第780話 2014/09/06

奴(な)国か奴(ぬ)国か

「古田史学の会」会員の中村通敏さん(福岡市在住)から、ご著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』 (海鳥社、2014年9月)が送られてきました。古田先生の邪馬壹国説の骨子がわかりやすく紹介されており、古田史学入門書にもなっていますが、著者独自の仮説(奴国の比定地など)も提示されており、古田先生に敬意を払いながらも「師の説にななづみそ」を実践された古田学派の研究者らしい好著です。
また、志賀島の金印の出自に関する古田先生の考察など、興味深いテーマも取り扱われています。中でもわたしが注目したのが、『三国志』倭人伝に見える国名の「奴国」の「奴」を「な」とするのは誤りであり、「ぬ」である可能性が高いことを論じられたことです。わたしも「奴国」や金印の「委奴国」の「奴」の 当時の発音は「ぬ」か「の」、あるいはその中間の発音と考えています。通説の「な」とする理解が成立困難であることは、古田先生も指摘されてきたところです。中村さんはこの点でも、独自の根拠を示しておられ、説得力を感じました。
なお、奴国の位置については『古代に真実を求めて』17集にも中村稿とともに正木稿が掲載されており、両者の説を読み比べることにより、倭人伝理解が深 まります。このところ古田学派による著書の出版が続いていますが、中村さんの『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』はお勧めの一冊です。

インターネット事務局案内

 中村通敏(棟上寅七)さんが主宰するホームページ(新しい歴史教科書(古代史)研究会)と『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』中村通敏著のPRです。

棟上寅七の古代史本批評 へ


第779話 2014/09/06

古田武彦著『古代の霧の中から』復刊

 古田武彦著『古代の霧の中から — 出雲王朝から九州王朝へ』がミネルヴァ書房から復刊されました。同書は1985年に徳間書店から出版されたもので、『市民の古代』などに発表された論文が収録されています。各章は次の通りです。

序章  現行の教科書に問う
第一章 古代出雲の新発見
第二章 卑弥呼と蝦夷
第三章 画期に立つ好太王碑
第四章 筑紫舞と九州王朝
第五章 最新の諸問題について
日本の生きた歴史(二十二)
歴史の道

 「日本の生きた歴史(二十二)」と「歴史の道」は復刊に伴って新たに書き下ろされたものです。本書の性格は「はしがき--復刊にあたって」で古田先生が次のように書かれていますように、「異色の一書」です。

 「異色の一書だ。最初の出版の時から、“濃密な”内容をもっていた。「学問の成立」とその発展が具体例でしめされていた。今回のミネルヴァ書房復刊本では、新稿「歴史の道」を加え、わたしにとって決定的な意味を持つ本となった。幸せである。」

 今回、改めて読み直してみて、面白い問題に気づきました。第五章にある「発掘が裏付ける『大津の宮』」において、大津市穴太2丁目から出土した「穴太廃寺」について、次のような考察が示されています。

 「これほどの寺院跡、法隆寺級の大寺院跡が出土したにもかかわらず、その存在事実を示す文献記載のないことに不審がもたれている、という(朝日新聞〔大阪〕、一九八四・七・六)。」(252頁)
 「これがもし、真に『寺院』であったとしたら、『日本書紀』にその記載のないのは、不可解だ。その、いわゆる『寺院』は、書紀の編者たちが知悉していたはずだ。そしてその存在や寺名を、“消し去る”べき必要が、彼等にあったとは、全く信じえないのである。」(253頁)

 穴太廃寺遺跡を古田先生は天智天皇が遷都した「近江宮」と解され、大津市錦織から出土した朝堂院様式の宮殿を、同じく天智紀に見える「新宮」とされたのです。大変興味深い考察ですが、穴太廃寺遺跡はその後の調査から、やはり寺院跡と見なされています。しかし、古田先生の抱かれた疑問「何故、これほどの大寺院が『日本書紀』に記載されていないのか」という視点は有効です。しかも、大津宮遺跡(大津市錦織)の真北から出土した 「南滋賀廃寺」も、やはり『日本書紀』に記載されていません。
 古田先生が疑問とされた『日本書紀』の「沈黙」こそ、わたしが提案している仮説「九州王朝の近江遷都」の傍証となるのではないでしょうか。大津宮が九州王朝による宮殿であれば、同時期に建立された九州王朝による大寺院が『日本書紀』から“消し去られた”理由も説明できそうです。
 『古代の霧の中から』の復刊により、当初は気づかなかった問題が「発見」できました。他にも同様の「発見」があるかもしれませんので、しっかりと再々読しようと思います。


