九州王朝(倭国)一覧

第980話 2015/06/13

35年ぶりに『戦争論』を読む

 先日、京都駅新幹線ホーム内にある本屋で川村康之著『60分で名著快読 クラウゼヴィッツ「戦争論」』(日経ビジネス人文庫)が目にとまり、パラパラと立ち読みしたのですが内容が良いので購入し、出張の新幹線車内などで読んでいます。著者は防衛大学を卒業され自衛隊に任官、その後、同大学教授などを歴任され、昨年亡くなられたとのこと。日本クラウゼヴィッツ学会前会長とのことですので、どうりで『戦争論』をわかりやすく解説されているわけで、納得できました。
 クラウゼヴィッツの『戦争論』は古典的名著で、わたしも20代の頃、岩波文庫(全3冊)で読みましたが、当時のわたしの学力では表面的な理解しかできず、その難解な表現に苦しんだ記憶があります。集団的自衛権や安保法制、そして中国の海洋侵略やアメリカとイスラム国との戦争など、世界は大戦前夜のような時代に突入していますから、川村さんの解説に触発されて、書棚から35年前に読んだ『戦争論』を引っ張り出し、再読しています。
若い頃読んで重要と感じた部分には傍線を引いており、当時の自分が『戦争論』のどの部分に関心を示していたのかを知ることができます。傍線は主に「第一篇 戦争の本性について」「第二篇 戦争の理論について」「第三篇 戦略一般について」の部分に集中していることから、実践的な面よりも戦争理論や哲学性に興味をもって読んでいたようです。
 今回は「第六篇 防御」を読んでいます。その理由は、古代九州王朝における水城や大野城山城・神籠石山城がどの程度対唐戦争に効果的であったのかの参考になりそうだからです。というのも「第六篇」には「要塞」「防御陣地」「山地防御」「河川防御」といった章があり、防御側と攻撃側のそれぞれのメリット・デメリットが考察されており、九州王朝の防衛戦略を考察する上でとても参考になります。
 通常、攻撃よりも防御の方が戦術的には有利で、攻撃側は防御側の3倍の戦力が必要とされています。したがって、九州王朝は九州本土決戦で防御戦略を採用していれば唐に負けていなかったと思われます。もちろん「防御」ですから、戦力の極限行使による絶対的戦争の勝利は得られませんが、とりあえず国が滅亡することは避けられます。しかし、九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。現代の経営戦略理論でも同盟(アライアンス)は重視されますが、「行動は共にするが、運命は共にしない」というのが鉄則です。九州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。この点、日露戦争や大東亜戦争の開戦動機との比較なども、今後の九州王朝研究のテーマの一つとなりそうです。
 他方、朝鮮半島で勝利をおさめた唐は賢明でした。倭国本土での絶対戦争ではなく、薩夜麻を生かして帰国させ、日本列島に「親唐政権」を樹立するという政治目的を自らの軍事力を直接的に行使することなく成功させました。やはり、軍事力でも戦争理論でも唐は九州王朝よりも一枚上手だったということでしょう。『戦争論』の再読が完了したら、これらのテーマについて深く考察したいと思います。


第979話 2015/06/13

健軍神社「兄弟元年創建」史料

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市最古の神社とされる「健軍神社」の創建年がウィキペディアには「欽明19年(558年)」とされていることをご紹介しました。この年が九州年号「兄弟」元年に相当するので、史料根拠を探してみたところ、『田代之宝光寺古年代記』に次のように記されていることを発見しました。

(前略)
「戊刀兄弟 天下芒(暁)ト言健軍社作始也 老人皆死去云々」
「己卯蔵知」
(以下略)
※「戊刀」は「戊寅」のこと。「暁」は金偏に「堯」。「蔵知」は『二中歴』には「蔵和」とある。(古賀注)

