邪馬壱(壹)国一覧

第1616話 2018/03/01

「邪馬台国」畿内説の論理(4)

 今朝は東京駅の東北新幹線待合室で始発の山形行き新幹線つばさ123号を待っています。昨日、大阪なんばで仕事をした後、午後に東京入りしました。今朝は春の爆弾低気圧が関東を通過中とのことで、早朝にホテルを出て東京駅で待機することにしました。

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 「邪馬台国」畿内説への反論や批判の方法として、いくつかのアプローチを考えましたが、わたしは安村さんとの対話を通して、氏のような誠実な考古学者に対しては論争や批判ではなく、大和朝廷一元史観と「邪馬台国」畿内説とを一旦は切り離して論議することが有効ではないかと思うようになりました。すなわち、「畿内で発生し巨大化した前方後円墳の全国伝播が大和朝廷発展の考古学的痕跡である」とする日本古代史の基本フレーム(岩盤規制)と、『三国志』倭人伝の中心国である邪馬壹国とを切り離し、文献史学での邪馬壹国所在地の説明を丁寧に行うという対話方法です。
 こうした方法が有効だと思う理由は三つあります。一つは、前方後円墳発生や伝播に関する論争を専門の考古学者に挑んでも、彼らを説得できるほどの研究が古田学派ではまだ進んでいないように思われることです。
 二つは、考古学者は出土物の理解や歴史的位置づけついては、文献史学の「安定した通説」、すなわち一元史観によらざるを得ません。従って、文献史学の通説が間違っていれば、考古学者の出土物に対する理解や歴史的位置づけも不正確になりますが、そのことの主たる責任は文献史学側にあり、文献史学での「結論」を採用した考古学者を一方的に責めるのは酷というものです。倭人伝に基づく「邪馬台国」論争はまずは文献史学のテーマですから、『三国志』倭人伝における古田説(原文改訂は研究不正であることや行程記事・短里の解説)を丁寧に考古学者に説明することは、わたしたち古田学派の得意分野でもあり、責務でもあります。
 三つは、畿内説の考古学者でも鉄器の出土分布など北部九州が優勢な考古学的事実があることを知っていることです。この畿内説論者でも認める考古学的事実を根拠に、倭人伝に記された文物が出土する北部九州の勢力と、前方後円墳を造営した勢力は別であり、倭人伝に記された中心国(邪馬壹国)と畿内の前方後円墳を結びつける学問的(文献史学の)根拠がないことを説明するという方法は、誠実な考古学者には有効ではないかと考えられることです。
 以上のようなことから、わたしは誠実な考古学者との学問的良心と理性に基づいた対話こそが現状を変化させる一つの効果的な方法ではないかと考えています。そのためにもわたしたち古田学派は、考古学に対する研鑽と異なる意見が発生した根元を見極める洞察力、そしてそのことを的確に説明できる対話力を高めることが重要ではないでしょうか。(おわり)


第1615話 2018/02/28

「邪馬台国」畿内説の論理(3)

 「邪馬台国」畿内説は①の考古学的事実に基づく実証を、②の文献根拠と結びつけるという、③の「離れ業」により「成立」しているわけですから、反論や批判の方法としては次のアプローチが考えられます。

(a)箸墓古墳の編年を3世紀中頃ではなく、従来通り4世紀であることを考古学的に証明する。あるいは、3世紀中頃ではあり得ないことを証明する。
(b)『三国志』倭人伝の史料批判を根拠とする文献史学の立場から、「邪馬台国(正しくは邪馬壹国)」は畿内ではあり得えず、文献を「邪馬台国」畿内説の根拠とできないことを考古学者に解説する。
(c)畿内の巨大前方後円墳と『三国志』倭人伝の中心国の邪馬壹国を関連付ける学問的根拠がないことを説明する。あるいは関連しているとする根拠の明示を求める。
(d)文献史学における「邪馬台国」畿内説が原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、壹与→台与、南→東)の所産であり、理系では許されない方法(研究不正)であることを古代史学界と社会に訴える。

