2015年02月一覧

第885話 2015/02/28

巨大古墳vs神籠石山城・水城

 関西の考古学者と積極的に意見交換を続けられている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)によると、「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者の根本的な理由は、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿にあることから、古墳時代における列島内の中心権力者が畿内にいた証拠であり、弥生時代もそうであったはずということのようです。そのため、巨大前方後円墳の始原を畿内の古墳時代前期の纒向型前方後円墳であるとみなし、その編年を弥生時代(卑弥呼の時代、3世紀前半)に編年操作しようとしていると思われます。
 何度も指摘してきましたが、「邪馬台国」畿内説なるものは、『三国志』倭人伝に記された倭国中心国名を改竄し(邪馬壹国→邪馬台国)、その方角も改竄し(南→東)、その距離(12000余里)も無視し、倭国の文物(鉄・絹・銅鏡)も無視・軽視するなどの研究不正のオンパレードで、およそ学説(学問的仮説)と呼べる代物ではありません。
 普通の人間の理性からすれば、これほど倭人伝の内容と大和盆地の地勢・遺物が異なっていれば、倭人伝の邪馬壹国とは別の王権が畿内や関西にあったと考えるのが学問的論理的とわたしは思うのですが、彼らはそうした思考が「苦手」なようです。その「苦手」な理由については別に考察したいと思います。
 とは言え、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿(大和ではなく河内が中心)にあり、北部九州よりも「優勢」という指摘は古墳時代の考古学事実に基づいており、その点は検討に値する指摘です。古田先生はこの問題についていくつかの反論をされていますが、当時の倭国は朝鮮半島で軍事的衝突を繰り返しており、巨大古墳を作る余裕はなく、逆にあればおかしいとされています。従って、巨大古墳を造った勢力は朝鮮半島で戦っていた倭国の中心勢力ではないとされました。
 巨大古墳を古代における土木事業という視点からすれば、同様に北部九州にある神籠石山城(複数)や水城(複数)の大規模土木事業の存在に注目しなければなりません。たとえば太宰府を防衛している大水城(全長1.2km、高さ13m、基底部幅80m。博多湾側の堀は幅60m)は土量は384000立法メートル、10tonダンプで64000台分に相当するとされています。動員された作業員は延べ110万人は下らないと見られています。この太宰府の北西の大水城の他に小水城や、久留米市には有明海側からの侵入を防ぐために上津荒木(こうだらき)の水城も造られています。
 神籠石山城群も太宰府や筑後「国府」を防衛するように要衝の地に点々と築城されています(雷山・高良山・阿志岐山・杷木・女山・帯隈山・おつぼ山・鹿毛馬・御所ケ谷・唐原など)。直方体の大石を石切場から山頂や中腹に運搬し、山を取り囲むように巡らせ、その列石上には土塁を盛り、前には木柵を設け、列石の内側には倉庫や水源、そして水門まで造営されています。これだけでもいかに巨大な土木事業であるかをご想像いただけると思います。大量の大石を石切場から山頂に運搬するだけでも、専用道路が必要ですから現代でもかなり大変な巨大土木事業といえるでしよう。おそらく水城や神籠石山城の造営は近畿の巨大前方後円墳以上の規模ではなかったでしょうか。
 この他に太宰府の北側には大野城、南側には基肄城が造営されていますから、北部九州には列島内最大規模の古代土木事業の痕跡があるのです。お墓と防衛施設とでは、どちらが「都」に相応しいか言うまでもないでしょう。近畿の巨大古墳群を自説の根拠にしたいのであれば、北部九州の巨大防衛施設にも言及すべきです。両者を比較した上で、列島内の中心権力者の都の所在を学問的論理的に提起すべきです。それが学問というものです。


第884話 2015/02/27

「玉作五十戸俵」木簡

       の初歩的考察

 難波宮近傍から出土した「玉作五十戸俵」木簡について、初歩的な考察を試みたいと思います。調査報告書や研究論文がまだ出されていないので、新聞発表や『葦火』174号(2015年2月)に掲載された谷崎仁美さんの報告「発見!『玉作五十戸俵』木簡」を参考にしました。

