第1820話 2019/01/10

臼杵石仏の「九州年号」の検証(3)

 『臼杵小鑑』で紹介された「正和四年卯月五日」が同時代九州年号金石文であることを証明するために、わたしは同石仏が現存するか史料やインターネットで調査しました。江戸時代の九州地方の地史である『太宰管内志』には同石仏の記事は見えなかったのですが、ネット上に次のサイトがありました。

「石仏と石塔」
http://www.geocities.jp/kawai24jp/ooita-usuki-mangetuji.htm
(現在は、このホームページはありません。)

 「満月寺(まんげつじ)(大分県臼杵市深田963)
 満月寺五重石塔(市指定文化財、鎌倉時代後期 正和四年 1315年、凝灰岩、塔身までの高さ90cm)」

 臼杵市の満月寺に現存する「五重石塔(五輪塔)」下部に次の刻銘(縦書き)があると紹介され、掲載された写真もそのように読めました。

【五重石塔刻銘】
「正和四年乙卯夘月五日願主阿闍梨隆尊敬白」
「滅罪証覚利益衆生所奉造立供養如件」
「右為先師聖霊尊全及隆尊之先考先妣」
「合力作者 阿闍梨圓秀」

 同刻銘を紹介した他のサイトには「阿闍梨圓秀」の「圓」を「日」とする見解もあります。上記サイト内にも「日秀」とする下記の解説もあり、混乱しているようです。写真を見ると「圓」のように読めますが、「日」の可能性もありますので、現地で実物を確認したいと考えています。ただし、どちらであっても本稿の論旨には影響しません。同サイトでは更に次の説明がなされています。

 「塔の銘文から(阿)闍梨隆尊が先師尊全及び自分の亡き父母ために造立した。作者は日秀という阿闍梨。
 相輪は、宝珠に火焔が付くなど国東式相輪で、昭和46〜47年の発掘調査の際、新たに取り付けられた。
 満月寺境内には明治初年まで二基の石造層塔があった。一基は、洪水により河岸が崩壊した時、石塔を壊して河岸の修理をした。昭和の発掘調査の時、その残欠を使用し、現在の石造五重塔を修理した。」 ※(阿)の字は古賀が付記した。

 『臼杵小鑑』には「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」と記されており、刻銘があるのは五重石塔ではなく「十三佛の石像」とされています。しかし、「正和四年卯月五日」とあり、これは五重石塔と類似した表記です。鶴峯は石塔と石像を間違えて『臼杵小鑑』を記したのでしょうか。
 現存する五重石塔の刻銘には「正和四年乙卯夘月五日」と年干支の「乙卯」があり、これは九州年号ではなく鎌倉時代の「正和四年(一三一五)」の年干支と一致します。ちなみに九州年号の「正和四年(五二九)」の年干支は「己酉」です。したがって、『臼杵小鑑』に紹介された「正和四年卯月五日」は九州年号ではなく、鎌倉時代の「正和」であり、鶴峯はそれを九州年号と勘違いしたと思われ、『臼杵小鑑』の「正和四年」を九州年号史料とすることをわたしは一旦は断念しました。(つづく)

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