第1398話 2017/05/14

前期難波宮副都説反対論者への問い(3)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 「前期難波宮九州王朝副都説」に反対し、前期難波宮造営を天武期とする意見があるのですが、それでは『日本書紀』天武紀には難波宮(前期難波宮)についてどのような記事があるのかを見てみましょう。難波宮に関係する記事は次の通りです。

①8年11月是月条(679)
 初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍(よ)りて難波に羅城を築く。
②11年9月条(682)
 勅したまはく、「今より以後、跪(ひざまづく)禮・匍匐禮、並に止めよ。更に難波朝庭の立禮を用いよ」とのたまふ。
③12年12月条(683)
 又詔して曰はく、「凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」とのたまう。
④朱鳥元年正月条(686)
 乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。

 この他に地名としての「難波」が見えるだけで、天武紀には「難波宮」関連記事はそれほど多くはありません。「壬申の乱」平定以後の天武の記事のほとんどが飛鳥が舞台だからです。しかし、これらの記事からわかるように、天武紀は難波宮や難波朝廷が既に存在していることを前提にしています。天武が前期難波宮を造営させたというような記事は皆無です。
 たとえば①の難波に羅城を造営させたという記事は、羅城で守るべき都市の存在が前提です。②の「難波朝廷の立禮」という表現も、自らとは異なる禮法を用いている王朝が難波に先在していたことを意味しています。③の記事は「副都詔」と呼ばれている有名な記事で、この記事を根拠に天武が前期難波宮を造営したとする見解がありますが、二年後の朱鳥元年に前期難波宮は消失しており(④の記事)、そのような短期間での造営は不可能という批判が考古学者からはなされています。しかも前期難波宮からは長期間の存続を示す「修築」の痕跡も出土していることから、孝徳紀にあるように「白雉三年(652)」の造営とする見解が有力です。
 今回、この「洛中洛外日記」を執筆するにあたり、この「副都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。こうした発見ができるのも、学問論争の成果といえます。(つづく)

フォローする