 同木簡の写真を見たとき、よく読解できたものだと思いました。大阪歴博の李陽浩(り・やんほ)さんにお聞きしたところでも、「玉作」と「俵」はすぐに読めたが「五十戸」は時間がかかったとのことでした。確かに「五」と「十」は異体字とも思えるような字で、特に「十」は「T」に近い字体です。「戸」も上の「一」が一画多い字体に見えます。

 さらにその筆跡もかなりの癖字で、その特徴的な筆跡から他の木簡にも似た筆跡が見つかるかもしれません。そしてうまくいけば他の木簡との比較により、不明とされている年代推定ができる可能性も残されています。この木簡が孝徳期まで遡れるとしたら、行政単位の「五十戸(さと)」が7世紀中頃に存在したこととなり、『日本書紀』の大化改新詔の研究が前進します。それほど貴重な木簡なのです。

 次にわたしが注目しているのが「玉作」という地名です。『和名抄』に見える郷名の「たまつくり」を根拠に、いくつかの地域が候補にあがっていますが、荷札木簡にしては疑問点があります。地方から前期難波宮に供出された荷物として「出荷地」を読む人(受取人・前期難波宮の役人)に伝えるためには最小地名単位の「玉作五十戸(さと)」だけでは各地にあったどこの「玉作」なのかわかりませんから、荷札としては「役立たず」なのです。すなわち、荷札としての本来の目的を果たすためには「○○国△△評玉作五十戸」と出荷地名を特定できる表記であってほしいのです。さらに出荷時期を示す「年干支」なども必要でしょう。記す場所も十分に残されているのに、なぜ書かれなかったのでしょうか(裏面に文字はありません)。不思議です。

 そこで、この現象を説明できる仮説があります。それは国名や評名を書かなくても、書いた人にも読んだ人にも「玉作五十戸」だけで場所が共通認識として特定できるケースとして、次の状況が考えられます。それはある特定の時期に難波の地域内、あるいは近傍の「玉作」からの供出のケースです。そのようなケースとして次の状況が考えられます。すなわち、前期難波宮造営のために造営時期に近隣の地域に供出を権力者が命じた場合です。このケースであれば、国名や評名がなくても供出地域が当初から限定されていますから、「玉作五十戸」だけで十分ですし、前期難波宮造営時の供出ですから、年次の記載も不要なのです。

 この仮説によれば「玉作」という地名が前期難波宮の近傍に存在しなければなりませんが、前期難波宮のすぐ南東に玉造町(大阪市中央区)や玉造本町(大阪市天王寺区)があります。ここからの供出であれば、書いた人も受け取った役人も「玉作五十戸」で十分です。

 以上、「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察でしたが、同木簡を実見できましたら更に論究したいと思います(現在は調査中のため同木簡は公開されていまん)。


第883話 2015/02/26

倭人はお酒好きで

   美人が多い?

 今日の午前中は二日市市にある福岡県工業技術センターを訪問し、同センターの堂ノ脇靖巳さんと旧交を暖めました。堂ノ脇さんはタンパク質のトリプトファン発色反応をウールやシルクに応用し、染料による染色ではなく、ウールやシルクそのものを化学反応で発色させ、衣料品に用いるという画期的な技術(中小企業庁長官賞受賞)を開発された優れた化学者です。十数年前、京都大学で開催された繊維学会でお会いして以来、同郷の化学者同士として、あるいはビジネスでもおつきあいをさせていただいています。
 午後からは新幹線「さくら」で大阪まで戻り、繊維応用技術研究会(事務局:大阪府立産業技術研究所)の理事会に出席しました。理事会の皆さんと夕食をご一緒したのですが、話題が古代史にも及び、盛り上がりました。理事全員が科学研究者ですので、様々な観点から『三国志』倭人伝の記事について持論が展開されました。特に拝聴したのが花王のヘアケア研究所のKさんの次のご意見でした。

1.倭人伝には女性のヘアスタイルに関する記事があることから、倭人の女性はおしゃれに興味があり、その結果、おそらく美人が多かったのではないか。
2.倭人はお酒が好きと書いてあるので、「邪馬台国」はお酒好きの地方にあったはず。
3.「博多美人」という言葉はあるが「奈良美人」というのは聞いたことがない。
4.博多と奈良に出張で行くことがあるが、博多の人の方が圧倒的に「飲兵衛」が多い。
5.従って、「邪馬台国」九州説(博多説)に賛成する。

