「 木簡 」一覧

第1985話 2019/09/08

難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(2)

 前期難波宮の北西の谷から出土した「戊申年」木簡(648年)の文字の字形も特徴的で注目されてきました。『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)の解説でも指摘されていますが、特に「戊」の字体は「代」の字形に近く、七世紀前半に遡る古い字体であるとされています。たとえば、法隆寺の釈迦如来及脇侍像光背銘にある「戊子年」(628年)の「戊」と共通する字形とされています。
 「年」の字形も上半分に「上」、下半分に「丰」を書く字体で、木簡では九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」(652年)木簡の「年」と同じです。金石文では野中寺の彌勒菩薩像台座に掘られた「丙寅年」の「年」と同じです。
 九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と「戊申年」木簡の「年」の字体が共通していることは興味深いことです。また、「中宮天皇」銘を持つ野中寺の彌勒菩薩像は、九州王朝の「中宮天皇」(筑紫君薩野馬の皇后か)の為に造られたものではないかとわたしは推測しています。
 以上のように、九州王朝の複都・前期難波宮から出土した「戊申年」木簡が、九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と同類の〝上部空白型干支木簡〟であり、「年」の字体も一致していることは、「戊申年」木簡と九州王朝との関係をうかがわせるものと思われるのです。
 なお付言しますと、九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』には、「孝徳天皇のとき番匠の初め」という記事の直後に「常色二年戊申、日本国を巡礼したまう」と記されています。おそらくは前期難波宮を造営するために各地から宮大工らが集められたのが「番匠」の「初」とする記事や九州年号の常色二戊申年(648年)に巡礼するという記事と、前期難波宮から出土した「戊申年」木簡との年次の一致は偶然ではなく、何らかの関係があったのではないでしょうか。「戊申年」木簡に記された他の文字の研究により、何か判明するかもしれません。今後の研究課題です。


第1984話 2019/09/07

難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)

 前期難波宮の造営年代論争(孝徳期か天武期か)に決着をつけた史料(エビデンス)の一つが、前期難波宮の北西の谷から出土した現存最古の干支木簡「戊申年」木簡(648年)でした。この他にも難波宮水利施設から大量出土した須恵器(七世紀前半〜中頃の坏G。七世紀後半と編年されている坏Bは皆無)や同遺構の桶枠に使用された木材の年輪年代測定値(634年伐採)などが決め手となり、前期難波宮の造営が『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年。九州年号の「白雉元年壬子」に当たる)に見える巨大宮殿完成記事に対応するという見解が、ほとんどの考古学者の支持を得て通説となりました。
 わたしが前期難波宮九州王朝複都説を提起して以来、「戊申年」木簡に注目し、調査研究を進めてきたのですが、この木簡に九州王朝との関係を感じさせるいくつかの事実があることに気づきましたので、本シリーズで紹介することにします。
 まず最初に紹介するのが、木簡に記された「戊申年」の文字の位置の特徴についてです。「洛中洛外日記」1961話(2019/08/12)〝飛鳥池「庚午年」木簡と芦屋市「元壬子年」木簡の類似〟でも紹介したことですが、七世紀の干支木簡(荷札木簡)では通常木簡最上部から干支が書かれるのですが、九州年号木簡である「元壬子年」木簡(文書木簡。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)は上部に数字分の空白を有し、本来その空白部分には九州年号(この場合は「白雉」)が入るべきだが、何らかの理由で九州年号を木簡に記すことが憚られたのではないかと考えました。憚られた理由については拙論「九州王朝『儀制令』の予察 -九州年号の使用範囲-」(『東京古田会ニュース』184号、2019年1月)で論じました。
 この〝上部空白型干支木簡〟とでも称すべき木簡分類に難波宮出土の「戊申年」木簡も該当することにわたしは気づいたのです。そのことについて「洛中洛外日記」1358話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟で紹介しました。通常、同木簡の文字は「□稲稲 戊申年□□□」と紹介されるため、わたしは〝上部空白型干支木簡〟であるとは思わなかったのですが、報告書には次のように記されており、本来は〝上部空白型干支木簡〟であったことに気づいたのでした。

