「 木簡 」一覧

第1385話 2017/05/06

九州年号の空白木簡の疑問

 ずっと気になっていて未だ解決できない問題があります。それは700年以前の干支木簡に九州年号が記されていないという問題です。701年(大宝元年)以降の紀年木簡には基本的に大和朝廷の年号が記されているのですが、九州王朝の時代の木簡にはなぜか九州年号が記されていません。この疑問をずっと抱いているのですが、解決のための良いアイデアがでないのです。学問研究ですから、わからないことが多いのは当たり前なのですが、九州王朝と大和朝廷の関係から考えても、この現象は不思議なことなのです。
 大和朝廷の「大宝律令」(逸文による復元)や『養老律令』には次のように年次記載には年号を用いよと明確に規定しています。

 「凡公文応記年者、皆用年号。」(おおよそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用いよ。)『養老律令』儀制令

 荷札木簡は公文書とは言えませんが、九州王朝も同様の律令を持っていたと思われますので、700年以前の木簡には干支が書かれるだけで九州年号がないのは不思議です。
 今回は、もう一つのわたしの疑問を紹介します。それは前期難波宮出土の「戊申年」(648)木簡と、芦屋市出土の「元壬子年」(652)木簡についての謎です。
 最初に不思議に感じたのが「元壬子年」木簡でした。この木簡については既に論文(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)などで発表していますが、九州年号の「白雉元年壬子」の木簡で、「白雉」が記されていないタイプです。というのも、この木簡の「元壬子年」の文字の上部にかなりのスペースがあり、意図的に空けたとしか思えないほどなのです。従って、後から「白雉」を書き入れる予定だったのか、あるいはあえて「白雉」を書かずに九州年号のスペース分を空けたのではないかと考えたりしました。すなわち、年号を神聖なものとして木簡に書くということがはばかられたとする理解です。もちろん根拠はなく、推定(思いつき)に過ぎません。
 次に気づいたのが「戊申年」木簡です。この木簡は「戊申年」という文字を書いた後、空いたスペースを文字の練習に使用したと思われる「習字木簡」と考えられています。すなわち、本来の形としては「元壬子年」木簡同様に、九州年号(常色二年)が記入されるべき上部を空けているのです。
 この二例だけですが、「九州年号空白木簡」とも称すべき木簡があるのです。しかしなぜ空白とされたのかはよくわかりません。どなたか良いアイデア(作業仮説)があれば、ご呈示ください。


第923話 2015/04/15

法道仙人開基の

  朝光寺訪問

 今日は兵庫県加東市に行きました。お客様との約束時間より早く到着しましたので、昼食の休憩を兼ねて近くの朝光寺を訪問しました。大きく立派な本堂(国宝)が見事でした。
 朝光寺は法道仙人が白雉2年に開基したとする寺伝を持つ古刹ですが、観光案内パンフレットなどでは、この白雉2年を『日本書紀』の白雉2年(651年)と紹介されていますが、やはり九州年号の白雉2年(653年)と理解すべきと思われます。開基伝承の出典は『朝光寺文書』などのようですので、これから調査したいと思います。
 朝光寺の他にも播磨地方には法道開基とされる白雉年間の創建伝承を持つ寺院が多く、九州年号研究でも注目されている地域なのです。ちなみに、加西市の一乗寺も法道による白雉元年の開基とされています。
 恐らく、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」(白雉元年壬子・652年)木簡も白雉年間における播磨地方の寺院創建ラッシュと関係するのではないかと推察しています。さらにはこの白雉年間の寺院創建は、九州年号の白雉元年(652)に完成した九州王朝の副都「前期難波宮」と無関係ではないようにも思われるのです。今後の研究の深化が期待されます。


