邪馬台国一覧

第1012話 2015/08/02

『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の

「はじめに」

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)が見えられ、9月6日に開催する『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会(東京家政学院大学千代田キャンパス)の打ち合わせなどを行いました。
また、ミネルヴァ書房から発行が予定されている『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の編集についても検討を進めました。当初予定していた論稿に加えて、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の論文を新たに収録することも確認しました。
 巻頭に掲載する「はじめに」をわたしが書くことになっていましたので、昨日急いで書き上げ、服部さんに提出しました。今後、修正するかもしれませんが、ここに「はじめて」をご紹介します。年内の出版を目指していますが、会員には割引価格で提供することを検討しています。
 古田先生の講演録をはじめ、会員による論文などを収録しています。なかなかよい本になっていますので、ご期待ください。

 

はじめに

   古田史学の会・代表 古賀達也

 昭和四六年(一九七一)十一月、日本古代史学は「学問の夜明け」を迎えた。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった 解明された倭人伝の謎』が朝日新聞社より上梓されたのである。この歴史的名著はそれまでの恣意的で非学問的な「邪馬台国」論争の風景と空気を一変させ、学問的レベルをまさに異次元の高みへと押し上げた。
 それまでの「邪馬台国」論争における全論者は『三国志』倭人伝原文の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と論証抜きで原文改訂(研究不正)してきた。邪馬壹国ではヤマトとは読めないから「邪馬台国」と原文改訂し、延々と「邪馬台国」探しを続けてきたのである。それに対して、古田氏は原文通り「邪馬壹国」が正しいとされ、古代史学界の宿痾ともいえる、自説の都合にあわせた論証抜きの原文改訂(研究不正)を厳しく批判されたのである。
 また、帯方郡(ソウル付近)から女王国(邪馬壹国)までの距離が倭人伝には「万二千余里」とあり、一里が何メートルかがわかれば、その位置は自ずと明らかになる。そこで古田氏は『三国志』の記述から実証的に当時の一里が七五〜八〇メートル(魏・西晋朝短里説の提唱)であることを導きだし、その結果、「万二千余里」では博多湾岸までしか到達せず、およそ奈良県などには届かないことを明らかにされた。
 さらには倭人伝の記述から、倭人が南米(ペルー・エクアドル)にまで航海していたという驚くべき地点へと到達された。その後の自然科学的研究や南米から出土した縄文式土器の研究などから、この古田氏の指摘が正しかったことが幾重にも証明され、今日に至っている。
 こうした古田氏の画期的な邪馬壹国博多湾岸説は大きな反響を呼び、『「邪馬台国」はなかった』は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後、古田氏の学説(九州王朝説など)は古田史学・多元史観と称され、多くの読者と後継の研究者を陸続と生み出し、今日の古田学派が形成されるに至ったのである。
本年、古田氏は八九歳になられ、今なお旺盛な研究と執筆活動を続けておられる。名著『「邪馬台国」はなかった』が世に出て既に四四年の歳月を迎えたのであるが、その邪馬壹国論の新段階の集大成として、本書は古田氏の講演録・論文とともに、氏の学問を支持する古田学派研究者による最先端研究論文を収録した。『「邪馬台国」はなかった』の「続編」として、百年後も未来の古田学派の青年により本書は読み継がれるであろう。
 最後に『「邪馬台国」はなかった』の掉尾を飾った次の一文を転載し、本書を全ての古田ファンと古田学派に送るものである。(二〇一五年八月一日)

今、わたしは願っている。
古い「常識」への無知を恥とせず、真実への直面をおそれぬ単純な心、わたしの研究をもさらにのり越えてやまぬ探求心。--そのような魂にめぐりあうことを。
それは、わたしの手を離れたこの本の出会う、もっともよき運命であろう。


