第2219話 2020/08/31

文武天皇「即位の宣命」の考察(4)

 文武天皇「即位の宣命」中の「天皇」号と共に注目されるのが「朝庭」という名称です。次のように使用されています。

 「是を以ちて、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国国の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。」

 「朝庭」とは中央官僚が執務する「朝堂」の中央にある「庭」に由来する政治用語で、王権のことを意味する「朝廷」「王朝」などの語源です。ですから、文武は「朝庭」に君臨する「天皇」として、中央官僚(百官)に対して天皇への忠誠を呼びかけ、政務に当たることを「即位の宣命」で命じているのです。そして文武元年(697年)ですから、宣命を発した宮殿は藤原宮であり、その日本列島内最大規模の朝堂は文字通り「朝庭」と称するにふさわしい舞台です。ここでも宣命中の「朝庭」という政治用語と藤原宮という考古学的出土遺構とが対応しているのです。
 他方、大阪府南河内郡太子町出土「釆女氏榮域碑」(注①)碑文には、「己丑年」(689年、持統三年)の時点で「飛鳥浄原大朝庭」とあり、近畿天皇家側の采女氏が飛鳥浄原を「大朝庭」と認識していたことがわかります。近畿天皇家の藤原宮遷都は持統八年(694年)ですから、「釆女氏榮域碑」造立時(689年、持統三年)には藤原宮は未完成です。なお、飛鳥浄御原宮は大宰府政庁(Ⅱ期)よりも大規模です(注②)。(つづく)

(注)
①「釆女氏榮域碑」拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
 己丑年(六八九)十二月二十五日。

②遺構の面積は次の通り。
 藤原宮(大垣内)  面積 約84万m2(東西927m×南北906.8m)
 飛鳥浄御原(内郭) 面積 約 3万m2(東西158m-152m×南北197m)
 同(エビノコ郭)  面積 約 0.5万m2(東西92m-94m×南北55.2m)
 大宰府政庁Ⅱ期  面積 約 2.6万m2(東西119.2m×南北215.2m)

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