 田代之宝光寺は「鹿児島県肝属郡田代村」にあったお寺のようで、わたしが持っている活字本コピーの解説によれば「島津図書館にあった本を写したものである」とされています。このコピーはかなり以前に入手したもので、残念ながら出典は不明です。『田代之宝光寺古年代記』は九州年号の「善記元年」(522)から延寶六年(1678)まで記されており、それ以後は切れていて残っていないとのことです。
 兄弟元年戊寅(558年)に「健軍社作始也」とありますから、九州年号により健軍神社の創建年が記された貴重な史料であり、九州王朝下により創建されたことがうかがわれます。
 「天下芒(暁)ト言」の意味はまだわかりません。ご存じの方があればご教示ください。
 「老人皆死去云々」は『二中歴』など他の九州年号群史料には「蔵和」の位置にありますが、『田代之宝光寺古年代記』には「兄弟」の位置に記されているようです。ただし、年代記の類は狭いスペースに記事が書き込まれているケースが多く、位置がずれたり混乱することもありますので、やはり他の九州年号群史料に従って、本来は「蔵和」にあったと考えた方がよいように思われます。
 老人が「皆死去」したというのですから、流行病でも発生したのかもしれません。また、「云々」とありますから、引用した元史料にはその様子がもっと詳しく書かれていたのでしょう。
 林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)の説によれば、「老人死」を老人星が見えなくなるという意味であり、国家に内乱が発生したことの暗喩であるとされています。しかし、「皆死去」とありますから、老人星なるものが「皆」というほど天空にたくさんあったとも思われませんから、やはりここは「老人が大勢亡くなった」と文章通り普通に理解したほうが良いように思います。
 いずれにしましても、健軍神社の縁起や伝承記録を引き続き調査し、九州王朝との関係を更に調べることにします。熊本市現地の方のご協力をお願いいたします。


第978話 2015/06/12

「兄弟」年号と筑紫君兄弟

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市の「最古の神社」とされる健軍神社が「欽明19年(558年)」の創建で、この年こそ九州年号の「兄弟」元年に相当することから、「兄弟統治」を記念して「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないかと述べました。
 この「兄弟」年号に関して興味深い論稿が林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)から発表されました。「『二中歴』年代歴の「兄弟、蔵和」年号について(追加)」(『東海の古代』第178号、2015年6月。「古田史学の会・東海」発行)という論文で、「兄弟」年号は6年間継続したとする新説が主テーマです。その中で『日本書紀』欽明17年条(556)に見える、筑紫君の二人の子供「火中君」(兄)と「筑紫火君」(弟)こそ、九州王朝の兄弟統治の当事者ではないかとされました。欽明17年の2年後が九州年号「兄弟」元年(558)ですから、その可能性は高そうです。わたしもこの兄弟のことは知っていましたし、論文でもふれたことがありますが、九州年号の「兄弟」と時代的に関係するものとは気づきませんでした。さすがは九州年号研究を永く続けられてきた林さんならではの慧眼です。
 わたしは九州王朝の兄弟統治における兄弟の一人が「肥後の翁」ではないかと考えてきましたが、筑紫君の兄弟の名前が共に「火」の字を持っていることから、「火国」=「肥国」と考えられ、どちらかが「肥後の翁」ではないでしょうか。肥後の古代史が九州王朝との関係から、ますます目が離せなくなってきました。


第976話 2015/06/11

禁止された地名への天皇名使用

 「洛中洛外日記」971話「『天皇号』地名成立過程の考察」において、近畿天皇家の王宮(後期難波宮・藤原宮・平城宮・長岡京)跡地に天皇名が地名として遺存していないことを述べました。もともと付けられなかったのか、付いていたけども残らなかったのかは不明ですが、最高権力者(天皇)の名前を地名に使用するのははばかられたのではないかと考えてきました。
 そうしたら「洛中洛外日記」を読まれた正木裕さんから次のようなメールをいただきました。

古賀様、各位
『日本書紀』に天皇名を軽々しく地名に使ってはならないという趣旨の詔があります。

■大化二年(六四六)八月癸酉(十四日)
(略)王者(きみ)の児(みこ)、相続ぎて御寓せば、信(まこと)に時の帝と祖皇の名と、世に忘れべからざることを知る。而るに王の名を以て、軽しく川野に掛けて、名を百姓に呼ぶ。誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者の号(みな)は、将に日月に随ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は天地と共に長く往くべし。

これは九州年号大化期のもので近畿天皇家が九州王朝の天子名を消すためにだした詔勅(或は服部説なら九州王朝が自らの王名の尊厳を図るための詔勅を出した可能性もある)と思いますが、天皇地名がないのはこれとの整合をとる為なのかも知れませんね。
正木拝

