第2852話 2022/10/04

宮名を以て天皇号を称した王権(3)

 通説では、船王後墓誌(注①)に見える乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇としており、いずれも奈良盆地南辺付近の宮名を以て天皇号に称したと見なしています。「阿須迦宮治天下天皇」については「阿須迦天皇」とも記されており、いわば地名「阿須迦」を以て天皇号としています。この三つの地名「乎裟陁(おさだ)」「等由羅(とゆら)」「阿須迦(あすか)」の所在地については諸説ありますが、湊哲夫さんは次のように解説しており、通説に立てば概ね妥当なものと思います(注②)。

 「飛鳥の範囲については、ほぼ現在の明日香村域とするのが今日の通年であろう。これによれば、平田の高松塚古墳や阿部山のキトラ古墳も飛鳥の地域内ということになる。しかし、このような通念は現在の行政区画に災いされたもので、明らかに古代の飛鳥とは異なっている。現在の明日香村は昭和三十一年飛鳥・高市・坂合山村が合併して成立したが、その飛鳥村は明治二十二年飛鳥・八釣・小原・東山・豊浦・雷・小山・奥山の八村が合併して成立したものである。」
 「(雷丘東方遺跡から「小治田宮」墨書土器が出土した)結果飛鳥の地域がさらに限定され、北限を飛鳥寺付近、南限を伝飛鳥板蓋宮跡付近とする、南北一㌔㍍程の飛鳥川流域一帯とする見解が現在有力となっている。そして、飛鳥浄御原宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮など飛鳥を冠する宮室はすべてこの地域内におさまることになる。」
 「敏達天皇の他田(おさだ)宮・訳語田(おさだ)幸玉宮は『日本霊異記』上巻第三に「磐余訳語田宮」とあるので、磐余に含まれることは確実である。その場所は『太子伝玉林抄』の「磐余訳語田宮者有人云今ノ大仏供ノ東開智(戒重)ノ里ヲ号訳田」から、桜井市戒重付近と推定される。」

 以上のように、阿須迦(飛鳥)は明日香村内の飛鳥川流域の小地域、等由羅(豊浦)は明治二十二年に飛鳥と合併して飛鳥村になっていることから阿須迦(飛鳥)の近隣、乎裟陁(訳田)は桜井市戒重付近とされ、奈良盆地南辺付近のそれぞれ小領域内にあった宮であり、領域が重なるなどの矛盾はありません。
 『日本書紀』にも次の記事が見え、船王後墓誌の宮名と問題なく対応しています。

◎乎娑陀宮 敏達天皇(572~585)
 「船史の祖、王辰爾ありて、よく読み釈(と)き奉(つかえまつ)る。」敏達元年五月条。
 「遂に宮を譯語田(おさだ)に営(つく)る。」敏達三年是歳条。
◎等由羅宮 推古天皇(592~628)
 「豊浦(とゆら)宮に即天皇位す。」即位前紀十二月条。
◎阿須迦宮 舒明天皇(629~641)
 「天皇、飛鳥岡の傍に遷りたまふ。これを岡本宮と謂ふ。」二年十月条。

 古田説では乎裟陁(福岡県福岡市南区曰佐)、阿須迦(福岡県小郡市井上、注③)、等由羅(山口県下関市豊浦町)に比定されており、倭京(太宰府)から離れた山口県にまで散在してはいるものの、その領域が重なるなどの矛盾点はありません。しかし、湊さんの解説によれば、古田先生の通説批判には問題が生じます。(つづく)

(注)
①船王後墓誌(三井高遂氏蔵)は大阪府柏原市の松岡山(松岳山)から出土したとされ、次の銘文が記されている。
(表)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」
②湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
③現地名は字「飛島(とびしま)」。明治期の字地名表には「飛鳥(ヒチョウ)」とある。

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