「 信州のお祭り 」一覧

信州と九州の関連記事は、この信州のお祭りに集約します

第1720話 2018/08/12

肥後と信州の共通遺伝性疾患分布

 九州と信州が古代から交流があったことを「洛中洛外日記」でも紹介してきました。本稿末尾にそのタイトルを転載しています。それらの記事を読まれた読者のSさんから興味深い情報がメールで寄せられました。
 Sさんは長崎県在住の医師で、家族性アミロイドポリニューロパチーという遺伝性の病気の集積地が熊本県と長野県にあり、このことは両地域の交流を示す痕跡ではないかとお知らせいただいたのです。それは専門家の間ではよく知られた分布状況とのことです。アミロイドポリニューロパチーは難病の一つで、患者さんは同じ遺伝子異常を持っていることがわかっており、長野のかたは熊本から移住したひとたちの子孫の可能性があるのではないかとSさんは考えておられました。
 この疾患は、常染色体優性遺伝形式をとり、お父さんかお母さんのどちらかにその遺伝子があれば50%の確率で子供に遺伝するそうです。実際に発症するのはそれほど多くはないそうです。
 送っていただいた分布図を見ても、熊本県と長野県に大きな分布が見られ、両者に血縁的関係があることを示唆していました。もっとも遺伝子情報だけではどちらからどちらへ伝播したのか、その時代が現在からどのくらいまで遡るのかは未詳です。歴史研究に遺伝子情報がどの程度有効なのか、その分野の進展が期待されます。今回、アミロイドポリニューロパチーの分布情報をお知らせいただいたSさんにお礼申し上げます。

「洛中洛外日記」の信州と九州関連記事タイトル

422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」
483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」
484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布
1065話 2015/09/30 長野県内の「高良社」の考察
1240話 2016/07/31 長野県内の「高良社」の考察(2)
1248話 2016/08/08 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話 2016/08/21 神稲(くましろ)と高良神社


第1260話 2016/08/21

神稲(くましろ)と高良神社

 多元的「信州」研究の全国的な研究者ネットワークの形成を進めていますが、久留米市の研究者、犬塚幹夫さんから貴重な調査報告メールをいただきました。淡路島にも高良神社があったというもので、信州以外にもこうした分布があったことを、わたしは初めて知りました。犬塚さんのご了解を得て、転載します。

〔犬塚さんからのメール〕

古賀様
 
 洛洛メール便第438号で長野県下伊那郡豊丘村の「神稲(くましろ)」という地名が紹介されていました。
 わが久留米市でも「神代(くましろ)」の地名は「山川神代(やまかわくましろ)」や「神代橋(くましろばし)」として残っています。そこで久留米の「神代(くましろ)」について、「大日本地名辞書」と「太宰管内志」で調べてみたところ次のことがわかりました。

1.和名抄に御井郡「神氏」とあるのは「神代」の誤りである。
2.「神代」は「神稲」であり、高良神へ稲を供える里の意味である。
3.神代は久麻志呂(くましろ)と読む。
4.淡路国三原郡の「神稲」は久萬之呂(くましろ)と読む。
 
 淡路国にも「神稲」があることがわかりましたので、「大日本地名辞書」で「淡路国三原郡神稲郷」を見ると次のことがわかりました。

1.「神稲」は久萬之呂(くましろ)と読む。
2.「神稲」は久萬之禰(くましね)と読むべきであるが久萬之呂に転じたものであろう。
3.神稲は、神に供える稲を作る田の意味である。

 淡路国三原郡神稲郷は、現在南あわじ市となり神代社家、神代地頭方、神代国衙などの地名として残っているようですが、神代の読みは(じんだい)に変わっています。
 神稲が神に供える田であれば、神社が周囲にあるはずです。ネットで調べたところ南あわじ市に次のような高良系神社が見つかりました。

