第2456話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(2)

 草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)によると、大宰府政庁正殿跡出土炭化物の炭素同位体比(14C)年代測定値が発表されていることが、次のように紹介されていました。

 また、大水城のみならず「大宰府政庁正殿における放射性炭素年代測定も、「暦年代(西暦)AD四三五~六一〇」という測定値も、報告されています。(『大宰府政庁跡』、三五三頁、九州歴史資料館、二〇〇二年、吉川弘文館」)。
 『「倭国」の都城・首都は太宰府』161~162頁 ※文中の「」はママ。

 草野さんが紹介された『大宰府政庁跡』(注②)に掲載された炭化物(№1~3)の測定値を示し、その出土状況についての解説を転載します。

【大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定結果】(『大宰府政庁跡』353頁より略載)
 試料名 暦年代              中央値(古賀による)
 №1 1σ:AD435~610     525
 №2 1σ:AD645~815, AD850~850(ママ) 730, 850
 №3 1σ:AD1180~1290     1235

「3. 大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定について

 大宰府政庁の変遷を考える上での重要な画期として、”藤原純友の焼き討ち”の史実がある。『扶桑略記』(ママ)よれば、天慶3年(940)、藤原純友の焼き討ちにより大宰府政庁は炎上した。
 その後、大宰府政庁が再建されたか否かの議論は、昭和43年(1968)より始まった大宰府史跡の発掘調査で明らかにされた。大宰府政庁における3期の建物変遷の中で、Ⅱ期からⅢ期への建替えは、多量の焼土層を挟んで行われていたことから、この焼土層こそが藤原純友の兵火によるものと理解されたのである。
 今回の正殿跡の調査(第180次)でも、この藤原純友の兵火によると考えられる焼土や炭化物が多量に出土した。そこで焼土層より検出した炭化物について放射性炭素年代測定を行い、科学的な年代判定を試みることにした。

分析試料の採取状況

 採取試料は、正殿跡基壇東北隅付近から焼土とともに検出された炭化物を対象とした。

 試料№1は、焼け落ちたⅡ期の瓦を廃棄した土壙SK108から採取した。採取にあたっては、堆積層の上層部を除去し、確実に焼土層に含まれていることを確認した後、瓦の内側に貼り付いた炭化物を採取した。ただ、採取の際に注意されたのは、土壙の埋土下位までかなり水分が存在していたことであった。

 試料№2は、基壇隅部地覆石前面のⅢ期整地層下位のⅡ期雨落ちと考えられる溝状遺構中の炭化物を採取した。整地層を除去し、確実に溝内に封入されたものを取り上げた。

 試料№3は、基壇後面の階段東側を対象とした。試料№2と同じく、Ⅲ期整地層中に封入されたものを採取した。この地点は、試料№2より整地層は厚く、残りの良いⅢ期整地層下位の試料であるため、まず汚染されることは考えられない試料である。」『大宰府政庁跡』354頁

 この第180次調査は、大宰府政庁が天慶の乱(940年)での焼失後に再建されたことを確認した貴重な調査でした。しかも、正殿付近の焼土層から採取した炭化物の放射性炭素年代測定もなされ、各遺構の年代を考察するデータの一つとなりました。
 最も古い値を示した試料№1の炭化物の中央値は525年ですが、政庁Ⅱ期の瓦の内側に付着した炭化物ですから、恐らく重い屋根瓦を支えていた梁か柱の燃焼物(煤か)ではないでしょうか。その場合、太い木材が使用されたはずですから、それだけ年輪の数も多く、木材の内側と外側では恐らく百年以上の差があるでしょうから、測定中央値(525年)から政庁Ⅱ期の創建年を判断するのはあまり適切ではありません。しかしながら、その年代よりも政庁Ⅱ期の創建は古くはなりませんから、こうした調査は無駄ではありません。
 以上のように、草野さんが紹介された測定値は、残念ながら太宰府政庁Ⅰ期やⅡ期の創建年の根拠としては使いにくいデータであることがわかりました。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。

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