第1610話 2018/02/21

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(3)

 福岡市比恵遺跡群から出土したすずりの編年が新聞記事によれぱ3世紀後半とされ、「邪馬台国の時代」と紹介し、それを「古墳時代」としています。従来は「邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)」は弥生時代とされてきたにもかかわらず、今回の記事では「古墳時代」とされたのですが、そこには性格が異なる二つの学問上の重要な問題があります。そのことについて説明します。
 まず一つ目は、「邪馬台国」畿内説成立のために古墳の編年を変更するという問題です。『三国志』倭人伝によれば、倭国の女王、卑弥呼は3世紀前半に没しているようですから、3世紀後半であれば卑弥呼の次代の壹与が女王に共立された時期に相当します。もちろん従来の古代史学では両者とも弥生時代と認識されてきました。他方、畿内には弥生時代の倭国を代表するような王者にふさわしい墳丘墓がありませんでした。学界の多数説となっている「邪馬台国」畿内説論者にとって、この考古学的事実が自説に「不都合な真実」だったことは容易に想像できます。そこで彼らが目を付けたのが、初期の前方後円墳である箸墓古墳です。その編年を従来説の4世紀前半から3世紀前半〜中頃とすることで、箸墓古墳を卑弥呼あるいは壹与(台与)の墓と見なしました。
 そもそも「邪馬台国」畿内説というものは、日本列島の代表王朝(権力者)は弥生時代の昔から大和の天皇家であるというイデオロギー(戦後型皇国史観)を論証抜きで「是」と定め、それに合うように倭人伝の原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、南→東、壹与→台与、など)を行ったり、考古学的事実を恣意的に解釈するという、学問的には禁じ手の乱発で「成立」した学説です。このことは拙論「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房に収録。初出「洛中洛外日記」737〜744話)で詳述していますので、是非ご覧ください。
 こうして「古墳時代」の代表的初期前方後円墳の一つである箸墓古墳を「邪馬台国」の卑弥呼か壹与の墓と見なしたいがため、その時代を「古墳時代」としなければならなくなったのです。そして、各新聞社はそうした古代史学界・考古学界の「空気」を「忖度」して、3世紀後半と編年されたすずりの時代を「古墳時代」「邪馬台国の時代」とする、実に奇妙な新聞記事の出現となったのです。(つづく)

フォローする