高良神社(南あわじ市八木国分)
高良神社(南あわじ市広田広田)
高良神社(南あわじ市賀集八幡南)
上田八幡神社境内社高良神社(南あわじ市神代社家)
神代八幡神社境内社高良神社(南あわじ市神代地頭方)
亀岡八幡神社境内社松浦高良神社(南あわじ市阿万上町)

 この神稲郷という地域の周辺になぜ高良神社が集中しているのか、神代国衙にあったと推測される淡路国府は関連があるのか、なかなか興味があるところです。
 南あわじ市の「神稲」の周辺に高良系神社があるということは、長野県下伊那郡豊丘村の「神稲」の周辺にも高良系神社がある可能性があります。洛中洛外日記第1246話で明らかにされた下伊那郡泰阜村の筑紫神社以外にも高良系神社が存在するかもしれません。これらのことも九州とどのように関係するのか興味あるところです。

久留米市 犬塚幹夫


第1248話 2016/08/08

信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」

 信州に多数分布する「高良社」や、熊本県天草市と長野県岡谷市に分布する「十五社神社」など、信州と九州に密接な関係があることに強い関心を持ってきました。たとえば「十五社神社」に関しては「洛中洛外日記」でも取り上げてきました。下記の通りです。

第422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」

第483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」

第484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布

 この両地方の関係について、その淵源が古代にまで遡るのか、九州王朝によるものかなどわからないことばかりでしたが、「評」系図としても有名な「異本阿蘇氏系図」を精査再検討していたところ、両者の関係が古代に遡るとする痕跡を見いだしましたので、概要のみご紹介します。
 『田中卓著作集』に収録されている「異本阿蘇氏系図」によると、「神武天皇」から始まる同系図は、その子孫の阿蘇氏(阿蘇国造・阿蘇評督など)の系譜を中心にして、途中から枝分かれした「金刺氏」(科野国造・諏訪評督など)や「多氏」などの系譜が付記(途中で接ぎ木)された様相を示しています。従って、阿蘇氏内に伝来した阿蘇氏系譜部分は比較的「精緻」と思われることに対して、「金刺氏」系譜部分は遠く離れた「信州の分家」からもたらされた系図を、後世になって阿蘇氏自らの系図に付記したものと考えられ、史料的な信頼性は劣ると考えざるを得ません。この点については、「系図の史料批判の方法」として別の機会に詳述する予定です。
 阿蘇氏や金刺氏・諏訪氏の系図は各種あるようで、どれが最も古代の真実を伝えているのかは慎重に検討しなればなりませんが、「異本阿蘇氏系図」の編者にとっては、信州の金刺氏(後の諏訪氏)は継躰天皇の時代以前に阿蘇氏から分かれて信州に至ったと主張、あるいは理解していることとなります。もちろんこうした「理解」が真実かどうかは他の史料や考古学的事実を検討しなければなりませんが、信州と九州の関係が古代に遡ることの傍証になるかもしれません。
 「異本阿蘇氏系図」の「金刺氏系譜」部分でもう一つ注目されたのが、「諏訪評督」の注を持つ「倉足」の兄弟とされる「乙穎」の細注に見える次の記事です。

「一名神子、又云、熊古」

 「神子」の別称を「熊古」(「くまこ」か)とするものですが、「神」を「くま」と訓むことは筑後地方に見られます。たとえば「神代」と書いて「くましろ」と当地では読みます。ちなみに「神代家」は高良玉垂命の後裔氏族の一つです。この「神(くま)」という訓みは九州王朝の地(筑後地方・他)に淵源を持っているようですので、「異本阿蘇氏系図」に見えるこの「熊古」記事は諏訪氏と九州との関係をうかがわせるのです。
 この信州と九州とを繋ぐ「異本阿蘇氏系図」の史料批判や研究はこれからの課題ですが、多元史観・九州王朝説により新たな展開が期待されます。

〔後注〕信州と九州の関係について研究されている長野県上田市の吉村八洲男さんと、最近、知り合いになりました。共同研究により、更に研究が進展するものと楽しみにしています。


