第1955話 2019/08/02

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(5)

 飛鳥池出土「天皇」木簡と長谷寺「千仏多宝塔銅板」銘という史料事実に基づき、論理展開(論証)を進めましたが、この論理構造(九州王朝説と齟齬をきたさない、平明で合理的な同時代金石文等の解釈)はここでとどまることを許しません。その論理の延長線上にある他の金石文の史料批判へと進まざるを得ないのです。そこで、続いて紹介するのが大阪府南河内郡太子町出土の「釆女氏榮域碑」です。

○「釆女氏榮域碑」 ※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年(689年)十二月二十五日。

 「釆女氏榮域碑」については「洛中洛外日記」1731話(2018/08/26)〝「采女氏塋域碑」拓本の混乱〟などで紹介してきましたが、碑文にあるようにその造営年は己丑年(689年、持統三年)です。先に紹介した長谷寺の「千仏多宝塔銅板」(686年 朱鳥元年丙戌か698年 文武二年戊戌)と同時代の成立です。従って、「千仏多宝塔銅板」の「飛鳥浄御原大宮」と「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝廷」は同じ時代の同じ飛鳥の権力者を意味していると考えざるを得ません。すなわち、大和飛鳥の天武・持統の宮殿・朝廷のこととなります。
 ちょうどこの時期、天武らは列島最大級の巨大条坊都市藤原宮・京を造営し、遷都(694年12月)します。藤原宮下層条坊道路跡から出土した干支木簡「壬午年(682)」「癸未年(683)」「甲申年(684)」などにより、天武の晩年に藤原宮と条坊都市の造営が行われていることがわかっています。686年(朱鳥元年)に前期難波宮が焼失しますから、その官僚たちは完成途上の藤原京に転居し、694年(持統八年)の遷都を迎えたものと思われます。まさにそうした時期に「采女氏塋域碑」と「千仏多宝塔銅板」は造られたのです。(つづく)

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