第2449話 2021/05/05

『宋史』日本伝の「九■州」

 先日、気になる問題があって、中国正史の倭国伝や日本伝を読みました。気になる問題とは、『隋書』には阿毎多利思北孤という国王の名前(字)が記されているのに、『旧唐書』にはなぜ倭国王の名前が記されていないのだろうということでした。倭国の重要情報である国王名がなぜ書かれていないのだろうと、不思議に思ったのです。そこで歴代正史の夷蛮伝では各国王名はどのような扱いになっているのかを調べています。この調査結果は別の機会に紹介したいと思いますが、その過程で岩波文庫『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(石原道博編訳)に収録されている『宋史』日本伝影印本に奇妙な表記があることに気づきました。
 『宋史』日本伝には、官道別の国名や国数が記録されています。たとえば、東海道であれば「東海道有、伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・常陸、凡十四州。共統、一百一十六郡」とあります。他の官道も同様に、東山道・八州、北陸道・七州、山陰道・八州、小(ママ)陽道・八州、南海道・六州、西海道・九州と、それぞれに国名・国数などが記されています。
 ところが、西海道の国数である「九州」の部分は「九■州」となっており、間に「■」(黒い四角)が入っているのです。版木を彫る際に間違ってしまい、その部分が「■」となったのだろうかとも思ったのですが、よくよく考えるとそれは有り得ません。もし字を彫り間違えたので、その誤字を削ったのであれば、その部分は空白となるはずだからです。逆に、誤字を消すために四角の形に何かを塗り込めたのであれば、印字は「■」になります。しかし、これもあり得にくいことと思います。なぜなら、誤字の存在に気づいたのであれば、版木を彫り直せばよいからです。ちなみに、掲載された日本伝の他の部分にこのような「■」はありません。なぜこの不体裁な「■」をそのままにしたのでしょうか。これはとても奇妙なことと思われました。
 この一見奇妙な「■」ですが、もしかすると意図的な表記ではないでしょうか。すなわち、東夷の国の記事中に「九州」という表記があることを避けるために、わざと「九■州」にしたのではないかと思います。というのも、「九州」という言葉は中国の天子の直轄支配領域を意味する政治的用語だからです。『史記』を始め、『旧唐書』などにも天子の直轄支配領域としての「九州」という用語が使用されています。
 『宋史』日本伝の場合は、国の数を表す「九ヶ国」の意味での「九州」という表記ですが、夷蛮の国である日本伝の記事中に「九州」があることを憚って、わざと間に「■」を入れて「九■州」としたのではないかとわたしは考えています。中国の天子の直轄支配領域としての「九州」と区別するためです。
 こうした理解が妥当かどうかを確かめるためには、『宋史』影印本の全体を見て、他に「■」が使用されているのか、あるいは他の異蛮伝に「九ヶ国」を意味する「九州」があれば、それが同様に「九■州」とされているのかを調べればよいわけです。後日、図書館で調べたいと思います。何かわかれば「洛中洛外日記」で報告します。
 ちなみに、日本列島にも「九州」(九州島)という地名があります。これは九州王朝(倭国)の天子の直轄支配領域(九州島)を意図的に九国に分割し(注①)、「九州」と命名したものと古田史学では考えられています。古田先生が、「筑紫王朝」ではなく「九州王朝」という学術用語を作り、自説に採用された理由は、この中国の政治的用語「九州」にあったのです。この日本国内の政治的用語「九州」の成立については、拙論「九州を論ず ―国内史料に見える「九州」の変遷」「続・九州を論ず ―国内史料に見える「九州」の分国」が収録された古田先生らとの共著『九州王朝の論理』(注②)をご参照下さい。

(注)
①筑紫・肥・豊のみを「前」「後」に二分割し、それに日向・薩摩・大隅を加え、九ヶ国(九州)とした。
②古田武彦・福永晋三・古賀達也『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。

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