第884話 2015/02/27

「玉作五十戸俵」木簡

    の初歩的考察

 難波宮近傍から出土した「玉作五十戸俵」木簡について、初歩的な考察を試みたいと思います。調査報告書や研究論文がまだ出されていないので、新聞発表や『葦火』174号(2015年2月)に掲載された谷崎仁美さんの報告「発見!『玉作五十戸俵』木簡」を参考にしました。
 同木簡の写真を見たとき、よく読解できたものだと思いました。大阪歴博の李陽浩(り・やんほ)さんにお聞きしたところでも、「玉作」と「俵」はすぐに読めたが「五十戸」は時間がかかったとのことでした。確かに「五」と「十」は異体字とも思えるような字で、特に「十」は「T」に近い字体です。「戸」も上の「一」が一画多い字体に見えます。
 さらにその筆跡もかなりの癖字で、その特徴的な筆跡から他の木簡にも似た筆跡が見つかるかもしれません。そしてうまくいけば他の木簡との比較により、不明とされている年代推定ができる可能性も残されています。この木簡が孝徳期まで遡れるとしたら、行政単位の「五十戸(さと)」が7世紀中頃に存在したこととなり、『日本書紀』の大化改新詔の研究が前進します。それほど貴重な木簡なのです。
 次にわたしが注目しているのが「玉作」という地名です。『和名抄』に見える郷名の「たまつくり」を根拠に、いくつかの地域が候補にあがっていますが、荷札木簡にしては疑問点があります。地方から前期難波宮に供出された荷物として「出荷地」を読む人(受取人・前期難波宮の役人)に伝えるためには最小地名単位の「玉作五十戸(さと)」だけでは各地にあったどこの「玉作」なのかわかりませんから、荷札としては「役立たず」なのです。すなわち、荷札としての本来の目的を果たすためには「○○国△△評玉作五十戸」と出荷地名を特定できる表記であってほしいのです。さらに出荷時期を示す「年干支」なども必要でしょう。記す場所も十分に残されているのに、なぜ書かれなかったのでしょうか(裏面に文字はありません)。不思議です。
 そこで、この現象を説明できる仮説があります。それは国名や評名を書かなくても、書いた人にも読んだ人にも「玉作五十戸」だけで場所が共通認識として特定できるケースとして、次の状況が考えられます。それはある特定の時期に難波の地域内、あるいは近傍の「玉作」からの供出のケースです。そのようなケースとして次の状況が考えられます。すなわち、前期難波宮造営のために造営時期に近隣の地域に供出を権力者が命じた場合です。このケースであれば、国名や評名がなくても供出地域が当初から限定されていますから、「玉作五十戸」だけで十分ですし、前期難波宮造営時の供出ですから、年次の記載も不要なのです。
 この仮説によれば「玉作」という地名が前期難波宮の近傍に存在しなければなりませんが、前期難波宮のすぐ南東に玉造町(大阪市中央区)や玉造本町(大阪市天王寺区)があります。ここからの供出であれば、書いた人も受け取った役人も「玉作五十戸」で十分です。
 以上、「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察でしたが、同木簡を実見できましたら更に論究したいと思います(現在は調査中のため同木簡は公開されていまん)。


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
 反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。
 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。
 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。
 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。
 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)
 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第753話 2014/07/27

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(3)

 森郁夫さんの『一瓦一説』は一元史観による理解や解説に立ってはいますが、「瓦」という考古学事実についてはとても勉強になります。たとえば「わが国最古の瓦」(200ページ)では、昭和53年(1978)に福岡県の神ノ前窯(太宰府市吉松字神ノ前)から、日本最古の瓦が出土したことが次のように 紹介されています。

 「その瓦が出土した窯は須恵器生産の窯であり、軒丸瓦や丸瓦、平瓦が出土したというのである。軒丸瓦の瓦当面には文様が施されていない。無文なのである。(中略)
 瓦とともに出土した須恵器の年代から六世紀末葉を若干さかのぼる、飛鳥寺に先行する時期であるとのことであった。」
 「神ノ前で生産された瓦の供給先は当初はっきりしなかったのだが、県内の発掘調査が進んだ結果、那珂遺跡(福岡市博多区那珂)から同様の瓦が出土したことによってそこで使用されたことが分かった。」

 このように、わが国最古の瓦は九州王朝の中枢である太宰府で生産され、同じく中枢の博多湾岸で使用されていたのです。この考古学的事実も九州王朝説にとって有利な事実です。瓦の受容と生産が九州王朝で6世紀末頃に開始されたということになりますが、北部九州の須恵器編年が通説よりも50~100年ほど遡る可能性がありますので、実際はもう少し早い時期に九州王朝は瓦の生産を開始したのではないでしょうか。更に、瓦は主に寺院建築に使用されていますから、仏教の伝来も仏寺の建築も北部九州が先行したことを、この最古の瓦は示唆しているように思われます。


第752話 2014/07/26

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(2)

