邪馬台国一覧

第3502話 2025/07/04

炭素14 年代測定法の原理と限界

 ―谷本茂さんからのメール―

 「洛中洛外日記」3501で紹介した、浦野文孝さんの「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」(注)を読まれた谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から次のメールが届きました。内容は理系研究者(京都大学工学部電子工学科卒)の視点で、炭素14年代測定法の限界を科学的に指摘したものです。当該部分を転載します。

【谷本茂さんからのメール(抜粋)】
〝非常に興味深い情報をご報告戴き、有難うございます。(中略)

 浦野文孝さんの分析については、測定データから較正曲線(Intcal20)を使って実年代を求める方法において、年代較正ソフトOxCalを用いておられるのですが、その結果を利用するのは良いとしても、(厳密に評すれば)統計的推論法の基礎的な理解に若干不正確な部分があるようです。

 それはともかく、大枠として、浦野氏の簡明な論理は、通説と同じデータに依拠しながら、通説の解釈の内部矛盾を鋭く指摘して、あっぱれですね!
土器形式による編年の論理的制約を認識しておられて、理系的論理思考ができる人なのだと感心しました。まぁ、元々の歴博や奈文研などの箸墓のC14測定データの解釈が曲解の類だったのですから、その欠点を簡明な論理で突いた点は、見事だと思います。いつまでも無理な解釈は維持できず、通説のメッキが剥げてきたということでしょうか…。

 ちなみに、C14法で、実年代がピンポイント(例えば、±10年)で分かると考えるのは大きな誤解です。データの測定誤差および較正曲線の幅(統計的有意性の範囲)などを考慮すれば、どんなに条件の良い場合でも、約1世紀分の幅(±50年)がありますし、通常は±100年程度の精度(あるいは確度)のものなのです。

 歴博の論文で、箸墓の築造時期が±10年の幅で特定されたというような記載もありましたが、明らかに較正曲線の読み取り結果の解釈の誤りです。測定論や統計的推論を知っているものからすれば、初歩的な解釈誤りでした。(現在はどう解釈されているのか知りませんが…)〟【転載終わり】

 この谷本さんの指摘は全くその通りだと思います。わたしも現役時代に、化学製品の品質管理と検定業務の責任者をしていたことがありますが、製品の品質を精確に測定するためには、測定機器の精度や測定原理が測定目的に対して適切であることの確認は、基本中の基本です。

 そうした意味からすると、炭素14年代測定法は100年単位のざっくりとした年代測定には科学的で優れた効果を期待できますが、10年単位の測定精度など原理的に望むべくもありません。言わば、1cm単位のメモリしかない定規で、1mmほどの砂粒の大きさを測れるのかというレベルの初歩的な問題です。
倭人伝に記載された「邪馬台国」(原文では邪馬壹国)を探るのであれば、例えば1mmほどの砂粒の大きさを測定するためには、せめて0.1mm単位、できれば0.01mm単位のメモリを持つ定規で測らなければならないように、較正曲線(intCAL)そのものが幅を持つ炭素14年代測定法ではなく、年輪年代測定法や年輪セルロース酸素同位体比測定法などに頼らざるを得ません。もちろんその場合でも、必要な測定条件・サンプリング環境(手法)が要求されます。(つづく)

(注)浦野文孝「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」『note』二〇二四年九月二日。
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

 

《以下、倉沢さんによる英訳》
‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3502 July 4th,2025
The principles and limitations of carbon-14 dating method
―Email from Mr.Shigeru Tanimoto―

I received the following email from Mr.Shigeru Tanimoto (editor of ‘Seeking the Truth in Antiquity’), who read the article by Mr.Fumitaka Urano introduced in ‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3501, titled ‘Hashihaka is around AD300, and Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence’ (Note).
The content scientifically points out the limitations of the carbon-14 dating method from the perspective of a science researcher (a graduate of the Department of Electronic Engineering at Kyoto University, who has excelled at Hewlett-Packard and Agilent Technologies).
I will quote the relevant part.

【Email from Mr. Shigeru Tanimoto (excerpt)】
Thank you for providing very interesting information. (Omitted)
Regarding the analysis by Fumitaka Urano, although he uses the calibration curve (Intcal20) to obtain actual ages from measurement data with the age calibration software OxCal, while it is good to utilize those results, there seem to be some inaccuracies in his basic understanding of statistical inference (if evaluated strictly).
That aside, in broad terms, M.Urano’s concise logic is impressive as it sharply points out the internal contradictions of the conventional interpretation while relying on the same data as the mainstream view!
I was impressed that he recognized the logical constraints of dating based on pottery forms and that he was someone capable of scientific logical thinking.
Well, since the original interpretations of the C14 measurement data from historical museums and the Nara National Research Institute were somewhat distorted, I think it is impressive that the point that clearly pinpointed those shortcomings with straightforward logic.
Perhaps it means that we can no longer maintain unreasonable interpretations forever, and the veneer of common theory has begun to wear off…
By the way, it is a major misunderstanding to think that the actual age can be pinpointed (for example, ±10 years) using the C14 method.
Considering factors such as measurement errors in data and the range of calibration curves (statistically significant range), there is a width of about one century (±50 years) even under the best conditions, and typically the precision (or accuracy) is about ±100 years.
In the historical museum’s paper, there was a mention that the construction period of the Hashihaka Tomb was identified within a margin of ±10 years, but this is clearly an erroneous interpretation of the calibration curve reading results.
For those who are familiar with measurement theory and statistical inference, it was a basic interpretative error.
(I don’t know how it is currently interpreted, but…) [End of reproduction]

