「 木簡 」一覧

第1964話 2019/08/15

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(1)

 「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝「最大古墳は天皇陵」説を小澤毅氏が批判〟で紹介した小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』(吉川弘文館)は、飛鳥宮についての大和朝廷一元史観(通説)による最新の論稿が収録されており、その「飛鳥宮」論がどのような根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)により成り立っているのかを勉強する上でも好適な一冊でした。市大樹さんの名著『飛鳥の木簡 -古代史の新たな解明』(中公新書)と併せ読むことにより、更に理解が深まりました。
 晩年の古田先生は七世紀の金石文に見える「飛鳥宮」などを、小郡市の小字地名「飛島(とびしま)」が明治期の地名史料に「飛鳥(ヒチョウ)」とされていることなどを根拠に、小郡にあった「飛鳥宮」のこととする説を発表されました。その後、古田学派内では筑前・筑後の広域「飛鳥」説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、大宰府政庁(Ⅱ期)とする太宰府「飛鳥浄御原宮」説が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から発表され、今日に至っています。
 今のところ、わたしはいずれも有力としながらも賛成できないでいます。その理由は、当地に「飛鳥」地名が現存しないことなどです。他方、通説の大和「飛鳥宮」は考古学的痕跡や『日本書紀』の記事との対応など、強力なエビデンスを背景に成立しています。そこで、九州王朝説との齟齬をきたさない、大和「飛鳥宮」の位置づけが可能なのかという問題意識もあり、一度、通説をしっかりと勉強する必要を感じていました。そんなときに出会ったのが小澤さんの『古代宮都と関連遺跡の研究』でした。
 同書や市さんの『飛鳥の木簡』などを参考にしながら、大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証を試みることにします。まだ、結論には至っていません。本テーマを「洛中洛外日記」で取り上げながら、認識を深め、新たな仮説提起へと至れば幸いです。しばらく、このテーマにお付き合いください。(つづく)


第1961話 2019/08/12

飛鳥池「庚午年」木簡と

芦屋市「元壬子年」木簡の類似

 飛鳥宮における天武や持統の勢力範囲を調査するために、奈良文化財研究所の木簡データベースを検索調査しているのですが、飛鳥池遺跡から興味深い木簡が出土していることを知りました。同データベースによれば次のような文字が読み取れます。

・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□

 裏面は判読困難ですが、表面に「庚午年三」という干支とおそらくは月が記されています。冒頭の二文字「合合」は〝削り残り〟と説明されていますから、再利用木簡と思われます。その形状から見て荷札木簡ではありませんし、史料性格は不明です。同データベースでも【内容分類】が無記載ですから、奈良文化財研究所でも判断できなかったと思われます。
 この用途不明な干支木簡ですが、わたしは一見してある木簡と似ていることに気づきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「(白雉)元壬子年」木簡です。この木簡は7世紀中頃の土器と供に出土したこともあり、652年の壬子であるとされましたが、報告書(『木簡研究』第19号、1997年)では「三壬子年」と判読され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年」と紹介されました。
 ところが九州年号の白雉と『日本書紀』の白雉には二年のずれがあり、壬子の年は「白雉元年」なのです。そこで、古田先生らと共に兵庫県教育委員会の許可をいただいて、わたしは同木簡を二時間にわたり凝視しました(目視と光学顕微鏡調査。赤外線カメラ撮影は大下隆司さん)。その結果、「三」とされた文字は「元」であることが判明したのです。すなわち、九州年号の「白雉元年」を意味する「九州年号」木簡だったのです。
 木簡に九州年号の痕跡が確認された画期的な発見であり、そのことを『古田史学会報』76号(2006年8月)や『なかった』第2号(ミネルヴァ書房・2006年)、『古代に真実を求めて』10集(明石書店・2007年)、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房・2012年)、インターネット「新・古代学の扉」で発表したのですが、学界からは完全に無視されました。
 しかし発表後、微妙な変化が起こったことにわたしは気づきました。その後発刊された木簡に関する書籍や論文に、この「元壬子年」木簡の紹介がなくなったり、あるいは「壬子年」とだけ記し、「元」とも「三」とも触れなくなったのです。すなわち、それまでも古田先生の九州王朝説や九州年号説が国民の目に触れないように、学界は古田史学を無視し、なかったことにしようとしてきたのですが、この「元壬子年」木簡の存在と意義が一旦マスコミや国民に知れ渡ると、九州年号の実在をごまかしようがなくなると恐れたのだと思います。
 このようないわく付きの「元壬子年」に、今回の飛鳥池出土「庚午年」木簡が似ていることに気づいたのです。それは、共に木簡の途中から文字(干支)が書き出されており、上部に空白があることです。通常、7世紀の荷札木簡で干支から始まる場合は、木簡上部から書き始められます。限られたスペースに過不足無く必要な情報を書かなければならないという木簡の性質上、その上部に無駄なスペースを空ける必要はありません。ところが、この2つの木簡は上部に数文字は書き込める空白部分が、おそらくは意図的に置かれているのです。この上部空白現象について、奈良文化財研究所の「木簡説明」でも次のように指摘されています。