第970話 2015/06/05

古代の長期海外出張

 今日は軽い与太話を一席。「洛中洛外日記」第883話「倭人はお酒好きで美人が多い?」で紹介した花王のヘアケア研究所のKさんと先日大阪で飲む機会がありました。
 Kさんは「邪馬台国」博多説の独特の持論をお持ちで、883話で紹介しましたように、『三国志』倭人伝によれば、倭人の女性は美人が多いと考えられ、倭人はお酒好きと書いてある。「博多美人」という言葉はあるが「奈良美人」というのは聞いたことがなく、奈良よりも博多の方が「飲兵衛」が多い。従って、「邪馬台国」博多説に賛成する、というものです。学問的かどうか微妙ですが、思わず同意してしまいそうなアイデアです。
 この「洛中洛外日記」883話を読んだ、奈良県ご出身の花王の女性社員はKさんに「おかんむり」で、はなはだ不評だったそうです。それはそうでしょうね。奈良県ご出身の女性の皆様、大変失礼いたしました。
 Kさんの表現によれば、「邪馬台国」畿内説は奈良県人にとって犯すべからざる「信仰」であるとのこと。これもまた、奈良県民から叱られそうな言葉ですが、お酒の席での話しですのでご容赦ください。もちろん、邪馬壹国博多湾岸説の奈良県民も大勢おられることは承知しています。
 そんな花王のKさんが今回も面白い自説を展開されました。倭人伝を書くにあたり、中国から倭国まで長期海外出張するのだから、酒や食事がおいしくて美人がいなければやってられない。出張するなら奈良よりも博多の方がよいとのご意見でした。そこで、当時倭国に来た軍事顧問(塞曹掾史)の張政は足かけ20年(247〜266年)も倭国に滞在したことを説明したら、「そんな長期の単身赴任だったら、歌の文句じゃないが絶対に“酒は旨いし、ねえちゃんはきれい”だったはずだ。そうでなきゃ20年も居られない。やっぱり『邪馬台国』は博多だ」と断言されました。お互いに出張が多いビジネスマンだけに、妙に説得力を感じました。
 このKさんのご意見を聞いて、確かに20年も倭国にいたら、きれいな倭人の女性(博多美人)との間に子供の一人や二人いても不思議ではないと思いました。もしかすると、張政の御子孫が今も日本におられるかもしれせんね。歴史研究も一人の人間の視点で考えると、新たな真実に遭遇するものだと、Kさんのご意見に触発されました。ただ、この「洛中洛外日記」を花王の奈良出身女性社員が読んだら、更にKさんの社内での立場が微妙にならないかと、ちょっと心配しています。


第927話 2015/04/19

「邪馬台国」論争を越えて

・・・邪馬壹国の歴史学

 今日はi-siteなんばで、「古田史学の会」の編集会議を行いました。今秋、発行予定の『三国志』倭人伝研究の本に関する書名や章立て、掲載稿について審議しました。
 書名について様々な案を検討し、従来の「邪馬台国」本とは内容もレベルも異なることが印象づけられる古田史学らしい書名として次の案が採択され、明石書店に提案することにしました。

 『「邪馬台国」論争を越えて ・・・邪馬壹国の歴史学・・』古田史学の会 編

 章立ても検討中ですが、次のような項目(仮称)と切り口で古田史学・邪馬壹国説を説明します。

 ○巻頭言
 ○初めて古田史学、邪馬壹国説に触れられる皆様へ
 ○古田先生からのメッセージ
 ○倭人伝の位置づけ
 ○短里で書かれた『三国志』
 ○倭人伝の二倍年暦
 ○倭人伝の文物
 ○全ての史学者・考古学者に問う
 ○講演録
 ○『三国志』原文(紹煕本)と古田先生の訳文

 若干の変更はあると思いますが、概ね以上のような内容となります。この本もかなり面白く、かつ後世に残る一冊になりそうです。
 ところで、3月に発刊しました『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)が好評により、明石書店の在庫も底をつきそうですので、増刷の方向で検討を進めています。お買い上げいただいた皆様に御礼申し上げます。