 【以下、転載】
 (前略)墨書は表裏両面に確認でき、他の木簡とは異なり、異筆による書き込みがある。表面側の墨書は上端から約7cmの位置から「戊申年」ではじまる文字が書かれており、以下、現存部分のみで3文字が後続していることがわかる。また、欠損した左側面には「戊申年□□□」文字に対応するように墨痕や文字の一部が残っており、本来は同じ字配りで最低でも2行以上の墨書があったことになる。「戊申年」上方の異筆3文字を除いた場合、書き出し位置が低いようにみえるが、これについては栄原永遠男氏が指摘するように、大型の木簡におおぶりの文字で書かれていたと推察される点を勘案するならば、さほど不自然であるとはいえない。(後略)
 『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)25〜26頁
 【転載おわり】

 このように報告書には、「戊申年」の文字の「書き出し位置が低いようにみえる」と指摘されているのです。ですから「元壬子年」木簡と同様に、七世紀(九州年号の時代)の干支を伴う文書木簡の場合、本来であれば九州年号が記される干支部分の上部が意図的に空白にされていることがわかるのです。ちなみに、「元壬子年」木簡の場合は九州年号「白雉(元年)」(652年)が、「戊申年」木簡の場合は「常色二(年)」(648年)があってしかるべき〝空白〟ということになります。
 以上のように、九州王朝の複都・前期難波宮から出土した「戊申年」木簡が、九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と同類の〝上部空白型干支木簡〟であったことがわかり、この〝上部空白〟現象を説明できる仮説としても九州年号説が重視されるのです。(つづく)


第1983話 2019/09/06

難波宮から「己酉年(649)」木簡が出土していた?

 大阪歴博が発行した『難波宮 百花斉放』という「難波宮大極殿発見50周年記念」(平成24年〔2012〕発行)パンフレットを見ていて、驚きの発見をしました。このパンフレットは平成24年2月25日に大阪市中央公会堂で開催されたシンポジウムのレジュメとして作成されたもので、それこそ百花斉放の名前に恥じない内容です。プログラムには次のように講演者と演題が記されています。

【プログラム】
第1部(午前) 発掘成果による『最新報告 難波宮』
1. 再見!難波宮の建築 大阪歴史博物館学芸員 李陽浩
2. 続々新知見!難波宮の官衙と難波京 大阪文化財研究所難波宮調査事務所長 高橋 工
3. 新発見!木簡が語る難波宮-戊申年木簡と万葉仮名木簡- 大阪府文化財センター調査課長 江浦 洋

第2部(午後) 講演『日本の古代史と難波宮』
1. 聖武天皇の時代と難波宮 大阪市立大学名誉教授 栄原永遠男
2. 高津宮から難波宮へ 大阪府文化財センター理事長 水野正好

第3部
1. 難波宮復元AR披露
2. 対談『難波宮-半世紀の調査から未来に向けて』
    水野正好、栄原永遠男、長山雅一
    司会:朝日新聞社記者 大脇和明

 以上のように大阪の考古学界と歴史学界を代表する研究者によるシンポジウムです。わたしは参加していませんが、このパンフレットを読んだだけでもその学問的意義は感じ取れました。そのパンフレット中に驚きの資料があったのです。
 収録されている水野正好さんのレジュメに難波宮出土木簡を紹介した「12.大阪府警本部用地の木簡、大化4・5年のエト、王母 赤糸・・木簡」があり、そこに有名な最古の干支木簡「戊申年」(648年)木簡とともに「己酉年」(649年)木簡の図(「六号木簡」)が記されていたのです。わたしは難波宮から「己酉年」木簡が出土したという報告を全く知りませんでしたので、とても驚きました。「戊申年」木簡に次いで古い干支木簡は芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す「元壬子年」(652年)木簡だとされていますので、もし難波宮から「己酉年」木簡が出土していたのなら、それが二番目に古い干支木簡となります。
 レジュメの図によれば、「己」の下部分と「酉」と読めそうな文字、そして「年」のような字形をしているが明確には断定しにくい文字が記された木簡でした。そこで真偽を確かめるために大阪歴博を訪問し、同遺跡の発掘調査報告書『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)を閲覧させていただきました。そこには「図版47 古代 木簡」(谷部16層出土木簡)に同木簡の赤外線写真が掲載され、[本文編」23頁では次のように解説されていました。

