第346話 2011/11/06

九州年号の史料批判(1)

 『「九州年号」の研究』の編集をしていて、水野さん(古田史学の会代表)より、何故二中歴が九州年号群史料として優れているのかを説明した論文は未発表ではないかとの指摘がありました。確かに、古田先生やわたしが講演や研究発表などで口頭で説明したことは度々あったと思いますが、文章として詳しく解説していないかもしれません。『「九州年号」の研究』発刊に先立ち、良い機会ですので、九州年号に絞って文献史学における史料の優劣の判断、すなわち史料批判の考え方について説明したいと思います。
 文献史学は必ず文字史料という史料根拠に基づいて仮説を立てたり、論をなしたりしますが、その際、必要不可欠な作業があります。それは根拠として文字史料が歴史の真実を正しく伝えたものなのか、あるいはどの程度真実を反映しているのかという、史料の優劣を判断する作業、すなわち史料批判が必要となります。
 自然科学でいえば、文字史料が実験(観察)データであり、史料批判が実験(観察)方法の説明にあたります。自然科学の論文ではこのデータと実験方法の提示が不可欠であるように、文献史学では史料根拠の提示とその史料の確かさの説明や証明が要求されるのです。
 そのとき、自説に有利な史料のみを重視し、自説に不利な史料を無視軽視することは、学問上許されません。自然科学では自説に不利なデータを無視したり改竄したりすれば、研究者生命を失います。歴史研究においても、依拠史料の取扱いや他史料との優劣比較が不可欠であることは同様なのですが、安易に史料を改竄する手口が、プロの学者でも説明抜きで平然と行われていることは、皆さんもよくご存じのことと思います。例えば、魏志倭人伝の邪馬壹国が邪馬台国と原文改訂されていることなどです。
 世界の知性や理性との競争原理が働いている自然科学の分野では、こうしたデータの改竄など考えられませんし、もしそれが発覚したらその人の研究者生命は終わりです。ところが日本の古代史学界(日本古代史村)では、誰一人大学を首になることもなく、今も古田先生を除くほぼ全員が原文改訂(データの改竄・無視)を続けていることは、日本古代史村が世界の知性や理性から隔絶保護されていることが、その理由の一つのように思われます。大変嘆かわしいことです。 (つづく)

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