 『日本書紀』の大化二年条(646)に天皇名を地名などに使用することを禁止するという趣旨の詔勅があるというご指摘です。この「大化2年」の詔勅が646年なのか、九州年号の大化2年(696)なのかという問題と、この詔勅が九州王朝のものなのか近畿天皇家のものなのかという検討課題がありますが、いずれにしても7世紀中頃から末にかけて、このような命令が出されたことは間違いないと思われます。
 従って、古代において最高権力者の名前を地名につけることがはばかられたという事実は動きませんが、同時に詔勅で禁止しなければならなかったということですから、最高権力者と同じ名前の地名が少なからずあったということもまた事実ということになります。そうでなければ詔勅まで出して禁止する必要はありませんから。
 次に考えなければならないことに、その天皇名とは生前に使用されていた名前か、没後におくられた諡号なのかという問題があります。『日本書紀』に付加された「漢風諡号」は8世紀に成立しますから、その対象から外れます。近畿天皇家の「和風諡号」も同時代(各天皇の没後すぐ)に成立したのものか、『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に成立したものかによりますが、『日本書紀』編纂時に「和風諡号」が成立したのであれば、これもまた対象から外れることになります。従って、論理的に可能性が最も高いものとしては生前の名前ということになりそうです。
 そして最も重要な検討課題は、この詔勅が禁止した名前とは九州王朝の天子の名前なのか、近畿天皇家の天皇の名前なのかということです。おそらくは九州王朝の天子や王族の名前と思いますが、近畿天皇家が701年以後に日本列島の最高権力者となった後は、九州王朝と同様にみずからの「天皇名」を地名に付けることは禁止したと思います。正木さんも指摘されたように、こうした詔勅が出されたことと、難波宮や藤原宮、平城宮、長岡京に「天皇名」地名が無いこととは対応しているのではないでしょうか。(つづく)


第973話 2015/06/07

二つの漢風諡号「皇極」「斉明」

『日本書紀』の漢風諡号(死後のおくりな)は『日本書紀』成立の数十年後に淡海三船により作成されたと考えられています。その中で例外的に天豊財重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)に対して、最初に即位(35代)したときは「皇極」、「孝徳天皇」を挟んで二度目の即位(37代)のときには「斉明」という二つの漢風諡号が付けられました。
『日本書紀』成立時には和風諡号(国風諡号)だけで漢風諡号は記されてなく、後に付記されたわけですが、和風諡号は二回とも「天豊財重日足姫天皇」と同じ名前で記されており、同一人物として『日本書紀』は編纂されています。生前の名前は舒明紀2年正月条に「宝皇女」とあり、和風諡号に見える「財」という字からも判断して、本名は「たから」と考えられています。
この「たから」天皇だけ、なぜ漢風諡号を二つつけられたのでしょうか。いわゆる「死後のおくりな」であれば一つでよいと思うのですが、『日本書紀』中でただ一人、天皇に2回即位したため、漢風諡号が二つ付けられたのかもしれません。しかし『日本書紀』に記された和風諡号は一つなので、漢風と和風で方針が異なったのでしょうか。不思議な現象です。
ちなみに『続日本紀』でも、2回天皇に即位した聖武天皇の娘(阿倍内親王)は「孝謙」(46代)と「称徳」(48代)と二つの「漢風号」が付けられており、『日本書紀』の「たから」天皇と同様です(西村秀己さんのご教示による)。しかし「孝謙・称徳」の場合は死後のおくり名ではなく、生前の尊号ですから、漢風諡号とは言い難いものです。
この「孝謙・称徳」が漢風諡号ではなく、いわば生前の「漢風尊号」であれば、『日本書紀』の「皇極・斉明」も「死後の尊号」という性格かもしれません。そうであれば、2回の天皇即位にあたり、後世にそれぞれの「漢風尊号」を淡海三船が付けたとも考えられます。おそらく、この件については先行研究があることと思いますので、調査したいと思います。
ちなみに、古田先生は「皇極」と「斉明」は別人、あるいは別人の伝承記事を『日本書紀』編者が盗用したため、後に付された漢風諡号が異なっていると考えられているようです。この古田先生の説についても勉強したいと思います。


