第1936話 2019/07/11

「難波複都」関連年表の作成(5)

 次もⅡ期の難波京造営時に関わる記事です。九州王朝が難波複都造営のために各地から「番匠」を招集したと考えられる『伊予三島縁起』の次の記事です。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が発見されたものです。

 「三七代孝徳天王位。番匠初。常色二(六四八)戊申日本国御巡禮給。当国下向之時。玉輿船御乗在之。同海上住吉御対面在之。同越智姓給之。」(『修験道資料集Ⅱ』昭和59年)

この記事について正木さんは論文で次のように解説されています。

 〝「番匠」は「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工寮で労務に服した木工(『広辞苑』)」の意味だ。従って『縁起』は、孝徳時代、宮殿等の造営に携わる「番匠」制度が始まり、常色二年(六四八・大化四年)に「天子」が日本巡礼(巡行)途上、伊予に立ち寄った記事になる。(中略)
 そして「戊申日本国御巡禮給」とある、その「戊申」年木簡が難波宮整地層から発掘されているのだ。〟
正木裕「前期難波宮の築造準備について」『古田史学会報』124号(2014年10月10日)

 この九州年号「常色二年」を伴った「番匠の初め」記事は、『日本書紀』には見えないことから、九州王朝系史料に基づいたものと思われます。この記事も前期難波宮九州王朝複都説に対応したもので、正木さんは5年前に発表されていますが、反対論者からの応答はありません。(つづく)

フォローする