 このようなアプローチが考えられますが、わたしたち古田学派は「邪馬台国」畿内説の考古学者を説得するのか、文献史学の分野で論争を続けるのか、その双方を行うのか、最も効果的なやり方を自らの力量も含めて考えなければなりません。(つづく)


第1610話 2018/02/21

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(3)

 福岡市比恵遺跡群から出土したすずりの編年が新聞記事によれぱ3世紀後半とされ、「邪馬台国の時代」と紹介し、それを「古墳時代」としています。従来は「邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)」は弥生時代とされてきたにもかかわらず、今回の記事では「古墳時代」とされたのですが、そこには性格が異なる二つの学問上の重要な問題があります。そのことについて説明します。
 まず一つ目は、「邪馬台国」畿内説成立のために古墳の編年を変更するという問題です。『三国志』倭人伝によれば、倭国の女王、卑弥呼は3世紀前半に没しているようですから、3世紀後半であれば卑弥呼の次代の壹与が女王に共立された時期に相当します。もちろん従来の古代史学では両者とも弥生時代と認識されてきました。他方、畿内には弥生時代の倭国を代表するような王者にふさわしい墳丘墓がありませんでした。学界の多数説となっている「邪馬台国」畿内説論者にとって、この考古学的事実が自説に「不都合な真実」だったことは容易に想像できます。そこで彼らが目を付けたのが、初期の前方後円墳である箸墓古墳です。その編年を従来説の4世紀前半から3世紀前半〜中頃とすることで、箸墓古墳を卑弥呼あるいは壹与(台与)の墓と見なしました。
 そもそも「邪馬台国」畿内説というものは、日本列島の代表王朝(権力者)は弥生時代の昔から大和の天皇家であるというイデオロギー(戦後型皇国史観)を論証抜きで「是」と定め、それに合うように倭人伝の原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、南→東、壹与→台与、など)を行ったり、考古学的事実を恣意的に解釈するという、学問的には禁じ手の乱発で「成立」した学説です。このことは拙論「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房に収録。初出「洛中洛外日記」737〜744話)で詳述していますので、是非ご覧ください。
 こうして「古墳時代」の代表的初期前方後円墳の一つである箸墓古墳を「邪馬台国」の卑弥呼か壹与の墓と見なしたいがため、その時代を「古墳時代」としなければならなくなったのです。そして、各新聞社はそうした古代史学界・考古学界の「空気」を「忖度」して、3世紀後半と編年されたすずりの時代を「古墳時代」「邪馬台国の時代」とする、実に奇妙な新聞記事の出現となったのです。(つづく)


第1609話 2018/02/20

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(2)

 犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきた朝日新聞(2月17日)には、「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しですずり出土が報じられていました。読者の興味をひくための見出しと思われますが、それであれば本文中に何を書いたのかの解説があってしかるべきです。ところが、古代の博多にあった奴国が文字を使用していたと述べるにとどまる中途半端な記事となっています。
 朝日新聞社と言えば古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(初期三部作)を発刊し、日本古代史学界や古代史ファンに激震を走らせた会社です。その新聞記事の内容がこのレベルでは、朝日新聞も「地に落ちた」と言わざるを得ず、とても残念です。
 『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)でも紹介しましたように、古代日本列島において筑前中域(糸島博多湾岸)は、文字文化の先進地域です。『三国志』「魏志倭人伝」には次のように倭国の文字文化をうかがわせる記述が見えます。

