第2330話 2020/12/22

群書類従「伊香氏系図」の二倍年齢

 九州王朝の家臣「千手氏」「大蔵氏」調査のため、群書類従の系図を久しぶりに読みなおしました。同書は『群書系図部集』七冊本として続群書類従完成会より発行されたもので、編纂者は江戸時代の学者、塙保己一(はなわ ほきいち、1746~1821年)です。
 前に読んだ時は気づかなかったのですが、『群書系図部集 第七』の「伊香氏系図」(注①)に二倍年齢と考えざるを得ない記事がありましたので紹介します。同系図は冒頭の「伊香津臣命」から「伊香宿禰豊厚」「伊香宿禰豊氏」兄弟へと続き、それ以降は兄の「伊香宿禰豊厚」の子孫へと続いています。その兄弟の傍注に次の記事が見えます。

 「伊香宿禰豊厚
  天武天皇御宇白鳳十年辛巳以伊香字卽賜姓。此兄馮爲伊香郡開發願主也。歳百卅七。」
 「伊香宿禰豊氏
  歳百五。」

 この記事から、次の三点が読み取れます。

(1)伊香津臣氏は「天武白鳳十年」辛巳(681)に「宿禰」姓をもらった
(2)近江国伊香郡(評)の有力者、伊香宿禰兄弟の
(3)没年齢が兄137歳、弟105歳

《解説》
(1)この白鳳は天武元年(672)を白鳳元年とする、後世の改変型九州年号。本来の九州年号(注②)白鳳は元年が661年で、23年間続く。同系図によれば、伊香宿禰豊厚の子供の厚彦が大宝(701~703年)時代、厚彦の子供の厚持が和銅(708~714年)時代とされていますから、年代的に矛盾はありません。
(2)「近江国風土記逸文」(注③)に近江国伊香郡の羽衣伝承があり、伊香刀美(伊香津臣と同人物とされる)という人物名が見える。
(3)このような超高齢表記は、古くから倭国で採用されていた二倍年齢と考えざるを得ない。従って、一倍年齢の68.5歳、52.5歳に相当する。

 本年11月の八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)において、わたしは〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―〟というテーマで、倭国の二倍年暦(二倍年齢)の影響が「庚午年籍」(670年)造籍に及んだ可能性について報告しました。そして、今後の課題として、七世紀後半における二倍年齢の痕跡を他の史料でも探索するとしました。そして偶然にも系図調査により、白鳳時代の二倍年齢記事の発見に繋がりました。
 この伊香宿禰たちが近江国伊香郡(評)の有力者であることも示唆的です。「大宝二年籍」の中でも二倍年齢の痕跡が見られるのが「御野国戸籍」であることから、御野(美濃)国の隣国である近江国伊香郡(評)で二倍年齢が七世紀後半においても使用されていたことは重要な発見と思われます。「大宝二年籍」でも西海道戸籍(筑前、豊前)には二倍年齢使用の明確な痕跡がなかったことから、一倍年暦の時代に二倍年齢使用が続いた地域と完全に暦も年齢計算も一倍年暦に変更した地域との差(注④)があることを八王子セミナーで指摘したのですが、その傍証にもなる今回の発見でした。

(注)
①『群書系図部集 第七』「伊香氏系圖」(昭和六十年版)。
②『二中歴』所収「年代歴」等による。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)を参照されたい。
③日本古典文学大系『風土記』457頁(岩波書店、1958年)。
④九州王朝の都(太宰府)があった筑前などは暦法先進地域として、二倍年暦(二倍年齢)から一倍年暦(一倍年齢)への変更がよりはやく完全に進められたと思われる。

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