雲・井原遺跡の訪問にあることが想定される。
②『魏志倭人伝』には伊都国で文書(木簡)を取り扱った記事があるが、今回の硯の出土で記述の信頼性が高まった。
③朝鮮半島南部でも茶戸里遺跡で筆が出土し、半島南岸まで文書(木簡)が使用されていることは出土品から確認されていたが、筆は有機質であるため環境によっては残らないことが多い。今回の硯の出土は日本における文字文化の需要が弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す。

 倭国王都の三雲・井原遺跡を伊都国王都としており、問題のある解説ではありますが、同地で文書行政が行われていたこと、同地から文字受容が始まったとする理解は穏当なものです。すなわち倭国の中心領域が古田説の糸島・博多湾岸であることを支持する解説なのです。「銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された」とありますから、受領書や返礼書は受け取った当事者が書くものですから、同遺跡からはるかに離れた邪馬台国畿内説などでは説明不可能です。
 さらに考えれば、楽浪人(中国人)が当地に常駐していたとされていますから、女王国(邪馬壹国)の情報がかなり正確に中国に報告されており、その報告に基づいて記された「倭人伝」の記述も正確であったと言えます。


第1144話 2016/03/06

糸島市出土「硯」の学問的意義

 糸島市から出土した弥生時代の硯は、同地が文字文化受容の先進地域に属していたことを示しています。このことに関する論稿を「洛中洛外日記」744話『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)』で記しました。この『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず』はもうすぐ発行予定の『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)に収録されます。
 こうした出土物が報告されるたびに、古田先生や古田史学の素晴らしさを何度も実感させられます。古田先生が生きておられれば、この硯の出土をどれほど喜ばれたことでしょう。
 『三国志』倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されてます。ですから日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補です。そうした地域が北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)で、次のような遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに加えて、今回の「硯」が出土したのですから、だめ押しともいえる画期的な出土といえます。日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有す糸島博多湾岸(筑前中域)を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。


第1135話 2016/02/07

大善寺の十二弁菊花紋の御神像

「洛中洛外日記」1130話で肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究を紹介したところ、鳥栖市のTさんから久留米市大善寺にも十二弁菊花紋を持つ祠があることをお知らせいただきました。メールで送信していただいた写真には確かに石の祠に十二弁菊花紋があり、御神像が安置されていました。
 そこで、久留米市の研究者で威光理神や筑後国府のことをお調べいただいた犬塚幹夫さんにその祠のことをお伝えし、調査協力をお願いしたところ、早速次のメールが届きました。
 なんと十二弁菊花紋の祠の神様は女性の恵比寿様とのこと。恵比寿様といえば男性と思いこんでいたのですが、これには驚きました。ちなみに、筑後地方には恵比寿信仰が濃密に残っており、その淵源は九州王朝や高良大社とも関係がありそうです。楽しみな研究テーマがまた一つ増えました。当情報をお知らせいただいたTさんと犬塚さんに感謝いたします。
 以下、犬塚さんのメールをご了解の上、転載します。

古賀達也様
十二弁菊花の祠について

 先だっては、貴重なお話を聞かせていただき大変刺激になりました。ありがとうございました。
 さて、遅くなりましたが、十二弁菊花の祠について現在までに判明したことをお知らせします。

1  現地調査
 祠は西鉄大善寺駅の近く、明正寺という浄土真宗のお寺の脇にあります。祠自体にご祭神の情報がなかったため、お寺の方に聞いてみたところ、ご祭神は恵比須様であること、毎年七月下旬に町内の子どもが集まってお祭りをすること、祠がいつの時代からあるのかはわからないことなどを聞かせていただきました。

2  文献調査
 この祠と神像について、「久留米市史第5巻」では、「大善寺町には、明正寺前の祠にも木彫の恵比須(女形)が祭られている」とあり、ご祭神は恵比須様の女神であることがわかります。
 また、加藤栄「史料とはなし 鄕土大善寺」では、「恵比須さん 明正寺の道端にある町祠。明治初年からの木像がある。」とあるます。明治になって木像が補修されたのでしょうか。
 坂田健一「恵比須の中の筑後」で、次のように述べています。
 「恵比寿を単体で祭祀する場合、抱鯛型通相の神像がほとんどであるが、時に女神だけの事例もある。」として、久留米市大善寺にある二例の女神だけの恵比寿神像について説明しています。
 一つは、大善寺藤吉の称名院前の石祠にある神像で、「筑後秘鑑」によれば日本最初の市蛭子ということです。現地で確認したところ、神紋は「十二弁の菊花紋」ではなく「三つ蔓柏」でした。
 もう一つが大善寺宮本の恵比寿像です。坂田氏はこれについて、「石祠は大型の入母屋平入りの堂々たる構えで破風面に十二花弁の菊花が彫り出されているのが特徴的で珍しかった。『享和元年(一八〇一)酉年十月吉馬焉』の銘の外に、『上野町願主 江口吉右衛門』や庄屋の江口小右衛門、別当の田川儀七などの刻銘がある。
 内部の神像は高さ約二五センチほどの木彫で、頭頂部分が欠失しているが、明らかに垂髪の女神像である。目は線状に彫りくぼめ、鼻は三角形の小さな突起をつくり、両手を膝上に組んで何かを捧げている態様であるが、詳細は不明。小袖・袿・長袴姿を着た平安期の正装女性を感じさせるが、着衣の袖が左右に大きく張り出し、全体の形が三角形を呈しているのが出色である。
 神像の周囲に素焼きの恵比須・大黒像が置かれていて、この女神像が恵比須として祭祀されていることは明らかである。」としていますが、十二弁の菊花紋が使用されている理由などについては特に触れていません。