第972話 2015/06/07

九州王朝の中国風一字名称

 九州王朝(倭国)において、中国風一字名称を倭王が持っていたことを古田先生が指摘されています。たとえば、『三国志』倭人伝に見える倭女王の壹与(3世紀)の「与」や、『宋書』倭国伝に見える「倭の五王」の「讃・珍・済・興・武」(5世紀)などです。
 『隋書』「(タイ)国伝」に見える太子の利歌彌多弗利(利、カミトウの利、7世紀)の「利」も中国風一字名称ではないでしょうか。古代日本において、「ら行」で始まる名詞(和語)はないことから、この「利」は中国風一字名称と考えざるを得ません。漢語であれば「蘭」や「猟師」などが使われていますから、「利」も中国風一字(漢語)名称と思われるのです。
 以上のように、倭国では少なくとも3世紀から7世紀において中国風一字名称を名乗っていたと考えられます。他方、近畿天皇家の「天皇」には中国風一字名称が記紀には見えません。『日本書紀』成立後に付加された死後の謚(おくり名)の漢風諡号はありますが、この漢風諡号(神武・斉明・天武など)は二字ですから、九州王朝の一字名称とは異なりますし、後代(『日本書紀』成立後)に付けられた謚ですから、神武や斉明たちが生きているときの自称ではありません。
 九州王朝の天子や倭王の死後の謚については史料がありませんので、どのようなものかは判断できませんし、学問的に論じることも現状では困難です。今後の研究課題です。


第971話 2015/06/06

「天皇号」地名成立過程の考察

 「みょう」地名の分布調査の結果、愛媛県にある字地名「才明(さいみょう)」が各地にある「みょう」地名の一つではないかと考えたのですが、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)は斉明天皇の「斉明」ではないかとされています。この合田説に触発され、「天皇号」が地名とされる過程について、どのようなケースがあるのかを考えています。
 考察に先立ち、近畿天皇家の宮殿や都に遺存する「権力者(に由来する)地名」を調べてみました。有名なところでは、長岡京の字「大極殿」や平城京の「大極の芝」があり、いずれも大極殿跡が出土しており、地名と遺跡が一致していることが考古学的発掘調査により確かめられました。古田先生が度々紹介されてきた事例です。
 藤原宮の場合は「大宮殿」(大宮堂)という地名呼称が遺存しており、そこから宮殿跡が出土し、藤原宮の全貌が発掘調査により明らかとなりました。この他にも、「大和国高市郡鴨公村、大字高殿・字宮所・字大宮・字京殿・字南京殿・字北京殿・字大君・字宮ノ口」が記録(飯田武郷『日本書紀通釈』)に残されています。
 これらは「権力者(に由来する)地名」が遺存し、考古学的にその宮殿跡が確認されたケースですが、そこの地名に「天皇号(桓武・聖武・持統・文武など)」が使用された痕跡はありません。
 次に難波宮(前期・後期)があった大阪市上町台地(法円坂)ですが、ここには「権力者地名」そのものが見あたりません。聖武天皇の時代の「大極殿」も出土しているのですが、それにふさわしい「権力者地名」や「天皇号(孝徳・聖武など)」地名は遺存していません。
 このように近畿天皇家の宮殿跡地に「権力者地名」が付けられ、後世まで依存するかどうかは「偶然」や「時の運」によるとしか言えないようです。「天皇号」地名は付けられた痕跡がありません。一般論かもしれませんが、最高権力者(天皇)の名前を地名に付けるというのは古代においてははばかられたのではないでしょうか。中国では時の皇帝の名前に用いられたれ漢字さえも使用がはばかられた例があるほどです。(つづく)


