第2093話 2020/02/28

三十年ぶりの鬼室神社訪問(4)

 瀬川欣一さんの「鬼室集斯をめぐる謎」(『東桜谷志』日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)には、坂本林平『平安記録楓亭雑話』の記事の他にも、偽造の根拠として司馬江漢の『江漢西遊日記』も掲げられています。

〝江戸時代の洋風画家司馬江漢が、天明八年(一七八八)に江戸から長崎へ旅する途中、日野に立ち寄り、八月十二日にこの八角石を見に来ている。司馬江漢がこの旅のことを詳しく書き留めた『江漢西遊日記』という旅日記が後年刊行され、この石のことが次のように記されている。
 「夫れより田婦案内にて人魚塚を見んと行く事四五丁、路の傍に四角なる塚を指し示す。吾が聞く八角なりと云ふに、又一人の老婦来りて、此処より西の方不動堂の前に有りと教ふる。行き見るに小さき草葺きの堂あり。ガマの大樹ありて其傍ら八角の塚あり。是れ人魚塚なり。前に僅の流れあり蒲生河是れなり。人魚塚は八角にして文字見えず。高さ一尺一二寸、下の台石横一尺三寸位、また四角の塚は救世菩薩の塚といふ。」
 以上の記述が『江漢西遊日記』の本文部分であり、その時の江漢のスケッチ(別掲の図参照)にも八角石の解説として「文字ナシ」と記している。画家であり進歩的な科学者でもあった司馬江漢が、天明八年のこの時にかすかでも文字の形跡が、この珍しい八角石に彫られてあったとすれば「人魚塚は八角にして文字見えず」と日記に書くはずがなく、その文字を見落とすとは到底考えられない。
 この天明八年(一七八八)より十八年後の文化三年(一八〇六)に、西生懐忠が同輩の谷田輔長とともに、この八角石が鬼室集斯の墓であると発表するのである。しかも、この石を小野から仁正寺藩庁へ持ち運び、調査したら「鬼室集斯之墓」その他の文字が陰刻されていたとしている。現在でもそれらしく読める文字が、司馬江漢にも坂本林平にもなぜ読めなかったのか。それは仁正寺藩へ持ち帰った間に、何らかの工作がされたと考えてしかるべきではないだろうか。〟

 このように、司馬江漢と坂本林平の「証言」を根拠に、鬼室集斯墓碑は「発見者」の西生懐忠や谷田輔長による偽刻とする説が成立し、江戸時代偽造説が有力説として受け入れられました。(つづく)

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