第2911話 2023/01/08

九州王朝の末裔、「筑紫氏」「武藤氏」説

九州王朝研究のテーマの一つとして、その末裔の探索を続けてきました。その成果として高良玉垂命・大善寺玉垂命が筑後遷宮時の九州王朝(倭国)の王とする研究(注①)を発表し、その末裔として稲員家・松延家・鏡山氏・隈氏など現代にまで続く御子孫と遭遇することができました。他方、七世紀になって筑後から太宰府に遷都した倭王家(多利思北孤ら)の末裔については調査が進んでいませんでした。
古田説によれば、筑紫君薩野馬などの「筑紫君」が倭王とされていますので、古今の「筑紫」姓について調査してきました。調査途中のテーマですが、筑紫君の末裔について記した江戸期(幕末頃)の史料『楽郊紀聞』を紹介します。同書は対馬藩士、中川延良(1795~1862年)により著されたもので、対馬に留まらず各地の伝聞をその情報提供者名と共に記しており、史料価値が高いものです。そこに、「梶田土佐」(未詳)からの伝聞情報として、筑紫君の後裔について次の記事が見えます。

「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞こえたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子共をつれて黒田長政殿にも嫁ぎし由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上(梶田土佐話)。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁。(注②)

ここに紹介された筑紫上野介は戦国武将として著名な筑紫広門のことです。この筑紫氏が「往古筑紫ノ君の末」であり、その子孫が筑前黒田藩に仕え、「只今二軒ある」としています。この記事に続いて、校注者鈴木棠三氏による次の解説があります。

「*筑紫広門。椎門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。両度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁

この解説によれば、「中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した」とあることから、現在、九州地方での「武藤」さんの分布が佐賀市や柳川市にあり(注③)、この人達も九州王朝王族の末裔の可能性があるのではないかと推定しています。これまで九州王朝の末裔調査として「筑紫」さんを探してきましたが、これからは「武藤」さんの家系についても調査したいと思います。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②『楽郊紀聞』中川延良(1795~1862年)、鈴木棠三校注、平凡社、1977年。
③「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
〔武藤〕姓 人口 約86,800人 順位 245位
【都道府県順位】
1 東京都 (約8,800人)
2 岐阜県 (約6,900人)
3 埼玉県 (約6,500人)
4 神奈川県 (約6,400人)
5 愛知県 (約6,200人)
6 福島県 (約6,000人)
7 茨城県 (約4,700人)
8 千葉県 (約4,700人)
9 北海道 (約3,700人)
10 秋田県 (約3,600人)

【市区町村順位】
1 岐阜県 岐阜市 (約2,100人)
2 福島県 二本松市 (約1,200人)
3 岐阜県 関市 (約800人)
3 秋田県 秋田市 (約800人)
5 岐阜県 郡上市 (約800人)
5 山梨県 富士吉田市 (約800人)
5 茨城県 常陸太田市 (約800人)
8 秋田県 大仙市 (約800人)
9 群馬県 高崎市 (約800人)
10 佐賀県 佐賀市 (約700人)

【小地域順位】
1 山梨県 富士吉田市 小明見 (約300人)
2 群馬県 太田市 龍舞町 (約300人)
3 山梨県 富士吉田市 下吉田 (約300人)
4 茨城県 常陸太田市 春友町 (約300人)
5 福岡県 柳川市 明野 (約200人)
6 千葉県 印西市 和泉 (約200人)
7 群馬県 北群馬郡吉岡町 下野田 (約200人)
8 神奈川県 逗子市 桜山 (約200人)
8 岐阜県 郡上市 相生 (約200人)
8 茨城県 那珂市 本米崎 (約200人)

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