第970話 2015/06/05

古代の長期海外出張

 今日は軽い与太話を一席。「洛中洛外日記」第883話「倭人はお酒好きで美人が多い?」で紹介した花王のヘアケア研究所のKさんと先日大阪で飲む機会がありました。
 Kさんは「邪馬台国」博多説の独特の持論をお持ちで、883話で紹介しましたように、『三国志』倭人伝によれば、倭人の女性は美人が多いと考えられ、倭人はお酒好きと書いてある。「博多美人」という言葉はあるが「奈良美人」というのは聞いたことがなく、奈良よりも博多の方が「飲兵衛」が多い。従って、「邪馬台国」博多説に賛成する、というものです。学問的かどうか微妙ですが、思わず同意してしまいそうなアイデアです。
 この「洛中洛外日記」883話を読んだ、奈良県ご出身の花王の女性社員はKさんに「おかんむり」で、はなはだ不評だったそうです。それはそうでしょうね。奈良県ご出身の女性の皆様、大変失礼いたしました。
 Kさんの表現によれば、「邪馬台国」畿内説は奈良県人にとって犯すべからざる「信仰」であるとのこと。これもまた、奈良県民から叱られそうな言葉ですが、お酒の席での話しですのでご容赦ください。もちろん、邪馬壹国博多湾岸説の奈良県民も大勢おられることは承知しています。
 そんな花王のKさんが今回も面白い自説を展開されました。倭人伝を書くにあたり、中国から倭国まで長期海外出張するのだから、酒や食事がおいしくて美人がいなければやってられない。出張するなら奈良よりも博多の方がよいとのご意見でした。そこで、当時倭国に来た軍事顧問(塞曹掾史)の張政は足かけ20年(247〜266年)も倭国に滞在したことを説明したら、「そんな長期の単身赴任だったら、歌の文句じゃないが絶対に“酒は旨いし、ねえちゃんはきれい”だったはずだ。そうでなきゃ20年も居られない。やっぱり『邪馬台国』は博多だ」と断言されました。お互いに出張が多いビジネスマンだけに、妙に説得力を感じました。
 このKさんのご意見を聞いて、確かに20年も倭国にいたら、きれいな倭人の女性(博多美人)との間に子供の一人や二人いても不思議ではないと思いました。もしかすると、張政の御子孫が今も日本におられるかもしれせんね。歴史研究も一人の人間の視点で考えると、新たな真実に遭遇するものだと、Kさんのご意見に触発されました。ただ、この「洛中洛外日記」を花王の奈良出身女性社員が読んだら、更にKさんの社内での立場が微妙にならないかと、ちょっと心配しています。


第969話 2015/06/04

「みょう」地名の分布

「洛中洛外日記」において、地名などを古田先生が提唱された「元素論」を援用して論じたことがありました。ところがまだ検討していないテーマがあります。それは「みょう」地名です。
うきは市の「楠名・重貞古墳(くすみょう・しげさだ古墳)」や福岡市西区の「女原(みょうばる)」などの「みょう」地名に関心を持っていたのですが、古田先生も「女原(みょうばる)」や「女山(ぞやま)神籠石」の「女」に着目され、九州王朝との関連で検討する必要性を述べられていました。
この「みょう」地名の淵源については様々な説が出されており、それぞれ有力とは思いますが、成立時代の差や地域差もありそうで、今のところよくわからない、というのが正直な感想です。また、当てられている漢字も「名」「女」「明」「妙」などがあり、この違いに何か意味があるのかも、まだよくわかりません(「名」が最も多い)。
他方、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)らによる精力的な調査により、愛媛県に「紫宸殿」「才明(さいみょう)」「天皇」地名を見いだされ、九州王朝と「越智国」との関係を論じた優れた研究も報告されてきました。わたしが今回着目したのはこの「才明(さいみょう)」でした。これは「みょう」地名の一つではないかと考えたのです。そこで良い機会なので基礎調査として、「みょう」地名のインターネット検索を行ってみました。まだ調査途中ですが、下記のような「みょう」地名がヒットしました。「西明寺」「光明池」などの寺名やそれに関係して成立したかもしれない「池」名などは、今回のテーマである「みょう」地名と見なしてよいか判断できませんでしたので、とりあえず検索対象から除外しました。
現時点で見つけた「みょう」地名は82件で、そのうち九州が36件(44%)で最も多く、中でも長崎県と鹿児島県に多く分布しています。次いで四国が19件(23%)です。このように全国的に「みょう」地名はありますが、九州と四国に多いという偏った分布を見せています。この分布が何を意味するのかはまだわかりませんし、成立時期や事情もそれぞれ異なると思われますが、その淵源が古代まで遡るものがあれば、九州王朝との関係を検討する必要があるかもしれません。
このように四国にも「みょう」地名が多いことを考えると、「斉明(さいみょう)」も「みょう」地名である可能性が高いようにも思われます。この件、引き続き考察します。(つづく)