第778話 2014/09/05

「古田武彦先生講演録集」を読む

 「古田史学の会」の友好団体「多元的古代研究会」(安藤哲朗会長)の事務局長の和田昌美さんから、同会の発足20周年記念に出版された「古田武彦先生講演録集」が送られてきました。同講演録には古田先生の三つの記念講演が収録されており、いずれも古田先生にとっても記念すべき次の講演の記録です。

「信州の古代文明と歴史学の未来」1979年9月13日、松本深志高校にて、「古田武彦と古代史を研究する会」発行の同会の冊子より再録

記念講話「岡田先生と深志」1990年、松本深志高校にて、同校発行校内誌より再録

記念講演「筑紫舞と九州王朝」2014年3月2日、アクロス福岡イベントホール、宮地嶽神社主催「筑紫舞再興三十周年記念イベント」にて

 いずれも古田先生にとっても記念すべき講演で、とてもよい出版企画となっています。なかでも1990年の「岡田先生と深志」は感慨深く拝読しました。古田先生にとって歴史研究とは何かというテーマにもふれられており、わたしも若い頃から何度も先生からお聞きした次のような言葉です。

 「歴史学の目標は私は予言にあると思います。何故かというと、結局、過去を勉強する、何のために--骨董いじりのような過去を勉強するか、言うまでもなく、人類の未来を知りたいから過去を勉強するわけです。現在という一点に立って、未来を知るためには過去を知ることによって過去から現在へ延長させると、その行く先の未来がどの方向に行くかが分ってくるわけです。その意味で歴史を学ぶ目標は、未来を知るためだと、私はこの点は一度も疑ったことはありません。」(78頁)

 「歴史学は人類の未来のための学問である」この言葉は古田先生から学んだ歴史研究の原点です。すべての古田学派や古田ファン の皆さんにも是非とも知っていただきたいと願っています。そういう意味でも、「多元的古代研究会」の20周年記念出版事業にふさわしい冊子でした。ご恵送たまわり、ありがとうございます。



第777話 2014/08/31

大宰帥蘇我臣日向

 明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であたっことで、にわかに蘇我氏との関係が注目されました。蘇我氏の出自については謎が多く、古田学派内でもさまざまな仮説が提起されてきましたが、いずれも確かな根拠が提示されているようには見えませんでした。そこで、改めて注目したいのが「洛中洛外日記」655話で紹介しました『二中歴』「都督歴」に見える次の記事です。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任じていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。
 蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場しますが、『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。また、『日本書紀』皇極紀によれば、中大兄皇子との婚約が進められていた蘇我倉山 田麻呂の長女を身狭臣(蘇我日向のこととされる)が盗んだとありますが、これも『日本書紀』編纂時に大義名分を入れ替えた記事の可能性があります。
 近畿天皇家においても、蘇我氏が有力者として存在していたことを考えると、九州と大和において蘇我氏は重用されていたことになります。九州王朝説に基づいた蘇我氏研究が期待されます。


第776話 2014/08/29

女王の国

 今日は大阪市で開催されたアラン・スィフト先生(Dr.J Alan Swift)の来日記念講演会(A personal journey investigating the chemistry and structure of human hair:毛髪の構造と化学研究にかかわってきた人生を振り返って)を聴講しました(主催:繊維応用技術研究会)。スィフト先生は毛髪やウールの構造解析研究における世界的な研究者で、イギリスのリード大学におられ、マンチェスター生まれとのこと。このたび50年ぶりに奥様とご一緒に来日されました。
 講演ではきれいな発音でゆっくりと話されたのですが、事前に配布されたレジュメやプロジェクター画像と通訳がなければ、わたしの英語力ではとても理解困難な学術講演でした。講演会後の懇親会ではご挨拶させていただきました。わたしのへたくそな英語が通じて、ホッとしました。
 今、スィフト先生の母国イギリスではスコットランドの独立運動が進められており、独立の是非を住民投票で決められるとのこと。分離独立が平和裏にルールに基づき住民投票で決められ、その結果を分離独立される側(UK、イングランド)も尊重し、受け入れるというのですから、さすがは民主主義のお手本のような国で、尊敬できます。このようなことは人類史上でも珍しいことでしょう。
 こうした平和的ルールに基づいて独立が認められる世界になれば、国際紛争はかなり減るのではないでしょうか。人類がそのような精神文化を獲得するに至るまで、あとどのくらいかかるのでしょうか。近年のロシアや中国の行いを見ると絶望感にとらわれますが、今回のスコットランドのような例を知ると、一縷の希望も見えてきそうです。
 女王陛下の国も「ブリテンの大乱」とも言うべき状況です。『三国志』倭人伝によれば倭国は卑弥呼を共立することにより、内戦を収束させ女王国として安定したようですが、西洋の現代の女王国はどのようになるのでしょうか。興味津々です。
 わたしはイギリス史は詳しくありませんが、イングランドとスコットランドが不仲なのは知っていました。各国の国歌の歌詞を調べたことがあるのですが、イギリス国歌(法律で決まっているわけではないようです)「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン(キング)」の六番の歌詞になんと次のようなものがあるのです。
「激流の如きスコットランドの反乱を打ち破らん」
 スコットランド人にしてみたら、こんな歌詞が国歌にあったら、それはいやでしょうね。独立したいという気持ちもわかります。わたしたち日本人の感覚では 非常識な歌詞です。たとえば「君が代」の歌詞に「九州や北海道の反乱を打ち破らん」があることなど考えられないからです。
 ところが今回調べて知ったのですが、スコットランド人も負けていませんでした。なんと事実上の「スコットランド国歌」とされているものがあり、その歌詞に繰り返し次のようなフレーズ出てくるのです。

