大和朝廷(日本国)一覧

第2974話 2023/03/26

『大安寺伽藍縁起』の「飛鳥宮御宇天皇」

 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)の精査を続けたところ、いくつかの面白い問題に気付きました。その一つが天皇名の宮号表記でした。同縁起には近畿天皇家の天皇名が次のように表記されています。縁起に登場する順に並べました。《》内は古賀による比定です。( )内は西暦。

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の天皇名表記部分
※底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)

(1)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位、號曰田村皇子
(2)《推古》小治田宮御宇太帝天皇
(3)《推古》太皇天皇受賜已訖、又退三箇日間、皇子私參向飽浪、問御病状、於茲上宮皇子命謂田村皇子曰、~
(4)《斉明》後岡基宮御宇天皇、造此寺司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行車(幸カ)筑志朝倉宮、將崩賜時、~
(5)《天智》近江宮御宇天皇、奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、~
(6)《?》仲天皇、奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之~
(7)《天武》後飛鳥淨御原宮御宇天皇、二年歳次癸酉(673)十二月壬午朔戊戌、造寺司小紫冠御野王、小錦下紀臣訶多麻呂二人任賜~
(8)《天武》六年歳次丁丑(677)九月康(庚)申朔丙寅、改高市大寺號大官大寺、十三年(684)天皇大御壽、然則大御壽更三年大坐坐〔支〕~
(9)《文武》後藤原宮御宇天皇朝庭
(10)《文武》後藤原朝庭御宇天皇、九重塔立金堂作建、並丈六像敬奉造之
(11)《聖武》平城宮御宇天皇、天平十六年歳次甲申(744)六月十七日
(12)《天智》淡海大津宮御宇天皇、奉造而請坐者
(13)《?》袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者
(14)《天武》右以丙戌年(686)七月、奉爲淨御原宮御宇天皇、皇后并皇太子、奉造請坐者
(15)《天智》淡海大津宮御宇天皇、奉造而請坐者
(16)《聖武》平城宮御宇天皇、以天平八年歳次丙子(736)造坐者
(17)《元正》平城宮御宇天皇、以養老七年歳次癸亥(723)三月廿九日請坐者
(18)《持統》飛鳥淨御原宮御宇天皇、以甲午年(694)請坐者
(19)《持統》飛鳥淨御原宮御宇天皇、以甲午年(694)坐奉者
(20)《元正》平城宮御宇天皇、以養老六年歳次壬戌(722)十二月七日納賜者
(21)《舒明》前岡本宮御宇天皇、以庚子年(640)納賜者
(22)《舒明》飛鳥宮御宇天皇、以癸巳年(633)十月廿六日、爲仁王會 納賜者
(23)《元正》平城宮御宇天皇、以養老六年歳次壬戌(722)十二月七日納賜者
(24)《聖武》平城宮御宇天皇、以天平二年歳次庚午(730)七月十七日納賜者
(25)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(26)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(27)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(28)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(29)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(30)《聖武》平城宮御宇天皇、天平十六年歳次甲申(744)納賜者

 わたしが注目したのが、下記の舒明の表記です。

(1)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位、號曰田村皇子
(21)《舒明》前岡本宮御宇天皇、以庚子年(640)納賜者
(22)《舒明》飛鳥宮御宇天皇、以癸巳年(633)十月廿六日、爲仁王會 納賜者
(25)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(29)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
※舒明の在位期間(629~641)

 このなかで、(22)の「飛鳥宮御宇天皇」の表記が「船王後墓誌」(注)の「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」と類似しており、七世紀後半から八世紀前半にかけての同墓誌や同縁起の編纂者らが、舒明のことを「アスカの宮で天下を統治する天皇」と認識し、そのように名前を表記するケースもあったことがわかります。なお、『日本書紀』には「飛鳥宮御宇天皇」や「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」という表記は見えません。(つづく)