【インターネット検索結果】
木明(きみょう) 青森県上北郡野辺地町
下名生(しものみょう) 宮城県柴田郡柴田町
上名生(かみのみょう) 宮城県柴田郡柴田町
古庭名(こてんみょう) 新潟県佐渡
求名(ぐみょう) 千葉県東金市
小苗(こみょう) 千葉県大多喜町
古名新田(こみょうしんでん) 埼玉県比企郡吉見町
外記明・善光明(げきみょう・ぜんこうみょう) 神奈川県大和市(『新編相模風土記稿』)
天明(てんみょう) 栃木県佐野市
三ケ名(さんがみょう) 静岡県焼津市
別名(べつみょう) 富山県富山市
十年明(じゅうねんみょう) 富山県砺波市
西明(さいみょう) 富山県南砺市
清水明(しみずみょう) 富山県南砺市
公文名(くもんみょう) 福井県敦賀市
円明(えんみょう) 大阪府柏原市
助命(ぜんみょう) 奈良県山辺郡山添村
二名(にみょう) 奈良県奈良市
西五明(にしごみょう) 兵庫県姫路市豊富町神谷岩屋
本明(ほんみょう) 兵庫県宍粟郡佐用町
両名(りょうみょう) 広島県三原市沼田東町
法名(ほうみょう) 山口県美祢市
開明(かいみょう) 山口県田布施町
市明(いちみょう) 山口県田布施町
殿明(とのみょう) 山口県周南市高瀬
秋字明(しゅうじみょう) 山口県周南市
地頭名(じとうみょう) 香川県高松市庵治町
三名町(さんみょうちょう) 香川県高松市
新名(しんみょう) 香川県高松市国分寺町
五名(ごみょう) 香川県かがわ市
長尾名(ながおみょう) 香川県さぬき市
新名(しんみょう) 香川県三豊市高瀬町
下名(しもみょう) 徳島県美馬市木屋平
下名影(しもみょうかげ) 徳島県三好市
下名(しもみょう) 徳島県三好市山城町
下名(しもみょう) 徳島県三好市西祖谷山村
本名(ほんみょう) 徳島県三好市池田町白地
別名(べつみょう) 愛媛県今治市
名(みょう)  愛媛県今治市吉海町
二名(にみょう) 愛媛県上浮穴郡久万高原町
妙口(みょうぐち)  愛媛県西条市小松町
才明(さいみょう)  愛媛県今治市朝倉
立川上名(たじかわかみみょう) 高知県長岡郡大豊町
立川下名(たじかわしもみょう) 高知県長岡郡大豊町
西森名(にしもりみょう) 高知県仁淀村
女原(みょうばる) 福岡県福岡市西区
光明(こうみょう) 福岡県北九州市八幡西区
下名(しもみょう) 福岡県八女市
重吉名(しげよしみょう) 筑後国上妻郡 中世文書に見える。
阿母名(あぼみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
牛口名(うしぐちみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
永中名(えいちゅうみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
大木場名(おおこばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
川床名(かわとこみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
木場名(こばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
田之平名(たのひらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
布江名(ぬのえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
馬場名(ばばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
平江名(ひらえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
古城名(ふるしろみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
本村名(もとむらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
野副名(のぞえみょう) 長崎県長崎市多良見町
大搦名(おおからみみょう) 長崎県諫早市小長井町
坂上下名(さかうえしたみょう) 長崎県南島原市北有馬町乙
坂下名(さかしたみょう) 長崎県南島原市布津町丙
上与名(うわぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
下与名(したぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
余名(よみょう) 大分県杵築市
妙町(みょうまち) 宮崎県延岡市
久津良名(くつらみょう) 宮崎県宮崎市高岡町の旧名
浦之名西(うらのみょう) 宮崎県宮崎市
下名(しもみょう) 鹿児島県出水市野田町
上名(かみみょう) 鹿児島県出水市野田町
下名(しもんみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
上名(かみみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
下名(しもみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県姶良市
下名(しもみょう) 鹿児島県姶良市
求名(ぐみょう) 鹿児島県薩摩郡さつま町
浦之名西(うらのみょう) 鹿児島県薩摩川内市