 スコットランド国歌「スコットランドの花」 (Flower of Scotland)
「エドワード軍への決死の戦い 暴君は退却し 侵略を断念せり」

 このエドワードとはイングランド王の名前です。イングランド国王を「暴君」と呼び、「侵略」を断念させたと、スコットランドでは歌われるのです。 ここまで双方が相手側を「国歌」でののしりあうのですから、分離独立というのもわからないこともありません。ただ、イギリス国歌は問題の六番は実際には歌われないときいています。
 西洋の女王国はこれからどうなるのでしょうか。仮にスコットランドが独立しても仲良くしていただきたいものです。そして民主主義のお手本を全世界に示していただきたいと願っています。


第775話 2014/08/27

所功編『日本年号史大事典』

          の「建元」と「改元」

 最近、面白い本を読みました。所功編『日本年号史大事典』(平成26年1月刊、雄山閣)です。所さんといえばテレビにもよく出られている温厚で誠実な学者ですが(その学説への賛否とは別に、人間としては立派な方だと思っています)、残念ながら大和朝廷一元史観にたっておられ、今回の著書も一元史観に貫かれています。しかし、約800頁にも及ぶ大作であり、年号研究の大家にふさわしい労作だと思います。
 同書には古田先生の九州王朝説・九州年号や著作(『失われた九州王朝』)も紹介されており、この点は古田説を無視する他の多くの歴史学者とは異なり、所さんの誠実さがうかがわれます。もっとも、古田先生の九州王朝説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てておられ ます。
 同書中、わたしが最も注目したのが「建元」と「改元」の扱いについてでした。まず、所さんは我が国の年号について次のように概説されています。

「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(645)にはじまり、「大宝」改元(701)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、54頁)

 すなわち大和朝廷最初の年号を意味する「建元」が「大化」とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と理解されています。 そして、具体的な年号の解説が「各論 日本公年号の総合解説」(執筆者は久禮旦雄氏ら)でなされるのですが、その「大宝」の項には次のような「改元の経緯及び特記事項」が記されています。

「『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。」(127頁)

 この解説を見て、失礼ながら苦笑を禁じ得ませんでした。『続日本紀』の原文「建元(元を建てて)」を正しく紹介した直後に「建元(改元)」と記されたのですから。いったい「大宝」は建元なのでしょうか、改元なのでしょうか。原文改訂の手段としてカッコ書きにすればよいというものではないと思うので すが。
 所さんは「大宝」を「改元」と説明し、久禮さんは「建元(改元)」と表記解説される。すごい「曲芸」ですね。いつから歴史学は学問としてこのような「手法」が許されるようになったのでしょうか。これこそ研究不正としてなぜ毎日新聞やNHKは、小保方さん(イギリスの商業誌に掲載された論文の約80枚の写真中、3枚の写真に結論に影響しない過誤があっただけ)や笹井さん(同論文執筆指導しただけで、死ぬまで叩かれるようなことはしていない)以上にバッシングしないのでしょうか。このように「学問的にまったく成り立たない」のは、古田先生の九州王朝説ではなく、へんてこな「建元」「改元」解説をせざるを得ない、大和朝廷一元史観の方であることは明白です。本当に面白い本でした。


