第1965話 2019/08/16

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(2)

 古田先生の小郡「飛鳥宮」の根拠は、小郡市井上地区の小字地名「飛島(とびしま)」が明治期の地名表に「飛鳥(ヒチョウ)」とされていることと、朝倉の麻氐良布(まてろう)神社の御祭神に「明日香皇子」が見えることでした。『太宰管内志』の「筑前之二十(上座郡)」の麻氐良布神社の項に次のように「神社志」が引用されています。

 「〔神社志〕に一説に伊弉册尊相殿に伊弉諾尊・齊明天皇・天智天皇・明日香皇子(後略)」『太宰管内志』上巻、646頁

 『筑前国続風土記』「上座郡」麻氐良布山の項には「天智の御子」と付記されています。

 「(前略)一説、伊弉册尊也。相殿に伊弉諾尊・齊明天皇・天智天皇・明日香皇子〔天智の御子。〕を祭り奉ると云。(後略)」『筑前国続風土記』(文献出版)、223頁 ※〔〕内は二行細注。

 古田先生が筑紫「飛鳥」説を発表されたとき、その史料根拠についてお聞きしたことがありました。そのとき、先生は唯一の史料根拠として麻氐良布神社の御祭神「明日香皇子」をあげられました。わたしも史料調査を続けた結果、それが唯一であることに同意見でしたので、この「唯一の史料根拠」という点について、念を押して古田先生に確認したことを記憶しています。
 『日本書紀』によれば天智天皇の子供に「明日香皇女」は見えますが、「明日香皇子」はいません。従って、御祭神として伝えられているこの「明日香皇子」とは九州王朝の皇子ではないかと考えています。中でも筑紫君薩野馬のこととする見解が有力です。
 小郡市井上地区の小字「飛島」の現地調査も古田先生とご一緒しました。現在の地名が「とびしま」であり、「あすか」ではないことなどについても検討を続けましたが、古田先生は明治期の字地名表に「飛鳥(ヒチョウ)」とあることを重視し、あるとき「飛島」に変化したと考えておられました(大和の飛鳥と同名であることを憚った)。ただ、その小字「飛島」の形が元々は沼か水路のようにも思え(当地には沼が多い)、『日本書紀』や『万葉集』に記された「あすか」のような比較的大きな領域とは考えにくく、その解釈にも悩んできました。
 他方、小郡市には井上廃寺遺跡や上岩田遺跡といった大型の寺院・官衙遺跡が出土しており、それらが「飛鳥宮」だったのではないかとも考えていました。そのようなときに登場したのが、正木説でした。(つづく)

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