第1246話 2016/08/05

長野県南部の「筑紫神社」

 「洛中洛外日記」第1240話「長野県内の「高良社」の考察(2)」を読まれた読者の方から、長野県南部の下伊那郡泰阜(やすおか)村に筑紫神社が鎮座しており、御祭神が高良玉垂命であることを教えていただきました。次のようです。

信濃国 伊那郷里に、「筑紫神社」が存在します。御祭神は、高良玉垂命 です。
長野県下伊那郡泰阜村字宮ノ後3199番
地図 https://goo.gl/maps/v7u5HuvdqcU2
因みに発見したときのブログです。
「伊那谷に 筑紫神社 があった!」
http://utukusinom.exblog.jp/12466291/

 地図を見ますと、かなり山奥のようです。しかも、現地では同神社に関する伝承が伝わっていないようで、「高良社」ではなく「筑紫神社」と称されていることも気になります。
 九州の高良信仰は在地性の強い信仰圏を有し、その神社は筑後地方に濃密分布しています。ですから、「筑後神社」というのならよくわかりますが、「筑紫神社」ではちょっと違和感があるのです。九州(筑紫)から勧請された神様を祀るので筑紫神社と銘々されたのか、あるいは九州が筑前と筑後の分国前(6世紀末以前)に信州にもたらされたため筑紫神社とされたのか、興味があるところです。
 こうした現地の情報が集まるのも、インターネットの利点です。ご連絡いただき、ありがとうございました。


第1240話 2016/07/31

長野県内の「高良社」の考察(2)

 長野県に多数分布する「高良社」については、「洛中洛外日記」第1065話“長野県内の「高良社」の考察”などで紹介しましたが、「古田史学の会」会員の吉村八州男さん(上田市)からの新着情報によれば、新たに上田市内で3社発見されたとのことです。それとは別に鈴岡潤一さん(「古田史学の会・まつもと」、松本市)も長野市で見つけられたとのことでした。
 2015年にいただいた村田正幸さん(「古田史学の会・まつもと」、松本市)の調査結果を再録します。

長野県内の高良社等の調査一覧(村田正幸さん調査)
No. 場所        銘文等    建立年等
1 千曲市武水別社   高良社   室町後期か?長野県宝
2 佐久市浅科八幡神社 高良社   八幡社の旧本殿
3 松本市入山辺大和合神社 高良大神1 不明
4 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 不明
5 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 明治23年2月吉日
6 松本市島内一里塚  高良幅玉垂の水 明治8年再建
7 松本市岡田町山中  高麗玉垂神社 不明
8 安曇野市明科山中  高良大神   不明
9 池田町宇佐八幡   高良神社   不明
10 白馬村1      高良大明神  不明
11 白馬村2      高良大明神  不明
12 白馬村3      高良大明神  不明

 「高良社」は長野県の中・北部で分布しており、この地域は「科野国」の領域です。県南の「諏訪国」からは未発見で、諏訪大社の信仰圏と「高良社」の分布領域は今のところ重なっていません。このことに歴史的背景があるのかどうか、興味があるところです。
 また、「高良社」領域と諏訪大社信仰圏とに挟まれるように分布している岡谷市と茅野市の「十五所神社」も気になります。熊本県天草市に濃密分布する「十五所神社」との関係は未解明ですが、いずれにしても九州と信州の関係が深いことは確かです。九州と信州の研究者の協力体制を作っていきたいと考えています。


第1065話 2015/09/30

長野県内の「高良社」の考察

 昨晩の村田正幸さんとの話題は長野県内に分布する「高良社」についてでした。村田さんの調査によれば、石碑を含めて県内に12の「高良社」を確認したとのこと。次の通りです。

