第1341話 2017/02/23

続・太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼

 従来の「実証」に基づいて成立した飛鳥編年により太宰府の土器や遺構(政庁・条坊など)は編年されていました。例えば政庁Ⅱ期や条坊都市は8世紀初頭以降の造営とされてきました。大和朝廷の大宝律令下の地方組織「大宰府」に相当するとされてきたわけです。
 そられ旧「実証」に代えて、更に精密な調査に基づく新「実証」により太宰府編年の修正をもたらした画期的な研究が井上信正さん(太宰府市教育委員会)によりなされたことは、これまで繰り返し説明してきたところです。井上さんが発見された新「実証」とは、太宰府条坊都市の北側にある大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺と南側に広がる条坊とは異なる尺単位で設計されており、政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立の方が早いということを考古学的調査により明らかにされたことです。素晴らしい発見と言わざるを得ません。
 この発見により、井上さんは大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺の成立を従来通り8世紀初頭、条坊都市は藤原京と同時期がやや早い7世紀末頃とされました。その結果、太宰府は大和朝廷の都である藤原京と同時期に造営された日本最古の条坊都市となったのです。その後、前期難波宮の時代に条坊都市難波京造営の可能性が高まってきており、正確には太宰府は国内二番目の条坊都市となりますが、この点については別途詳述します。
 しかし、この井上さんによる新「実証」とそれに基づく修正太宰府編年も、実は田村さんの次の疑問に対して答えることができません。

 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁Ⅰ期の天智期:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」(田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和62年刊。)

 井上さんの新「実証」による修正太宰府編年によっても、太宰府条坊都市の成立が8世紀初頭から7世紀末頃になっただけであり、田村さんが疑問とされたように、やはり天智期(660〜670年頃)に水城や大野城で護るにふさわしい宮殿や都市は太宰府には存在しないことになるのです。しかも、昨年には筑紫野市から羅城跡と思われる大規模土塁が発見されたことにより、太宰府条坊都市の成立に対して、現地の考古学者は飛鳥編年による従来説ではますます説明困難となっているのです。
 やはり九州王朝説に基づく「論証」を優先させ、これまでの「実証」やそれに基づく太宰府編年を根底から見直す必要があるのです。まさに「論証」の出番です。これこそ「学問は実証よりも論証を重んじる」ということに他なりません。

フォローする