第886話 2015/03/02

弥生時代の近畿の国と王墓

 「洛中洛外日記」885話で、「これほど倭人伝の内容と大和盆地の地勢・遺物が異なっていれば、倭人伝の邪馬壹国とは別の王権が畿内や関西にあったと考えるのが学問的論理的」と記しましたが、今回は弥生時代における近畿(関西)の「国」について、少し触れてみたいと思います。
 弥生時代は銅矛文明圏と銅鐸文明圏の二大青銅器文明圏に分けられていることは有名ですが、厳密にはそれらが重なったり、それ以外にも細かな分類や時代的変遷もあります。最新の古田説では倭国と対立していた狗奴国(こうぬ・こうの)は関西の銅鐸文明圏とされており、基本的な理解としては最も有力な仮説だと思います。
 銅矛圏の弥生墳丘墓としては吉野ヶ里遺跡が有名ですが、銅鐸圏の弥生墳丘墓としては大阪市平野区の加美遺跡が注目されます。同遺跡は1984年に発見された弥生時代中期後葉(紀元前1世紀)の、周濠を持つ大型墳丘墓です(南北26m、東西15m、高さ3m)。弥生時代の墳丘墓としては河内平野最大です。そこからは23基の木棺が発見されており、銅釧(どうくしろ)を腕に着けた被葬者(女性、二体)も含まれていました。この他にも水銀朱やガラス製勾玉・丸玉(1号木棺、女性)も出土しています。
 北部九州の弥生墳丘墓とは明らかに出土物の様相が異なっていることがわかります。吉野ヶ里遺跡などでは甕棺が主流で、副葬品も三種の神器と称される銅鏡や矛・剣、そして管玉・勾玉ですが、加美遺跡では木棺であり、銅製品は銅釧だけで、鏡や矛などは出土していません。河内が狗奴国内であれば、邪馬壹国を中心とする倭国と対立していた狗奴国には銅鐸を副葬する習慣はなかったようです。
 これからの古代史学は近畿を狗奴国とする視点で研究する必要があります。近畿地方から何か出土するたびに「邪馬台国か」などという非学問的な説明や報道はいいかげんにやめるべきです。古田史学の出現により、日本の古代史学は新たな「真の学問」(吉田松陰『講孟余話』)の時代に入ったのですから。


第880話 2015/02/22

長里と短里の牛車「里数」

 昨日の関西例会では、『三国志』や魏西晋朝の短里についての研究報告が正木裕さんと西村秀己さんから発表されました。両報告とも画期的で秀逸なものでした。今回は正木さんの報告を紹介します。
 それは「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」という報告で、わたしが「洛中洛外日記」857話で紹介した『三国志』の「駑牛一日三百里」についての研究です。
 『三国志』ほう統伝中の裴松之注に「駑牛一日行三百里」とあり、牛車の一日の行程として短里では約24kmで妥当だが、長里ではありえない距離となり、この記事も魏西晋朝短里説の証拠になるとしました。裴松之注に引用されたこの記事は西晋の張勃(ちょうぼつ)による『呉録』が出典で、『三国志』の著者陳寿と同時代の人物によるものです。従って、魏西晋朝では短里が公認使用されており、『三国志』も『呉録』も短里で編纂されていたことがわかります。
 正木さんはこの「駑牛一日行三百里」が漢代の律令で定められた牛車の移動距離に基づくもので、漢代の長里表記「五十里」を短里に換算した数値であることを発見されました。その漢代の律令とは1983年に中国の湖北省江陵県張家山の漢墓から出土した大量の竹簡(1236枚)に記されていたもので、「頒布年」の呂后二年にちなみ「二年律令」と呼ばれているものです。
 それには、荷物の運搬には牛車(「車牛」と表記。「徭律(徭役に関する律)」簡411)が用いられており、その守るべき速度が「傳送重車、重負日行五十里、空車七十里、徒行八十里」(簡412)と記されています。これらの里数は漢代ですから長里(1里=約435m)が使用されています。重い荷物を積んだ牛車の里数が「五十里」とされていますから、これを短里(1里=約77m)に換算すると約282里となり、『三国志』の「駑牛一日行三百里」に相当します。従って、正木さんは『三国志』の「駑牛一日行三百里」は漢代の「二年律令」で規定された長里表記での「五十里」を短里に換算したものとされたのです。すなち、漠然と牛車の一日の運搬距離を300里としたのではなく、漢代の律令の規定に従い、それを短里換算したものと理解できるのです。
 この正木さんの発見により、同じ牛車での運搬距離を長里と短里で表記した史料がそろったことになり、漢代の長里と魏西晋朝の短里、すなわち『三国志』は短里で編纂されたとする古田説が正しかったことを史料根拠に基づいて証明されたのです。素晴らしい発見だと思います。それにしても漢代の竹簡が大量に発見され、「二年律令」が復元されたのですから、これもすごいことです。
 最後に付け加えれば、『三国志』が短里であったことが自明のものとなった以上、「邪馬台国」畿内説は完全に葬り去られました。帯方郡(ソウル付近と推定されています)より邪馬壹国への総里程一万二千余里(約924km)と倭人伝に明記されていますから、倭国の女王卑弥呼の都は博多湾岸で決まりです。一万二千余里では大和へは絶対に届きません。この単純な理屈から「邪馬台国」畿内説論者は逃げずに受け止めていただきたいと思います。「邪馬台国の場所は永遠の謎」などといいかげんな報道してきたマスコミ関係者も、もうそろそろ真実を国民に伝えていただきたいものです。日本の「真の学問」(吉田松陰『講孟余話』)の復活は、まずそこから始まるのではないでしょうか。