長野県内の高良社等の調査一覧(村田正幸さん調査)
No. 場所        銘文等    建立年等
1 千曲市武水別社   高良社   室町後期か?長野県宝
2 佐久市浅科八幡神社 高良社   八幡社の旧本殿
3 松本市入山辺大和合神社 高良大神1 不明
4 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 不明
5 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 明治23年2月吉日
6 松本市島内一里塚  高良幅玉垂の水 明治8年再建
7 松本市岡田町山中  高麗玉垂神社 不明
8 安曇野市明科山中  高良大神   不明
9 池田町宇佐八幡   高良神社   不明
10 白馬村1      高良大明神  不明
11 白馬村2      高良大明神  不明
12 白馬村3      高良大明神  不明

 まだ調査途中とのことですが、分布状況の傾向としては県の中・北部、特に松本市と白馬村の分布数が注目されます。「高良」信仰がどの方角から長野県に入ってきたのかを示唆する分布状況かもしれませんが、断定するためには隣接県の「高良」信仰の分布調査が必要です。
 この「高良」信仰は九州でも筑後地方に濃密分布しており、隣の筑前や肥後では激減しますから、極めて在地性の強い神様です。わたしの研究では「倭の五王」時代から6世紀末頃までの九州王朝の都は筑後(久留米市)にあり、その間の代々の倭王は「玉垂命」を襲名していたと思われます(拙論「九州王朝の筑後遷宮 -高良玉垂命考-」を御参照ください)。従って、その「高良玉垂命」の信仰が信州(長野県)に伝播した時代は、古代であればその頃が有力ではないかと考えています。もちろん、中近世において「高良神」信仰を持った有力者が信州に移動した、あるいは勧請したというケースも考えられますが、それであれば中近世史料にその痕跡が残っていてほしいところです。
 以上のように信州の「高良神」について考察を進めていますが、まだまだ結論を出すには至っていません。当地の伝承や史料の調査検討が必要です。他方、筑後地方に「高良玉垂命」が信州に行ったとするような伝承・史料の存在は知られていません。
 また、九州王朝と信州との関係をうかがわせるものには、『善光寺縁起』などに見られる九州年号の存在、天草に濃密分布する「十五所神社」が岡谷市にも多数見られるということがあり、信州の古代史を九州王朝説・多元史観で研究する必要があります。村田さんのご研究に期待したいと思います。


第12話 2005/07/17

信州のお祭り・御柱

 古代日本列島において文明の衝突・興亡の痕跡が随所に見られます。著名な例では、弥生時代の銅矛文明圏と銅鐸文明圏の衝突、そして銅鐸文明の消滅という考古学的事実があります。この二大青銅器文明圏の衝突と興亡という列島内大事件が神話として残っています。一つは、『古事記』にある大国主の国譲り神話です。
 天国(あまくに)の神々が出雲の主神である大国主に国を譲れと武力介入した神話です。出雲には荒神谷遺跡などから銅鐸を含む大量の青銅器が出土していますが、この神話は銅矛文明圏(天国、壱岐対馬)による銅鐸文明圏の出雲への侵略が「国譲り」という表現で語られているのです。この侵略に最後まで抵抗した神が建御名方神(たけみなかた)です。彼は戦いに敗れ信州の諏訪湖まで逃げます。そして、その地から出ないことを条件に許されます。
 天国の軍隊は、銅鐸文明圏の中枢領域である近畿にも突入を繰り返します。近畿から破壊された銅鐸が出土していますが、これもこの侵略の痕跡でしょう。天国の軍隊は神聖なる祭器である銅鐸を破壊し、銅鐸文明の神々(人々)は東へ東へと逃亡したのです。その様子を「伊勢国風土記」では次のように記されています。天日別命(あまのひわけのみこと)が率いる天国の軍隊が伊勢の国を侵略し、伊勢の王である伊勢津彦は東へと逃げ、彼もまた信濃の国へ住んだと。
建御名方神や伊勢津彦はなぜ信州に逃げたのでしょうか。そして、なぜ天国の軍隊は信州に逃げた彼らを捕らえなかったのでしょうか。ここに、信州が持つ不思議な歴史の謎があります。
 他方、これと共通する風習が中世ドイツにもありました。追われた犯罪者が四本の柱で囲まれた場所に逃げ込めば、役人も手出しができなかったと言われています(阿部謹也『中世の星の下で』ちくま文庫)。四本の柱の中は神聖な地、歴史学でアジールと呼ばれる空間なのでした。これは諏訪大社の御柱とそっくりです。 古代信州は軍隊と言えども侵すことのできない神聖な地、アジールだったのです。だから、追われた銅鐸文明の神々は信州へと逃げた、そう考えざるを得ません。そして、この考えが正しければ、諏訪大社の御柱祭は弥生時代以前にまで遡ることができます。古代日本での文明の衝突を考えるとき、信州のもつこの神聖性はキーポイントとなるのではないでょうか。