 以上のような持論を開陳されました。学問的な論証としては「問題」が少なくないのですが、ヘアケアの専門家らしい視点だと思いました。
 言われてみれば、倭国へのプレゼントとして倭人伝に特記されている「鏡」(倭人の好物)や「錦」(シルク製品)など、いずれも女性が喜びそうなプレゼントです。そして当時の倭国は女王卑弥呼・壹与の時代ですから、女性が喜ぶような品々を中国側は意図して贈ったのかもしれません。学問的かどうか全く自信はありませんが、このような視点が古代史研究にあってもよいのではないでしょうか。
 花王のKさんに、そのご意見を「洛中洛外日記」に書いてもよいかと確認したところ、「OK」のご返事をいただいたものの、奈良県での花王の化粧品の売り上げが落ちたら申しわけないような気持ちです。あくまで食事の席での個人的見解ですので、大目に見てあげてください。なお、理事会に同席され、Kさんやわたしの会話を聞いておられた業界誌のS社長から、今の話を自社の雑誌のコラムに連載して欲しいとのご要望をいただきました。もちろん、わたしの返事は「OK」でした。


第882話 2015/02/25

雲仙普賢岳と布津

 昨日は鹿児島空港からレンタカーで鹿児島県伊佐市・宮崎県小林市などの顧客を訪問し、昨晩は熊本県の天草のホテルで宿泊し、今日は早朝から仕事です。フェリーで鬼池港から島原半島の口之津(くちのつ)に入り、異形の雲仙普賢岳を眺めながら島原市に向かっています。あんな山が噴火したのなら、あの大災害が起きるのも「納得」できるほどの火山岩むき出しの山肌でした。(合掌)
 島原市を走っているとき、「布津」という地名の看板があり、とても興味深い地名だと思いました。海岸通りの地名なので、「津」は港のことと思われますから、この地名の語幹は「布(ふ)」となります。「ふ」という場所にある港だから「ふつ」と呼ばれ、布津という漢字が当てられたと考えられます。そこで、次に問題となるのが「布(ふ)」の意味です。
 布津の東側には雲仙普賢岳がそびえており、とても印象的な地域です。そこでひらめいたのですが、布津の「ふ」は富士山の「ふ」と同義ではないか。すなわち、活火山やその近傍地名である「ふ」という地名語幹には共通性があるのではないでしょうか。少なくとも偶然の一致とするよりも、火山と地名の「ふ」には関係があるのではないかという作業仮説を検証する必要を感じています。
 この作業仮説を検証するためには、日本列島の火山と近隣地名を調査し、語幹に「ふ」を持つ地名や山名があるのかどうかを調べるという方法が有効と思われます。その結果、関係があれば次の問題、「ふ」の意味は何か、という学問的局面に進めますし、関係が認められなければ、とりあえず作業仮説としてペンディングしておけばよいのです。この作業仮説(思いつき)を皆さんはどのように思われますか。


第881話 2015/02/24

長里から短里への換算の痕跡

 今朝は5時過ぎに自宅を発ち、阪急電車で大阪空港に向かっています。今日から九州出張で、鹿児島・宮崎・熊本・長崎・福岡と5県を廻ります。国内出張としてはハードな行程ですが、海外出張に比べれば楽なものです。

 さて、先日の関西例会で報告された『三国志』の短里に関するもうひとつの研究、西村秀己さんの「短里と景初」について、その概要をご紹介します。
 西村さんは魏朝における、長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』魏書の文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、明帝の景初元年に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
 さらに西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。

〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。
2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。
3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、正確には約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。
(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た「端数」は数学の有効桁数としては意味がありませんから、「数千里」「数百里」という概算値表記に陳寿はしたものと思われます。)
4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。
5.作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有為の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有為の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1,『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
  漢(長里使用) 21.3%
  魏 景初元年より前(長里の時代)37.5%
    景初元年以後(短里の時代)5.3%
  呉(長里使用) 33.3%
  蜀(長里使用) 40.0%
2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。
3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要もなかったと考えるのが妥当である。
4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。
5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

