第1557話 2017/12/23

古田先生との論争的対話「都城論」(9)

 前期難波宮に関する一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」とわたしの九州王朝副都説の論理構造について解説しましたので、最後に古田先生が提唱された「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」説の論理構造について説明します。
 『日本書紀』には九州王朝(倭国)の事績が盗用(転用)されていることは、『盗まれた神話』などで古田先生が明らかにされてきたところですが、晩年、先生は更にそれを敷衍して、近畿から出土した金石文・木簡や『日本書紀』の記述中に北部九州の類似地名があれば、それは北部九州を舞台にした地名や事績の盗用とする方法論を多用されました。本件の「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」もその論理構造に基づかれたものです。
 通説では前期難波宮を難波長柄豊碕宮と理解するのですが、「長柄」や「豊碕」地名は、前期難波宮がある大阪市中央区の法円坂ではなく、北区にあることから、前期難波宮は孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮ではないとされました。この点はわたしも同意見で、そうであれば難波長柄豊碕宮は北区の「長柄」「豊崎」にあったのではないかとわたしは考えたのですが、古田先生は博多湾岸にも「名柄」「難波(なんば)」「豊浜」という類似地名があることから、大阪市北区ではなく博多湾岸説に立たれたのです。そして、その理解の延長線上に博多湾岸に「難波朝廷」もあり、その地の宮殿で「天下立評」したとまで仮説を展開されました。
 この論理構造は、大阪市と博多湾岸の両者に類似地名がある場合は、必要にして十分な論証や考古学的実証(7世紀中頃の宮殿遺構の出土)を経ることなく、九州王朝の中枢領域にあったとする理解を優先させるということが特徴的です。この方法を古田先生は晩年に多用されたため、その方法論上の有効性と適用範囲について、わたしと先生との間で様々な論議や論争が行われましたが、このことは別に詳述したいと思います。
 極論すれば、古田先生は近畿出土の金石文や『日本書紀』に見える「地名」を北部九州へと収斂させる方向で七世紀の九州王朝史復元を試みられました。他方、わたしは前期難波宮副都説や九州王朝近江遷都説のように、九州王朝の直轄支配領域を近畿へと拡大させることで七世紀の九州王朝史復元を試みました。すなわち、両者の仮説のベクトルが真反対だったのです。
 ですから、前期難波宮副都説を発表するとき、わたしはこの古田先生とのベクトルの「衝突」を明確に意識し、意見の対立は避け難いのではないかと懸念していました。そしてそれは現実のものとなり、先生との学問的意見対立は10年近くにも及んだのでした。この体験は「弟子」としてはかなりつらいものでしたが、2014年の八王子セミナーにて、それまで反対されてきた副都説に対して「検討しなければならない」と言っていただいたことが、わたしにとってどれだけ嬉しかったことか、ご想像いただけると思います。しかし、検討される間もなく、翌年10月に先生は亡くなられました。(了)

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