邪馬壱(壹)国一覧

第2478話 2021/06/03

渡来系古代氏族「赤染氏」の末裔

 「古田史学の会」会員の日野智貴さん(たつの市)がFaceBookで興味深い新聞記事(2017年4月19日、西日本新聞筑豊版)を紹介されています。日野さんによれば、『三国志』時代の公孫淵の子孫が日本列島に渡来し赤染氏を名のっており、福岡県田川市の香原神社宮司が赤染さんとのこと。そして、渡来系古代氏族と九州王朝との関係を示唆されました。
 日野さんの紹介文の一部を転載させていただきます。

【以下、転載】
 『三国志』で有名な・・・と、思っているのは相当なマニアではあるが、マニアの間では著名な燕王公孫淵の子孫が、豊前におられたようだ。(中略)
 私が関心を持ったのは、この公孫淵の子孫と言う赤染氏が、九州にいるという事実である。彼らは『新撰姓氏録』によると近畿にいたらしいが、記録はほとんど残っていない。
 むしろ九州の方が本家なのではないか、と言う感じもする。燕との関係は九州王朝にとっても重要な問題であったはずである。(後略)
【転載おわり】

 古代において日本列島へは多くの渡来があり、それら渡来人は古代氏族として倭国や日本国の要職に就いたことが知られています。『新撰姓氏録』にもそうした氏族が多数収録されています。例えば、赤染氏と同族とされる常世氏は次のように記されています。

 「常世連
   出自燕國王公孫淵也。」『新撰姓氏録』「右京諸蕃上」

 「洛中洛外日記」でも九州王朝の家臣「大蔵氏」のことを調査・論究(注)したことがありますが、渡来人の多くは九州王朝(倭国)の時代に渡来していますから、それら渡来系氏族を調べれば九州王朝史研究に役立つことと思います。この度、赤染氏の存在を知り、『新撰姓氏録』や古代氏族系図研究の重要性を改めて認識しました。ご教示いただいた日野さんに感謝いたします。

(注)
「洛中洛外日記」2326話(2020/12/18)〝九州王朝の家臣「千手氏」調査〟
「 同   」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟
「 同   」2329話(2020/12/21)〝群書類従「大蔵氏系図」の史料批判〟
「 同   」2331話(2020/12/23)〝阿智王伝承と阿智使主伝承〟
「 同   」2333話(2020/12/29)〝「秋月系図」に見る別伝承習合の痕跡〟
「 同   」2358話(2021/01/25)〝『嘉穂郡誌』の「天智天皇」伝承〟
「 同   」2359話(2021/01/26)〝『朝倉風土記』の「天智天皇」伝承〟


第2444話 2021/04/29

6月19日(土)古代史講演会済み

       関川尚功氏、古賀達也が講演

〝考古学から見た邪馬台国大和説

       畿内ではありえぬ邪馬台国〟

 「古田史学の会」では、6月19日(土)午後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会場は奈良新聞本社西館3階です。関西例会でも使用している会場二部屋分を使用し、「三密」回避などコロナ対策を徹底して実施する予定です。
 同日に行う恒例の古代史講演会は、関西地区の友好団体との共催で行います。今回は外部講師に関川尚功(せきがわ ひさよし)さん(元橿原考古学研究所・所員)をお招きします。正木裕に代わり、古賀達也が「日本に仏教を伝えた僧—仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人—」で講演を行います。
 関川さんの近著『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年)は、大和地方の発掘調査を40年の長きにわたり行ってこられた考古学者によるものですから、古代史学界に衝撃を与えました。考古学の第一線で活躍されてきた関川さんのお話を直接お聞きできる願ってもない機会です。最新の大和の考古学について、わたしも関川さんから学びたいと思います。 

当日の午前中は「古田史学の会・関西例会」を行います。

「古田史学の会」定期会員総会・古代史講演会の案内

◆日時 6月19日(土) 13:30~17:00
 古代史講演会 13:30~16:00
 古田史学の会・会員総会 16:00~17:00
 ※御前中は「古田史学の会」関西例会 10:00~12:00

会場変更 奈良新聞本社西館3階
〒630-8001 奈良県奈良市 法華寺町2番地4会場変更

(5.19会場 大阪市福島区民センターから会場変更)

◆主催 古代大和史研究会・市民古代史の会京都・和泉史談会・誰も知らなかった古代史の会・古田史学の会
◆講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所・所員)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国
 講師 古賀達也(当会代表)
 演題 「日本に仏教を伝えた僧—仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人—」
◆参加費 無料

