第1019話 2015/08/10

「武蔵国分寺跡」の不可解

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた「武蔵国分寺」の不思議な遺構について、調査検討を進めています。今回、特に参考になったのが国分寺市のホームページ中の武蔵国分寺資料館のコーナーでした。その中のコンテンツ「武蔵国分寺の建立」(武蔵国分寺資料館解説シートNo.4)によれば、次のように創建過程を解説されています。

 まず、「3種の区画の変遷があったことなどがわかりました。」として、次のように記されています。

区画1:塔を中心とした真北から約7度西に傾く伽藍
区画2:区画1の西側の溝を埋め、中心を西へ200m移動させ西へ範囲を拡大、尼寺の区画も整備
区画3:寺院地区画を東山道まで延長する拡充整備

 以上のように区画の段階を示し、次のように造営時期の編年をされています。

創建期(8世紀中頃〜)
国分寺建立の詔によって造営が開始される時期
○区画1の寺院地が定められ、中心付近に塔を造立

僧・尼寺創建期(〜8世紀末)
僧・尼寺の主要な建築物が造られる時期
○区画2もしくは区画3で、僧・尼寺の創建期および僧尼寺造寺計画の変更
○区画2もしくは区画3で、造寺事業完了

整備拡充期(9世紀代)
承和12年(845)を上限とする整備拡充期で、塔が再建されるもっとも整備されていた時期
(以下、省略します)

 以上のような解説がなされているのですが、わたしには不可解極まりない説明に見えます。それは次のような点です。

疑問1.武蔵国分寺の塔は回廊の外側(東側)にある。普通、塔は金堂や講堂などと共に回廊内にあるものである。
疑問2.区画1の説明として「塔を中心とした真北から約7度西に傾く伽藍」とあるが、その中心に建てられた塔はほぼ南北方向に主軸を持ち、その西隣に近年発見された「塔2」も同様に南北方向であり、その方位は「真北から約7度西に傾く伽藍」配置との整合性が無い。
疑問3.寺院建立にあたり、最初に「塔」を造営するというのも不自然である。しかも、金堂とは別に回廊の外側に方位も異なって造営したりするだろうか。
疑問4,仮にこの順番と編年が正しいとした場合、塔を造営してから50年近く後に、金堂などの主要伽藍が造営されるというのも奇妙である。普通、金堂と塔は同時期に造るものではないのか。

 ざっと読んだだけでもこれだけの疑問点が出てきます。失礼ながら同資料館の「解説」は不可解極まりないと言わざるを得ないのです。こうした不思議な状況は、肥沼さんが指摘されたように、九州王朝による多元的「国分寺」建立説という仮説を導入する必要がありそうです。(つづく)

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