第873話 2015/02/15

須玖岡本D地点出土

「キ鳳鏡」の証言

 「洛中洛外日記」872話で紹介しました須玖岡本遺跡(福岡県春日市)D地点出土「キ鳳鏡」の重要性について少し詳しく説明したいと思います。
 北部九州の弥生時代の王墓級の遺跡は弥生中期頃までしかなく、「邪馬台国」の卑弥呼の時代である弥生後期の3世紀前半の目立った遺跡は無いとされてきました。そうしたこともあって、「邪馬台国」東遷説などが出されました。
 しかし、古田先生は倭人伝に記載されている文物と須玖岡本遺跡などの弥生王墓の遺物が一致していることを重視され、考古学編年の方が間違っているのでは ないかと考えられたのです。そして、昭和34年(1959)に発表された梅原末治さんの論文に注目されました。「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文です。
 同論文にはキ鳳鏡の伝来や出土地の確かさについて次のように記されています。

 「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であること が伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」
 「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められ る。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよキ鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」

 更にそのキ鳳鏡の編年についても海外調査をも踏まえた周到な検証を行われています。その結果として須玖岡本遺跡の編年を3世紀前半とされたのです。

 「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本キ鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
 「戦後、所謂(いわゆる)考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ) そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し 須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
 「如上の新たなキ鳳鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえそれを問題とする人士をさえ見受けたのである」

 このように梅原氏は自らの弥生編年をキ鳳鏡を根拠に「補正」されたのです。真の歴史学者らしい立派な態度ではないでしょうか。現代の考古学者にはこの梅原論文を真正面から受け止めていただきたいと願っています。
 なお、この梅原論文の詳細な紹介と解説が次の古田先生の論文でなされており、本ホームページにも掲載されていますので、是非お読みください。

 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(角川選書 謎の歴史空間をときあかす)所収「第二章 邪馬一国から九州王朝へ III理論考古学の立場から」


第872話 2015/02/14

弥生時代の絶対年代編年の根拠?

 昨日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)と服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)が京都にみえられ、拙宅近くの喫茶店で3時間以上にわたり古代史鼎談を行いました。主なテーマは弥生時代や古墳時代前期の土器編年の根拠、畿内出土画文帯神獣鏡の位置付けについてでした。さらには「古田史学の会」におけるインターネットの活用についても話題は及びました。
 近年の考古学界の傾向ですが、畿内の古墳時代の編年が古く変更されています。大和の前期古墳を従来は弥生後期とされていた3世紀中頃に古く編年し、「邪馬台国」畿内説を考古学の面から「保証」しようとする動きと思われます。すなわち、卑弥呼が魏からもらった鏡が弥生時代の遺跡から出土しない畿内地方を「邪馬台国」にしたいがために、銅鏡が出土する畿内の前期古墳を3世紀前半に編年しなければならないという「動機」と「意図」が見え隠れするのです。
 その編年は主に土器(庄内式土器など)の相対編年に依っているのですが、それら土器の相対編年が絶対年代とのリンクがどのような根拠に基づいているのか疑問であり、その「本来の根拠」を調査する必要があります。服部さんは関西の考古学者と討論や面談を積極的に行われており、考古学者の見解がかなり不安定な根拠に基づいているらしく、人によって出土事実知識さえも異なることが明らかになりつつあります。考古学界の多数意見となっている「邪馬台国」畿内説の「本来の根拠(土器編年の絶対年代とのリンク)」を、丹念に調べてみたいと思います。「邪馬台国」畿内説という「結論」を先に決めて、それにあうように土器編年を操作するという学問の「禁じ手」が使われていなければ幸いです。
 他方、北部九州の弥生時代の編年も大きな問題があります。その最大の問題の一つが須玖岡本遺跡(福岡県春日市)の編年です。主に弥生中期(紀元0年付近)と編年されてきたのですが、古田先生は梅原末治さんの晩年の研究成果として須玖岡本D地点出土の「き鳳鏡」が魏西晋時代のものであり、従って須玖岡本遺跡は3世紀前半とされたことを繰り返し紹介されています。ところが、梅原さん自らが作成した従来説を梅原さん自身が否定した画期的な報告を古代史学界や梅原さんのお弟子さんたちは「無視」しました。
 この梅原新編年によれば、須玖岡本遺跡は邪馬壹国の卑弥呼の時代に相当します。弥生遺跡の編年が100〜200年近く新しくなる可能性がある梅原新編年こそ、『三国志』倭人伝の内容と考古学的出土事実が一致対応する重要な学説なのです。この点を九州の考古学者は正しく認識すべきです。
 倭人伝の考古学的研究の再構築が大和朝廷一元史観の考古学者にできないのであれば、わたしたち古田学派がやらなければなりません。こうした問題意識に到着した今回の鼎談はとても有意義でした。