 「干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。」

 ここからはわたしの推測ですが、九州王朝の時代は木簡に九州年号を記すことが憚られていて、九州年号が書かれるべき位置をあえて空白にしたのではないでしょうか。この推測が正しければ、「庚午年」木簡も「元壬子年」木簡もその形状から荷札木簡ではなく、本来は九州年号付きで記されるべき内容の文書木簡(メモ)だったことになります。たとえば、「庚午年」木簡は670年(白鳳十年)の「庚午年籍」造籍に関する行政文書木簡で、「元壬子年」木簡は前期難波宮創建を記念しての白雉改元に関する行政文書木簡ではなかったかと推測しています。
 引き続き、同様の木簡の有無を調査し、こうした作業仮説が成立可能か検討したいと考えています。

〔奈良文化財研究所 木簡データベース〕
【木簡番号】185
【本文】・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□
【寸法(mm)】縦 (77) 横 20 厚さ 4
【型式番号】019
【出典】飛鳥藤原京1-185(木研21-22頁-(31)・飛13-17上(80))
【文字説明】
【形状】上削り、左削り、右削り、下欠(折れ)。表面左側剥離。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNK36
【内容分類】
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】((庚午年)天智9年3月)
【西暦】670(年), (3)(月)
【木簡説明】上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。


第1954話 2019/08/01

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(4)

 飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」などの考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証により、飛鳥の地で天武が「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを指摘しました。この近畿天皇家中枢の地から出土した同時代木簡という最強のエビデンスにより、安定して成立した仮説を基礎にして、更に他の同時代金石文により、論理を展開(論証)します。
 その同時代金石文とは奈良県桜井市の長谷寺に古くから秘蔵されてきた「千仏多宝塔銅板」です。その銅板の銘文には「天皇陛下」「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」という文字が記されており、この「天皇」を天武または持統とする説が有力視されています。この銅板の成立は銘文に記された「歳次降婁漆菟月上旬」という年次表記が「戌年の七月上旬」を意味することから(伴信友説)、686年(丙戌、朱鳥元年)か698年(戊戌、文武二年)のこととする諸説が発表されています。いずれにしても、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡とほぼ同時代と見なすことができます。
 銘文には「道明」という制作者名も記されており、他の史料(『扶桑略記』『七大寺年表』『東大寺要録』)では「道明」を斉明や天武と関係が深い奈良県明日香村の弘福寺(川原寺)僧としていることから、「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」の為に造ったと記されているこの銅板は7世紀後半の大和で成立したと考えて全く問題ありません。というよりも、それ以外の理解(仮説)を支持するエビデンス(史料根拠)はありません。
 以上の論理展開(論証結果)によるなら、飛鳥に割拠した天武や持統は「天皇」号を名乗り、その宮殿は「飛鳥浄御原大宮」と呼ばれていたことになります。そしてその考古学的根拠(エビデンス)として、比較的大規模な「伝板葺宮」「エビノコ郭」遺跡が飛鳥池の近傍にあり、その遺跡を「飛鳥浄御原大宮」とする仮説が成立します。なお、この宮殿遺跡は前期難波宮よりも規模が劣りますが、大宰府政庁よりも巨大です。7世紀後半頃の大和飛鳥にこの規模の宮殿遺跡が存在することを多元史観・九州王朝説論者は軽視してはいけません。更に、「千仏多宝塔銅板」銘文に九州年号が使用されていないことにも留意が必要です。(つづく)


第1953話 2019/07/29

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(3)

 前話で紹介した7世紀以前の金石文や史料に見える「天皇」のうち、最も明確で説得力を持つのが飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」です。その出土層位から7世紀後半の天武期の木簡と編年されていますし、そこに記された皇子たちの名前が『日本書紀』に見える天武天皇の子供の名前とほぼ一致していますから、考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証力を有しています。同時代文字史料が極めて少ないという古代史研究においては極めて珍しい理想的なケースなのです。