 以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この報告に限らず、西村さんの研究手法(学問の方法)は統計的手法を手堅く用い、かつ、仮説とその証明方法が厳格に対応していることが特長です。ですから西村さんは、関西例会などでの発表を安心して聞ける研究者の一人なのです。


第880話 2015/02/22

長里と短里の牛車「里数」

 昨日の関西例会では、『三国志』や魏西晋朝の短里についての研究報告が正木裕さんと西村秀己さんから発表されました。両報告とも画期的で秀逸なものでした。今回は正木さんの報告を紹介します。
 それは「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」という報告で、わたしが「洛中洛外日記」857話で紹介した『三国志』の「駑牛一日三百里」についての研究です。
 『三国志』ほう統伝中の裴松之注に「駑牛一日行三百里」とあり、牛車の一日の行程として短里では約24kmで妥当だが、長里ではありえない距離となり、この記事も魏西晋朝短里説の証拠になるとしました。裴松之注に引用されたこの記事は西晋の張勃(ちょうぼつ)による『呉録』が出典で、『三国志』の著者陳寿と同時代の人物によるものです。従って、魏西晋朝では短里が公認使用されており、『三国志』も『呉録』も短里で編纂されていたことがわかります。
 正木さんはこの「駑牛一日行三百里」が漢代の律令で定められた牛車の移動距離に基づくもので、漢代の長里表記「五十里」を短里に換算した数値であることを発見されました。その漢代の律令とは1983年に中国の湖北省江陵県張家山の漢墓から出土した大量の竹簡(1236枚)に記されていたもので、「頒布年」の呂后二年にちなみ「二年律令」と呼ばれているものです。
 それには、荷物の運搬には牛車(「車牛」と表記。「徭律(徭役に関する律)」簡411)が用いられており、その守るべき速度が「傳送重車、重負日行五十里、空車七十里、徒行八十里」(簡412)と記されています。これらの里数は漢代ですから長里(1里=約435m)が使用されています。重い荷物を積んだ牛車の里数が「五十里」とされていますから、これを短里(1里=約77m)に換算すると約282里となり、『三国志』の「駑牛一日行三百里」に相当します。従って、正木さんは『三国志』の「駑牛一日行三百里」は漢代の「二年律令」で規定された長里表記での「五十里」を短里に換算したものとされたのです。すなち、漠然と牛車の一日の運搬距離を300里としたのではなく、漢代の律令の規定に従い、それを短里換算したものと理解できるのです。
 この正木さんの発見により、同じ牛車での運搬距離を長里と短里で表記した史料がそろったことになり、漢代の長里と魏西晋朝の短里、すなわち『三国志』は短里で編纂されたとする古田説が正しかったことを史料根拠に基づいて証明されたのです。素晴らしい発見だと思います。それにしても漢代の竹簡が大量に発見され、「二年律令」が復元されたのですから、これもすごいことです。
 最後に付け加えれば、『三国志』が短里であったことが自明のものとなった以上、「邪馬台国」畿内説は完全に葬り去られました。帯方郡(ソウル付近と推定されています)より邪馬壹国への総里程一万二千余里(約924km)と倭人伝に明記されていますから、倭国の女王卑弥呼の都は博多湾岸で決まりです。一万二千余里では大和へは絶対に届きません。この単純な理屈から「邪馬台国」畿内説論者は逃げずに受け止めていただきたいと思います。「邪馬台国の場所は永遠の謎」などといいかげんな報道してきたマスコミ関係者も、もうそろそろ真実を国民に伝えていただきたいものです。日本の「真の学問」(吉田松陰『講孟余話』)の復活は、まずそこから始まるのではないでしょうか。


