第1272話 2016/09/16

『季刊考古学』136号を読む

 今年7月に発行された『季刊考古学』136号を読んでいます。「西日本の『天智紀』山城」が特集されていたので、迷わず購入しました。編集は高名な考古学者の小田富士雄さんです。特集では水城・大野城・基肄城・鞠智城や神籠石山城などが取り上げられており、「西日本の『天智紀』山城」というよりも「西日本の『九州王朝』山城」というべき内容でした。
 近年、わたしは熊本県の鞠智城の研究を進めていたこともあり、特集中の「鞠智城の役割について」を最初に読みました。執筆された木村龍生さん(歴史公園鞠智城・温故創生館)はわたしが鞠智城見学したおり、お世話になった当地の新進気鋭の考古学者です。木村さんは従来からの鞠智城編年を説明された後、次のような興味深い問題に触れられました。

 「鞠智城では古墳時代後期後半から築城直前まで存続した集落の存在が確認されている。この集落の性格についいては今後検討の余地があるが、古代山城としての鞠智城の前身となった施設であったことも考えられる。」(83頁)

 従来説では鞠智城の造営は7世紀の第3四半期から第4四半期とされてきましたが、近年では7世紀前半からとする説(岡田茂弘さん)も出されています。「洛中洛外日記」第1207話「鞠智城7世紀前半造営開始説の登場」で紹介したところです。しかし、鞠智城址からは6世紀や7世紀初頭の住居跡やそのころの炭化米も出土していますが、そのことについて真正面から深く考察した論稿を見かけませんでした。
 他方、わたしは鞠智城の造営を6世紀末か7世紀初頭する説を発表してきました。その根拠は『隋書』「イ妥国伝」に記された隋使の行程記事です。隋使が阿蘇山の噴火の火を見たことを記録しています。ということは、かなり肥後の内陸部よりの行程をたどったと考えざるを得ません。筑後国府から肥後国府へ南に向かう西海道行路では阿蘇山の噴煙は見えても噴火の火は見えないからです。そう考えたとき、国賓たる隋使が無人の広野で野営したとは考えられず、国賓にふさわしい館を行路中に用意したはずです。その館の一つが鞠智城ではなかったかと、わたしは考えたのです。
 更に、現地の「米原(よなばる)長者伝承」では、その時代を用明天皇の時代(在位585年〜587年)と伝えていることも、わたしの仮説と対応しています(米原:鞠智城がある場所の地名)。
 こうしたわたしの仮説をご存じかどうかはわかりませんが、木村さんは6世紀末の鞠智城の住居跡を「鞠智城の前身となった施設」として検討課題とされました。このように意識的に検討課題とされたことに、考古学者としての厳密性がうかがわれました。これからの鞠智城研究は考古学編年の再検討と、文献史学との整合性が必要と考えており、展開が楽しみです。

〔参考〕米原長者伝承(Wikipediaより)
 用明天皇(在位585年 – 587年)の頃に朝廷から「長者」の称号を賜った米原長者は、奴婢や牛馬3000以上(異説では牛馬1000、または奴婢600と牛馬400)を抱える大富豪だった。彼はこれらの労働力で、5000町歩(3000町歩とも)もの広大な水田に毎年1日で田植えを済ませることを自慢にしていた。ある年の事、作業が進まずに日没を迎えてしまった。すると米原長者は金の扇を取り出して振るい、太陽を呼び戻して田植えを続けさせた。だが再び陽が沈んでも終わらなかったため、山鹿郡の日岡山で樽3000(異説では300)の油を燃やし、明かりを確保して田植えを終わらせた。この時、にわかに天(山頂とも)から火の輪(玉とも)が降り注ぎ、屋敷や蔵が炎に包まれ、米原長者は蓄米や財宝など一切を一日にして失った。これは太陽を逆行させた天罰で、この影響から日岡山は草木が生えない不毛な地になり、名称も「火の岡山」が転じてつけられたという。

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