第2607話 2021/11/02

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(3)

 『日本書紀』大化二年正月条(646年)の大化改新詔には、畿内の四至を次のように記しています。

 「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、〔兄、此をば制と云ふ〕、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。」『日本書紀』大化二年条(646年)

 各四至は次のように考えられています。。

(東)名墾の横河 「伊賀名張郡の名張川。」
(南)紀伊の兄山 「紀伊国紀川中流域北岸、和歌山県伊都郡かつらぎ町に背山、対岸に妹山がある。」
(西)赤石の櫛淵 「播磨国赤石郡。」
(北)近江の狭狭波の合坂山 「逢坂山。狭狭波は楽浪とも書く。今の大津市内。」

 最近、この畿内の四至をテーマとした興味深い論文を拝読しました。佐々木高弘さんの「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」(注①)です。同論文は1986年に発表されており、わたしは不勉強のため近年までその存在を知りませんでした。佐々木さんは歴史地理学という分野の研究者のようで、同論文は次の文から始まります。

〝歴史地理学の仕事の一つは、過去の地理を復原することであり、つまりは人間の過去の地理的行動を理解するということにある。〟(注②)21頁

 このような定義に始まり、続いて同論文の学問的性格を次のように紹介します。

〝本稿では、そのいわば学際的立場をとっている歴史地理学の利点を更に拡張する意図もあって、行動科学の成果の導入を試みる。〟21頁

 そして大化改新詔の畿内の四至を論じます。その中で、当時の都(難波京)から四至の南「紀伊の兄山」についての次の指摘が注目されました。その要旨を摘出します。

(1) 難波京ネットワーク(官道)から南の紀伊国へ向かう場合、孝子峠・雄ノ山峠越えが最短距離である。このコースから兄山は東に外れている。
(2) このことから考えられるのは、この時代に直接南下するルートが開発されていなかったか、この記事が大化二年(646年)のものではなかったということになる。
(3) 少なくとも、難波京を中心とした領域認知ではなかった。
(4) 従って、この「畿内の四至」認識は飛鳥・藤原京時代のものである。
(5) 飛鳥・藤原京ネットワークは大化改新を挟んで前後二回あり、大化前代の飛鳥地方を中心(都)とした領域認知の可能性が大きい。

 以上が佐々木論文の概要と結論です。確かに兄山は飛鳥から紀伊国に向かう途中に位置し、もし難波からですと大きく飛鳥へ迂回してから紀伊国に向かうことになり、難波京の「畿内の四至」を示す場合は適切な位置にはありません。
 佐々木論文は通説(近畿天皇家一元史観)に基づいたものですから、その全てに納得はできませんが、都の位置により四至の位置は異なるという次の視点には、なるほどそのような見解もあるのかと勉強になりました。

〝日本の古代国家においては、都城の変遷が激しく、そのたびにこのネットワークが変化し、そして領域の表示も変化したのではないかと思われる。〟24頁

 この他にも佐々木論文には重要な指摘がありました。(つづく)

(注)
①佐々木高弘「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」『待兼山論叢』日本学篇20、1986年。同論文はWEB上で閲覧できる。
②この視点はフィロロギーに属するものであり、興味深い。

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