第2233話 2020/09/17

古典の中の「都鳥」(2)

 「船競ふ 堀江の川の水際に 来(き)居(い)つつ鳴くは 都鳥かも」

 『万葉集』巻第二十(4462)に見えるこの歌は大伴宿禰家持の作と記されています。この歌の内容からは次のことが推定できます。

①大伴家持(718~785年)の時代に都鳥と呼ばれる鳥がいた。
②この都鳥は水鳥である。
③大伴家持は都鳥やその鳴き声を知っている。
④この歌は「堀江の川」付近で詠まれた。
⑤「都鳥かも」とあることから、このとき都鳥を見たわけではなさそうである。
⑥都鳥が堀江の水際に「来(き)居(い)つつ鳴くは」とあることから、他の地から来た鳥と思われる。

 日本古典文学大系『万葉集』(岩波書店)の同歌頭注には、この都鳥について次の様な説明があります。

 「都鳥―ユリカモメのこと。伊勢物語の在原業平の歌にあるように、頭が白く、背中が銀白色で、嘴と脚とが赤く、尾の純白な鳥。入り江に来て小魚などを取る。イリエカモメが転じてユリカモメになったのだろうという。別に千鳥科のミヤコドリとする説もある。歌が作られた陽暦四月二十日頃には、ユリカモメは北に帰っていて、水際に降りて鳴くのは千鳥科のミヤコドリであろうという。」

 現在では、古典に見える「都鳥」をユリカモメのこととする説が有力ですが、この解説では千鳥科のミヤコドリかもしれないともあり、どちらとも決めがたいようです。いずれにしても、都鳥の候補としてはこの2種類の鳥しかないことがわかります。それではどちらでしょうか。
 その「都鳥」という名前から、日本各地に生息する鳥ではなく、主に「都」でしか見かけることがない鳥であると思われます。そうでなければ、「都鳥」というような名前が付けられるとは考えにくいからです。そうすると、渡り鳥として博多湾など北部九州にしか飛来しないミヤコドリ科の都鳥しかありません。近年は東京でも見かけるとする記述も見えますが、家持の時代の都は奈良県であり、関東(東京)に都はありません。
 わたしたち古田学派にとっては九州王朝の都が博多湾岸や筑前にあったことは自明ですから、そこに飛来するミヤコドリ科の都鳥が「都鳥」と命名されるのは極めて自然です。ですからも家持の歌の都鳥はミヤコドリ科の都鳥のことと考えざるを得ません。この都鳥であれば、先の①②⑥の考察とも一致します。
 次いで、③「大伴家持は都鳥やその鳴き声を知っている」とする考察はどうでしょうか。わたしは家持が都鳥を知っていたことはまず間違いないと思います。なぜなら、家持は天平宝字八年(764年)に薩摩守へ左遷され、神護景雲元年(767年)大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官を務めているからです。大宰府(筑前)に赴任時に、この嘴の色や形状が印象的な都鳥の飛来を博多湾岸などで家持は見ており、その鳴き声も聞いたことがあるはずです。少なくともその可能性を否定できません。
 九州から近畿に戻った家持には、難波の堀江(通説による)で聞いた鳥の鳴き声が都鳥に似ていたのではないでしょうか。そのため、「都鳥かも」と詠ったものと思われます。もしかすると、家持は九州王朝や難波に九州王朝の複都の一つ「前期難波宮」があったことも知っており、滅亡した九州王朝・難波宮の故地で聞いた鳥の鳴き声を「都鳥かも」と詠み、その歴史的存在を暗喩したのではないでしょうか。そうであれば、この歌は筑前と難波、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)の時代という、場所と時間を俯瞰した歌といえるかもしれません。
 なお、大伴家持や父の旅人ら大伴一族と九州王朝との関係についての拙論「『君が代』『海ゆかば』、そして九州王朝」(『「君が代」、うずまく源流』古田先生らとの共著、新泉社。1991年)を30年前に発表したことがあり、その当時を懐かしく思い出しました。(つづく)

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