第774話 2014/08/27

貝原益軒と九州年号

 今朝はJR北陸本線を大聖寺から福井へと向かっています。昨日、北陸地方を襲ったとテレビで報道されていた大雨も、わたしが行った先ではそれほどではありませんでした。

 今朝、ホテルでいただいた読売新聞朝刊1面のコラム「編集手帳」に、今日が江戸時代の学者貝原益軒(1630-1714)の命日と紹介されていました。貝原益軒は筑前黒田藩の学者で『養生訓』『筑前国続風土記』など多くの著書を残しました。益軒はわたしにとってとてもなじみ深い学者です。というのも、九州年号研究で貝原益軒の名前は何度も見てきたからです。
 従来から九州年号は「私年号」や「逸年号」とされてきたり、あるいは僧侶による偽作(偽年号)扱いされてきました。こうした九州年号偽作説が誰により言われてきたのかという研究を、京都大学で開催された日本思想史学会で発表したことがあるのですが、益軒の『続和漢名数』の「日本偽年号」の項に、九州年号を僧侶による偽作と学問的根拠や論証を示さず断定しています。詳細は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)をご覧下さい。益軒以降、現在に至るまで九州年号偽作説論者は益軒と同様に学問的論証を経ることなく、偽作説を踏襲しているようです。
 益軒の九州年号偽作論は現在の学界に影響を及ぼしているだけではなく、筑前黒田藩有数の学者である益軒の影響もあってか、九州王朝の中枢地域だった筑前の寺社縁起や地誌などから九州年号がかなり消された可能性があるのです。理屈から考えれば九州王朝の中枢領域にもっとも九州年号史料が残存していてもよさそうなのですか、管見によれば筑後や肥前・肥後と比べてちょっと少ないように思われるのです。
 九州年号研究者にとっては益軒先生も困ったことをしてくれたものだと思っています。とはいえ、今日は益軒先生の命日とのことですので、郷里の先学のご冥福をお祈りしたいと思います。


第773話 2014/08/26

「盗まれた『聖徳太子』伝承」

 今日から北陸出張です。午前中は福井県鯖江市でお客様訪問、午後は富山県石動(いするぎ)で開発案件のマーケットリサーチ、夜は石川県大聖寺で代理店と打ち合わせです。明日は福井市で仕事です。
 北陸三県は教育熱心な県と聞いていますが、確かにお付き合いしている代理店の青年は優秀な人が多く、わたしも啓発されることしばしばです。また、当然かもしれませんが、地元出身の人がほとんどです。少子化の影響もあり、子供が親元に残るため地元で就職する傾向が増えているのでしょう。そうなると就職先が少ない地方では、地元企業への就職競争が激しくなり、その結果、優秀な青年が地元企業に就職するということなのかもしれません。関西や関東の大都市圏では 地方出身者が少なくないのですが、わたしの勤務先も部課長の多くは他府県出身者です。

 24日にi-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で、服部静尚さんを新編集長として『古代に真実を求めて』の編集会議を行い、18集 の企画内容を審議決定しました。メインテーマは「盗まれた『聖徳太子』伝承」で、九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績が、大和の「聖徳太子」の事績として『日本書紀』などに盗用されたり、各地の「聖徳太子」伝承に変質していることが明らかとなっていますが、18集ではそれらの研究成果を特集します。 依頼原稿の執筆者も決定されましたが、同テーマによる投稿原稿も歓迎します。もちろん、特集テーマ以外の投稿も従来通り受け付けますので、ふるって応募し てください(締め切りは10月末。原稿は2部、服部さんへ送付して下さい。応募方法の詳細は『古田史学会報』参照)。
 また、『古代に真実を求めて』19集のメインテーマには「九州年号」を予定しています。詳細は後日発表いたします。
 なお、『古代に真実を求めて』17集(定価2800円+税)は、「古田史学の会」2013年度賛助会員(年会費5000円)に明石書店から発送が開始されます。2014年度賛助会員には来春発行予定の18集を進呈します。一般会員(年会費3000円)や非会員の方は書店にてお求めいただければ幸いです。


第772話 2014/08/24

「大文字焼き」は誤用か

 「洛中洛外日記」767話で、わたしは「大文字焼きがある如意ヶ岳が見え、送り火の日は大勢の見物客で夜遅くまでごった返します」と書いたのですが、熱心な読者のSさんから次のようなご注意をいただきました。それは、「五山の送り火」が正式名称で、生粋の京都人は「大文字焼き」とは言わない。外部の人が「大文字焼き」と言うことに対して、京都人は内心快く思っていない。という趣旨のご指摘でした。
 わたしの「洛中洛外日記」を読んでいただき、こうしたご意見をいただけることは大変ありがたいことと思っています。その上で、わたしはSさんに謝辞とともに次のような趣旨の返答メールを出しました。

