第2240話 2020/08/24

大友皇子(弘文天皇)を祀る神社と伝承

 『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」には、天智天皇だけではなく大友皇子(弘文天皇)やその関係者を御祭神とする神社も紹介されています。次の通りです。

【大友皇子(弘文天皇)関連神社】
○白山(はくさん)神社 千葉県君津市俵田 祭神:大友皇子・日本武尊・他
由緒:創立年月日不詳。大友皇子が逃れてきて当国に築城したが、ゆえあり屠腹、放火炎上したので、天武天皇十三年に勅使が下向し、社殿を造営、皇子を祀って田原神と称したと伝えられる。本殿に接して「小櫃山古墳」があり、地元では弘文天皇御陵と伝える。房総における弘文天皇伝説の中心的な神社であり、千葉県内に関連の神社がいくつかある。
 子守(こもり)社 (君津市 俵田字姥神) 弘文天皇の乳母を祀る
 末吉(すえよし)神社 (君津市末吉字壬申山) 蘇我赤兄を祀る
 拾弐所(じゅうにしょ)神社 (君津市戸崎) 伊賀采女宅子郎女を祀る
 福王(ふくおう)神社 (君津郡袖ケ浦町奈良輪) 弘文天皇の皇子福王を祀る
 大嶽(おおたけ)神社 (君津市長谷川) 大友皇子の随臣長谷川紀伊を祀るという
○白山(はくさん)神社 千葉県木更津市牛袋 祭神:大友皇子
○白山(しらやま)神社 千葉県市原市飯給 祭神:大友皇子
○筒森(つつもり)神社 千葉県夷隅郡大多喜町筒森字陵 祭神:大友皇子・十市皇女(大友皇子妃)
由緒:十市皇女が当地に逃れ、流産でなくなった所という。
○十二所神社 千葉県木更津市下郡 祭神:耳面刀自命(みみめとじのみこと)
由緒:当社は、大友皇子弘文帝の皇妃以下十二人の宮人を祭祀する所で、伝記によれば、弘文帝が戦(壬申の乱)に敗れて当地に潜伏していたが、西軍に襲われ、皇妃耳面刀自以下十二人は遂に自刃し果て、十二人の遺骸は土地のならわしに従って棺に納め、葬るところとなった。後世この一帯を望東郡小杞の谷、あるいは望陀郡小櫃の作(ママ)という。
○内裏(だいり)神社 千葉県旭市泉川 祭神:弘文天皇・耳面刀自命(弘文妃)
由緒:社伝に「弘文天皇の御妃耳面刀自は藤原鎌足の女、難を東国に避けて野田浦に漂着、病に罹りて薨ず。中臣英勝等従者十八人悲痛措く能はず、之を野田浦に葬る。今の内裏塚是なり」とあるが、この内裏塚は匝瑳郡野栄町内裏塚に現存する。従者たちが生活の場を求めて移動したとき、内裏塚の墳土を分祀したのが内裏神社といわれ、近くに大塚原古墳があって妃の従者の筆頭中臣英勝の墓とされている。泉川地区では神幸祭(通称「お浜下り」)が三十三年ごとに行われるが、神輿や山車に千人近くの従者が従い、大塚原古墳を経て内裏塚浜まで延々八キロを行進する。妃の霊をなぐさめるため、妃とその一行の上陸コースを逆にたどるものという。最近では昭和四六年十一月十日に行われた。
○大友天神社 愛知県岡崎市西大友字天神 祭神:弘文天皇
由緒:近江国志賀の住人長谷権之守の長男長谷木工允信次、白鳳年中、故あって三河国碧海郡に潜居、大友皇子のために一祠を創建奉崇し、その所在地を大友と称す。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町藤下字自害峰 祭神:弘文天皇
由緒:当社近くの丘陵を自害峰と称し、弘文天皇の御自害の地とも、御頸を移して奉葬した処とも伝える。壬申の乱の戦場であり、藤古川をはさんで西側の藤下、山中(次項)の住民は弘文天皇を祀り、東側の松尾は、天武天皇を祀った(井上神社)。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町山中字了願寺 祭神:弘文天皇
○鞍掛(くらかけ)神社 滋賀県大津市衣川 祭神:弘文天皇
由緒:壬申の乱に弘文天皇の軍は瀬田、粟津の一戦に利らず、衣川町本田の離宮に於て柳樹に玉鞍を掛け、悲壮の御最期を遂げられた。随従の侍臣等この地に帰農して、天皇の御神霊を奉斎し、子孫相伝えて日々奉仕して来た。第五十七代陽成天皇の勅命により元慶六年社殿の新営成り、はじめて社号を鞍掛と称し、今日に至る。
○石坐(いわい)神社 滋賀県大津市西の庄 祭神:天命開別尊(天智天皇)・弘文天皇・伊賀采女宅子媛命・他
由緒:創祀年代不詳。壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の「天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛」を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建て御霊殿山の霊祠を還すと共に相殿を造り、表面は龍神祠として、近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大竜王宮と称え、石坐神社とも称した。
 光仁天皇の宝亀四年、石坐神社に正一位勲一等を授けられ、「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜っている。ここにはじめて、近江朝の三神霊が公に石坐神社の御祭神として認められたのである。
○御霊神社 滋賀県大津市鳥居川町 祭神:弘文天皇
由緒:社地を古来「隠山」というが、壬申の乱の際、大友皇子の戦没せられた故に、かく称せられたという。乱後三年目の白鳳四年、大友皇子の第二子与多王の指図により皇子の神霊を奉斎し大友宮または御霊宮と称した。
○御霊神社 滋賀県大津市北大路 祭神:弘文天皇
由緒:元来は近江国造・治田連が祖霊を祀った所という。
○羽田(はねだ)神社 滋賀県八日市市羽田町 祭神:弘文天皇・他
○大郡(おおこうり)神社 滋賀県神崎郡五個荘町北町屋 祭神:弘文天皇・十市皇女
由緒:弘文天皇崩御の地との伝えがある。
○山宮(やまみや)神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他
由緒:和銅二年、天智天皇の寵妃倭姫の草創という。天皇薩摩行幸の際、安楽の浜より御在所岳に登り開聞岳を望まれたといい、同山上に山宮を創建、帝を祀った。大同二年周辺の御由縁の神社を集めて山口六社大明神を建てた。これが山宮神社である。

 以上のように大友皇子(弘文天皇)やその関係者が祀られているのですが、とりわけ千葉県に濃密分布していることがわかります。
 今から30年ほど昔のことですが、大友皇子の奥方が壬申の乱敗北後に関東まで逃げたという伝承が関東にあることを古田先生から教えていただいたことがあります。そのときは、そのような伝承もあるものなのかと、あまり気にとめていなかったのですが、今回、こうした分布状況を知り、そのときのことを思い起こしました。多元史観・九州王朝説の視点で、千葉県の大友皇子関連伝承を調査したくなりました。関東方面の方のご協力や情報が得られれば幸いです。

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