「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」

 このように倭国やその中心国の邪馬壹国では「文書」による外交や政治を行っていると明確に記されているのです。福岡市の文化欄担当記者であれば、この程度の知識は持っていてほしいと思うのですが、無理な期待でしょうか。
 更に同記事では出土した福岡市を「奴国」としていますが、もしそうであれば「奴国」よりも上位で大国でもある邪馬壹国の地はどこだとするのでしょうか。この「奴国」とされた糸島博多湾岸よりも大量のすずりが出土した弥生時代や古墳時代の遺跡は他にあるのでしょうか。たとえば「邪馬台国」畿内説によれば奈良県の弥生時代の遺跡からもっと多くのすずりが出土し、文字文化の痕跡を示していなければなりませんが、同地の弥生遺跡からすずりの出土はありません。
 「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しで読者の興味を引くのであれば、こうした「答え」も記事に盛り込み、読者の知識の幅やレベルを高めることができます。そうした真の教養に裏打ちされた記事こそ、「クオリティーペーパー」と呼ばれるに相応しいものと思います。なお、公平を期すために言えば、このニュースを掲載した他の新聞も、その内容は朝日新聞と五十歩百歩です。(つづく)


第1608話 2018/02/19

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(1)

 今朝は仕事で岐阜に向かっています。好天に恵まれ、JRの車窓から金華山城(岐阜城)が美しく映えています。

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 肥後から「兄弟」年号史料を発見された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、福岡市博多区の比恵遺跡群で「邪馬台国」時代のすずりが出土していたことを報じる地元紙(西日本新聞、朝日新聞。2月17日)の切り抜きがメールにて送られて来ました。
 報道によると、この遺跡は3世紀後半と編年されており、「古墳時代」のすずりとしては初めての出土とのこと。記事では「邪馬台国」時代のすずりなどと紹介されていますが、その「3世紀後半」を「古墳時代」と記されています。もともと「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は弥生時代とされてきたのですが、近年の傾向として「古墳時代」と表記される例が見られるようになりました。新聞社もその学界の状況(空気)を「忖度」したものと思われます。この点、後述します。
 弥生時代のすずりは既に糸島市や筑前町など4遺跡から出土しており、この糸島博多湾岸が弥生時代の倭国の中心領域であり、女王俾弥呼(ひみか。『三国志』帝紀には「俾弥呼」。倭人伝には「卑弥呼」と表記)が統治した邪馬壹国の所在地であったことは古田武彦先生が指摘されてきた通りです。その地からすずりが出土したのですから、文字文化の先進地域であった直接証拠と言えます。この一点から見ても、「邪馬台国」論争は学問的には決着しています。このことをわたしは『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)で次のように指摘しました。当該部分を引用します。(つづく)

 文字文化が発展した「女王国」の中心部

 『魏志倭人伝』には、女王国の場所がある程度推定できる記述がいくつもあります。(中略)
 また『魏志倭人伝』には、朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸を経由して「邪馬壹国(女王国)」に至ったことが記されていますが、その最後に「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記述があります。しかし、畿内説を唱える人たちは、「ここで出てくる『南』は誤りで、本当は東だった」と『倭人伝』の記述に誤りがあったと主張しています。南だと都合が悪いから東に変えたわけですが、これも元々のデータを改ざんしたルール違反「研究不正」です。(中略)
 他にも、古田氏は北部九州で痕跡が見られる倭国の「文字文化」にも注目していました。『魏志倭人伝』には、「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」など、「女王国」が文字を使って外交や政治を展開したことをうかがわせる記述があります。そのため、弥生時代の遺跡や遺物からもっとも「文字」の痕跡が出土する地域が、「女王国(邪馬壹国)」の候補地だったと考えるのが妥当であると、古田氏は主張しました。
 そうした文字文化が出現する地域がどこかというと、北部九州や糸島博多湾岸(筑前中域)です。この地域からは志賀島の金印や室見川の銘板、最近では弥生時代の硯なども出土しており、『魏志倭人伝』の記述の裏付けにもなっています。(以下、略)


第1538話 2017/11/14

邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で執筆しています。名古屋駅で長野行きの特急しなのに乗り換え、松本市に行きます。午後、松本市中央図書館で開催される講演会で正木裕さんと二人で講演します。主催は「古田史学の会」と「邪馬壹国研究会・まつもと」です。そこで、今回の「洛中洛外日記」は古田先生の邪馬壹国博多湾岸説に関連したテーマとしました。