 【以下、転載】
(6)6号木簡(図11-6、写47-6・53-2)
   (64)・23・4 スギ 板目
 上部は折れているが、下端は方頭で端部が遺存している。上端は表面側の右斜め上から切り込みを入れて、その後に上部を折り取っている。下半部にも同様の切り込みが裏面から行われており、文字の部分を切っていることなどから廃棄作業に伴うものである可能性が高い。
 左右の側面は両面とも整形面が残っている。文字は表面には3文字が確認できる。第1文字目はオレのために末画しか残っておらず、判読しがたい。第2文字目は「面」の可能性が高いが、「酉」の可能性もわずかに残す。ただし、第3文字目については、判読は難しいが「年」の可能性は乏しく、「子」などの可能性も指摘されている。裏面に墨痕はない。
 【転載おわり】

 以上のように2002年発行の報告書の解説からは「己酉年」とは判読できないようで、この見解が〝公式見解〟となって、今日まで流布しています。ところが、平成24年〔2012〕シンポジウムのパンフレットでは、大阪府文化財センター理事長の水野正好さんにより、「己酉年」と判読され、「大化五年(649年)」のこととされているのです。大阪歴博の学芸員の村元健一さんにこの件についておたずねしたところ、経緯についてはご存じなく、公式見解は報告書の方とのこと。そこで、水野さんに直接お会いしてお聞きしようと思い、水野さんの所在を教えてほしいとお願いしたのですが、残念ながら水野さんは既に亡くなられているとのことでした(2015年没)。ご冥福をお祈りします。
 確かに大阪府文化財調査研究センターの報告書が公式見解ということは理解できるのですが、その10年後に大阪府文化財センター理事長の水野正好さんが公の学術的なシンポジウムのパンフレットに掲載されているのですから、その10年間に公式見解が変更されている可能性もあるのではないでしょうか。同シンポジウムで水野さんがどのように説明されたのか、ご存じの方があればご教示ください。
 なお、同シンポジウムで講演された江浦さんのレジュメでも難波宮出土木簡のことが紹介されており、当該木簡などについての報告書を転載されており、そこには「□面□」とありました。なお、江浦さんはレジュメの末尾を次の感動的な言葉で締め括られています。

 「『地下の正倉院』。
 これは平城宮跡から掘り出される木簡群を東大寺の正倉院宝物になぞらえた呼称である。
 難波宮跡では、高燥な上町台地ゆえに木簡の出土はさほど期待されていなかったが、近年の調査によって、谷部の湿潤な地層では木簡が腐朽せずに残っていることが明らかとなっている。
 難波宮跡の周辺においても、未だ多くの谷が木簡を抱いて埋もれている。」

 近い将来、難波宮跡から九州年号木簡などが出土することも夢ではないかもしれません。それまで、わたしは前期難波宮九州王朝複都説の研究を続けたいと思います。


第1978話 2019/08/31

「九州王朝律令」による官職名

 「洛中洛外日記」1974話(2019/08/27)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)〟において、7世紀後半の王朝交替前の飛鳥の近畿天皇家が、「九州王朝」律令による官職名を使用していたのではないかと推定しました。この指摘が正しければ、藤原宮などから出土した木簡に見える『大宝律令』以前の官職名は「九州王朝律令」によるものとなり、その記事から「九州王朝律令」の「職員令」復元が一部可能となるかもしれません。そこで、そうした官職名をピックアップしてみました。

【『大宝律令』以前の官職名】
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半〜中頃)

○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡


第1975話 2019/08/29

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)

 飛鳥に君臨した天武天皇の官僚として「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」と称された人々がいたことは、出土木簡から明らかですが、その官僚組織の全体像や人数・規模は不明です。通説のように「飛鳥浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたのであれば、数千人規模の官僚群が全国統治には必要ですが、当時の天武天皇らの統治領域が日本列島のどの範囲にまで及んでいたのかも、多元史観・九州王朝説の視点からはまだ不明です。
 九州王朝から大和朝廷への王朝交替後であれば、藤原宮(京)や平城宮(京)には全国統治のための官僚群約八千人がいたとされています(服部静尚説)。これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。『日本書紀』によれば朱鳥元年(686)に前期難波宮は焼失していますが、難波京全てが焼けたわけではありません。少なくとも『日本書紀』には難波京全体が焼失したとは記されていません。そのため、九州王朝官僚群の多くは無傷で残ったものと思われます。
 このように想定したとき、7世紀末頃の急速な大和朝廷の立ち上げとスムーズな王朝交替(701年での全国一斉の評から郡への変更)が可能となったことをうまく説明できるのではないでしょうか。(つづく)