第879話 2015/02/21

畿内出土庄内式土器の真実

 本日の関西例会では衝撃的な報告が次々と出され、わたしの記憶している限りでは、最も充実した画期的な関西例会でした。中でも服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者)による、畿内出土の庄内式土器や布留式土器についての報告は衝撃的でした。
 畿内の前期古墳の編年が「邪馬台国」畿内説を「保証」するかのように3世紀前半にまで古くされているのですが、その編年の根拠の一つとされているのが、弥生時代と古墳時代(布留式土器)の中間に位置するとされている庄内式土器です。この庄内式土器と纒向型前方後円墳が時代的に重なり、これを「邪馬台国」畿内説の根拠とされているわけです。そして、この纒向に全国の土器が集まっていることや、纒向の庄内式土器や大和の布留式土器が全国に伝播していることを根拠に、纒向(大和)が倭国の中心国「邪馬台国」と説明されています。
 こうした「邪馬台国」畿内説の「根拠」とされている庄内式土器や布留式土器について、服部さんは実際に考古学者への聞き取り調査や論文を精査され、次の驚くべき事実を報告されたのです。

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
 ※「庄内式土器研究XIX」1999年、米田敏幸氏の論文等による。

 以上のように、庄内式土器研究会の研究成果は「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた土器についての決定的反証となっています。服部さんの調査は更に進展を見せており、『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』への掲載を要請していますので、ご期待ください。
 この他にも、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)や正木さん(古田史学の会・全国世話人)からも優れた研究が報告されました。別の機会にご紹介したいと思います。2月例会の発表は次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
①短里と景初(高松市・西村秀己)
②潤色ではなく部分削除された改新の詔(八尾市・服部静尚)
③改新詔の藤原宮発布説は成り立つか?(八尾市・服部静尚)
④邪馬台国近畿説と古田説はなぜすれ違うのか(八尾市・服部静尚)
⑤続・伊勢大神考 記紀に見る二倍年暦の痕跡(大阪市・西井健一郎)
⑥中国・朝鮮古文献に見る「倭」と「倭人」の使い分けについて(奈良市・出野正)
⑦「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」(川西市・正木裕)
⑧「グビ嶼」が証明する『隋書』の「流求」は「沖縄」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(ギリシア旅行を断念。旅行は古田先生抜きで実施予定)・古田先生購入依頼『真宗聖教全書』昭和15年版入手、提供。同版掲載の「教行信証」には「主上」の二字が消されている・勝部遺跡収蔵庫見学・テレビ視聴(古代の土木技術-版築の来た道、尼寺を考える、漆の食器、よみがえる総天然色の列車たち)・その他


第878話 2015/02/20

『古田史学会報』

126号のご紹介

 今日は早朝から名古屋で仕事をした後、今は新幹線で新大阪に向かっています。午後からは大阪で代理店と仕事の打ち合わせを行います。名古屋から京都駅を素通りして大阪に向かうというのも、何となく変な感じです。いつもは出張から京都駅に戻って、京都タワーを見ると何かほっとするのですが、新幹線を降りずに通り過ぎるのはちょっと違和感があります。

 『古田史学会報』126号が発行されましたので、ご紹介します。掲載稿は次の通りです。常連組の原稿で占められましたが、新人の投稿を期待しています。

○平成二十七年、賀詞交換会のご報告  京都市 古賀達也
○犬を跨ぐ  山東省曲阜市 青木英利
○「室見川銘板」の意味するもの  奈良市 出野 正
○盗用された任那救援の戦い -敏達・崇峻・推古紀の真実-(下)  川西市 正木 裕
○先代旧事本紀の編纂者  高松市 西村秀己
○四天王寺と天王寺  八尾市 服部静尚
○盗用された「仁王経・金光明経」講話  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(上)  京都市 古賀達也
○年頭のご挨拶  代表 水野孝夫
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記  西村秀己


第877話 2015/02/19

竜田関が守る都

 「前期難波宮」

 今日は朝から東京で仕事です。夕方までには仕事を終えて、名古屋に向かいます。今はお客様訪問の時間調整と休憩のため、八重洲のブリジストン美術館のティールーム(Georgette)でダージリンティーをいただいています。同美術館では五月からの改築工事を前にして「ベスト・オブ・ザ・ベスト」というテーマで美術館所蔵名画の展覧会が開催されています。改築に数年かかるとのことで、このお気に入りのティールームともしばらくの間、お別れです。