 【『日本書紀』天武の皇子・皇女】
○斉明七年正月条 大伯皇女(大来皇女のこと)
○天武二年二月条 大来皇女 大津皇子 舎人皇子 穂積皇子

 この他にも飛鳥池からは最高権力者が用いる「詔」木簡などが出土しており、この地の権力者が7世紀後半に「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを証明しています。そしてその皇子の名前が『日本書紀』の記事に対応していることから、飛鳥の地で近畿天皇家は天武の時代には「天皇」を称していたと理解せざるを得ません。こうした史料事実をエビデンスとして、一元史観では「天皇」号を称したのは天武の時代からとする説が最有力と見なされています。
 多元史観・九州王朝説に立つわたしも、この史料事実とそれに基づく理解については否定できないのです。実は古田先生との対話でも、この飛鳥池出土「天皇」木簡について意見が対立しました。古田先生はこの「天皇」も九州王朝の天子のことと理解されていました。ただ、その根拠は「天皇とあれば九州王朝の天子のこと」と説明されただけでしたので、わたしとの対話は平行線をたどりました。
 この飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡は古田旧説(ナンバーツーとしての「天皇」)であれば矛盾無く説明できますが、古田新説での説明はかなり困難ではないでしょうか。もし古田新説で説明しようとすると、九州王朝の天子が7世紀後半頃に飛鳥にいて、その皇子たちの名前が天武の子供らと偶然一致していた、あるいは天武の子供たちの名前を九州王朝の天子の子供たちの名前に書き換えて『日本書紀』を編纂し、王朝交替後も「舎人親王」などのように九州王朝の天子の子供たちの名前を天武の実子たちは〝借用〟したとでも言うほかありません。しかし、このような解釈は説得力を持たないでしょうし、何よりも「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」を九州王朝の皇子たちの名前であるとするエビデンス(史料根拠)がありません。また、九州王朝の存在を隠した『日本書紀』編者や天武の実子たちがそのような改名をわざわざ行う必要性もメリットもありません。更に言えば太宰府条坊都市や前期難波宮・難波京という大規模な都城・宮殿を持つ九州王朝の天子が、飛鳥のような狭い地域の前期難波宮よりもはるかに小規模な飛鳥宮に〝遷都・遷宮〟する必要もありません。
 以上のような理由から、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡は近畿天皇家の人物を示すとするほかありません。そうしますと、王朝トップの「天皇」が豪族に与える「八色(やくさ)の姓(かばね)」の「真人」姓を自らの名前中に持つ天武(天渟中原瀛眞人天皇)は古田旧説のようにナンバーツーとしての「天皇」号を称していたことになります。史料根拠と平明な論理性に基づく限り、わたしにはこの理解しか今のところできません。
 そして、一旦この理解に立つと、近畿から出土・伝来した7世紀の史料中に見える「天皇」号を九州王朝の天子の別称とする理解は困難となります。なぜなら、もし九州王朝の天子が「天皇」号も名乗っていたのであれば、ナンバーツーの天武に自らと同じ称号「天皇」を名乗ることを許すとは考えられないからです。ただ、次の可能性もあります。それは、壬申の乱に勝利した天武の時代には近畿天皇家が実力ナンバーワンとなり、九州王朝の天子と同じ「天皇」を自称したというケースです。この場合は、天武は飛鳥の宮で「天皇」を自称し、その実力で各地の豪族への支配を開始したということになります。わたしはこの二つの可能性(①ナンバーツー「天皇」号を飛鳥の天武は許された。②ナンバーワン「天皇」を天武は飛鳥で自称した。)について検討を続けています。(つづく)