(注)「船王後墓誌」の銘文と訓み下しは次の通りである。
(表)
惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故
首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由
羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之
朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故
戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自
同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万
代之霊其牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
「惟(おも)ふに舩氏、故王後首(おびと)は是れ舩氏中祖 王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀(おさだ)の宮に天の下を治(し)らし天皇の世に生れ、等由羅(とゆら)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦(あすか)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦(あすか)天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故(ありこ)の刀自(とじ)と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古(とらこ)の首(おびと)の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固(ろうこ)せんがためなり。」

銘文中の各天皇の宮に対する通説での比定は次のとおり。
(1)乎娑陀宮 敏達天皇(572~585)
(2)等由羅宮 推古天皇(592~628)
(3)阿須迦宮 舒明天皇(629~641)


第2954話 2023/02/28

3月12日(日)、

「多元の会」でリモート発表します

3月12日(日)の「多元の会・発表と懇談の会」でリモート発表させていただきます。テーマは「王朝交代の新都 ―藤原京(新益京)の真実―」。午後2時から開催で、会場(文京区民センター)とSkypeによるハイブリッド形式です。
藤原宮(京)は大和朝廷による初めての本格的都城であり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の舞台であったと思われ、両王朝の接点とも言えます。そうであれば、その考古学的痕跡が遺っているはずです。その舞台裏を明らかにすべく、古代貨幣や地鎮具、王都造営尺などの視点から王朝交代の実態に迫ります。
なお、「多元の会」での発表に寄せられるご批判やご質問などを参考にして、一般の古代史ファンにもわかりやすい内容に修正し、4月2日(日)に奈良県橿原文化会館で開催されるシンポジウム「徹底討論 真説・藤原京」(主催:古代大和史研究会 原幸子会長)でも同テーマを発表します。というわけで、現在、パワーポイント資料作成の真っ最中です。


第2937話 2023/02/05

寺院の漢風名称と和風名称

天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。
山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。

「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。

もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。

○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」

これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。
更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。

「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」

九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。

(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/


第2799話 2022/07/31

勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡

 「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟において、「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」記事を六世紀末頃の倭国(九州王朝)から蝦夷国領域(出羽地方)への仏教東流伝承の痕跡ではないかと指摘しました。この推定が妥当かどうかを判断するために、『日本書紀』の関連記事を調べてみました。
 九州年号の「勝照四年」(588年)は崇峻天皇元年にあたり、その付近の蝦夷や仏教関連記事を精査したところ、次の記事が注目されました。

  九州年号   天皇 年 『日本書紀』の記事要旨
584 鏡当 4 甲辰 敏達 13 播磨の恵便から大和に仏法が伝わる。
585 勝照 1 乙巳 敏達 14 蘇我馬子、仏塔を立て大會を行う。
586 勝照 2 丙午 用明 1
587 勝照 3 丁未 用明 2 皇弟皇子、豊国法師を内裏に入れる。
588 勝照 4 戊申 崇峻 1 大伴糠手連の女、小手子を妃とする。妃は蜂子皇子を生む。是年、百済国より仏舎利が送られる。法興寺を造る。
589 端政 1 己酉 崇峻 2 東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。
590 端政 2 庚戌 崇峻 3 学問尼善信ら、百済より還り、桜井寺に住む。
591 端政 3 辛亥 崇峻 4
592 端政 4 壬子 崇峻 5 大法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
593 端政 5 癸丑 推古 1 仏舎利を法興寺の柱礎の中に置く。是年、初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。
594 告貴 1 甲寅 推古 2 諸臣ら競って仏舎を造る。これを寺という。
595 告貴 2 乙卯 推古 3 高麗僧慧慈、帰化する。是歳、百済僧慧聰が来て二人は仏法を弘めた。

 以上のように、「勝照四年」(588年)頃の『日本書紀』記事によれば、この時期は近畿天皇家や大和の豪族らにとっての仏教伝来時期に相当し、新羅や百済からの僧や仏舎利の受容開始期であることがわかります。おそらくは九州王朝を介しての受容であることは、九州王朝説の視点からは疑うことができません(九州王朝記事の転用も含む)。
 同様に、更に東の蝦夷国も九州王朝を介して仏教を受容したのではないでしょうか。その点、注目されるのが589年(端政元年己酉)に相当する『日本書紀』崇峻二年条の、「東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。」という記事(要旨)です。六世紀の九州王朝の時代での東山道や北陸道からの国境視察記事ですから、視察の対象は蝦夷国領域であり、それは九州王朝(倭国)によるものと考えざるを得ません。従って、これと同時期に能除による羽黒山開山がなされたという「勝照四年」(588年)棟札の記事は、九州王朝(倭国)から蝦夷国への仏教東流の痕跡と見なしてもよいと思われるのです。
 そうであれば、日本列島内の仏教初伝と東流の経緯は次のように捉えて大過ないと思いますが、いかがでしょうか。