第744話 2014/07/13

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)

 この「邪馬台国」畿内説は学説に非ずシリーズも一応今回で最後になりますが、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
 倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国か らは「上表」文が出されていることがわかります。従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡 が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。そうした地域はどこでしょう か。やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
 筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
 最後に、「邪馬台国」畿内説論者をはじめとする筑前中域説以外の考古学者へ発せられた古田先生の次の一文を紹介して、本シリーズを締めくくります。

 あの筑前中域の出土物、その質量ともの豊富さ、多様さは、日本列島の全弥生遺跡中、空前絶後だ。そして倭人伝に記述された「もの」と驚くほどピッタリ一致して齟齬をもたなかったのである。
  (中略)
 そうすればわたしは、その“信念の人”の前に、静かに次の言葉を呈しよう。“あなたのは、考古学という科学ではない。考古学という「神学」にすぎぬ”と。
 (古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、86頁)


第743話 2014/07/12

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(6)

 今週は東京から埼玉・新潟・石川・福井をぐるっと出張しました。心配していた台風8号の影響もそれほど受けずに、無事、仕事を終えることができました。京都に戻り、今日は自宅でくつろいでいますが、京都は祇園祭の準備が町中で進められています。今年は山鉾巡行が二回行われます(「前祭」と「後祭」で巡行されます)。

 「邪馬台国」畿内説が学説の体をなしていないことは、これまでの説明でご理解いただけたものと思いますが、文献史学では 成立しない畿内説に対して、物(出土物・遺跡)を研究対象とする、ある意味では「理系」に近い考古学の分野では、どういうわけか畿内説論者が少なくありま せん。これは一体どういうことでしょうか。
 『三国志』倭人伝を基礎史料とする文献史学の結論として、畿内説は学説として成立しない場合でも、考古学的に畿内説が成立するケースが無いわけではありません。それは、倭人伝に記された倭国の文物の考古学的出土分布が畿内が中心となっていれば、畿内を倭国の中心とする理解は考古学的には成立します。この ケースに限り、考古学者が畿内説に立つのは理解できますが、考古学的事実はどうでしょうか。
 まず倭人伝に記された倭国の文物には次のようなものがあります。

(金属)「銅鏡百枚」「兵には矛・盾」「鉄鏃」
(シルク)「倭錦」「異文雑錦」

 遺物として残りやすい金属器として、中国から贈られた「銅鏡百枚」について、弥生時代の遺跡からの銅鏡の出土分布の中心 は糸島・博多湾岸です。「鉄鏃」を含む鉄器や製鉄遺構も弥生時代では北部九州が分布の中心です。畿内(奈良県)の弥生時代の遺跡からはこれらの金属器はほとんど出土が知られていません。シルクの出土も弥生時代の出土は北部九州が中心です。
 このように考古学的事実も畿内説は成立しないのです。「邪馬台国」論争の基礎史料である倭人伝の記述と考古学的出土事実が畿内説では一致しないのに、畿内説を支持する考古学者が少なくないという考古学界の状況は全く理解に苦しみます。物(遺物・遺跡)を研究対象とする考古学は、近畿天皇家一元史観(戦後 型皇国史観)ではなく、「自然科学」としての観測事実や出土事実にのみ忠実であるべきだと思うのですが、畿内説を支持しなければならない、何か特別な事情でもあるのでしょうか。わたしは、それを学問的態度とは思いません。(つづく)