(1)「大文字焼き」の正式名称が「五山の送り火」「大文字の送り火」とされているのはその通り。
(2)Sさんが言われるような見解は京都のガイドブックや「京都」関連本によく見かける内容である。
(3)わたしは4~6歳(昭和35年頃)ころ、京都市聖護院で暮らしており、そのころ「大文字焼き」を見た記憶がある。そのころから周囲の大人は「大文字焼き」と言っていたので、わたしも「大文字焼き」というようになった。
(4)生粋の京都人(下鴨神社付近で暮らしていた)である妻も「大文字焼き」と普通に言っている。

 このようなご返事を出したのですが、もしかするとわたしの記憶違いかもしれないと心配になり、聞き取り調査をすることにしました。そして今日までに次のような証言を得ました。

証言1(妻の親戚、70歳代、生粋の京都人)自分や周囲の人は「送り火」と言っている。「大文字焼き」とは言わない。
証言2(妻の知人、60歳くらい、生粋の京都人)自分が子供の頃、父親から「大文字焼きは誤りで、正しくは送り火である」と厳しく教えられてきた。
証言3(妻の母、80歳代、生粋の京都人)自分は「大文字焼き」とは言わない。
証言4(水野孝夫代表、70歳代、京都市下鴨生まれで京都大学卒)京都時代に何と言っていたか記憶はないが、「大文字焼き」という言い方に違和感はない。
証言5(西村秀己さん、60歳代、香川県出身)40年ほど昔、大阪で働いていた頃、京都によく行ったが京都人の友人は「大文字焼き」と普通に言っていた。
証言6(正木裕さん、60歳代、徳島県出身、京都大学卒)京大在学中、京都の友人は「大文字焼き」と言っていた。
証言7(服部静尚さん、60歳代、大阪府出身)自分が子供の頃から京都の人が「大文字焼き」と言っていた。「大文字焼き」という表現は縁起が悪いというような話を以前誰かから聞いた記憶がある。

 とりあえず、このような証言を得ることができました。これらの証言から次のようなことが推定できます。

1,京都には「大文字焼き」と言う人が少なくとも50年以上前からいた。
2.「大文字焼き」は間違いであり、「送り火」が正しいと主張する人も、少なくとも50年前からいた。
3.その結果、現代の京都には「大文字焼き」と普通に言う人、「送り火」という人、さらには「大文字焼き」は誤りであると主張する人が混在している。ただし、その割合は今のところ不明。
4,「大文字焼き」は誤りであると主張する人の意見が「正論」として各種機関・書籍に採用されている。

 なぜ現在のような状況が発生したのか、いつ頃から「大文字焼き」と言う京都人がいたのかが、今後の調査のポイントとなりそうです。
 どうしてこのようなことをわたしが気にするのかというと、『三国志』原文には「邪馬壹国」とあるにもかかわらず、「邪馬壹国」は誤りで「邪馬臺国」が正 しいとする意見が学界やマスコミで全面的に採用され、今では原文が「邪馬壹国」であることさえもほとんどの国民が知らないという状況です。このように、古田学派の研究者として、「権威」や「辞典」「マスコミ」「国家権力」が「正しい」としているからという理由だけで、それを鵜呑みにすることがわたしにはできないからなのです。
 この件、引き続き調査検討します。こうした機会を与えていただいたSさんに、改めて感謝いたします。