3  御廟塚
 大善寺町から約2キロメートル離れた三潴町高三潴にある高良玉垂命の墓と伝えられる御廟塚に祠がありますが、「三潴町文化財探訪」に「正面鳥居の前に小さな石祠がある。恵比須神の石祠である。」とされています。
 また、坂田氏の「恵比須の中の筑後」では、「三潴町の恵比須  塚崎の高良廟の境内に石祠がある。もとは古い石祠だったと思われるが、現在の祠は奥壁の一枚を保存して再建したものと推測される。この奥壁は平石の中央を彫りくぼめ、左右の縁部を前方に突出した形になっている。半肉彫に表現された恵比須は、高さ三二センチほどあり、両手で大鯛をがっちり抱え込む珍しい様式のものである。再建石祠の向かって右側面に『文政五年(一八二二)六月吉日 昭和七年十月再建』の銘がある。」とされています。
 念のため現地で確認したところ、大善寺藤吉の神像と同じく「三つ蔓柏」の神紋を使用していました。

4  十二弁菊花の神紋について
 十二弁菊花の神紋については、どの文献も触れていなかったため、神社に関するサイト「玄松子の記憶」を参照しました。玄松子さんが自ら調査した神社という制約はあるもののかなりの数の例が挙げられていますので大変参考になります。
 菊花の神紋を持つ254社のうち
十二弁       3社
    宇佐神宮  大分県宇佐市
    明治神宮  東京都渋谷区
        荏原神社  東京都品川区
 八弁       4社
十四弁       5社
十五弁       1社
十六弁その他    241社
(分類・集計は犬塚による)

 以上現在まで判明した事項についてお知らせしました。今後、私も十二弁、十三弁の神紋について探していきたいと思っております。

参考文献
加藤栄「史料とはなし 郷土大善寺」 1977
久留米市史編さん委員会「久留米市史 第5巻」 1986
坂田健一「恵比須の中の筑後」 1998

犬塚幹夫


第1130話 2016/01/30

肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究

 多元的「国分寺」研究サークルを一緒に立ち上げた肥沼孝治さん(東京都・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ(中社)」は古田史学のことも頻繁に取り上げられていることもあって、古田ファンからも人気のサイトです。そのブログで最近面白いテーマ「十二弁の菊花紋」についての論稿が報告されていますので、ご許可をいただいて「洛中洛外日記」に転載させていただきます。
 九州王朝の家紋は「十三弁の菊」とする説を九州王朝のご子孫のMさんから以前お聞きしたことがありますが、「十二弁の菊」も江田船山古墳から出土した大刀に銀象嵌されており、十三弁と十二弁の関係なども興味深い問題です。「十三弁の菊」については「洛中洛外日記」第24話や「天の長者伝説と狂心の渠」などをご参照ください。

「肥さんの夢ブログ(中社)」から転載
 2016年1月25日 (月)
「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地

 上記の無文銀銭について,先ほど今村啓爾著『富本銭と謎の銀銭〜貨幣誕生の真相』(小学館)で確認したところ,出土地が判明した。摂津国天王寺村の眞實院という字名の畑の中からである。
 摂津国天王寺村といえば,どんぴしゃり!古賀さんが「九州王朝の副都」として論証を進めているまさにその場所で,その九州王朝の発行したと思しき「12弁の菊花紋」入り無文銀銭が発見されたのだ。まさにキャッチャーの構えたミットにズバッと直球が投げ込まれたようなものである。しかもその発見場所の名前が「眞實(真実)院」というわけだから,まさに人生の不思議この上ない。
 なお,無文銀銭が最初に発見されたのも,この眞實院である。(100枚ほど。このうち1枚が現存で,2枚が拓本と図がある)無紋銀銭というと滋賀県の崇福寺が有名だが,あちらは昭和15年と新しい発見で,こちらは1761(宝暦)年10月7日というのだから,桁違いに古い発見なのだ。