第1974話 2019/08/27

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)

 飛鳥の石神遺跡から出土した木簡の「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と同類の「舎人官(とねりのつかさ)上毛野阿曽美□」「陶官(すえのつかさ)」と記された木簡が藤原宮遺跡(大極殿北方大溝下層)からも出土しています。いずれも藤原宮完成前の「飛鳥浄御原令」に基づくものと解説されています(『藤原宮出土木簡(二)』昭和52年)。更に同木簡出土地点からは「進大肆」という、『日本書紀』によれば天武14年(685)に制定された位階が記された木簡(削りくず)や、「宍粟評(播磨国)」「海評佐々里(隠岐国)」木簡も出土していることから、それらは七世紀末頃のものと見て問題ありません。
 このように石神遺跡や藤原宮下層遺跡から出土した木簡の史料事実により、天武天皇や持統天皇らは九州王朝系の官職名「○○官」を採用し、それら官僚群により東国から西日本にかけての広域統治を飛鳥宮で行っていたことがわかります。藤原宮時代になると出土した荷札木簡から判断できる統治領域は更に広がります。
 以上のように出土木簡や『日本書紀』の記事というエビデンスに基づいて、一元史観の大和「飛鳥宮」説が強固に成立しています。(つづく)

《奈良文化財研究所「木簡データベース」》から転載

【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【寸法(mm)】縦(257) 横(13) 厚さ6
【型式番号】081
【出典】藤原宮2-524(飛3-5下(33))
【文字説明】「曽」は異体字「曾」。
【形状】上欠(折れ)、下欠(折れ)、左欠(割れ)、右欠(割れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】追柾目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】上毛野阿曽美□(荒)□
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】上下折れ、両側面割れ。文書木簡の断片。舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【寸法(mm)】縦(127) 横 32 厚さ 3
【型式番号】019
【出典】藤原宮2-523(飛3-5下(34))
【文字説明】
【形状】下欠(折れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】板目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】下端折れ。陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。


第1972話 2019/08/24

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(6)

 多元史観・九州王朝説による筑紫「飛鳥」説として、新・古田説(小郡「飛島」説)が出され、その弱点を補うべく正木さんが広域筑紫「飛鳥」説(小郡・朝倉・久留米)を出され、「律令制宮都の論理」というロジックと「飛鳥浄御原令」を根拠に服部さんが太宰府「飛鳥」説を出されました。次に、通説の大和「飛鳥」説の根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)について、その要点を紹介します。
 一元史観の大和「飛鳥」説は一言で言えば〝『日本書紀』の記事と考古学的出土事実、現地地名などが対応している〟という論理構造により成立しています。このロジックは単純で平明なだけに、否定しがたい説得力を有しています。それは次のようなものです。

①奈良県明日香村に七世紀後半頃の宮殿遺構が重層的に出土している。
②それら遺構の年代は出土土器や干支木簡などにより、比較的安定して編年が成立している。
③字地名「飛鳥」にある飛鳥池遺跡等から出土した七世紀後半頃の木簡の内容が『日本書紀』の記事と対応している。たとえば「飛鳥寺」「天皇」「○○皇子」など、多数。
④飛鳥寺のすぐ北西にある石神遺跡からは藤原宮の官衙域と状況が似た建物群が出土しており、同遺跡北方域から大量に(約三千点)出土した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものもあり、当地に官衙が存在したと考えられている。
⑤この「○○官」という官職名は七世紀の律令官制のものと考えられ、近畿から出土した同じく七世紀後半の金石文「釆女氏塋域碑」(拓本)に見える「飛鳥浄原大朝庭大弁官」とも対応している。

 この他にも多くの論点がありますが、『日本書紀』の史料事実や考古学的出土事実の存在そのものは否定できませんし、両者の対応も複雑な解釈や屁理屈によるものではなく、単純・平明な対応に基づいています。従って、上記のロジックは強力で説得力があります。先に紹介した筑紫「飛鳥」説が九州王朝論を基盤としたやや複雑なロジックにより成立していることと比較すれば、確かなエビデンスにも支えられている大和「飛鳥」説のほうが分かりやすいことは明白です。
 この大和「飛鳥」説をよく理解し、これら一元史観のエビデンスとロジックを軽視することなく、古田学派九州王朝説論者は自説を構築しなければならないのです。無視したり、解釈だけで逃げてはなりません。(つづく)


