第1577話 2018/01/16

九州王朝の国県制

 古田先生の評制開始時期に関する認識について説明してきましたが、その中で7世紀前半の九州王朝の行政区画について、「評」あるいは「県」とする古田先生の見解を紹介しました。そこで、古田先生が評制以前の「国県制」についてどのように考えておられたのかも紹介したいと思います。
 『古代は輝いていた3』(1985年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」に次のように記されています。

 「九州王朝の行政単位 (中略)
 その上、重大なこと、それは五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であったこと、この一事だ。
 この点、先の『筑後国風土記』で、「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった、筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったこと、それを明確に示していたのである。」(70頁、ミネルヴァ書房復刻版)

 ここでのテーマは、行政区画名が「県」と「郡」の二種類の風土記について述べたもので、九州王朝による『風土記』が「県」風土記であり、その成立時期について考察されたものです。その中で、「五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であった」とされています。すなわち、7世紀中頃の評制開始の前の行政区画が「国県制」であったとされているのです。
 なお、ここでは古田先生は行政区画名の「県」を「行政単位」とされています。また、「県」は普通は「あがた」と訓まれていますが、古田先生はなんと訓むかは不明と、用心深く述べられています。(つづく)

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