第1881話 2019/05/01

「令和」改元を祝い、「白雉」改元を論ず

 本日、新天皇が即位され、「令和」と改元されました。そこで、「令和」改元を祝い、あらためて九州年号の「白雉」改元を論じることにします。
 「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟において、「孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日」(庚戌:650年、壬子:652年)とあることを紹介しました。そして白雉元年に二つの異なる干支が記されるという不体裁の理由は、本来の九州年号の白雉元年壬子(652年)表記に、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年庚戌(650年)の影響を受け、「庚戌」が付記された結果であるとしました。
 更に、芦屋市三条九之坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡により、白雉元年の干支は壬子(652年)であり、『二中歴』などの九州年号の「白雉」(652〜660年)が正しく、『日本書紀』の「白雉」は二年ずらして転用していたことが明確となったわけですが、実は『日本書紀』そのものにも「白雉元年」を二年ずらしていた痕跡があることをわたしは発見し、「白雉改元の史料批判 -盗用された改元記事-」(『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、『古田史学会報』76号 2006年10月)として発表しました。
 その痕跡とは、『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年庚戌)二月条の白雉改元儀式の記事は、本来は白雉三年(652年壬子。九州年号の白雉元年に相当)二月条にあったものが削除され、元年(650年庚戌)二月条へ移されたことを示すある記述です。先の論文より当該部分を転載します。

【以下転載】
 このように、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事が九州王朝史料からの盗用である可能性は極めて高いのであるが、今回新たに孝徳紀を精査したところ、同記事盗用の痕跡がまた一つ明かとなったので報告する。
 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(六五二)条になければならない。そして、その白雉三年正月条には次のような不可解な記事がある。

 「三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。
 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、二年ずらしての盗用だったのだ。


第1880話 2019/04/26

『箕面寺秘密縁起』の九州年号

 箕面市平尾の龍安寺が蔵する『箕面寺秘密縁起』には九州年号が記されています。『修験道史料集(Ⅱ)』によれば次のようです。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)

 ※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

 『箕面寺秘密縁起』は箕面寺草創の歴史と役行者について記したもので、江戸時代初期以前の成立と見られています。そこに記された九州年号は「不正確」であり、編纂時に「九州年号」年代記などを参照して改変付記されたものと思われます。
 たとえば⑤の「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とした後代改変された「白鳳」です。⑥の「朱鳥八年歳次甲午」も本来の九州年号「朱鳥八年(693年)」とは一年ずれており、持統天皇元年を「朱鳥元年」とした改変型です。『万葉集』に見える「朱鳥」も同様の改変型です。
 ⑦の「大化九秊乙未」は改変型というよりも、本来の九州年号「大化元年乙未」の誤写(元→九)の可能性があります。なお、本稿で示した「本来の九州年号」とは最も史料価値が高い『二中歴』系の九州年号です。
 『箕面寺秘密縁起』の九州年号で最も興味深いのが②③④の「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」という表記です。これでは「白雉元年」が庚戌(650年)なのか、壬子(652年)なのかわかりません。この意味不明な表記に同縁起編者の苦悩の跡が見て取れます。元史料には「白雉元年歳次壬子」(652年)とあったが、『日本書紀』の孝徳紀「白雉元年」は庚戌(650年)であるため、『日本書紀』との「整合性」を保つために細注で「庚戌」と付記したことにより、この意味不明の表記「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」になったのです。このとき、更に「歳次壬子」の部分を削除していれば「白雉元年〈庚戌〉」となり、『日本書紀』と矛盾しないのですが、なぜか編者はそれをしていません。その結果、同縁起に九州年号「白雉元年」の本来の姿(歳次壬子)を留めたわけです。このように、九州年号には本来型と『日本書紀』の内容に整合させるための後代改変型が各史料に散見します(例えば『高良記』の「白鳳」など)。
 この「白雉」年号の二年のずれについては、三十年前にも古田学派内で論争がありました。「市民の古代研究会」時代に、九州年号研究で先駆的研究をされた丸山晋司さんは、本来の九州年号「白雉」が『日本書紀』孝徳紀に二年ずらして転用されたとする立場に立たれていました。わたしもこの意見に賛成です。
 他方、熊本市の平野雅曠さんは、干支が二年ずれた暦法によるもので、共に同年のこととする説を発表され、丸山さんと激しい論争が続きました。その後、平野さんは亡くなられ、丸山さんも「市民の古代研究会」の分裂を機に九州年号研究から離れられ、この論争自体は「未決着」となりました。
 この白雉元年が『二中歴』などの九州年号史料に見える「壬子(652年)」なのか、『日本書紀』孝徳紀の「庚戌(650年)」なのかについて決着をつけたのが芦屋市三条九之坪遺跡から出土した一枚の木簡でした。この木簡について、『木簡研究』には「三壬子年」と発表され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年(652年)」のことと解説されていました。しかし、この報告に疑問を感じたわたしは、古田先生等と共に兵庫県教育委員会の許可を得て同木簡を精査したところ、「三」と読まれていた文字が「元」であることを確認しました。すなわち、「(白雉)元壬子年(652年)」という九州年号木簡だったのです。調査には光学顕微鏡や赤外線カメラ(大下隆司さん撮影)を持ち込み、二時間にわたりわたしは同木簡を観察し、「元壬子年」と書かれていることを確認しました。
 同木簡は出土当時は紀年銘木簡としては国内最古であり、研究者から注目されました。ところが、わたしや古田先生が九州年号「(白雉)元壬子年」木簡であることを論文や書籍(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)で発表したとたんに、古代史学界でのこの木簡に対する取り扱いが〝冷淡〟になりました。すなわち、この木簡が九州年号や九州王朝の実在を直接的に示す同時代史料であるため、大和朝廷一元史観の学界はこの木簡の存在に触れることは〝やばい〟と判断したかのようでした。その結果、従来は「三壬子年」と紹介されていたのが、紹介しないか、紹介しても「壬子年」木簡という表記で紹介するようになり、「三」とも「元」とも触れない傾向が今も続いています。
 この「元壬子年」木簡の発見は、「白雉」年号の本来型論争に決着をつけただけではなく、九州年号や九州王朝説についてもそれが真実であったことを白日の下に晒すこととなりました。もし、今回の「令和」改元ブームの中で、マスコミがこの「元壬子年」木簡の存在と意義を広く国民に知らせたなら、日本古代史はパラダイムシフトを起こすことでしょう。しかしながら、権威への忖度を旨とする現代日本のメディアにそれを期待することはできないでしょう。わたしたち古田学派は学問そのものが持つ〝真実を追究する力〟により、パラダイムシフトを起こさなければならないのです。そしてそれは可能です。あのベルリンの壁が壊れたように、人間が造った壁(歴史観)は人間によって変革することもできるのです。わたしはこのことを一瞬たりとも疑ったことはありません。