第1964話 2019/08/15

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(1)

 「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝「最大古墳は天皇陵」説を小澤毅氏が批判〟で紹介した小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』(吉川弘文館)は、飛鳥宮についての大和朝廷一元史観(通説)による最新の論稿が収録されており、その「飛鳥宮」論がどのような根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)により成り立っているのかを勉強する上でも好適な一冊でした。市大樹さんの名著『飛鳥の木簡 -古代史の新たな解明』(中公新書)と併せ読むことにより、更に理解が深まりました。
 晩年の古田先生は七世紀の金石文に見える「飛鳥宮」などを、小郡市の小字地名「飛島(とびしま)」が明治期の地名史料に「飛鳥(ヒチョウ)」とされていることなどを根拠に、小郡にあった「飛鳥宮」のこととする説を発表されました。その後、古田学派内では筑前・筑後の広域「飛鳥」説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、大宰府政庁(Ⅱ期)とする太宰府「飛鳥浄御原宮」説が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から発表され、今日に至っています。
 今のところ、わたしはいずれも有力としながらも賛成できないでいます。その理由は、当地に「飛鳥」地名が現存しないことなどです。他方、通説の大和「飛鳥宮」は考古学的痕跡や『日本書紀』の記事との対応など、強力なエビデンスを背景に成立しています。そこで、九州王朝説との齟齬をきたさない、大和「飛鳥宮」の位置づけが可能なのかという問題意識もあり、一度、通説をしっかりと勉強する必要を感じていました。そんなときに出会ったのが小澤さんの『古代宮都と関連遺跡の研究』でした。
 同書や市さんの『飛鳥の木簡』などを参考にしながら、大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証を試みることにします。まだ、結論には至っていません。本テーマを「洛中洛外日記」で取り上げながら、認識を深め、新たな仮説提起へと至れば幸いです。しばらく、このテーマにお付き合いください。(つづく)


第1961話 2019/08/12

飛鳥池「庚午年」木簡と

芦屋市「元壬子年」木簡の類似

 飛鳥宮における天武や持統の勢力範囲を調査するために、奈良文化財研究所の木簡データベースを検索調査しているのですが、飛鳥池遺跡から興味深い木簡が出土していることを知りました。同データベースによれば次のような文字が読み取れます。

・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□

 裏面は判読困難ですが、表面に「庚午年三」という干支とおそらくは月が記されています。冒頭の二文字「合合」は〝削り残り〟と説明されていますから、再利用木簡と思われます。その形状から見て荷札木簡ではありませんし、史料性格は不明です。同データベースでも【内容分類】が無記載ですから、奈良文化財研究所でも判断できなかったと思われます。
 この用途不明な干支木簡ですが、わたしは一見してある木簡と似ていることに気づきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「(白雉)元壬子年」木簡です。この木簡は7世紀中頃の土器と供に出土したこともあり、652年の壬子であるとされましたが、報告書(『木簡研究』第19号、1997年)では「三壬子年」と判読され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年」と紹介されました。
 ところが九州年号の白雉と『日本書紀』の白雉には二年のずれがあり、壬子の年は「白雉元年」なのです。そこで、古田先生らと共に兵庫県教育委員会の許可をいただいて、わたしは同木簡を二時間にわたり凝視しました(目視と光学顕微鏡調査。赤外線カメラ撮影は大下隆司さん)。その結果、「三」とされた文字は「元」であることが判明したのです。すなわち、九州年号の「白雉元年」を意味する「九州年号」木簡だったのです。
 木簡に九州年号の痕跡が確認された画期的な発見であり、そのことを『古田史学会報』76号(2006年8月)や『なかった』第2号(ミネルヴァ書房・2006年)、『古代に真実を求めて』10集(明石書店・2007年)、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房・2012年)、インターネット「新・古代学の扉」で発表したのですが、学界からは完全に無視されました。
 しかし発表後、微妙な変化が起こったことにわたしは気づきました。その後発刊された木簡に関する書籍や論文に、この「元壬子年」木簡の紹介がなくなったり、あるいは「壬子年」とだけ記し、「元」とも「三」とも触れなくなったのです。すなわち、それまでも古田先生の九州王朝説や九州年号説が国民の目に触れないように、学界は古田史学を無視し、なかったことにしようとしてきたのですが、この「元壬子年」木簡の存在と意義が一旦マスコミや国民に知れ渡ると、九州年号の実在をごまかしようがなくなると恐れたのだと思います。
 このようないわく付きの「元壬子年」に、今回の飛鳥池出土「庚午年」木簡が似ていることに気づいたのです。それは、共に木簡の途中から文字(干支)が書き出されており、上部に空白があることです。通常、7世紀の荷札木簡で干支から始まる場合は、木簡上部から書き始められます。限られたスペースに過不足無く必要な情報を書かなければならないという木簡の性質上、その上部に無駄なスペースを空ける必要はありません。ところが、この2つの木簡は上部に数文字は書き込める空白部分が、おそらくは意図的に置かれているのです。この上部空白現象について、奈良文化財研究所の「木簡説明」でも次のように指摘されています。