 さて、古代の「関」で有名なものに「竜田関(たつたのせき)」があります。河内から大和に入るルートとして大和川沿いの道(竜田越)があるのですが、そこに設けられたのが「竜田関」です。その比定地は河内側ではなく大和側にあります(「関地蔵」が残っています)。ということは、関ヶ原と同様に、守るべき都から見て、峠の外側(下側)に「関」はあるはずですから、この竜田関は大和方面から河内に侵入する「外敵」に対しての「関」ということになります。そして、河内方面にあった都とは「前期難波宮」しかありませんから、竜田関は前期難波宮防衛の為の施設であり、「外敵」として大和方面からの侵入者を想定していることになります。
 このことに気づかれたのが服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)です。すなわち、竜田関は九州王朝の副都「前期難波宮」を大和(方面)の勢力から防衛するために設けられた「関」ではないかとされたのです。
 この服部説には説得力があります。もし、前期難波宮が「大和朝廷」の都であったとしたら、自らの故地であり勢力圏でもある大和との間に「関」を造る必要性は低く、もし造るとしても河内方面からの大和への侵入を防ぐ位置、すなわち河内側に「関」を作るのが理の当然ですが、どういうわけか大和側に竜田関は造られたのです。従って、この竜田関の「位置」は「前期難波宮」九州王朝副都説を支持しているのです。少なくとも、大和朝廷一元史観では合理的な説明ができません。
 このような竜田関の位置関係から、次のように言えるでしょう。すなわち、九州王朝は副都「前期難波宮」の造営に伴って、大和からの侵入に備えたのです。このことから、九州王朝は「大和朝廷」を無条件で信頼していたわけではないこともわかります。
 この「関」についての服部論文が『古代に真実を求めて』18集に掲載されますので、是非、ご一読ください。


第876話 2015/02/18

雪の関ヶ原を通過して

 今日の午前中は京都市内の代理店を訪問し、今は新幹線で東京に向かっています。車窓の風景が急に吹雪に変わったので、どこらへんだろうかと注視すると関ヶ原でした。吹雪は一瞬だけで、関ヶ原を抜けると青空が見えてきました。
 ご存じのように関ヶ原は有名な合戦場で、石田三成率いる西軍は、徳川軍を大垣城で迎え撃つことをやめ、関ヶ原で迎え撃っています。関ヶ原という地名からもわかるように、古代から「関」(不破関・ふわのせき)が置かれていた要衝の地です。京都防衛のため峠の外(東)側に「関」はあったのではないでしょうか。東山道を東から京都へ攻め上る外敵を待ち受けるには、峠の上に布陣し、美濃平野から狭い関ヶ原に進む敵を上から攻撃するほうが有利だからです。
 明治時代にこの「関ヶ原の戦い」の布陣図を見たドイツ参謀本部のメッケルは西軍の勝利と判断したそうです。それほど有利な布陣を敷いて石田三成は徳川軍を待ち受けたのですから、勝利を確信していたのではないでしょうか。結果は小早川の「裏切り」やその他の「日和見」により東軍の勝利となったわけですから、徳川家康の方が一枚上手だったということです。ちなみにメッケルは明治政府の要請で日本陸軍参謀教育のために来日していました。後の日露戦争のとき、欧州では誰もがロシアの勝利を予想していましたが、メッケルだけは日本陸軍には自分が育てた優秀な参謀がいるから、日本が勝つと言っていたそうです。
 なお、「参謀本部」を最初に創設したのはナポレオンに負けたドイツ(プロイセン)でした。天才ナポレオン一人に対して多数の秀才参謀によるチームワークで戦うという方針のもとに、敗戦国ドイツは参謀本部(軍事の強化)とベルリン大学(自然科学の強化)を創設し、ナポレオンとの次の戦いに備え、普仏戦争やワーテルローの戦いで雪辱をはたしたことは有名です。
 このように守るべき都から見て、峠の外側に「関」を置くということは軍事上からも当然のことなのですが、服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者)はこの「関」について大発見をされました。(つづく)