6月19日会場地図

6月19日会場地図奈良新聞本社
近鉄新大宮駅北600m

考古学から見た邪馬台国大和説--畿内ではありえぬ邪馬台国

考古学から見た邪馬台国大和説–畿内ではありえぬ邪馬台国


第2426話 2021/04/08

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その4)

正木 裕

 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、先に紹介した谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」と並んで、正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)の「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」が掲載されています。
 この正木論文では、最新の考古学的発見が古田説の正しさを証明しているとして、福岡市の比恵・那珂遺跡が弥生時代最大規模の都市遺構であることや、近年立て続けに発見されている弥生の硯が福岡県を中心に数多く分布していること、銅鏡の鉛同位体分析の結果から三角縁神獣鏡が国産であることなどが紹介されています。更には『三国志』の里程記事の実証的な分析から、短里説(1里=約76m)の正しさを改めて証明されました。
 また、『俾弥呼と邪馬壹国』に収録された正木さんの別の論文「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」では、倭人伝に見える用語や漢字が周王朝に淵源していることに論究されており、倭人伝研究の最先端テーマを次々と手がけられていることがわかります。
 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」の最後に書かれた「まとめ」を以下に転載します。〝「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になる〟という指摘は、まさに学問(古田史学)の真髄です。

【以下、転載】
 『「邪馬台国」はなかった』発刊五十年を迎える。依然としてヤマト一元説は広く喧伝されているが、本稿で述べたように、近年の考古学や諸科学の発展により、五十年前に古田氏が唱えられた「博多湾岸邪馬壹国説」の正しさが、改めて証明されることとなった。
 また一方で、単なる砥石状の破片と見られていたものが、弥生期に遡る文字使用を示す硯だったことがわかった。これは「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になることを示している。
 私たちの前にある「モノ」や「文献」を、一元史観による思い込みにとらわれず、もう一度多元史観により解釈することで『「邪馬台国」はなかった』で示された古田氏の事績をさらに豊にできることになろう。(54頁)


第2425話 2021/04/07

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その3)

–谷本 茂「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波 ―『「邪馬台国」はなかった』に対する五十年間の応答をめぐって―」が掲載されています。編集部に送られてきたこの谷本稿を読んで、わたしは予定していた巻頭言の内容を大きく変更することにしました。
 当初、巻頭言には、『「邪馬台国」はなかった』の研究史的位置づけと発刊後の影響について紹介する予定でしたが、谷本稿にはそれらが詳しく書かれており、わたしが巻頭言で触れる必要などないほどのみごとな内容でした。まさに渾身の論文と言えるものです。
 谷本さんはわたしの〝兄弟子〟に当たる古田学派の重鎮であり、京都大学在学中から古田先生と親交を結ばれており、『「邪馬台国」はなかった』創刊時からの古田ファンです。研究者としても、短里問題の論稿「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」(『数理科学』1978年3月号)を発表されたことは著名です。古田先生の『邪馬一国の証明』(角川文庫、1980年)にも、「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 ―『周髀算経』の里単位―」を寄稿されています。
 今回の「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」には、いくつもの示唆に富む指摘が見えますが、論文末尾に記された「邪馬壹国の位置論」に関する〝考古学的主張〟に対する次の警鐘は秀逸です。

【以下、転載】
 最近の「邪馬台国」位置論は、『魏志』倭人伝の正確な解読よりも、考古学的遺物の出土分布と年代推定の結果に依拠する傾向が強まっている。しかし、「邪馬壹国」「卑弥呼」「壹与」は、『魏志』倭人伝の記事に依拠して言及されるべき研究対象であり、「倭人伝の正確な読み方をひとまず棚上げにして、考古学的見地からだけ「邪馬台国」の位置を論じる」という研究姿勢は、一見、科学的で慎重な姿勢の様で、実は総合科学の見地からはほど遠いものである。基本として『魏志』の記事に依拠しなければならない「邪馬壹国」研究が、文献を離れて「考古学的な独り歩き」をしている非論理的な現状が、「邪馬台国」「台与」の使用に象徴的に発現しているといっても過言ではないであろう。つまり『「邪馬台国」はなかった』の書名そのものが古代史学界の現状への鋭い問題提起の象徴であること、その状況が残念ながら依然として続いている。
 (中略)
 「邪馬壹国の位置論」が科学的検証に耐える理論として古代史学界の共通認識になる水準に進んでいくための、輝かしい道標の一つとして、刊行後五十年の『「邪馬台国」はなかった』は、現代においても不朽の価値を有するのである。〈29~30頁〉


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)