 学問研究において仮説の優劣は、発表者の地位や肩書きではなく、その論証により決まると古田先生から教わりましたが、その論証がよって立つ基礎・基盤とも言える論理構造というものがあります。ともすればその論理構造とは無縁の、あるいは反する「思いつき」を論証として発表されるケースも散見されますので、この論理構造というものについて、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を題材として説明したいと思います。なお、この「論理構造」という名称はわたしがとりあえず採用したもので、もっとふさわしい名称があることと思いますので、ご提案いただければ幸いです。
 古田古代史学衝撃のデビュー作『「邪馬台国」はなかった』では、その『三国志』中の「壹」と「臺」の全数調査という方法が注目されがちなのですが、そのテーマは文献(『三国志』)の史料批判に属します。他方、「邪馬台国」論争の花形テーマであるその所在地論争において、古田先生は邪馬壹国博多湾岸説を提唱され、その根拠や論証を圧倒的な説得力で詳述されました。同書の出現により、それまでの諸説は完全に論破され、「邪馬台国」論争を異次元の高みへと引き上げました。
 この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
 こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。このように、優れた仮説にはその根幹に強固な論理構造が存在しています。このことを意識し、強固な論理構造(万人が了承する理屈)に依拠した学問研究は優れた仮説を生み出すことができます。
 なお付言すれば、古田先生は博多湾岸説に至るもう一つの仮説「短里説」を成立させています。先の論理構造と短里説が逢着して博多湾岸説は盤石な仮説となりました。短里説の成立だけでも邪馬壹国は北部九州にあったことがわかるのですが、里程記事の新解釈によって博多湾岸説を確固としたものにされたのです。
 また、古田先生と同様の論理構造に立たれて、古田説とはやや異なる有力説を発表されたのが野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)です。倭人伝に見える「倭地を参問するに、(中略)周旋五千余里」の新解釈として、狗邪韓国から侏儒国に至る陸地行程の合計が5000里となることを発見されました。詳細は『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)の野田利郎「『倭地、周旋五千余里』の解明」をご参照ください。
 最後に、この論理構造を採用された背景には、古田先生の学問精神、すなわち深い思想性があるのですが、そのことは別の機会に論述したいと思います。