 「干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。」

 ここからはわたしの推測ですが、九州王朝の時代は木簡に九州年号を記すことが憚られていて、九州年号が書かれるべき位置をあえて空白にしたのではないでしょうか。この推測が正しければ、「庚午年」木簡も「元壬子年」木簡もその形状から荷札木簡ではなく、本来は九州年号付きで記されるべき内容の文書木簡(メモ)だったことになります。たとえば、「庚午年」木簡は670年(白鳳十年)の「庚午年籍」造籍に関する行政文書木簡で、「元壬子年」木簡は前期難波宮創建を記念しての白雉改元に関する行政文書木簡ではなかったかと推測しています。
 引き続き、同様の木簡の有無を調査し、こうした作業仮説が成立可能か検討したいと考えています。

〔奈良文化財研究所 木簡データベース〕
【木簡番号】185
【本文】・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□
【寸法(mm)】縦 (77) 横 20 厚さ 4
【型式番号】019
【出典】飛鳥藤原京1-185(木研21-22頁-(31)・飛13-17上(80))
【文字説明】
【形状】上削り、左削り、右削り、下欠(折れ)。表面左側剥離。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNK36
【内容分類】
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】((庚午年)天智9年3月)
【西暦】670(年), (3)(月)
【木簡説明】上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。


第1954話 2019/08/01

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(4)

 飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」などの考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証により、飛鳥の地で天武が「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを指摘しました。この近畿天皇家中枢の地から出土した同時代木簡という最強のエビデンスにより、安定して成立した仮説を基礎にして、更に他の同時代金石文により、論理を展開(論証)します。
 その同時代金石文とは奈良県桜井市の長谷寺に古くから秘蔵されてきた「千仏多宝塔銅板」です。その銅板の銘文には「天皇陛下」「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」という文字が記されており、この「天皇」を天武または持統とする説が有力視されています。この銅板の成立は銘文に記された「歳次降婁漆菟月上旬」という年次表記が「戌年の七月上旬」を意味することから(伴信友説)、686年(丙戌、朱鳥元年)か698年(戊戌、文武二年)のこととする諸説が発表されています。いずれにしても、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡とほぼ同時代と見なすことができます。
 銘文には「道明」という制作者名も記されており、他の史料(『扶桑略記』『七大寺年表』『東大寺要録』)では「道明」を斉明や天武と関係が深い奈良県明日香村の弘福寺(川原寺)僧としていることから、「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」の為に造ったと記されているこの銅板は7世紀後半の大和で成立したと考えて全く問題ありません。というよりも、それ以外の理解(仮説)を支持するエビデンス(史料根拠)はありません。
 以上の論理展開(論証結果)によるなら、飛鳥に割拠した天武や持統は「天皇」号を名乗り、その宮殿は「飛鳥浄御原大宮」と呼ばれていたことになります。そしてその考古学的根拠(エビデンス)として、比較的大規模な「伝板葺宮」「エビノコ郭」遺跡が飛鳥池の近傍にあり、その遺跡を「飛鳥浄御原大宮」とする仮説が成立します。なお、この宮殿遺跡は前期難波宮よりも規模が劣りますが、大宰府政庁よりも巨大です。7世紀後半頃の大和飛鳥にこの規模の宮殿遺跡が存在することを多元史観・九州王朝説論者は軽視してはいけません。更に、「千仏多宝塔銅板」銘文に九州年号が使用されていないことにも留意が必要です。(つづく)