【日本列島での仏教東流伝承】
(1)418年 九州王朝(倭国)の地(糸島半島)へ清賀が仏教を伝える(雷山千如寺開基)。(『雷山千如寺縁起』、注②)
(2)488~498年 仁賢帝の御宇、檜原山正平寺(大分県下毛郡耶馬渓村)を百済僧正覚が開山。(『豊前国志』)
(3)531年(継体25年) 教到元年、北魏僧善正が英彦山霊山寺を開基。(『彦山流記』)
(4)584年 播磨の還俗僧恵便から得度し、大和でも出家者(善信尼ら女子三名)が出たことをもって「仏法の初め」とする。(『日本書紀』敏達十三年条)
(5)588年 蝦夷国内の羽黒山(寂光寺)を能除が開山。(羽黒寂光寺「勝照四年」棟札)

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『雷山千如寺縁起』による。倭国への仏教初伝について、次の拙稿で論じた。
○古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
○同「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』1集、古田史学の会、1996年。1999年に明石書店から復刻。同稿の最新改訂版は未発表。


第2783話 2022/07/08

道鏡(兄)と弓削浄人(弟)の兄弟統治

 「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まり、その二年後に宇佐八幡宮神託事件(注①)が発生していることに気づき、『続日本紀』を精査中です。宇佐八幡宮神託事件を中心に繰り返し読んでいますが、道鏡は朝廷内の権力抗争の敗者に過ぎず、皇位簒奪未遂の「悪人」と決めつけるには証拠不十分で、むしろ冤罪ではないのかと思うほど、『続日本紀』の記事は不審だらけです。この点については結論を急がず、検討を続けますが、今回、わたしが注目したのは道鏡の弟、弓削浄人(ゆげのきよひと、清人とも記される。注②)の存在です。
 弓削浄人は、天平宝字八年(764年)七月に宿禰姓を賜与され、同年九月の藤原仲麻呂の乱を経て、兄の道鏡が朝政の実権を掌握すると、従八位上から一挙に十五階の昇叙により従四位下に昇進。氏姓を弓削御浄朝臣に改め、衛門督に任ぜられます。
 天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲三等を与えられ、同年中に従四位上・参議として公卿に列すると、翌天平神護二年(766年)には正三位・中納言、その後も神護景雲元年(767年)に内豎卿を兼ね、同二年(768年)大納言、同三年(769年)従二位と道鏡政権下で急速に昇進を果たし、大宰帥に任じられ、大宰主神・中臣習宜阿曾麻呂と共に、道鏡を皇位に就けることが神意に適う旨の宇佐八幡宮の神託を奏上し、「宇佐八幡宮神託事件」を引き起こします。
 宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により道鏡と共に失脚し、弓削姓(無姓)に戻され、三人の子(広方、広田、広津)と共に土佐国へ流罪となりますが、桓武朝初頭の天応元年(781年)に赦免され、本国の河内国に戻りますが、平城京に入ることは許されませんでした。
 この道鏡(兄)と弓削浄人(弟)の関係は、仏教僧侶として法王と称された道鏡は権威の象徴で、大納言として従二位まで上り詰めた弓削浄人は権力の象徴とすれば、『隋書』俀国伝に見える阿毎多利思北孤とその弟による九州王朝独特の制度、兄弟統治(注③)を思い起こします。そして、もし道鏡が皇位につけば、おそらく法王から法皇になり、法隆寺釈迦三尊像光背銘の上宮法皇(多利思北孤)と同じ称号になります。これこそ、わたしの作業仮説(思いつき)、「物部系で筑後出身の習宜氏(阿曾麻呂)と弓削氏(道鏡)らが結託して、大和朝廷の天皇位簒奪(九州王朝王族の復権)を目論んだ事件」ということになりそうです。(つづく)