第11話 2005/07/11

信州のお祭り・お船

 松本市での講演会の前日、同市の中央図書館に行き、以前から気になっていた諏訪大社の御柱祭について調査しました。同祭の写真集などを見ていると、御柱を出迎える「お船」が道路上を曳かれている光景がありました。こんなところにも「お船」が登場するのかとちょっと驚きました。
 信州のお祭で有名なものに、穂高神社(南安曇郡穂高町)のお船祭がありますが、安曇という地名からも想像できるように、海人(あま)族のお祭ですからお船と呼ばれる山車が登場するは、よく理解できるのです。しかし、諏訪大社の御柱祭にまで主役ではないようですがお船が登場することに、その由緒が単純なものではないなと感じたわけです。
 祇園山鉾や博多山笠の山車が、古代の船越に淵源するのではないかという古川さんの説を洛中洛外日記第7話で紹介しましたが、今回の調査の際、『隋書』倭国伝(原文はイ妥国伝)の次の記事の存在に気づき、新たな仮説を考えました。

 『隋書』には倭国の葬儀の風習として次のように記録しています。
 「葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或いは小輿*(よ)を以てす。」

輿*(よ)は、輿の同字で、輿の下に車 [輿/車]。

 倭国では葬儀で死者を運ぶのに陸地でも船を使用していたことが記されているのです。そうすると、山車の淵源は海人族の葬儀風習にあったと考えてもよいのではないでしょうか。祇園山鉾や博多山笠の「ヤマ」が古代の邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)と関係するのではないかという、わたしのカンも当たっているかもしれませんね


第10話 2005/07/11

信州のお祭り・縄張り

 松本市での講演会も盛況の内に終わりました。毎回のことながら「古田史学の会・まつもと」の皆様には大変お世話になりました。御礼申し上げます。
 今回、松本に行って気が付いたのですが、当地では神社のお祭りの際には、氏子の家など神社周辺一帯に白い御幣を垂らした縄を張り巡らすのです。行きの列車の窓からもこの光景を目にしましたし、松本神社周辺でもかなり広い範囲に縄が張られていました。最初は何のことか判らずに、「古田史学の会・まつもと」の木村さん(同会会計)や北村さん(同会副会長)にお聞きしたところ、信州ではお祭りの時に、このように御幣を垂らした縄を張り巡らせるとのことでした。そして、日本中どこでもお祭りではこうするものだと思っておられました。わたしが、京都や郷土の久留米市では見たことがないと言うと、驚いておられたのが印象的でした。それくらい、信州ではこの習慣が根付いているのでしょう。
 思うに、この「縄張り」はお祭りに当たっての「結界」のようなもので、神聖な場所、すなわち「アジール」を示すものではなかったか、と推測しています。こうした風習は他の地域でもあるのでしょうか。興味深いところです。
 柳田国男が「日本の祭」で信州の穂高神社の例として、祭の際に「境立て」として四方十町ほどの境の端に榊の木を立てることを記していますが、縄を家々の回りに延々と張るのと同様の神事かもしれません。ある意味では、より徹底した神聖な場の囲い込みではないでしょうか。