第771話 2014/08/23

納音の古形「石原家文書」

本日の関西例会には遠く埼玉県さいたま市から見えられた会員もおられました。懇親会までお付き合いいただきました。ありがたいことです。
前回に続いて、出野さんからは『説文解字』を中心とした白川漢字学の講義がありました。荻野さんは二度目の発表で、宮城県蔵王山頂にある刈田嶺(かったみね)神社の縁起などに「白鳳八年」「朱鳥四年」という九州年号が記されていることが報告されました。わたしも知らなかった九州年号使用例でした。
今回の発表で最も驚いたのが、服部さんによる熊本県玉名郡和水町で発見された納音(なっちん)付き九州年号史料(石原家文書)についての分析でした。現在流布している納音よりも、和水町の石原家文書に記された納音が古形を示しているというもので、論証も成立しており、とても感心しました。服部さんには論文として発表するよう要請しました。
8月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
1). 『古事記』は本当に抹殺されたのか(高松市・西村秀己)
2). 石原家文書の納音は古い形(八尾市・服部静尚)
3). 真庭市大谷1号墳・赤磐市熊山遺跡の紹介(京都市・古賀達也)
4). 香川県の「地神塔」調査報告(高松市・西村秀己)
5). 『説文解字』(奈良市・出野正)
6). 「ニギハヤヒ」を追う・番外編(東大阪市・萩野秀公)
7). 俾弥呼への贈り物(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(10/04松本深志高校で講演、11/08八王子大学セミナー)・『古代に真実を求めて』17集発刊・坂本太郎『史書を読む』を読む・角田文衛『考古学京都学派』を読む・梅原末治博士との記憶・河上麻由子『古代アジア世界の対外交渉と仏教』・その他


第770話 2014/08/21

『古代に真実を求めて』17集が発刊

 昨日、明石書店から出来上がったばかりの『古代に真実を求めて』17集(2800円+税)が一足早く送られて来ました。古田先生の米寿記念特集号にふさわしく、表紙には古田先生の写真と「真実の歴史を語れ」というタイトルとともに次の先生の言葉が掲載されています。

 「あのユダヤ民族が全世界に四散させられた悲運の中から、数多くの人類の天才、アインシュタインたちを生み出したように、ヒロシマやナガサキ、そしてフクシマの逆境の中で、この日本列島から人類の究極の誇りとしての真実、あらゆるイデオロギーに組みせず、真実のために真実を求める人々が生まれ出ることをわたしは片時も疑ったことはない。」

 この本を手に取った全ての古田学派研究者や古田ファンの皆さんとともに、この先生の言葉を魂に刻み込んで、これからも生きていきたいと思います。
 同書には古田先生の米寿のお祝いの言葉や、先生の講演録、優れた古田学派学究の論文が収録されています。ぜひ多くの皆さんに読んでいただきたいと願っています。なお、17集は2013年度賛助会員(会費5000円)に1冊送付します。2014年度賛助会員には来春発行予定の18集を進呈します。目次は次 の通りです。

『古代に真実を求めて』第17集 目次

〔巻頭言〕会員論集・第十七集発刊に当たって 古田史学の会 代表 水野孝夫

○ I 米寿によせて
米寿に臨んで — 歴史と学問の方法 古田武彦
論理の導くところに「筑紫時代」あり 新東方史学会 会長 荻上紘一
謹賀古田先生米寿 多元的古代研究会 会長 安藤哲朗
古田先生の米寿にあたり 古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会) 会長 藤沢 徹
青春の「古田屋先生」 古田史学の会・まつもと 北村明也
米寿のお祝い 古田史学の会・北海道 代表 今井俊圀
古田武彦先生の米寿の記念に添えて 古田史学の会・仙台 原 廣通
古田先生の米寿を心からお祝い申し上げます 古田史学の会・東海 会長 竹内 強
古田武彦先生が米寿をお迎えになられたことを衷心よりお祝い申し上げます 古田史学の会・四国 名誉会長 竹田 覚
古田武彦先生の米寿を祝う 古田史学の会・四国 会長 阿部誠一

○II 特別掲載
〔講演録〕古田史学の会・新年賀詞交換会(2013年1月12日 大阪府立大学i-siteなんば)
「邪馬壹国」の本質と史料批判 古田武彦
〔講演録〕古田史学の会・新年賀詞交換会(2014年1月11日 大阪府立大学i-siteなんば)
歴史の中の再認識 — 論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいずこに至ろうとも 古田武彦

○III 研究論文
聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男
邪馬壹国の所在と魏使の行程 — 『魏志倭人伝』の里程・里数は正しかった 川西市 正木裕
奴国はどこに 中村通敏
須恵器編年と前期難波宮 — 白石太一郎氏の提起を考える 八尾市 服部静尚
天武天皇の謎 — 斉明天皇と天武天皇は果たして親子か 松山市 合田洋一
歴史概念としての「東夷」について 張莉・出野正
『赤渕神社縁起』の史料批判 京都市 古賀達也
白雉改元の宮殿 — 「賀正礼」の史料批判 古賀達也
「廣瀬」「龍田」記事について — 「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において 札幌市 阿部周一

○IV 付録 会則/原稿募集要項/他
古田史学の会・会則
「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
第18集投稿募集要項
古田史学の会 会員募集
編集後記(古谷弘美)