 太宰府の観世音寺創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)や、『勝山記』(鎮西観音寺造)『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳十年(六七〇)の創建とする記事が発見され、観世音寺創建が白鳳十年(六七〇)であることが史料的に明らかになってい ました。
 森郁夫著『一瓦一説』では、観世音寺創建瓦の同笵品瓦の発見により、観世音寺の創建が川原寺や崇福寺と同時期(7世紀後半頃)と見なしうることが示唆されています(瓦当文様の比較から、大和の本薬師寺創建と同時期とされています。この点、別に論じます)。したがって文献と考古学の一致(シュリーマンの法則)からしても、ほぼ確実に観世音寺創建年を白鳳10年(670)と見なして良いと思います。
 ところが、この観世音寺創建年を認めてしまうと、近畿天皇家一元史観にとって耐え難い大問題が発生します。それは太宰府の地元の考古学者、井上信正さんの調査研究により、観世音寺よりも太宰府条坊都市の成立の方が早いことが明らかとなっていることから、日本初の条坊都市とされている藤原京(694年遷都)よりも太宰府の条坊成立の方が先となってしまうからなのです。このことは九州王朝説の立場からは当然ですが、「九州王朝や古田説はなかった」とする一 元史観論者や学界にとっては大問題なのです。すなわち、大和朝廷の都(藤原京)よりも、「地方都市」太宰府の方が先に条坊が造営されたこととなり、我が国 初の条坊都市が太宰府になってしまうからです。
 このことを「洛中洛外日記」などで何度もわたしは指摘してきましたが、一元史観論者や学界は無視を決め込んでいます。この「洛中洛外日記」を見ておられる一元史観論者の皆さんに敢えて申し上げます。どの一元史観論者よりも早く、最初に「古田説・九州王朝は正しい」と言った学者は研究史や後世に名を残せますよ。よくよくお考えください。(つづく)


第706話 2014/05/09

「九州年号」の王朝

 「洛中洛外日記」第705話『「改元」と「建元」の論理性』で記しましたように、和水町での講演会で近畿天皇家以前に「九州年号」を公布した王朝があったとする論理性(理由)を説明しました。次いで、その王朝がどこにあったのかについて次のように説明しました。
 『二中歴』などに記された古代年号が「九州年号」と呼ばれてきた事実こそが、それらの年号が九州の権力者によって公布されたことを意味します。たとえば、江戸時代の学者、鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に九州年号が紹介され、古写本「九州年号」によったと出典を記しています。
 また、『二中歴』の九州年号部分の「細注」の考察からも、この九州年号記事部分が北部九州で成立したことがうかがわれます。それは「倭京二年(619)」に「難波天王寺を聖徳が造る」という天王寺(大阪市の四天王寺)建立記事と、「白鳳」年間に「観世音寺を東院が造る」という太宰府観世音寺建立記事の比較分析です。観世音寺には地名がなく、天王寺には難波という地名が付記されていることから、こられの記事は、太宰府の観世音寺のことを「観世音寺」だけでそれと理解できる地域で成立したことがわかります。すなわち、北部九州で成立した記事であり、読者も同じく北部九州の人々を想定しているわけで す。
 他方、天王寺のほうは「難波」と地名を付記しなければ、遠く離れた大阪の天王寺であることが、北部九州の読者には特定できないから、地名を付記した表記になったわけです。このように、九州年号記事の細注の分析からも、これら「九州年号」記事が北部九州で成立したことが推定できます。このことも、『二中歴』に記された「九州年号」が、九州で成立したことを指示しているのです。(つづく)


第624話 2013/11/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」(3)

