第2134話 2020/04/13

「大宝二年籍」断簡の史料批判(10)

 わたしが古代戸籍研究に入った目的は、二倍年暦の痕跡調査のためでした。古田先生が『三国志』倭人伝に見える倭人の長寿記事(その人の寿考、或いは百年、或いは八・九十年)に着目され、弥生時代における倭国の二倍年暦(一年に二歳年をとる)の存在という仮説を提起され、その後、『古事記』『日本書紀』の天皇の長寿年齢も二倍年暦によるものが見られるとされました。その研究を受けて、日本列島でいつ頃まで二倍年暦が採用されていたのかを調査していて、古代戸籍にわたしは注目したのです。
 一応の目安としては、九州年号「継体」が建元(517年)された六世紀初頭には一倍年暦の暦法が採用されていたと考えられますが、他方、人の寿命についてはそれまでの二倍年暦に基づいた謂わば「二倍年齢」による年齢計算がなされていた可能性についても留意が必要でした。その場合、一倍年暦による暦法と「二倍年齢」による年齢表記が史料中に併存するはずと考えていました。その一例として、継体天皇の寿命が『古事記』では43歳、『日本書紀』では82歳と記されており、両書の差が「二倍年齢」によるものと考えられます。このことから、六世紀前半には「二倍年齢」の採用が継続されていたと思われます。
 そこで、次にわたしは六世紀後半から七世紀にかけての「二倍年齢」採用の痕跡を探るために、「大宝二年籍」断簡の年齢表記の精査を行いました。(つづく)

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