(注)
①ウィキペディアでは次のように解説している。
 宇佐八幡宮神託事件。奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
②弓削浄人(ゆげのきよひと)、清人とも記される。道鏡の弟。氏姓は弓削連のち弓削宿禰、弓削御浄朝臣。
③『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
 「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝
 古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘された。


第2782話 2022/07/04

神護景雲元年に始まった高良社大祭礼

 上妻郡上広川庄古賀村の大庄屋で高良玉垂命の神裔、稲員安則が著した『家勤記得集』(注①)を読んでいて、とても興味深い記事に気づきました。高良玉垂宮大祭礼が神護景雲元年に始まったとする次の記事です。

「大祝旧記に曰く、玉垂宮神事祭礼年中六十余度これを執行す。然りといえども春冬二季の祭祀五月九月両会の神事をこれをもって一社の大営なり。
 称徳天皇〔第四十八代なり、孝謙帝重祚〕神護景雲元年(767年)丁未冬十月十三日勅使参向あり。明神朝妻に御幸し、大祝物部保維神輿に神体を奉遷す。(中略)これより毎歳大祭礼を行わる。光厳天皇〔第九十六代なり〕正慶二年(1333年)壬申(ママ)鎌倉北條家滅亡す。これにより諸国乱逆おこる。故に大礼断絶す。然りといえども毎歳九月九日祭礼を執行すること今に絶えず。」『家勤記得集』3頁 ※〔 〕内は二行細注。
「同(寛文)九年(1669年)己酉秋九月九日、高良社大祭礼を執行す。称徳天皇御宇始めてこれを行う。光厳天皇御宇断絶し、その後行われず。今年大祝保正と座主月光院寂源とこれを談じ、太守(久留米藩主)に訴え古例に任せこれを再興す。」同52頁

  今日の高良大社の大きなお祭りは秋の例大祭「高良山くんち」(注②)ですが、古来より最も尊重されてきたのは「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)でした。この大祭礼が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まったというのです。わたしはこの年次を知り、驚きました。この年の二年後に宇佐八幡宮神託事件が発生しているからです。そこで、『続日本紀』に記された同事件(注③)を精査することにしました。(つづく)

(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②旧暦の九月九日に近い十月九日に行われている祭礼。「くんち」の語源としては、「九日」や「宮日」など諸説ある。
③ウィキペディアに次の解説がある。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。


第2780話 2022/07/02

筑後の弓削氏と現代の弓削さんの分布

 高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家が草部・日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったことから、筑後地方の弓削氏について史料調査しました。高良玉垂命研究の碩学、古賀壽(たもつ)さんから二十数年前にいただいた論文や史料を改めて精査したところ、次の弓削氏がありましたので紹介します。
 高良山に仏教を開基した人物は隆慶上人とされており、「白鳳二年癸酉」(673年)のことと伝えられています(注①)。この隆慶上人の伝記『高良山隆慶上人傳』には、上人の母親が弓削氏の出身であると記されています。

 「上人諱ハ隆慶。世姓ハ紀氏。人皇八代孝元天皇十一世ノ之苗裔。武内大臣八代ノ之的孫ナリ也。父ハ紀ノ護良。母ハ弓削氏ナリ。自當社垂迹已降。紀氏累代 監察シ九國ヲ 守禦ス三韓ヲ。故ニ九州尤モ重ンス 其ノ氏族。」『高良山隆慶上人傳』(注②)

 同じく高良山史料『筑後国高良山寺院興起之記』には隆慶上人の母親について次のように記されています。

「正覚寺
 白鳳七年、隆慶上人ノ寿母、弓削戸部岩人麻麻呂ガ娘、老後髪ヲ薙リ、衣ヲ染メ、北澗ニ隠ル。弥陀三尊ヲ安ンジ、二六時中唱名念仏ス。朱鳥十年六十八歳ニシテ逝ス。」『筑後国高良山寺院興起之記』(注③)