第2248話 2020/10/03

『纒向学研究』第8号を読む(1)

 今日も京都府立図書館へ行き、司馬遷の『史記』などを読んできました。とりわけ、探していた『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)が同館にあることがわかり、掲載されている柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」をコピーしてきました。同論文は、近年、発見が続いている弥生時代の板石硯についての最新かつ網羅的な報告書であり、研究者には必読の論文です。
 同論文では柳田さんや久住猛雄さんによる、板石硯の調査結果が報告されており、中でもその出土分布は示唆的でした。両氏らが発見した弥生時代・古墳時代前期の硯・研石の総数は現時点で200個以上で、出土地は次の通りです。

○福岡県 糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)、春日市3例、筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)、北九州市20例、築城町8例(研石1)。
 ※福岡県合計123例以上。
○佐賀県 唐津市4例(研石1)、吉野ヶ里町2例(研石1)、基山町1例。
○長崎県 壱岐市11例(研石4)。
○大分県 日田市1例。
○熊本県 阿蘇市2例。
 ※福岡県以外の九州合計21例。
○広島県 東広島市2例。
○岡山県 10例(研石2)。
○島根県 松江市8例(研石1)、出雲市2例、安来市3例。
○鳥取県 鳥取市3例。
○石川県 小松市20例。
○兵庫県 丹波篠山市1例。
○大阪府 泉南市1例、高槻市3例。
○奈良県 田原本町2例、桜井市1例、橿原市1例、天理市5例。
 ※九州以外合計62例。

 ただしこれらの発見は、柳田・久住両氏の「行動範囲内」であり、「関心のある研究者が少ない地域は希薄」とのことです。板石硯の出土分布は北部九州、特に福岡県が圧倒的に多く、弥生時代の倭国の文字受容先進地域が福岡県にあったことがわかります。そのことは魏志倭人伝に記された邪馬壹国の所在地が福岡県に存在したことを示しています。(つづく)


第1860話 2019/03/17

吉野ヶ里遺跡から弥生後期の硯

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からまたまたビッグニュースが届きました。吉野ヶ里遺跡から弥生時代後期(1〜2世紀)の硯が出土していたとのニュースです。3月14日付の西日本新聞、朝日新聞、読売新聞の当該記事切り抜きをメールで送っていただきました。同切り抜きはわたしのFaceBookに掲載していますので、ご覧ください。
 弥生時代後期といえば邪馬壹国の時代で、有明海側からの初めての出土でもあり、興味深いものです。学問的考察はこれから深めたいと考えています。ご参考までにNHK佐賀のNEWS WEB の記事を転載します。

【NHK佐賀のNEWS WEB】2019.03.13
弥生時代に文字介し海外交易か

 弥生時代の大規模な環ごう集落跡として知られる吉野ヶ里遺跡から出土した石器が、弥生時代のすずりとみられることが分かりました。
佐賀県教育委員会は「有明海を通じて行われた海外との交易に文字が使われていた可能性が高い」としています。
 県教育委員会によりますと、吉野ヶ里遺跡から見つかったのはいずれも弥生時代の住居跡などから出土した2つの石器で、人の手で加工した形跡があります。
 このうち1つは長さ7.8センチ幅5.2センチの「石硯」、もう1つは長さ3.8センチ幅3.5センチの墨をすりつぶすための道具「研石」と見られています。
 これらの石器は平成5年から7年にかけて吉野ヶ里遺跡で行われた発掘調査で見つかっていましたが、用途がわからないままになっていました。
 しかし、去年11月福岡市の遺跡で弥生時代のすずりがまとまって見つかったことから、この石器を改めて調べ直したところ、いずれも形状や厚さなどが中国大陸や朝鮮半島で出土したすずりなどと似ていることから、「石硯」と「研石」である可能性があると判断したということです。
 弥生時代のすずりなどが佐賀県内で見つかったのは唐津市の中原遺跡に次いで2例目ですが、有明海沿岸の地域で見つかったのは初めてだということです。
 県教育委員会は「弥生時代に有明海を通じて行われた中国大陸など海外との交易に、すでに文字が使われていた可能性が高い」と評価しています。