第1446話 2017/07/08

真摯な論争は研究を深化させる

 今朝は山陽新幹線で久留米に向かっています。久留米大学の公開講座で講演するためです。当地ではおりからの豪雨で深刻な被害や亡くなられた方もあり、心配です。
 車中で野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)からいただいた御著書『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』を熟読しました。野田さんは「古田史学の会」関西例会の古くからの常連で、姫路市から大阪市まで参加される熱心な研究者です。今回の著書では倭人伝解読の新説を発表されているのですが、それは関西例会で数年にわたり発表と論争が続けられたテーマです。
 「古田史学の会」関西例会は、おそらく古田学派の研究例会でも最も激しい論争が行われるところです。特に古田説と異なる新説に対しては容赦のない質問や批判が寄せられます。しかし、それは「古田説と異なる」という理由での批判ではありません。古田説や従来説と異なる新説(異説)だからこそ発表するのであり、同じ内容ならそもそも研究も発表も不要です。「古田先生の説と異なるからダメ」というのは学問的批判でも学問的態度でもありません。それは一元史観の学界が古田説・多元史観を「大和朝廷一元史観の通説と異なる」という「理由」で排除したのと同様の態度でもあるのです。
 そうした関西例会での厳しい質問や辛辣な批判に耐えきれず、参加されなくなった方も少なくありませんが、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」とわたしは信じています。ですから、直接口には出しませんが、それほど批判されるのがいやなら発表などしなければよい、いっそのこと研究などやめて「歴史小説」でも書いていれば誰からも批判されないのにと、わたしは思っています。なお、歴史小説を見下しているわけでは決してありませんので、誤解のなきよう。優れた作家による歴史小説は、研究者でも及ばないような生々しい歴史の真実を復元することができるからです。
 そのような関西例会にあって、わたしと最も激しく論争した研究者の一人が野田さんです。今回の著書は、これまでの論争経過を背景に更に自説を強化、満を持して発刊されたもので、読んでいてもその意気込みが伝わります。倭人伝の女王国は不弥国とされ、その場所を佐賀県吉野ヶ里とする仮説は古田説とは異なりますが、他方、要所では古田説も丁寧に紹介されています。
 わたしは野田説よりも古田説がより論証力があり、考古学などの関連諸学との整合性も優れていると考えていますが、それでも同書の中には「なるほど一理ある」「そういう視点も確かにあり得る」と思わせる優れた指摘が随所にあります。たとえば「倭地参問」「周旋五千余里」の新読解です。古田説では総里程一万二千里から韓国内里程七千里を単純に差し引いた五千里としますが、野田説によれば倭国内の狗邪韓国から侏儒国までの陸地の総里程五千里(計算するとピッタリ五千里になります)であり、海上里程は含まないとされました。すなわち、「倭地」を周旋するのだから、海峡を渡る海上は「倭地」ではないとする理解です。
 この説を関西例会で初めて野田さんが発表されたとき、司会の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から「古賀さん、この野田さんの新説をどう思う?」と意見を求められ、わたしは思わず考え込み、「古田説の方が単純明快で良いように思うけど、確かに野田さんの計算でも五千里になる。う〜ん。」と曖昧な返事をしてしまいました。それほどインパクトのある研究発表だったのです。以後、この野田説はわたしの中でずっと気にかかっていました。
 その日から数年後、「古田史学の会」で邪馬壹国研究の最新論文集『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)を発行するとき、この野田説の収録をわたしは編集会議で提案し、承認されました。たとえ古田説や自分の意見とは異なっていても、「古田史学の会」発行の書籍に掲載し、後世に残すべき論文と評価したからに他なりません。このたびの野田さんの新著『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』を『邪馬壹国の歴史学』とあわせ読まれることを推奨します。なお、同書は一般販売されていませんので、下記の野田さん宛にメールで購入をお申し込みください。
 ここまで書いたら、ちょうど博多駅に到着しました。これから久留米に向かう列車に乗り換えです。外はどんよりと曇っています。

(価格は送料込みで680円。メール nodat@meg.winknet.ne.jp)