第968話 2015/06/03

鞠智城「8世紀代一時廃城」説

 木村龍生さんからいただいた鞠智城関連の報告書を読んでいます。今まで知らなかったことが数多く記されており、とても刺激的です。中でも鞠智城の編年研究において、8世紀代に鞠智城が一時廃城されていたとする説があることに驚きました。今回はそのことについてご紹介します。
 熊本県教育委員会編の『鞠智城跡Ⅱ ー論考編2ー』(2014年11月)所収の向井一雄さんの「鞠智城の変遷」によれば、「少なくとも8世紀初頭以降、鞠智城は新規の建築はなく、停滞期というよりも一旦廃城となっている可能性が高い。貯水池の維持停止もそれを裏付けよう。最前線の金田城が廃城になり、対大陸防衛の北部九州〜瀬戸内〜機内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城が8世紀初頭以降も大野城と同じように維持されたというのは、これまで大きな疑問であったが、「8世紀代一時廃城」説が認められるのならば、疑問は解消される。」(89頁)とあります。
 考古学的事実に基づいた鞠智城一時廃城説ですが、その理由の説明が「説明」になっていません。「対大陸防衛の北部九州〜瀬戸内〜機内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城」と一元史観による解釈では、その状況は7世紀でも同様ですから、8世紀初頭に廃城しなければならない説明になっていません。というよりも、この存在理由であれば鞠智城は大和朝廷にとって、そもそも必要ではないからです。
 鞠智城が7世紀末まで機能し、8世紀初頭に一時廃城されたとする考古学的事実は、古田先生が指摘された701年のONライン、すなわち列島の代表王朝が九州王朝から近畿天皇家に交代したという九州王朝説により説明可能なのです。鞠智城8世紀初頭一時廃城説は九州王朝説を支持する考古学的事実だったのです。やはり、鞠智城を九州王朝による造営とするわたしの推察は妥当だったようです。なお、鞠智城の編年については更に報告書を精査してから、解説したいと思います。


第967話 2015/06/02

鞠智城と前期難波宮の「八角堂」比較

今回の久留米大学や和水町での講演会では大きな学問的収穫に恵まれました。なんといっても鞠智城を見学できたことは幸いでした。訪問当日、温故創生館は休館日だったにもかかわらず、木村龍生さんのご案内と解説によりとても勉強になりました。
たとえばわたしが最も関心を持っていた鞠智城の「八角堂(鼓楼)」について多くの知見を得ることができました。なかでも前期難波宮の「八角堂」との違いがよくわかり、共に九州王朝による造営と思われるのですが、その性格的違いの理由を改めて考えさせられました。
特に木村さんからの、前期難波宮の方には芯柱が無いという指摘は衝撃的で、遺跡の図面をよく見比べればわかることなのですが、指摘されるまでわたしは気づきませんでした。そして実際に鼓楼の内部に入ってみると、1階は柱だらけの印象で、内部に何かを保管したり、儀礼を行うというスペースはありません。ですから、鞠智城の場合は「八角堂」というような表現は適切ではなかったのです。「堂」であれば内部に一定のスペースが必要ですから。
この点、規模も大きく、芯柱も無い前期難波宮の場合は「八角堂」「八角殿」という表現が妥当です。こうした差異から、両者は「八角」という点では共通していますが、その使用目的や性格は異なると思われました。このことに気づいたのも、今回の成果の一つでした。
もう一つの相違点は、共に1対2棟の「八角堂」なのですが、前期難波宮は東西対称に同じ規模で並び、南北方向は正確に北を向いています。ところが鞠智城は南北に並び、南北軸は北とは無関係ですし、それぞれ大きさや柱の数も異なります。なお、同じ場所に新旧の「八角堂(鼓楼)」が立てられた痕跡があり、鞠智城の「八角堂」は新旧2対の計4棟あったことが明らかとなっています。そのうち1棟だけは礎石造りで、他の3棟は堀立柱構造です。
このように、鞠智城の「八角堂(鼓楼)」の向きがが磁北とずれていることは、その性格を理解する上で留意すべき点と思われます。この差異も、前期難波宮と鞠智城の「八角堂」の目的や性格が異なることを指し示しているように思われるのです。