第1811話 2018/12/30

「邪馬壹国の領域」正木説の紹介

 「洛中洛外日記」1804話「不彌国の所在地(2)」で、「山門」という地名を根拠に邪馬壹国の領域に筑後が含まれるのではないかとしたのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が久留米大学での講演で既にこの見解を発表されていたことを、正木さんからのご連絡で知りました。優れた説ですので、「洛中洛外日記」でも紹介します。
 正木説によれば、「上山門」「山門」「山国」「山国川」などの地名と倭人伝に七万戸とされた「人口」などを根拠に邪馬壹国を「筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国」とされました。その試算によれば、「三千餘家」とされた一大国(壱岐)の面積138平方kmと邪馬壹国の「七万戸」を比例させると3220平方kmとなり、それが先の領域に対応するとされました。
 この正木説は、北部九州の神籠石山城に囲まれた領域が邪馬壹国の範囲とされた古田先生の見解とほぼ一致しています。古田先生の見解を聞いたとき、6〜7世紀頃に築造されたと考えられる神籠石山城の位置を3世紀の邪馬壹国の領域の根拠とすることに納得できませんでした。ところが今回の正木説により、古田先生の見解が有力であったことに気づきました。


第1805話 2018/12/19

「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」

 『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国名「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」とする古田説を「洛中洛外日記」1803、1804話で紹介しました。この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされました。ここは明治時代には「須玖村岡本山」と表記されていましたが、これは「須玖村」の大字「岡本」の小字「山」という三段地名表記です(春日村の大字「須玖」、中字「岡本」、小字「山」と表記された時代もあります)。
 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域であると思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置します。そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないかと古田先生は考えておられました。また、日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないかとされました。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったと考えられます。


第1804話 2018/12/19

不彌国の所在地(2)

 長垂山の南側を抜けた早良区にある「上山門」「下山門」という地名は「山(やま)」という領域の入り口を意味する「山門(やまと)」であり、その「山(やま)」とは邪馬壹国の「邪馬」ではないかということにわたしは気づきました(既に先行説があるかもしれません)。
 倭国の中心国名について、熱心な古田ファンにも十分には知られていないようですので、説明します。倭人伝には女王卑弥呼が倭国の都とした国の名前は「邪馬壹国」と表記されているのですが、正式な名称は「邪馬」の部分であり、言わば「邪馬国」なのです。そして「壹」(it)は「倭国」の「倭」(wi)の「当て字」であり、本来なら「邪馬倭国(やまゐ国)」です。これは倭国の中の「邪馬」という領域にある国を表現した呼称と理解されます。このことを古田先生は『「邪馬台国」はなかった』で解説されました。同じく倭人伝に見える狗邪韓国も「韓国(韓半島)」内の「狗邪」という領域にある国を意味しています。これと同類の国名表記方法が「邪馬壹国」なのです。
 このような理解から、倭人伝に記された卑弥呼が倭国の都としていた国は「邪馬国」であり、その西の入り口が福岡市早良区の「上山門」「下山門」という地名に残っていたと考えられます。従って、早良区は邪馬壹国の領域内であり、今津湾付近を不彌国とする正木説をこの「山門」地名は支持することになるわけです。更に付け加えれば、福岡県南部に位置する旧「山門郡」(現・柳川市、みやま市)も同じく「邪馬国」の南の入り口と考えることができそうです。そうであれば、筑後地方も「邪馬国」(邪馬壹国)の領域に含まれることになりますが、これは今後の研究課題です。


第1803話 2018/12/18

不彌国の所在地(1)

 「洛中洛外日記」1791話「西新町遺跡(福岡市早良区)ですずり片五個出土」で、その地を魏志倭人伝に見える不彌国(ふみ国)とする作業仮説(思いつき)を紹介しました。そのことをFACEBOOKでも紹介し、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)にすずりが出土した早良地域を不彌国とすることの当否についてたずねたところ、当地は邪馬壹国内に相当し、不彌国は今津湾付近とのご意見が寄せられました。
 わたしは1791話で次のように不彌国の位置を考えていました。

 〝古田説では、糸島半島方面から博多湾岸に入り、不彌国に至り、その南に邪馬壹国があるとされています。その邪馬壹国の中心地域は春日市の須玖岡本遺跡付近と考えられていますから、博多湾岸に位置する西新町遺跡が邪馬壹国の北の玄関口に相当する不彌国の有力候補と考えられるのです。〟

 ですから、今津湾付近では西過ぎるのではないかと感じたのですが、正木さんの説明によれば、福岡市西区今宿付近から長垂山の南側を通って吉武高木遺跡がある早良方面に抜ける道が当時の主要ルートなので、倭人伝の「南到る邪馬壹国」とある行程記事と見なして問題ないということでした。この正木説に説得力を感じましたので、今津湾や今宿付近を不彌国とできる痕跡が地名などに残っていないか検討しました。たとえば「ふみ」という地名が当地に残っていないかを調べてみました。
 その結果、長垂山の南側を抜けた早良区に「上山門」「下山門」という地名があることを見いだしました。江戸時代の史料にも「下山門郷」という地名が記されていることを知ってはいたのですが、その地名の意味することに今回気づくことができました。それは「山(やま)」という領域の入り口を意味する「山門(やまと)」であるということです。そしてその「山(やま)」とは邪馬壹国の「邪馬」ではないかという問題です。(つづく)


