第2571話 2021/09/17

『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(1)

 『東日流外三郡誌』を歴史史料として使用するにあたり、学問的手続きとして、事前に進めなければならないことがありました。それは文献史学で言うところの史料批判という作業です。その史料がどの程度歴史の真実を伝えているのか、信頼性がどの程度あるのかを確かめる作業です。『古事記』『日本書紀』など、既に広く学界で認められている史料の場合は、とりたてて基礎的な史料批判の手続きを求められることはありませんが、和田家文書のように戦後になって世に出た史料の場合は、この手続きが不可欠なのです。
 なお、和田家文書の場合は、こうした学問的作業の最中に、悪意に満ちた偽作キャンペーンが始まりましたので、不幸なことであったと言わざるを得ません。学問研究には、静かで落ち着いた環境が必要だからです。もっとも、当時の偽作キャンペーンは古田先生やその学説(多元史観、九州王朝説)への中傷攻撃という側面が強かったので、その意味では偽作論者の目論見は、一応は成功したのかもしれません。
 その史料批判の第一段階として、使用された紙の調査を実施したことを先の「洛中洛外日記」〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙〟(注①)で紹介しました。結論として和田家文書の多くが明治時代末頃からの機械漉きの和紙(美濃和紙)であったことが確認できました。
 もう一つの確認作業として、編著者とされる秋田孝季(あきた・たかすえ)についての調査も並行して行いました。わたしとしては、この秋田孝季調査が、『東日流外三郡誌』の真偽論や学問的史料として使用可能かを判断する上で重要課題と考えていましたので、最初に取り組みました。秋田孝季の実在を証明するためには、和田家文書以外の史料からその存在を証明しなければなりませんので、孝季が活躍した寛政年間(1789~1800年)から文政年間(1818~1830年)頃の地誌や日記類を調べました。たとえば津軽を旅行した文人、菅江真澄(すがえ・ますみ)は著名でしたので、『菅江真澄全集』は丹念に読み込みました。そして、菅江真澄の津軽での足跡について、偽作説への反証論文(注②)も書きました。
 ところが、秋田孝季と『東日流外三郡誌』のことを記した「寛政元年酉八月」(1789年)の年次を持つ「宝剣額」が市浦村に存在していることを偶然に知りました。そのきっかけは次のようなことでした。

〝昨年(1993年)八月発行の歴史読本特別増刊号『「古史古伝」論争』に掲載された藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」中に、秋田孝季が山王日吉神社に奉納したとされる額の写真がある。印刷が不鮮明なため正確には読み取れなかったが、「寛政元年八月」「土崎」「秋田」という字が読み取れた。
 この額が現存していれば和田家文書真作説の有力な証拠となるはずである。さっそく、藤本氏に問い合わせてみたが、現在どこにあるか不明とのこと。そこで、今回(1994年5月)の調査目的の一つにこの奉納額の探索を加えたのだが、事態は二転三転、スリリングな展開を見せた。〟(注③)

 この「寛政宝剣額」の調査旅行を皮切りに、5年間に及んだ、わたしたちの津軽行脚がスタートしました。古田先生67歳。わたしは38歳のまだ若かりし日のことでした。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2569~2570話(2021/09/169〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙(1)~(2)〟
②古賀達也「『山王日吉神社』考(3) 菅江真澄は日吉神社に行っていない」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
③古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html

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