第1757話 2018/09/23

7世紀の編年基準と方法(5)

 太宰府出土「戸籍」木簡の編年について、7世紀初頭の多利思北孤の時代のものとする見解もあるようですので、この仮説が成立しないことを最後に説明します。
 まず「戸籍」木簡には「嶋評」とあり、7世紀後半に採用された行政区画「評」の時代であることが明確で、もし7世紀前半頃であれば評制以前の行政区画「県(あがた)」を用いて、「嶋県」とあるはずです。この一点からも同木簡を7世紀初頭や前半のものとするのは無理です。
 更に7世紀初頭の九州王朝の位階については『隋書』倭国伝(原文は「イ妥国」)に次のように記されています。

 「内官有十二等、一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。」『隋書』イ妥国伝

 『日本書紀』にも次のような「冠位十二階」が記されています。

 「始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、併せて十二階、並びに當(あた)れる色の絁(きぬ)を以て縫えり。」『日本書紀』推古11年(603)12月条

 このように、7世紀初頭の日本列島における冠位は儒教の徳目とされている漢字(徳・仁・義・禮・智・信)が採用されていることがわかります。いずれも7世紀末頃に採用された位階とは明確に異なっています。従って、「嶋評」という行政区画や「進大弐」という位階が記されている「戸籍」木簡を7世紀初頭や前半頃のものとする仮説は史料事実に反しており、学問的に成立しないことをご理解いただけると思います。(つづく)


第1756話 2018/09/22

7世紀の編年基準と方法(4)

 太宰府出土の「戸籍」木簡の成立年を685〜700年まで絞り込むことができると説明しましたが、それは二つの先行研究の成果によっています。一つは木簡に記された「嶋評」という「評制」が7世紀中頃に始まり700年まで続いたとする通説が多くの先行研究の結果により成立していること、二つ目は「進大弐」という位階が『日本書紀』天武14年条(685年)に制定(48等の位階)されたとする記事があり、この記事が信頼できるとする先行研究です。
 「評制」が7世紀中頃に開始されたとする根拠については拙論「『評』を論ず -評制施行時期について-」(『多元』145号、2018年4月)で詳述していますので、ご参照ください。また、「評制」が700年に終わり、翌701年から「郡制」に替わったことは、藤原宮などからの出土木簡により確認されています。
 『日本書紀』天武14年条(685年)の位階制定記事が信頼できるとする理由についても諸研究がありますが、次の出土木簡を紹介し、説明します。市大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記載があります(210頁)。
 「本位進大壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」
 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進大壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「進大壱」も天武14年に制定された位階制度です。この木簡から、大宝元年(701年)〜二年に制定された『大宝律令』による新位階制度へ変更されたことがわかります。従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土「戸籍」木簡も7世紀末頃のものと判断できるのです。
 更に那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年)の「追大壹」叙位記事も天武14年(685年)制定の位階であり、7世紀末にこれら位階が採用されていたことがわかります。このように、藤原宮出土木簡や那須国造碑などのような同時代史料により、『日本書紀』天武14年の位階制度制定記事が歴史事実と見なして問題ないとする通説が成立しています。
 こうした先行研究の成果により、太宰府出土「戸籍」木簡の編年を685〜700年とする判断が妥当とできるわけです。一元史観の「戦後実証史学」は、決して『日本書紀』の記述を無批判に受け入れて「成立」しているケースだけではないのです。
 なお、付言しますと、一元史観では以上の編年や考察で一段落するのですが、多元史観・古田説ではここから更にこの位階制度の制定主体が『日本書紀』にあるように近畿天皇家の天武でよいのか、九州王朝の天子によるものなのかという研究課題が待ち構えています。(つづく)