 以上の史料状況から、古代の筑後に弓削氏がいたことがわかります。また、『日本書紀』持統四年(690年)十月条に、筑紫君薩夜麻と共に唐の捕虜になった人物に「弓削連元寶の児」が見えます。筑後出身とまでは断定できませんが、筑紫君に付き従っていることから、筑紫の弓削氏と考えるべきでしょう。
 ちなみに、現代の名字としての弓削さんの分布は次の通りで、宮崎県南部や福岡県筑後地方・鹿児島県・千葉県香取市に多いことが注目されます。道鏡の出身地とされる河内国弓削村がある大阪府には濃密分布地が見えないようです。(つづく)

【弓削さんの分布】※web「日本姓氏語源辞典」で検索。
 人口 約7,000人 順位 2,093位

〔都道府県順位〕
1 宮崎県 (約900人)
2 福岡県 (約700人)
3 鹿児島県(約500人)
4 千葉県 (約500人)
5 東京都 (約400人)
6 京都府 (約400人)
7 大阪府 (約400人)
8 兵庫県 (約400人)
9 神奈川県(約300人)
10 滋賀県 (約300人)

〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約400人)
2 滋賀県 長浜市 (約200人)
3 鹿児島県 鹿児島市 (約130人)
4 福岡県 久留米市 (約130人)
4 宮崎県 小林市 (約130人)
6 福岡県 八女郡広川町(約130人)
7 宮崎県 西都市 (約120人)
8 兵庫県 加古川市 (約110人)
9 千葉県 香取市 (約100人)
10 熊本県 熊本市 (約100人)

(注)
①『高良記』(『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、昭和47年・1972年)には次の白鳳年号が見えることから、本来の九州年号「白鳳」(661~683年)で正しく記された「白鳳十三年癸酉」が、『日本書紀』の影響により、「天武天皇二年癸酉」→「天武白鳳二年癸酉」→「白鳳二年癸酉」へと、後代に改変されたものと思われる。これを「後代改変型白鳳」とわたしは称し、本来の九州年号と峻別する必要を主張している。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 17頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 32頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 39頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 82頁
 後代改変型白鳳については、次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟
 同「洛中洛外日記」1930話(2019/06/30)〝白鳳13年、筑紫の寺院伝承〟
②「高良山隆慶上人傳」『續天台宗全書 史傳2』天台宗典編纂所、昭和六三年(1988年)。
③古賀壽「〔訓読〕筑後国高良山寺院興起之記」『高良山の文化と歴史』第5号、高良山の文化と歴史を語る会、平成五年(1993年)。


第2779話 2022/07/01

御井郡弓削郷にいた稲員氏(草部氏)

 高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家(旧・草壁氏。草部・日下部とも記される)の研究をしていたとき、同家の墓地を訪問したことがありました。墓石正面の上部に削られた痕跡があり、恐らくは家紋の菊花が削られたのではないかと思われました。稲員家は正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居する前は御井郡稲員村に居住しており、高良山から稲員村に移る前は草壁氏を名のっていました。
 久留米市の地図を見て驚いたのですが、その御井郡稲員村は現在の久留米市北野町にあり、道鏡を祀っていた法皇宮と同じ町内だったのです。しかも稲員氏が草部や日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったとする史料が残っており、『家勤記得集』の「発刊によせて」(注①)で古賀壽氏がそのことを紹介しています。

〝筑後の草部氏も、『高良縁起』(石清水文書)、『高良玉垂宮縁起』(御舟本)に「長日下部公」「弓削郷戸主草部公富松」「大領草部公吉継」「少領草部公名在」などとあるところから、公(君)姓を称する古代豪族で、高良山下御井郡弓削郷を本貫の地とし、御井郡司に任じた氏族であったことが推定される。〟『家勤記得集』「発刊によせて」古賀壽