第875話 2015/02/17

松浦光修編訳

『【新釈】講孟余話』を読む

 今朝は加古川行きのJR新快速の車中で松浦光修編訳『【新釈】講孟余話』(PHP研究所、2015年1月)を読んでいます。『講孟余話』は吉田松陰の主著として有名です。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の影響もあり、約20年ぶりに吉田松陰の本を読んでいます。
 前回の「花燃ゆ」は松陰が野山獄で囚人に対して『孟子』の講義を行っている場面でしたが、この『孟子』講義が出獄後も家人らを対象にして続けられ、その講義録が『講孟余話』です。松陰の生き様や思想が綴られており感動的な内容ですが、中でも下田の獄舎での金子重之助(松陰とともに密航しようとした人物)とのことを記した「尽心」上・首章の記述は、学問を志す一人として胸を打たれました。その原文を抜粋します。

 「余(松陰)、甲寅の歳、渋木生(金子重之助の変名)と下田獄に囚はる。僅か半坪の檻に両人座臥す。日夜、無事なるに因(よ)りて番人に頼み、『赤穂義臣伝』・『三河後風土記』・『真田三代記』など、数種を借りて相共に誦読す。時に両人、万死自ら期す。今日の寛典に処せらるべきこと、夢にだも思はざることなり。
 因りて余、渋木生に語り云はく、「今日の読書こそ真の学問と云ふものなり(中略)
 両人獄に在る時、固(もと)より他日の大赦は夢にも知らぬことなり。然れども道を楽しむは厚く、学を好むの至り、斯(かく)の如し。今、吾が輩両人、亦(また)此の意を師とすべし」と云へば、渋木生も、大(おおい)に喜べり。」『講孟余話』(「尽心」上・首章)※()内は古賀による。

 畳一畳の狭い獄舎に繋がれ、死罪になる身にもかかわらず、このような状況だからこそ「真の学問」が行えると、松陰は金子重之助に中国の故事をあげて説明しているシーンの回想です。下田の獄舎での講義を松陰は他の囚人にも聞こえるように大声で行い、この講義を聞いた多くの囚人が感激したと松陰は記しています。この『講孟余話』執筆時も松陰は萩の自宅で謹慎の身でした。
 この獄舎での松陰の行いは、南アフリカのマンデラ大統領が長期の獄中生活にあっても他の囚人への教育活動を続け、「マンデラ大学」と称されていたことと相通じるもので、たいへん感慨深い話です。ですから、山口県の人々(安倍総理も)が今も吉田松陰のことを「松陰先生」と敬愛の念を込めて呼ぶことは深く理解できるのです。
 現代日本では、学問や歴史の真実よりも、お金・地位・名誉が大切な御用学者による御用史学が跋扈しています。このような時代だからこそ、わたしたち古田学派は吉田松陰のように「真の学問」が行えるのであり、それは大いに喜ぶべきことと思われるのです。


第874話 2015/02/15

京あすか「ロゼッタ石の解読」

 「古田史学の会・四国」の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)から同人誌『海峡』第33号(平成27年1月)が送られてきました。「古田史学の会・四国」会員の白石恭子さん(ペンネーム:京あすか)のエッセー「ロゼッタ石の解読」が掲載されていました。
 エジプトのロゼッタ石の古代エジプト文字を解読したフランソワ・シャンポリオンのことを記したエッセーで、2006年にロシアで出版されたワレーリー・ミハイロビッチ・ボスコイボイニコフ著『すばらしい子供たちの日々』(オニクス社)の一節を白石さんが訳されたものです。シャンポリオンの生い立ちや子供の頃から天才的才能の持ち主であったことなどが紹介されており、とても興味深く読みやすいエッセーでした。
 末尾には古田先生のことをシャンポリオンに匹敵する歴史学者であると、次のように紹介されています。

 「現在、日本のシャンポリオンとも言うべき偉大な歴史学者がいます。元昭和薬科大学教授で、文献史学の研究に打ち込んでこられた古田武彦先生です。シャンポリオンは四一才で亡くなりましたが、古田先生は八八才で現在もお元気です。先生は、これまで日本書紀に基づいて語られてきた日本の古代史に数々の疑問を呈してこられました。四〇年余り前に先生の著作『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』という本が朝日新聞より刊行され、話題になりました。」

 このように紹介され、次の一文でエッセーを締めくくられています。

 「古田先生は日本の古代史の常識を覆した歴史学者として歴史に刻まれることでしょう。」

 このように、様々な分野の人々により古田先生の偉業が語られ、発信されています。わたしも古田先生のお名前が歴史に刻まれることを全く疑っていません。