第1418話 2017/06/09

前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた

 「洛中洛外日記」163話(2008.02.24)「前期難波宮の名称」175話(2008.05.12)「再考、難波宮の名称」などで、わたしは前期難波宮(考古学的遺跡名称)が7世紀当時に「難波宮」と呼ばれていたのではないかと発表しました。他方、正木裕さんは前期難波宮の名称を「味経宮(あじふのみや)」とする説を発表され、この正木説も検討すべき有力説であるとわたしは「再考、難波宮の名称」で賛意を表しました。そして、今でも正木説は有力であるとの評価は変わりません。
 ところが、前期難波宮「味経宮」説をわたしの説であるかのごとく扱い、わたしを論難する方があります。学問は批判を歓迎するとわたしは考えていますが、同時にそれは真摯であるべきです。他者を批判する前に、その論文をよく読んで正しく理解してからにするべきと、わたしは古田先生から学びました。ですから、前期難波宮「味経宮」説は正木さんが発表されたものであり、そのプライオリティーを尊重して、「正木説」として批判されるべきです。
 わたしは前期難波宮の真上に造営された聖武天皇の後期難波宮が、『続日本紀』には一貫して「難波宮」と表記されていることを根拠に、同じ場所にあった前期難波宮も「難波宮」と呼ばれていたと理解しています。そしてこの度、札幌市の阿部周一さんから『令集解』所収「古記」に「造難波宮司」という表記があることを教えていただきましたが、701年成立の『大宝律令』の注釈書「古記」に「難波宮」とあるとすれば、7世紀の前期難波宮が「難波宮」と呼ばれていたと言えるでしょう。
 阿部さんからの情報に基づき、わたしも『令集解』の当該記事を確認するため、大阪梅田阪急の古書店で『令集解』(国史大系本)全4冊を購入しました。『令集解』引用の当該「古記」部分には次のように記されていました。

 「(前略)古記云、其外配者便送配所謂西方之民。便配造難波宮司也。以近及遠。謂先番役近國。次中國。次遠國也。依名分配。謂依名簿。木工者配木工寮。鍛師者配鍛冶司也。(後略)」『令集解』第二(国史大系本)「巻十四 賦役令」426頁

 難解な漢文ですが、『大宝律令』の注釈書と見られる「古記」からの引用文に「造難波宮司」や「番役」という表記があり、7世紀の前期難波宮に関する規定と理解されています。貴重な史料が残っていたものです。阿部さんの情報提供に感謝します。『古田史学会報』への投稿が待たれます。

フォローする