 すなわち、法皇宮がある御井郡弓削郷の戸主も後の稲員氏だったというのです。また、御井郡の郡衙は弓削郷にあったと考えられており(注②)、稲員村や弓削村(郷)の地に草部氏は郡司や戸主として重きをなしていたのです。そうすると法皇宮にあった菊花紋瓦は草部氏・稲員家の家紋だったのではないでしょうか。そして、その地で道鏡を祀っていたことになり、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族による〝共同謀議〟とする、わたしの作業仮説(思いつき)の傍証に菊花紋はなりそうです。(つづく)

(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②津田勉「『高良縁起』の成立年代」(『神道宗教』第170号、1998年)に次の指摘がある。
 「ところで、御井郡の郡衙跡ともいわれるヘボノキ遺跡は、まさに弓削郷に存在する。弓削郷は筑後国府(枝光国府・朝妻国府)に隣接する筑後川沿いの郷であり、現在も弓削の地名は使われている。国衙と郡衙とが近接している実態は、御井郡の郡・郷を支配していた郡司と国司が強く結びついていたことを如実に示している。」60頁
 なお、弓削地名は筑後川の両岸に遺っており、法皇宮は北岸の北野町、ヘボノキ遺跡は南岸の東合川町にある。筑後国の中で御井郡のみが筑後川の両岸にまたがっている。


第2778話 2022/06/30

上弓削の法皇宮と稲員家の菊花紋

 久留米市の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からいただいた『北野町の神社と寺院』(注①)にある法皇宮の解説には、「法皇宮は北野町上弓削の氏神で、祭神は後白河法皇を奉祀するといわれる。また弓削の道鏡を祀るとの説もある。法皇説としては棟瓦の中央と両端に菊花の御紋章が三ヶ所入れられていた。ところが戦時中に村の駐在所の指示により、勿体ないから取りはずせとのことで、これを処理したとのことであるが、その現物は現在残ってはいない。」とあります。これは、よくよく考えるとおかしなことです。後白河法皇を祀っているのであれば、菊花紋の瓦をはずせなどと駐在所のおまわりさんに言えるはずがありません。それこそ、後白河法皇の霊に対して失礼な所業だからです。戦時中であればなおさらです。従って、駐在所が菊花紋瓦を取りはずせと指示したのは、この法皇宮に祀られているのは後白河法皇ではなく、弓削の道鏡だとおまわりさんも知っていたからではないでしょうか。その証拠に、江戸時代の地誌(注②)には、祭神は道鏡であると記録されています。
 このことと対応するのですが、筑後地方には菊花を家紋とする一族があり、同様に御上に対して差し障りがあるとして使用を止めさせられています。その一族とは、高良玉垂命の末裔で高良大社の神事を執り行っていた稲員(いなかず)家(旧・草壁氏)です。草壁氏は草部・日下部と記されることもあり、御井郡稲員村に居住したことから稲員氏を名乗ります。正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居し、江戸時代には筑後国上妻郡広川村古賀の大庄屋となり、久留米藩に仕えました。大庄屋職にあった稲員安則が寛永十年~元禄九年(1633~1696)に書き留めた『家勤記得集』(注③)末尾に次の一文が見えます。

〝稲員家の紋、古来は菊なり、今は上に指合うによりて止むる由なり。〟『家勤記得集』

 九州王朝の王族と思われる高良玉垂命の子孫(注④)、稲員家の家紋が菊花紋であり、後世において差し障りがあり、止めたとの記事です。それでは御井郡北野村弓削の法皇宮の菊花紋瓦と、上妻郡広川村の大庄屋稲員家の菊花紋とは何か関係があるのでしょうか。(つづく)

(注)
①『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和62年(1987)。②伊藤常足編『太宰管内志』天保十二年(1841)。歴史図書社刊、昭和44年(1969)。
③稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2777話 2022/06/28

三井郡北野町弓削の法皇宮の祭神

 一昨日の久留米大学での講演で、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族(弓削氏、習宜氏)による〝共同謀議〟とする作業仮説(思いつき)をわたしが発表することを事前に予想されていたかのような資料を提供されたのが、地元久留米市の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)でした。
 その資料とは、昭和62年(1987)発行の『北野町の神社と寺院』(注①)に収録された「法皇宮」のコピーです。三井郡北野町教育委員会によるもので、久留米市との合併前(注②)の資料です。同町は筑後川の北岸に位置し、小郡市の南側にあります。同地の上弓削にある法皇宮は以前から注目していた神社で、『北野町の神社と寺院』には次の解説があります。