(後記)本稿に対して西村秀己さんより、「一階が柱だらけ、ということで何のための建物かというイメージがつかみにくい。」という感想をいただきました。この通りで、わたしにもまだイメージが掴めていません。これからの課題です。


第966話 2015/06/01

鞠智城を初訪問

京都に帰る新幹線の車中で書いています。前垣さんと高木先生のご案内で鞠智城を見学してきました。主任学芸員の木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)から懇切丁寧な説明と同遺跡を案内していただきました。しかも特別に「八角堂(鼓楼)」の内部も入らせていただきました。感謝感激です。矢継ぎ早のわたしからの質問に対しても的確に答えていただき、若くてとても博学な研究者でした。
わたしからの主な質問と、木村さんのお答えは次のような内容でした。簡潔に記します。

(問)鞠智城の訓みは「キクチ」と「ククチ」とではどちらが適切か。
(答)『和名抄』の郡名の訓みでは「ククチ」とあり、これが史料根拠としては最も古い。

(問)鞠智城の編年は須恵器に依っているのか。
(答)須恵器と土師器に依った。

(問)貯木場から出土した木材の年輪年代測定は実施したのか。
(答)していない。(予算的に困難のようであった)

(問)出土した仏像を百済系とされているが、その根拠は何か。
(答)全体の形式から百済系と判断された。ただし韓国の学者には、仏像が筒状のものを持っているが、百済の仏像には見られないので、百済系ではないという意見の人もいる。百済系仏像は中国南朝の影響を受けており、「宝珠」を持つのが普通とのこと。

(問)仏像の出土状況はどのようなものだったか。故意に廃棄されたのか、それとも何らかの理由で放置されたのか。
(答)発掘当事者の意見としては、周囲の土が固められたようだったので、故意の埋納の可能性もあるとのこと。

(問)「八角堂(鼓楼)」は前期難波宮の八角堂と比較してどのような差があるか。
(答)前期難波宮よりもやや小さい。前期難波宮にはない芯柱を持っている。

(問)「八角堂(鼓楼)」の一つは礎石造りとのことだが、瓦葺きか板葺きか。
(答)その付近から瓦は出土していないので、板葺きと思われる。復元された鼓楼が瓦葺きなのは、耐候性やメンテナンスなどのことを考えてのこと。数十トンの瓦の重量を支えるため、地下7mまで掘り下げて基礎を造った。

(問)瓦を造った窯の場所はどこか。
(答)不明。

(問)周囲の土塁の高さはどのくらいだったのか。土塁の上に柵はあったのか。
(答)土塁の高さは約3m程度と思われる。上部は削られていたので、柵の有無は不明。土塁の前面と後面は版築のための柵が設けられている。

(問)建造物の柱は残っていないのか。
(答)抜き取られていて残っていない。瓦なども他に持ち出されて再利用された可能性が指摘されている。

(問)製鉄や鋳物工房跡はないのか。
(答)鉄製遺物と小さなフイゴが出土しており、小規模な金属加工が行われていた可能性はある。

(問)貨幣は出土しているか。
(答)していない。

(問)近くに古代道路の「車路」が通っているが、鞠智城からの距離はどのくらいで、西海道とどちらが古いと考えられるか。
(答)1kmほど離れている。西海道よりも「車路」の方が古いと考えている。もともとの官道は「車路」で、8世紀に肥後国府ができてから西海道が造営されたと考えている。

(問)鞠智城の性格はどのようなものと考えられているか。
(答)様々な説が出されており、論争中。たとえば、大宰府や肥後国府への兵站基地、官庁的性格、倉庫的性格、対隼人戦の基地など。

(問)鞠智城への見学者はどのくらいか。
(答)年間10万人ほど。春と秋が多い。夏は暑く、冬は積雪の心配があって来場者は減る。

この他にもたくさんの質疑応答を行いました。貴重な報告集などもいただき、何度もお礼を述べて鞠智城を後にしました。京都に帰ったら、しっかりと勉強したいと思います。
帰りの新幹線の時間まで余裕がありましたので、高木先生の案内で山鹿市の横穴装飾墳を見学しました。壁面に五弦の琴を持った人物が掘られた墓もあり、とても興味深いものでした。お世話になった皆さん、本当にありがとうございました。
ここまで書いたら、ちょうど京都駅に到着しました。