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を深く実感できた学問的経験が、わたしにはありました。それは「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の発見のときです。
 長期間にわたる九州年号研究の成果として、『二中歴』(鎌倉時代初期成立)に見える「年代歴」の九州年号群が最も真実に近いとする原型論が史料批判や論証の結果、成立したのですが、その「白雉」年号の元年は壬子の年(652)で、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(650)とは二年の差がありました。従って、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」は本来の九州年号「白雉」を2年ずらして盗用したものとする結論に至りました。
 ところが、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡に「三壬子年」という紀年銘があり、奈良文化財研究所の「木簡データベース」では『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子(652)の木簡とされ、『木簡研究』に掲載された「報告書」でも「白雉三年壬子(652)」とされていました。この発掘調査報告書(実証) を読んだわたしは驚きました。これまでの九州年号研究の成果(論証)を否定し、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」が正しいとする内容だったからです。しかも、 同時代の木簡という第一級史料だけに、鎌倉時代初期成立の『二中歴』よりもはるかに有力な「実証力」を有する「直接証拠」なのです。
 永年の九州年号研究の結果、成立した仮説(論証)と、同時代史料の木簡の記述(実証)とが対立したのですから、わたしがいかに驚き悩んだかはご理解いただけることと思います。そこで、わたしが行ったのは、「論証」結果を重んじ、「実証(木簡)」の方の再検証でした。兵庫県教育委員会に同木簡の実見・調査の許可申請を行い、調査団を組織し光学顕微鏡や赤外線カメラを持ち込み、2時間にわたり調査しました。その結果、それまで「三」と判読されていた字が、実は「元」であったことを確認できたのでした。
 このときの経験により、わたしは村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を心から実感できたのでした。(つづく)


第552話 2013/04/28

「五十戸」から「里」へ

 今日は全聾の作曲家、佐村河内守(さむらこうち・まもる)作曲の交響曲第1番(HIROSHIMA)を聴きながら洛中洛外日記を書いています。重苦しい旋律とその先に見える「希望」が表現された名曲で、最近ではテレビでも取り上げられ有名になりました。

 さて、郡評論争に決着をつけたのが藤原宮跡から出土した干支木簡でしたが、同様に「評」の下部単位である「さと」表記についても出土木簡により、その変遷が明らかになりつつあります。
 古代地名の表記方法は時代とともに変化していますが、七世紀後半は「○○国△△評××五十戸」と表記されることが木簡により判明しています。その後、 683年頃から「○○国△△評××里」への変更が見られることから、「五十戸」は「里」に相当し、「さと」と訓まれていたことがわかります。
 『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「五十戸を里とす」とありますから、「里」の成立はそれまでの自然発生的な集落(『日本書紀』では「村」 「邑」の表記例が見えます)を、国家により「五十戸」単位に編成されたことによります。五十戸単位で徴兵などの役務を決めたのでしょうが、恐らくそれは戸 籍の作成と平行して行われたのではないでしょうか。その「さと」が当初は「五十戸」と漢字表記されていたことが、木簡により明らかになっているのです。
 このように『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「里」の表記が見えますが、出土木簡からは683年頃に「里」が現れ、それまでは「五十戸」表記で すから、この大化二年改新詔はやはり九州年号の大化二年(696)に出されたものが50年ずらして盗用されたものと推察されます。それではこの行政単位名 「五十戸」の成立と、さらには「里」へと変更したのは九州王朝でしょうか。そしてそれはいつ頃のことでしょうか。(つづく)


第520話 2013/02/02

「蔵司」「老司」「門司」

 第518話で、大宰府政庁の西側にある蔵司遺跡は九州王朝律令にあった職掌(役所)の「蔵司(くらのつかさ)」に縁源するのではないかと述べましたが、この他にも同類の地名が福岡県にはあります。観世音寺や大宰府政庁II期の創建瓦「老司式瓦」の窯跡が出土した「老司」(福岡市南区)と、「門司」(北九州市門司区)です。
 大和朝廷の『養老律令』には「蔵司」「関司」は見えますが、「老司」や「門司」といった職掌(役所)はありません。「門司」はその名称や場所から、関門海峡を管理する役所と思われますが、「老司」とは何のことか想像がつきません。「糧司」のことで、食料を管理する職掌ではないかとする説もあるようですが、その根拠や理由がわかりませんので、魅力的な仮説ですが今のところ当否を判断できません。
 「老司」が古代まで遡る地名かどうかは検証が必要ですが、他の地域にない地名ですので、やはり九州王朝との関係が高いように思われます。「門司」は古代木簡にも記載例(「豊前門司」など)があり、関門海峡を挟んで九州側にあることから、やはり九州王朝太宰府を基点とした役所と考えられます。これと同様の例が大分県の「佐賀関」です。九州と四国の間にある「関」地名ですが、ここも九州側にあることから、太宰府を基点として設けられた「関」と考えられます。
 九州の地名を九州王朝や九州王朝律令の視点から検討してみると、いろいろと面白いことが見えてきそうです。