 「一、法皇宮
   (北野町大字上弓削字屋敷に祀る)
 法皇宮は北野町上弓削の氏神で、祭神は後白河法皇を奉祀するといわれる。また弓削の道鏡を祀るとの説もある。法皇説としては棟瓦の中央と両端に菊花の御紋章が三ヶ所入れられていた。ところが戦時中に村の駐在所の指示により、勿体ないから取りはずせとのことで、これを処理したとのことであるが、その現物は現在残ってはいない。
 道鏡は奈良時代仏教の興隆期に太政大臣禅師、翌年に法王となり位人臣を極めたが、さらに天皇の位までうかがった。併し忠臣和気清麻呂に阻まれ下野国薬師寺の別当に貶され、宝亀三年(一二一六年前)配所で没した。この史実から逆臣であった道鏡が神に祀られるはずがなく、ただ弓削の姓から弓削の地名に通じたものであろうか。(後略)」

 この解説は一元史観を前提とした歴史認識に基づいており、わたしから見ると問題が多い解説です。法皇宮現地にある説明板の内容はこの認識よりも更に後退したもので、道鏡祭神説は記されていないようです。わたしの史料調査によれば、道鏡祭神は学者の「説」ではなく、現地伝承を伝えた史料事実なのです。たとえば江戸時代の地誌『太宰管内志』(注③)には、次のように法皇宮の祭神を道鏡とする伝承を記録しています。

「○弓削
 〔和名抄〕に御井郡弓削あり、(中略)〔筑後地鑑中巻〕に御井郡上弓削下弓削二村あり、弓削ノ杣ノ事はいまだ考へず、上弓削村に法皇宮あり道鏡ノ靈を祭れりと云」『太宰管内志』筑後之四(御井郡下)

 このように江戸時代の地誌には「道鏡ノ霊を祭れりと云」とあり、後白河法皇のことは見えません。従って、後白河法皇祭神説こそ明治以後に作られた「説」である可能性が大です。もちろんその理由は、明治以後の国家神道の台頭により、皇位簒奪を謀った悪人とされた道鏡(注④)を祀ることを憚ったためと思われます。(つづく)

(注)
①『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和61年(1986)。
②三井郡北野町は2005年に久留米市と合併し、久留米市北野町になった。
③伊藤常足編『太宰管内志』天保十二年(1841)。歴史図書社刊、昭和44年(1969)。
④ウィキペディアでは、道鏡が「日本三悪人」の一人とされていることを紹介している。
〝道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? – 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。平将門、足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある。〟


第2776話 2022/06/27

神護景雲三年(769)、九州王朝の復権未遂事件

 昨日の久留米大学での講演で、わたしはとんでもない思いつき(作業仮説)を恐る恐る発表しました。「たぶん間違っているかもしれませんが」と始めた腰が引けた発表とは、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件(注①)、すなわち弓削の道鏡を天皇位につけよという宇佐八幡神のお告げを大宰主神・習宜阿曾麻呂(注②)が上奏した事件の真相は、九州王朝王族の復権のための物部系氏族(弓削氏、習宜氏)による〝共同謀議〟ではないかとするものです。この思いつきに至った状況証拠は次のようなことでした。