第1125話 2016/01/21

合田洋一さんが愛媛大学で講演

 1月20日(水)に「古田史学の会」全国世話人(古田史学の会・四国 事務局長)の合田洋一さん(松山市)が愛媛大学に招かれ、学生に対し「古代に真実を求めてー聖徳太子を事例として」と題し講演を行なわれました。
 講演では、「一元史観」と「多元史観」という視点から、神武天皇に始まる大和の天皇家が日本列島を連綿と統治していたとする「一元史観」と、古代には日本列島各地に王国・王朝があったとする「多元史観」のどちらが真実なのかについて、志賀島の「漠委奴国王」の金印や『三国志』「魏志倭人伝」の邪馬壹国と女王・卑弥呼、「日出ずる処の天子」と「聖徳太子」、『旧唐書』に別国と記される「倭国」「日本国」などを例にあげ、「古田史学」が追及してきた問題を解りやすく解説しました。工学部など理系の学生(2回生)が中心でしたが約110人が熱心に聴講されたとのことです。
 古田先生はご逝去されましたが、追悼講演会が大阪府立大学で盛大に開催され、その直後に国立愛媛大学でも古田史学に基づく講演が開催されたことは、多元史観にもとづく古代史学のうねりを感じます。今後も、各地の会員の皆さん、友好団体の方々のご協力を得て、講演活動を積極的に展開し、古田武彦先生の切り開かれた多元史観の発展に努めていきたいと思います。


第1119話 2015/12/31

筑後国府「前身官衙」が出土

 今年最後の「洛中洛外日記」となりますが、地元久留米市の研究者、犬塚幹夫さんから教えていただいた筑後国府「前身官衙」の出土について紹介します。
 筑後国府の研究は江戸時代には行われており、17世紀後半頃には真辺仲庵(まなべちゅうあん)は高良山西麓の「府中」(御井町付近)に国府跡があると『北筑雑藁』に記しています。幕末の久留米藩士の矢野一貞は合川町の「フルゴウ」付近としました。付近には字地名「コミカド」(小朝廷)などもあり、久留米藩最後の御用絵師・三谷有信(1842〜1928)はその「小朝廷」の復元図『御井郡国府図』を書いています。
 現在までの発掘調査によれば、筑後国府は場所を移動させながら1期から4期までの遺跡が知られています。1期は最も西に位置し、高良山麓へ移動しながら4期が最も東側となります。このことから筑後国府は他の国府には見られないほど長期間にわたり存続したことになります。しかも、最新の発掘調査では1期の遺構にそれよりも古い「前身官衙」が発見されたとのこと。
 現在の考古学編年ではこの「前身官衙」を7世紀中頃から末としていますが、北部九州の7世紀頃の編年は大和朝廷一元史観の影響により50年ほど新しく編年されている可能性が高いので、おそらくこの「前身官衙」は6世紀末から7世紀前半までさかのぼるのではないかと、わたしは考えています。
 今までの九州王朝研究の成果から考えると、九州年号の倭京元年(618)に多利思北孤が太宰府遷都するまで、5〜6世紀頃は九州王朝の国王・天子は「玉垂命」を襲名しながら筑後に都をおいたと考えられていますから、その宮殿遺構の候補として筑後国府跡や同「前身官衙」が比定できるのではないかと考えています。これからの考古学調査と分析が必要です。同時に文献史学との整合性をもった研究も重要です。おそらく2016年はこうした研究が一層進展することでしょう。そのためにも犬塚さんら地元研究者への期待が高まります。
 それでは読者の皆様、よいお年をお迎えください。新年も「洛中洛外日記」をさらに充実させていきますので、お力添えをお願い申しあげます。


第1118話 2015/12/31

久留米市高三潴から出土した銅鐸

 久留米の実家でテレビを見ていると太宰府天満宮の初詣のコマーシャルなどがあり、九州ならではと感じます。
 昨日、犬塚幹夫さんから久留米市高三潴遺跡から銅鐸が出土していたことを教えていただきました。このことをわたしは全く知りませんでした。しかも出土した場所が高三潴ということで更に驚いたのです。高三潴といえば、大善寺玉垂宮の近くで初代の玉垂命の墳墓があるところです。この墳墓は貝殻で造られており、弥生時代の遺跡で銅剣などが出土しています。その地域から小型銅鐸が出土したのです。昨年の発掘調査で出土したとのことで、まだ発掘調査報告書は出ていないそうです。
 玉垂命は後の「倭の五王」へと続くのですが、初代はおそらく天孫降臨の時代(弥生時代前期末頃)の人物と思われますが、その故地から天孫降臨により滅ぼされた側のシンボルである銅鐸が出土したのですから、とても興味深く感じています。この銅鐸は筑後で出土した唯一のものとのことですから、なおさらです。出土状況や出土層の編年など、調査報告書の発行が待たれるところです。(つづく)