第742話 2014/07/10

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(5)

 今朝は長岡から金沢・小松・福井へと向かっていますが、雨の影響で列車が遅れており、お客様との約束の時間に間に合うだろうかとひやひやしています。

 『三国志』倭人伝には行程記事・総里程記事以外にも女王国の所在地を推定できる記事があります。この記事も畿内説論者は知ってか知らずか、古田先生からの指摘があるにもかかわらず無視しています。こうした無視も学問的態度とは言い難いものです。
 倭人伝冒頭には畿内説を否定する記事がいきなり記されています。次の記事です。

 「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。」

 倭人の国、倭国は帯方(ソウル付近とされる)の東南の大海の中にある島国であると記されています。中国人は倭国を島国と認識していたのですが、九州島は文字通り「山島」でぴったりですが、本州島はこの時代には島なのか半島なのかを認識されていた痕跡はありません。本州島を島と認識するためには津軽海峡の存在を知っていることが不可欠ですが、『三国志』の時代に中国人が津軽海峡を認識していた痕跡はないのです。
 従って、倭人伝冒頭のこの記事を素直に理解すれば、倭国の中心国である女王国(邪馬壹国)が九州島内にあったとされていることは明白です。ですから、倭人伝は冒頭から畿内説が成立しないことを示しているのです。畿内説論者は自説の成立を否定するこの記事の存在を、古田先生が指摘してきたにもかかわらず、 無視してきました。こうした態度も学問的とは言えません。ですから、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではないことを、倭人伝冒頭の記事も指し示しているのです。(つづく)


第741話 2014/07/09

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(4)

 今日の新潟地方は大雨・雷・土砂崩れと難儀な出張になりました。各地で被害が出ているようで心配です。

 「邪馬台国」畿内説論者による、『三国志』倭人伝の行程記事の改竄(研究不正)について説明を続けてきましたが、彼らの 研究不正は他にもあります。それは自説にとって決定的に不利な記事(基礎データ)を無視(拒絶)するという研究不正です。この方法が許されると、たとえば 裁判などでは冤罪が続出することでしょう。学問としては絶対にとってはならない手法です。理系論文で自説を否定する実験データを故意に無視したり、隠したりしたら、これも即アウト、レッドカード(退場)ですが、日本古代史学界では集団で研究不正を黙認していますから、「古代史村」から追放される心配はなさそうです。
 倭人伝には行程記事以外にも女王国の所在地を示す総里程記事(距離情報)が明確に記されています。次の通りです。

 「郡より女王国に至る万二千余里」

 「郡」とは帯方郡(ソウル付近と考えられています)のこと、女王国は邪馬壹国のことですが、その距離が12000里余りとありますから、1里が何メートルかわかれば、単純計算で女王国の位置の検討がつきます。少なくとも、北部九州か奈良県のどちらであるかはわかります。 「古代中国の里」の研究によれば、倭人伝の「里」は漢代の約435mとする「長里」説と、周代の約77mとする「短里」説の二説があり、それ以外の有力説はありません。それでは倭人伝の記事(基礎データ)に基づいて単純計算してみましょう。

短里 77m×12000里=924000m=924km
長里 435m×12000里=5220000m=5220km

 短里の場合は北部九州(博多湾岸付近)となりますが、長里の場合は博多湾岸はおろか奈良県(畿内)もはるかに通り越し、 太平洋の彼方に女王国はあることになってしまいます。従いまして、倭人伝の総里程記事(基礎データ)に基づくのであれば、倭人伝は短里を採用しており、女王国の位置は北部九州(博多湾岸付近)と見なさざるを得ません。短里であろうと長里であろうと、間違っても奈良県(畿内)ではありません。
 この基礎データに基づく小学生でもできるかけ算が、少なくとも義務教育を終えたはずの畿内説論者にできないはずはありませんから、彼らは自説を否定する 基礎データ(12000余里)を無視・拒絶するという、非学問的な態度をとっていることは明白です。これは研究不正であり、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではない証拠の一つなのです。(つづく)