第1791話 2018/11/24

西新町遺跡(福岡市早良区)ですずり片五個出土

 今朝、川岡保さんがFacebookに昨日の西日本新聞の記事を掲載されていました。川岡さんは福岡市早良区のお住まいで、Facebookを通して知り合いました。過日の久留米大学での講演会にもお越し頂き、その翌日には早良区や糸島半島をご案内いただきました。そのFacebookに掲載されていたのは当地の福岡市早良区西新町遺跡から古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)のすずりが5片出土していたという記事でした。近年、福岡県各地で弥生時代・古墳時代前期のすずりが発見されていたのですが、なんと西新町遺跡からは5片も出土していたことが確認されたというのです。その西日本新聞の記事【資料1】を末尾に転載します。西新町遺跡・藤崎遺跡の解説【資料2】が福岡市博物館のホームページにありましたのでそれも転載しました。
 今回の発見で注目されることが三つあります。ひとつはその数の多さです。破片とは言え5個も発見されたことから、当地においてかなりの文字を書く人々が集団で住んでいたと考えられます。新聞記事でも同遺構は「交易拠点」とされており、博多湾岸という立地条件から考えても妥当な推定と思われます。朝鮮半島の土器の出土が多いこともこの推定を支持しています。
 二つ目は3点から朱の痕跡が認められたことです。通常の墨だけでなく、朱も使用していたのですから、その必要がある職掌とは何かということが重要な検討課題として提起されています。今のところまだわかりませんが、墨と朱を文書記録に使用するというケースを調査してみたいと思います。
 三つ目は最も関心がある問題で、それは西新町遺跡が博多湾岸に位置するという点です。その地は砂丘上であり、農耕にも居住にも適しているとは言えません。従って、そのような地に存在した西新町遺跡は交易や外交など特定の目的を持った勢力が居した場所ではないでしょうか。そこで思い当たるのが、倭国の女王俾弥呼がいた邪馬壹国への里程記事です。
 古田説では、糸島半島方面から博多湾岸に入り、不彌国に至り、その南に邪馬壹国があるとされています。その邪馬壹国の中心地域は春日市の須玖岡本遺跡付近と考えられていますから、博多湾岸に位置する西新町遺跡が邪馬壹国の北の玄関口に相当する不彌国の有力候補と考えられるのです。不彌国の規模は「千餘家」と記されており、それほど大きな国ではありません。にもかかわらず、倭人伝の里程記事に掲載されていますから、それなりの理由があったと考えられます。
 不彌国の候補地としては博多駅付近の比恵遺跡もあるのですが、「千餘家」という不彌国の規模よりも大きな遺跡のようですから、西新町遺跡のほうが比較的妥当のように思われます。更に全くの思いつきに過ぎませんが、今回のすずりの出土から、当地には文書行政を司った集団がいたと考えられます。そうであれば、不彌国とは「ふみ(文)国」の漢字表記とは考えられないでしょうか。作業仮説として提起したいと思います。

【資料1】
=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
邪馬台国時代のすずり5個出土
 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡

 邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。
 弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。
 5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10.4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0.5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4.4〜5.4センチ。3個には朱を使った跡があるという。
 西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している。

【資料2】
福岡市博物館ホームページ
「西新町・藤崎遺跡群」の説明

 博物館もよりの西新・藤崎には3000年位前から砂丘が形成されており、人々が暮らしていました。
 古くから弥生土器や三角縁神獣鏡などの発見があって、学史的にも注目されてきた遺跡ですが、今から約40年前の昭和50年代以降の市営地下鉄や藤崎バスターミナルの建設、県立修猷館高校の建て替え工事などにともなって発掘調査が進み、弥生時代から古墳時代前期を中心とする集落や墳墓の全容が明らかになってきました。
 弥生時代といえば、稲作農耕文化のイメージですが、西新町・藤崎遺跡群は農耕不適地に立地しており、出土遺物などからも、漁村的な遺跡であったと考えられます。また、中国や朝鮮半島など遠隔地からもたらされた遺物も多く出土することから、漁撈とともに海を介した対外交易などをも担った集団が暮らした遺跡と考えられます。