第2245話 2020/09/28

古典の中の「都鳥」(4)

 チドリ目ミヤコドリ科の都鳥(渡り鳥)は、古代に於いて近畿天皇家の都がおかれた地には飛来していませんし、『伊勢物語』(九段)の主人公とされる在原業平(825~880年)の時代の平安京にはユリカモメもいなかったとされています。ですから、『伊勢物語』(九段)の舞台とされる武蔵国の「隅田川」でユリカモメを「都鳥」(宮こ鳥)とする次の歌が成立することは困難です。

 「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」『伊勢物語』(九段)
 ※『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見えます。

 そこでわたしが着目したのが「隅田川」という説話の舞台です。というのも、能楽に「隅田川」という演目があり、そこにも「都鳥」が登場するからです。
 観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作とされる「隅田川」は、都の婦人が人買いにさらわれた息子を探して武蔵国の隅田川まで訪れ、そこの渡し守との応答の中で「都鳥」が登場し、在原業平の「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥」の歌を引用するというものです。その概要については、本稿末に転載したウィキペディアの解説をご参照下さい。
 この「隅田川」の時代の都は平安京ですが、やはり京都には飛来しない「都鳥」(ミヤコドリ科)を、同じく「都鳥」がいない隅田川で、「鴎」(ユリカモメか)を指して歌うという不自然さがあります。そのとき、わたしが思い出したのが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」(注①)です。(つづく)

(注)
①正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。

【隅田川】
 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『隅田川』(すみだがわ)は能楽作品の一つである。観世元雅作。
 一般に狂女物は再会→ハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。
 各流派で演じられるが、金春流で演じられる時は、『角田川』(すみだがわ)のタイトルになる。

 シテ:狂女、梅若丸の母
 子方:梅若丸の霊
 ワキ:隅田川の渡し守
 ワキヅレ:京都から来た旅の男

 大小前に塚の作り物(その中に子方が入っている)
 渡し守が、これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まるといいながら登場。ワキヅレの道行きがあり、渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう。
 次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも『面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ』と虐められる。
 狂女は業平の『名にし負はば…』の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、都鳥(実は鴎)を指して嘆く事しきりである。渡し守も心打たれ『かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ』と親身になって舟に乗せる。
 対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」という。里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした。
 それこそわが子の塚であると狂女は気付く。渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。だが東雲来る時母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。

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