第740話 2014/07/08

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(3)

 今朝は新幹線で東京に向かっています。午後、さいたま市で仕事をした後、夜は新潟県長岡市に入ります。週末まで出張が続きますので、帰りに大型の台風8号と遭遇しそうです。
 先日の四国講演では、能島(のしま)上陸・クルージングを楽しんだり、阿部誠一さん(古田史学の会・四国の新会長、今治市)の彫刻アトリエを見せていただいたりと貴重な体験をさせていただきました。瀬戸内海の海流の速さや、小島・岩礁の多さも瀬戸内海の特徴ですが、自分の目で見ることにより瀬戸内海航行が難しいことを実感しました。
 阿部さんのアトリエには多数のブロンズ像や塑像が所狭しと並べられており、芸術家の情熱とその作品の迫力に圧倒されました。少女像や裸婦像を得意とされておられ、高松市の公園にも阿部さんの作品が立てられているほどの著名な彫刻家です。今まで造った作品は500点以上とのことで、近年は古田史学の勉強や活動に時間がとられ、作品製作のペースが落ちたそうです。古田先生の銅像も造りたいので、先生の写真をたくさん撮っておいてほしいと頼まれました。

 「邪馬台国」畿内説論者が『三国志』倭人伝の原文(基礎データ)の文字を「南」から「東」に改竄(研究不正)していることを指摘しましたが、彼らはもう一つの改竄(研究不正)にも手を染めています。それはより悪質で本質的な改竄で、こともあろうに倭国の中心 である女王国の名称を原文の邪馬壹国から邪馬台国(邪馬臺国)にするというもので、理系の人間には信じられないような大胆な改竄(研究不正)です。今回は この研究不正の動機について解説します。
 既に述べましたように、邪馬壹国の位置を博多湾岸の東方向とするために、「南」を「東」に改竄しただけでは畿内説「成立」には不十分なので、畿内説論者は女王国の国名をヤマトにしたかったのです。実は改竄(研究不正)はこの国名改竄の方が先になされました。畿内説論者の研究不正の順序はおおよそ次のよう なものでした。

(1)倭国の中心国は古代より天皇家がいたヤマトでなければならない。(皇国史観という「信仰」による)
(2)ところが倭人伝には邪馬壹国とあり、ヤマトとは読めない。(「信仰」と史料事実が異なる)
(3)「壹」とあるのは誤りであり、「壹」の字に似た「臺(台)」が正しく、中国人が間違ったことにする。(証拠もなく古代中国人に責任転嫁する。「歴史冤罪」発生)
(4)「邪馬臺国」を正しいと、皆で決める。(集団による改竄容認・研究不正容認)
(5)しかしそれでも「邪馬臺国」ではヤマトとは読めない。(改竄・研究不正してもまだ畿内説は成立しない)
(6)「臺」は「タイ」と発音するが、同じタ行の「ト」と発音してもよいと、論証抜きで決める。
(7)「臺」を「ト」と読むことにするが、同じタ行の「タ」「チ」「ツ」「テ」とは、この場合読まないことにする。(これも論証抜きの断定)
(8)こうしてようやく「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読むことに「成功」する。
(9)この「ヤマト国」は奈良県のヤマトのことと、論証抜きで決める。(自らの「信仰」に合うように断定する)

 これだけの非学問的な改竄や論証抜きの断定を繰り返した結果、「邪馬台国」畿内説という研究不正が「完成」したのです。ですから、畿内説は学説ではありません。学問的手続きを経たものではなく、研究不正の所産なのです。
 ここまでやったら、「毒を食らわば皿まで」で、先の「南」を「東」に改竄することぐらい平気です。しかも集団(古代史学界)でやっていますから、恐いものなしでした。ところが、「信仰」よりも歴史の真実を大切にする古田武彦という歴史学者の登場により、彼らの研究不正が白日の下にさらされたのです。(つづく)