第2675話 2022/02/04

難波宮の複都制と副都(4)

 村元健一さんの論文「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」(注①)には隋唐時代の複都制についての考察があり、長安(京師、大興)と洛陽(東京、東都)の二つの大都市が「京」や「都」として並立(両京制、複都制)したり、単独の都(単都制)になったりした経緯が詳述されています。なかでもわたしが注目したのが次の解説でした。

 「隋から唐の高宗期にかけて、制度として複都制を取り入れたのは隋の煬帝と唐の高宗のみである。」
 「当然ながら、正統な皇帝であることを明示するための祭祀施設である太廟、郊壇はすべて大興に所在している。
 煬帝期のこのような両都城の在り方を見れば、政治的、経済的、文化的な「京」は東京であるものの、京師大興には宗廟、郊壇といった中華皇帝としての正統性を示す礼制施設が存在しており、この点に両京が並び立った原因を求めることができよう。」
 「隋の文帝期、唐の高祖・太宗期では、洛陽が東方経営の拠点であるものの、都城を置くまでには至らず、大興・長安だけを都城とする単都制であった。隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」

 権威の都である大興(長安)と権力の都である東都(洛陽)の分立という指摘は示唆的です。この視点を太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)に当てはめれば、権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」と言えそうです。
 評制による全国支配(注②)のために列島の中心に近い難波に難波京を造営したと考えられることから、そこを権力の都と称するにぴったりです。他方、倭京(太宰府)は天孫降臨以来の倭国の中枢領域であった筑紫の宗廟の地として、権威の都の地位を維持したと思われます。たとえば、『二中歴』都督歴の冒頭部分に筑紫本宮という表記が見えますが、これは難波別宮(前期難波宮)に対応した呼称ではないでしょうか(注③)。(つづく)

(注)
①村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』2017年。
②『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷、天下立評」とある。評制開始時期については次の拙稿で詳述した。
 古賀達也「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』145号、2018年。
③古賀達也「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年。
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。

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