第1193話 2016/05/27

別冊宝島『邪馬台国とは何か』の読み方

 別冊宝島『古代史再検証 邪馬台国とは何か』が発刊されました。今朝、京都駅で購入し、久留米に向かう新幹線の車中で読みました。わたしへのインタビュー記事「古田史学から見た『邪馬壹国』」が掲載されているので購入したのですが、現在の「邪馬台国」研究動向と学問的水準を把握するのに役立ちました。たまにはこうした一般の古代史ファン向けの雑誌を読むのもいいものだと思いました。
 わたしのインタビュー記事を担当された常井宏平(とこい・こうへい)さんは若いフリーライターですが、その卓越した理解力と文章力により、二時間に及んだ雑多なわたしの話を要領よく、かつ説得力のある見事な記事にまとめられていました。感謝したいと思います。
 またカラー写真がふんだんに掲載されており、買って損はしない一冊といえます。たとえば中国の洛陽から発見された三角縁神獣鏡や志賀島の金印、平原遺跡の漢式鏡のカラー写真などもあり、史料的にも値打ちがあります。
 他方、「邪馬台国」畿内説にとどめを刺す重要な史料が、偶然とは思えない「配慮」によるものか、掲載されていませんでした。たとえば『三国志』倭人伝の版本写真が何ページかに散見するのですが、肝心要の「南至る、邪馬壹国」という部分は見事に掲載されていないのです。わたしのインタビュー記事以外は全論者・全頁が何の説明もなく「邪馬台国」と原文改訂(研究不正)した表記となっています。この事実こそ「邪馬台国とは何か」の答えになっているのかもしれません。すなわち「邪馬台国は研究不正の所産。みんなで隠せ邪馬壹国」という「答え」です。しかしながら「古田史学・邪馬壹国説」をわたしへのインタビュー記事として掲載されたのですから、これは編集者の学問的良心と受け止めたいと思います。もちろん、古田ファンにも売れるというビジネス的判断かもしれませんが、この点は出版ビジネスですから、わたしは否定しません。
 更に巻末に綴じ込み付録「邪馬台国出土品 邪馬台国の謎を解く6つのアイテム」として、「銅鏡」「金印」「銅剣・銅矛」「銅鐸」「玉類」「骨角器」の美しい写真が掲載されているのですが、なぜ「鉄器」と「絹」がないのでしょうか。恐らくこの二つのアイテムの圧倒的濃密出土地域が福岡県であることから、この事実を掲載してしまえば、そもそも考古学的にも畿内説は存在不可能となってしまい、「邪馬台国とは何か」という「古代史再検証」企画が成立しなくなるのです。これは出版ビジネスとしては避けたいところでしょう。わたしも仕事でマーケティングに関わっていますから、ピジネスとして理解できないこともありません。なお、鉄器と絹の福岡県と奈良県の出土分布比較グラフは本文中にはあり、全く触れられていないということではありません。しかし、巻末の「謎を解くアイテム」に取り上げられていないことには、意図的なものを感じざるを得ません。あえて編集者の立場に立って考えれば、錆びてぼろぼろの鉄器や腐食寸前のシルクでは、カラーグラビアとしてはインパクトに乏しく、そのため不採用になったのかもしれません。
 最後にこの本の読み方について述べてみます。様々な説が紹介され、各論者の意見が記されているのですが、それらのほとんどは「ああも言えれば、こうも言える」「(史料・考古学)事実はともかく、わたしはこう考えてみたい」「倭人伝中の自説に不都合な記事は信用できない。しなくてよい」「その位置は永遠の謎」「むしろ、わからなくてもよい」といった類のものか、どうとでもいえる抽象論で、およそ学問的論証レベルに達しているようには思えません(少数の例外記事を除いて)。
 そして、そうした文章を延々と読まされる読者には知的フラストレーションが溜まりに溜まります。そんなときに古田史学・邪馬壹国説のページに到着し、そこで初めて、学問的論証とは何か、邪馬壹国という倭人伝原文の史料事実(真実)を知るといった演出効果が施されています。その意味では、とてもよい古代史ファン向けの一冊ではないでしょうか。わたしはお勧めします。


第1161話 2016/04/02

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(1)

 弥生時代の日本列島には銅矛・銅弋などの武器型青銅器圏と銅鐸圏という二大青銅器圏があったことは著名です。この銅矛圏が邪馬壹国を中心とする倭国であり、銅鐸圏は関西にあった狗奴国であると古田先生は指摘されましたが、銅鐸圏は倭国の侵略(天孫降臨や神武東侵など)により、東へ東へと逃げるようにその中心は移動しています。
 中には大和盆地のように、壊された銅鐸の出土もあり、激しい侵略や弾圧の痕跡がうかがえます。銅鐸は時代とともに大型化し、聞く銅鐸から見る銅鐸へと変化し、祭祀のシンボルとして重用されたものと思われますが、天孫族の侵略により、銅鐸祭祀は禁止され、銅鐸は廃棄されたものと考えてきたのですが、鳥取県東伯郡の長瀬高浜遺跡から古墳時代の遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることを知り、驚きました。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、長瀬高浜遺跡は古墳時代前期後半から中期前半の大集落遺跡を中心とした複合遺跡と説明されています。その中の平面プランが六角形に近い大型竪穴式建築跡(SI-127)が廃絶したあとの竪穴内の埋土中から、高さ8.8cmの小型銅鐸が出土していました。この銅鐸は弥生時代中期に製造されたものと見られており、それが古墳時代中期初頭頃に廃絶した遺構の埋土中に含包されていたことから、弥生中期から古墳時代中期の長期にわたって祭器として使用されていたことが推察されます。その紐の内側部分が吊り下げによる磨耗で大きくすり減っていることからも、その使用が長期間にわたっていたことを証明しています。
 出土した大型竪穴式建築跡(SI-127)に隣接して、高殿と思われる大型祭祀遺構(SB40)が出土しており、この銅鐸はこの高殿で祭祀に使用されていたと推察されています。こうした出土事実から、銅鐸が破壊された大和盆地とは異なり、この地域では弥生時代に銅鐸圏が滅亡した後も、祭祀のシンボルとして銅鐸が古墳時代まで使用されていたことになり、このことはとても興味深い現象と思われます。(つづく)