第1109話 2015/12/21

入唐僧空海の持参金

 わたしは出社の日は自転車通勤(チャリ通)ですが(大半は直行直帰の出張)、今朝の京都は雨だったのでバスを利用しました。拙宅のある上京区から南区の会社へ行く途中、「九条大宮」のバス停を通過するのですが、そのおり京都市バスの運転手さんが「弘法さんに行かれる方はここでお降り下さい」と車内アナウンスされ、今日が「弘法さん」(空海の月命日に東寺で催される法会。境内や周辺に多数の露店が並びます)であることに気づきました。特に年末12月は「終い弘法」と呼ばれています。ちなみに、命日は3月21日(承和二年、835年)です。
 空海は青年の頃、遣唐使として入唐し、帰国時には大量の経典・法具類を持ち帰っています。この空海の帰国年次を「大同二年(807)」とする史料(『御遺告』他)があるのですが、帰国後に大宰府で書いた経典類の目録『御請来目録』(最澄による写本が東寺に現存)には「大同元年(806)」と記されており、これら空海帰国年の二説について永く論争がありました。
 この空海帰国年に関する論文「空海は九州王朝を知っていた」(1991年『市民の古代』13集)を、わたしは書いたことがありますが、そのとき何となく空海は入唐にあたり、旧九州王朝の有力者(筑前王太守?)のバックアップを得ていたのではないかと考えていました。もちろん明確な史料根拠や論証があったわけではありません。
 ところが先日の関西例会で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からとても面白い史料紹介がありました。その史料によると、空海は現在の金額で約8000万円を支払って、経典・法具などをもらったとされているのです。そのような大金を当初は一介の私度僧に過ぎなかった空海はどのようにして集めたのでしょうか。またその額に相当する貨幣はかなりの重量であり(絶対に空海一人では運べない)、どうやって運んだのだろうかと、西村さんは数々の疑問点を指摘されたのです。
 「香川県出身の唯一の偉人」(西村談)とされる空海には多くの謎があり、歴史研究者にはたまらない人物であり研究テーマです。


第1099話 2015/11/29

高島忠平さんが追悼記事

 「洛中洛外日記」の読者で久留米市の犬塚幹夫さんからメールをいただき、「西日本新聞」11月4日朝刊に高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が掲載されていることを教えていただきました。
 高島さんは吉野ヶ里遺跡を発掘された著名な考古学者で、学界内では少数派の「邪馬台国」九州説に立たれています。現在は学校法人旭学園(佐賀市)の理事長をされておられますが、古田先生とは古くから親交がありました。1991年8月に昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された「古代史討論シンポジウム『邪馬台国』徹底論争 --邪馬壹国問題を起点として--」(東方史学会主催)に、七田忠昭さんとともに参加されています。そのときの発表や討論の内容は『「邪馬台国」徹底論争』1〜3巻(新泉社)に収録されています。24年前のことですが、読み返してみますと、懐かしさがこみ上げてきます。
 「西日本新聞」の追悼記事は「古田武彦さんを悼む」という表題とともに、「常識、定説、権威に対する疑問と反抗心」という見出しと先生の遺影・著作の写真が掲載されています。そして「邪馬壹国」説に始まり、「多元的古代」「九州王朝」説にもふれられ、「私は多元的古代史観に共感している。古田さんの描く九州王朝説をそのまま受け入れられないが、「地域史観」を持っている。(中略)私も邪馬台国のフォーラムに呼ばれたことがある。自説は確固として、激しく主張されるが、他説には謙虚に耳を傾けておられた姿が印象的であった。」と記されています。
 そして最後に、「古田さんは、もともとは思想史が専門で、親鸞の研究で知られている。既成の日本仏教に反旗をひるがえし、仏教に革命をもたらした親鸞と古田さんの間には、共通して常識、定説、既成の権威に対する絶えない疑問と反抗心があったように思う。冥界で出会った2人はどんな論争をしているだろうか。ご冥福を祈ります。」と結ばれており、とても誠実な追悼文です。先生も冥界で喜んでおられることでしょう。高島さんに感謝したいと思います。なお、同記事の全文は「古田史学の会」やわたしのfacebook(Tatuya Koga)に張り付けていますので、ぜひご覧ください。