第1755話 2018/09/21

7世紀の編年基準と方法(3)

 太宰府から出土した「戸籍」木簡は「記録木簡」とも言えるほどの情報が記載されており、作成年次の編年もかなり絞り込むことができました。その際のキーワードは木簡に記された「嶋評」と「進大弐」という文字でした。同木簡には次の文字が記されています。

《表側》
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[?]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[?] 川ア里 占ア赤足□□□□[?]
少子之母 占ア真□女 老女之子 得[?]
穴□ア加奈代 戸 附有

《裏側》
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建[?]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[?]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[?]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[?]
(注記:ア=部、□=判読不能文字、[?]=破損で欠如)

 表面冒頭に見える「嶋評」とは糸島半島にあった地名で、行政区画が「評」表記ですので、701年に全国一斉に「郡」表記となる以前の木簡であることがわかります。従ってこの「戸籍」木簡は九州王朝時代の7世紀後半のものとまずは編年できました。次いで注目すべきが裏面に記された「進大弐」という位階名です。『日本書紀』によればこの「進大弐」は天武14年条(685年)に制定記事(48等の位階)があることから、この木簡の成立時期を685〜700年まで絞り込むことができます。(つづく)


第1754話 2018/09/20

7世紀の編年基準と方法(2)

 前期難波宮の編年については多くの根拠による複数のクロスチェックが可能であり、比較的安定した編年ができました。編年研究としては恵まれたケースでした。
 次に紹介する木簡の事例は、当該木簡の記述内容とその他の史料や編年研究の成果を利用して、より精緻な編年が可能となったケースです。歴史学では安定して成立している先行研究との対応検討は重要です。学会誌などでの投稿論文も先行研究に対する理解や対応が不十分なものは通常不採用となります。それまでに積み上げられてきた先行研究に対して、それを否定・批判する論稿であればなおさら厳しくこの点を査読されます。残念ながら古田学派内の論稿には、この先行研究の成果に対する不勉強や誤解に基づくものが少なくありません。わたし自身も、こうした不勉強や理解不足により、若い頃に誤った論稿を発表した苦い経験がありますので、今も自戒を込めてこのことを指摘しておきたいと思います。
 2012年6月13日に新聞報道された、太宰府市出土の「戸籍」木簡を今回は取り上げます。同木簡は最古の「戸籍」木簡と報道されましたが、その編年手法は、木簡に記された内容を先行研究の成果により詳細に検討するというものでした。なお、同木簡は他の木簡とともに水路(川の跡)から出土したため、出土層位毎の伴出土器などによる編年は困難でした。
 現地説明会資料などによれば、出土した木簡は13点で、その中の1枚が注目されている「嶋評」と記された「戸籍」木簡です。出土場所は大宰府政庁の北西1.2kmの地点で、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層で、その堆積層の上の部分から出土した別の木簡には「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されており、評制の時期(650年頃〜700年)から少なくとも天平十一年までの木簡が出土したことになりそうです。なお、この「天平十一年」木簡のみが広葉樹で、他の12枚は針葉樹だそうです。
 このように7世紀後半「評制」時代の木簡(後述します)と「天平十一年十一月」(739年)に書かれたと考えられる木簡が同じ所から出土しています。使い捨ての荷札木簡とは異なり、長期保管が必要な戸籍に関する木簡が出土していることから、戸籍管理に関わる役所の倉庫などから天災などにより文字通り川に流出したのではないでしょうか。(つづく)