第1148話 2016/03/12

『邪馬壹国の歴史学』ついに刊行

 『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』がついに刊行されました。先日、ミネルヴァ書房から『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』が届いていました。古田先生の追悼も兼ねた渾身の一冊です。
 収録論文には古田先生の遺稿も含まれ、「古田史学の会」会員の論文は『三国志』倭人伝の最先端研究を収録しました。論文採否に当たっては、一切の妥協を排し、完全に納得したものだけを編集部で選びぬきました。古田先生の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった』の後継論文集と自負しています。古田先生からも御生前にお褒めいただいた力作です。ご協力いただいた皆様や執筆者の方々に心から感謝申し上げます。
 この一冊を古田武彦先生に捧げます。

【目次】
はじめに -追悼の辞- 古田史学の会・代表 古賀達也
「短里」と「長里」の史料批判 -フィロロギー- 古田武彦
序 「邪馬台国」から「邪馬壹国」へ 古田武彦

Ⅰ 短里で書かれた『三国志』
1 「邪馬壹国」はどこか -博多湾岸にある- 古田武彦
2 『倭人伝』の里程は正しかった -「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算- 正木 裕
3 中国内も倭国内も短里 古田武彦
4 「倭地、周旋五千余里」の解明 -倭国の全領域を歩いた帯方郡使- 野田利郎
5 『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察- 古賀達也
6 短里と景初 -誰がいつ短里制度を布いたのか- 西村秀己
7 古代の竹簡が証明する魏・西晋朝短里 -「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」- 正木 裕
8 「短里」の成立と漢字の起源 -「短里」の成立は殷代に遡る- 正木 裕
9 『三国志』中華書局本の原文改訂 古賀達也

Ⅱ 「邪馬壹国」の文物
1 女王国はどこか -矛の論証- 古田武彦
2 銅鐸問題 古田武彦
3 「卑弥呼の鏡」特注説 古田武彦
4 絹の問題 古田武彦
5 鉄の歴史と「邪馬壹国」 服部静尚
6 三十国の使いと「生口」 古田武彦

Ⅲ 二倍年暦
1 陳寿が知らなかった二倍年暦 古田武彦
2 盤古の二倍年暦 西村秀己

Ⅳ 倭人も太平洋を渡った
1 裸国・黒歯国の真相 古田武彦
2 エクアドルの遺跡問題 古田武彦
3 エクアドルの大型甕棺 -「倭国南海を極むる也、光武以って印綬を賜う」- 大下隆司

Ⅴ 『三国志』のハイライトは倭人伝だった
1 『三国志』の歴史目的 古田武彦
2 『三国志序文』の発見 古田武彦

Ⅵ 「邪馬壹国」と文字
1 「卑弥呼」と「壹」の由来 古田武彦
2 『魏志倭人伝』の「都市牛利」 古田武彦
3 北朝認識と南朝認識 -文字の伝来- 古田武彦
4 『魏志倭人伝』の国名 古田武彦
5 官職名から邪馬壹国を考える 正木 裕
6 『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名の起源-「泄謨觚・柄渠觚・※馬觚」は周王朝との交流に淵源を持つ- 正木 裕
 (※=「凹」の下に「儿」)