(1) 『新撰姓氏録』によれぱ、弓削氏と習宜氏は共に物部氏系の神を祖先とする。
(2) 習宜阿曾麻呂の習宜は「すげ」とは訓めず、「すぎ」と訓むべきである。
(3) 「すぎ」は現代の名字では「杉」の字を当てるのが一般的と思われる。
(4) 杉さんの名字分布を調べたところ、県別では福岡県が最多で(2位は岡山県)、うきは市を中心として筑後地方が最濃密地域である。
(5) このことから、習宜阿曾麻呂の出身地は筑後地方とするのが有力である。
(6) 『続日本紀』によれば、習宜阿曾麻呂の任地は九州内(豊前国・大宰府・種子島・大隅国)に限られており、奈良県出身とする通説よりも、福岡県(筑後地方)出身とする方が妥当である。
(7) 『和名抄』によれば、筑後国に物部郷があり、名字の物部さんも岡山県に次いでうきは市が多い。
(8) 杉さんと物部さんが共通して福岡県と岡山県に多いことは偶然ではなく、両者に何らかの関係があることを指し示している。
(9) 弓削の道鏡の出身地は河内国とされているが、筑後国にも弓削郷があり、久留米市北野町上弓削にある法皇宮は後白河法皇を祭神とするが、弓削の道鏡を祀るとする説がある(注③)。
(10)『養老律令』官位令の規定によれば、大宰府主神の官位は正七位下とされているが、習宜阿曾麻呂は従五位下と比較的高位であり、左遷後も変化していない。

 以上のような状況証拠により、物部系で筑後出身の習宜氏(阿曾麻呂)と弓削氏(道鏡)らが結託して、大和朝廷の天皇位簒奪(九州王朝王族の復権)を目論んだのではないかとの作業仮説(思いつき)に至りました。果たして、この思いつきが史料根拠に基づいた学問的仮説にまで発展するのか、今のところあまり自信はありませんが、研究を続けたいと思います。

(注)
①ウィキペディアに次の解説がある。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
②習宜阿曾麻呂は「すげのあそまろ」と呼ばれているが、「宜」の字は「げ」ではなく、「ぎ」と読むべきで、その出身地を筑後地方(うきは市)付近とする見解を次の「洛中洛外日記」で発表した。
 古賀達也「洛中洛外日記」2679~2680話(2022/02/08~09)〝難波宮の複都制と副都(8)~(9)〟
③『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和61年(1986)。同書関係部分のコピーを犬塚幹夫氏(古田史学の会・会員、久留米市)より、久留米大学講演時に提供していただいた。


第2772話 2022/06/23

「トマスによる福音書」

      と仏典の「変成男子」思想 (7)

 前話〝「トマスによる福音書」と仏典の「変成男子」思想 (6)〟で、「古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点」と述べたのですが、これは近畿天皇家内において実力者であった蘇我馬子が推古を女性として初の〝天皇〟位につけたこととも関係があるのかもしれません。仏教という外来の新たな宗教的権威として若い女性を出家させ、〝天皇〟位という近畿王権の権力者として女性の推古を即位させたことを偶然の一致とするよりも、馬子の女性に対する考え方や、当時の王権内の事情や九州王朝との関係を反映したものと考えた方がよいのではないでしょうか。
 王朝交代後の八世紀に入ると、大和朝廷として君臨した近畿天皇家は新たな仏教政策を採用します。聖武天皇による国分寺の建立命令です。『ウィキペディア』では次のように説明しています。

【国分寺】フリー百科事典『ウィキペディア』
 国分寺は、741年(天平十三年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺と国分尼寺に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺」が建てられた。
 天平十三年(741年)聖武天皇の勅願により、国分寺とともに諸国に創建された尼寺。正しくは法華滅罪之寺、略して法華寺と称し、妙法蓮華経を安置。奈良の法華寺は総国分尼寺の性格を有した。

 聖武天皇が発したこの国分寺創建詔(注①)により、各地で国分寺・国分尼寺の造営が開始されます。なかでも、国分尼寺の正式名が「法華滅罪之寺」であり、女人救済という視点からすれば、法華経が中心経典とされたことは示唆的です。「法華滅罪之寺」を字義通り解釈すれば、女性の罪を法華経の教えで滅するということですから、当時の大和朝廷が受容した仏教思想として、女人救済(滅罪)には法華経が優れた教えとする認識があったことを疑えません。
 なお、聖武天皇周囲の女性皇族(光明皇后たち)が仏教を崇敬していたことは、天平八年(736)、法隆寺の法会への数々の施入品からもうかがえ、それが九州王朝への畏怖を背景の一つとしていたとする論稿をわたしは発表しました(注②)。(つづく)

(注)
①『続日本紀』聖武天皇天平十三年二月条に見える詔勅。
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年。