第2218話 2020/08/30

文武天皇「即位の宣命」の考察(3)

 文武天皇「即位の宣命」の中には、多元史観・九州王朝説の視点から注目すべき用語が用いられています。中でも九州王朝の末期に、文武が「天皇」号を称していることは、晩年の古田新説、すなわち近畿天皇家の「天皇」号使用は王朝交替した大宝元年(701年)からとする理解を否定します。

《文武天皇「即位の宣命」中の「天皇」》
①現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命
②高天原に事始めて、遠天皇祖の御世
③天皇が御子のあれ坐(ま)さむ
④現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命
⑤神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命
⑥天皇が朝庭
⑦詔りたまふ天皇が大命

 このように「天皇」号が七カ所に使用されており、その内の④「倭根子天皇命」は前代の持統のことであり、このとき近畿天皇家では文武も持統も「天皇」を称していることがわかります。また、冒頭には「集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等」とあり、天皇の子供たちは「皇子」と呼ばれていたこともうかがえます。
 この宣命中の「天皇」「皇子等」の記述と対応する様に、飛鳥池遺跡から「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」木簡が出土しており、その出土層位からこれらは七世紀後半の天武期の木簡とされています。従って、当宣命と出土木簡が対応しており、文武天皇「即位の宣命」の同時代性(697年の詔)を疑うことは困難です。(つづく)

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