Ⅶ 全ての史学者・考古学者に問う
1 纒向は卑弥呼の墓ではない 古賀達也
2 邪馬台国畿内説と古田説がすれ違う理由 服部静尚
3 庄内式土器の真相 -古式土師器の交流からみた邪馬壹国時代の国々- 米田敏幸
4 「邪馬台国」畿内説は学説に非ず 古賀達也

編集後記 服部静尚
巻末史料1 倭人伝(紹煕本三国志)原本
巻末史料2 倭人伝(紹煕本三国志)読み下し文 古田武彦
事項索引
人名索引


第1146話 2016/03/09

三雲・井原遺跡出土「硯」の使用者

 久留米市の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からメールをいただきました。3月5日に開催された「三雲・井原遺跡番上地区330番地現地説明会」の報告とともに説明会資料(糸島市教育委員会文化課)が添付されていました。弥生後期の硯が出土した遺跡で、貴重な説明会資料です。現地説明会などにはなかなか参加できませんから、こうして資料を送っていただき、ありがたいことです。
 資料によれば、この硯が出土した番上地区は50点以上の「楽浪系土器」が集中して出土するという、他の遺跡には見られない特徴を有していることから、「渡来した楽浪人の集団的な居住(滞在)を示す。」とされています。すなわち、出土した硯は楽浪からの渡来人が使用したとされて、次のように解説されています。

【硯出土の意義】
①これまでも三雲・井原遺跡番上地区には楽浪郡から来た人々が滞在したことが想定されていたが、硯の出土により楽浪郡(中国)との正式な文書のやり取りや、銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された可能性が高まった。つまり、楽浪郡からの使者が渡海する目的の一つが伊都国の王都とされる三雲・井原遺跡の訪問にあることが想定される。
②『魏志倭人伝』には伊都国で文書(木簡)を取り扱った記事があるが、今回の硯の出土で記述の信頼性が高まった。
③朝鮮半島南部でも茶戸里遺跡で筆が出土し、半島南岸まで文書(木簡)が使用されていることは出土品から確認されていたが、筆は有機質であるため環境によっては残らないことが多い。今回の硯の出土は日本における文字文化の需要が弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す。

 倭国王都の三雲・井原遺跡を伊都国王都としており、問題のある解説ではありますが、同地で文書行政が行われていたこと、同地から文字受容が始まったとする理解は穏当なものです。すなわち倭国の中心領域が古田説の糸島・博多湾岸であることを支持する解説なのです。「銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された」とありますから、受領書や返礼書は受け取った当事者が書くものですから、同遺跡からはるかに離れた邪馬台国畿内説などでは説明不可能です。
 さらに考えれば、楽浪人(中国人)が当地に常駐していたとされていますから、女王国(邪馬壹国)の情報がかなり正確に中国に報告されており、その報告に基づいて記された「倭人伝」の記述も正確であったと言えます。


第1144話 2016/03/06

糸島市出土「硯」の学問的意義

 糸島市から出土した弥生時代の硯は、同地が文字文化受容の先進地域に属していたことを示しています。このことに関する論稿を「洛中洛外日記」744話『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)』で記しました。この『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず』はもうすぐ発行予定の『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)に収録されます。
 こうした出土物が報告されるたびに、古田先生や古田史学の素晴らしさを何度も実感させられます。古田先生が生きておられれば、この硯の出土をどれほど喜ばれたことでしょう。
 『三国志』倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されてます。ですから日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補です。そうした地域が北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)で、次のような遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに加えて、今回の「硯」が出土したのですから、だめ押しともいえる画期的な出土といえます。日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有す糸島博多湾岸(筑前中域)を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。