I completely agree with Mr.Tanimoto’s point.
During my active years, I was also responsible for quality control and testing operations of chemical products, and in order to accurately measure the quality of products, it is fundamental to confirm that the precision of measuring instruments and the measurement principles are appropriate for the purpose of measurement.
In that sense, carbon-14 dating can be expected to have a scientifically significant and excellent effect for rough dating on the order of hundreds of years, but it is fundamentally not possible to achieve measurement accuracy on the order of tens of years.
It’s a basic problem, so to speak, of whether you can measure the size of a grain of sand, which is about 1mm, with a ruler that only has markings at 1cm intervals.
If we are to investigate the “Yamatai(臺) Kingdom” (referred to as Yamawi (壹) Kingdom in the original text) as recorded in the “Chronicles of Japan,” we must rely on methods such as dendrochronology or the measurement of cellulose oxygen isotopes in tree rings, rather than the carbon-14 dating method, which has a wide calibration curve (intCAL).
Just as measuring a sand grain’s size, roughly 1mm, requires at least a ruler with divisions of 0.1mm, ideally 0.01mm, so too does our inquiry into Yamatai necessitate more precise methodologies.
Of course, even in that case, the required measurement conditions and sampling environment (methods) will be necessary. (to be continued)

(Note) Urano Fumitaka “Hashihaka is around AD300, Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence” ‘note’ September 2, 2024.
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

(Photos) A transcript of a lecture by Mr. Tanimoto and Koga published in “Criticism of Eastern Historical Sources – A Challenge from ‘Honest History'” (2001).
A transcript of the lecture held at the Asahi Shimbun building in Tokyo to commemorate the 30th anniversary of the publication of “There Was No ‘Yamataikoku'”.


第3501話 2025/07/01

箸墓とホケノ山、C14年代の比較論

 ―浦野文孝さんの編年方法―

 6月22日に開催した『列島の古代と風土記』出版記念講演会で講演していただいた久住猛雄さんの主張「考古学では編年が基本」という言葉に触発され、新しい情報に基づく弥生編年について勉強し直しています。そうしたところ、とてもシンプル(単純明解)でロバスト(強固)な論理構造を持つ面白い論証をWEB上で見つけました。浦野文孝さんの「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」という論稿〔note〕です(注)。要点部分を抜粋引用します。

〝シンプルでわかりやすい根拠
箸墓周濠小枝、ホケノ山小枝群の測定結果と、両者の前後関係をもとに、以下のように整理できます。

・ホケノ山から出土した小枝群の炭素14年代測定によると、ホケノ山古墳は270年前後または4世紀後半の確率が高い。どちらが正しいかはわからない
・箸墓周濠から出土した小枝の炭素14年代測定によると、箸墓古墳は230年前後または300年前後の確率が高い。どちらが正しいかはわからない
・ホケノ山古墳→箸墓古墳の順番でつくられたと考えられる
(中略)
・ホケノ山古墳は箸墓古墳よりも古いのだから、4世紀後半の可能性は消え、270年前後が確定する
・ホケノ山古墳が270年前後で、ホケノ山古墳は箸墓古墳よりも古いのだから、箸墓古墳の230年前後の可能性は消え、300年前後が確定する

 これが僕の「箸墓古墳は300年前後、ホケノ山古墳は270年前後」の年代推定の根拠になります。とてもシンプルでわかりやすいです。〟

 この浦野さんの論理構造はわかりやすく、反論しにくいように思います。箸墓古墳が300年前後に編年されると、同様に布留0式も300年前後の土器となり、同種の土器が出土した各地の遺構や古墳の編年も軒並み300年頃となり、おそらく「邪馬台国」畿内説の根拠(鏡や土器)が失われるのではないでしょうか。

 ちなみに浦野さんは自説を「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」とされていますので、「邪馬台国」東遷説に近いのかもしれません。古田先生の邪馬壹国博多湾岸説とは異なりますが、注目したい論者です。(つづく)

(注)浦野文孝「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」『note』二〇二四年九月二日。
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1


第3361話 2024/10/04

関川先生の講演資料(32シート)完成

 昨日の午後7時から7時間ほどかけて、10/27創立30周年記念東京講演会での関川先生の発表資料を作成しました(全32シート)。おかげで寝不足です。

 当初、ワードで作成を試みていましたが、写真の配置設定が困難なので、正木裕さん(当日の講師)のアドバイスにより、パワポで作成したらスムーズに進みました。弥生時代から古墳時代前期の銅鏡についての資料が多く、今まで以上に面白い講演になると思います。

 関東地区の会員の皆さん、古代史ファン、「邪馬台国」ファンの皆様に喜んでいただけるはずです。引きつづき、チェックを行い、印刷にまわします(多元的古代研究会に印刷をお願いしています)。

 「ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実 畿内に邪馬台国はなかった」をメインテーマにして、橿原考古学研究所で40年間ヤマトを発掘調査した関川尚功先生と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事・講師)による講演会です。お知り合いの古代史ファンの方にご紹介いただければ幸いです。

〔演題・講師〕
○畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
関川尚功 氏(元・橿原考古学研究所々員)

○本当の「倭の5王」 ―不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル―
正木 裕 氏(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事・講師)

〔日時〕2024年10月27日(日) 午後1時30分~4時30分
〔会場〕文京区民センター 2A会議室 (東京都文京区本郷4丁目)
〔参加費(資料代)〕1000円
〔お問い合わせ先〕046ー275ー1497(和田)

         075-251-1571(古賀)
〔主催〕古田史学の会 多元的古代研究会
〔協力〕古田武彦と古代史を研究する会


第3357話 2024/09/30

関川尚功先生と東京講演会の打ち合わせ

 今日は奈良市に向かい、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)と二人で関川尚功(せきがわ・ひさよし)先生(元・橿原考古学研究所々員)と10月27日(日)の東京講演会の講演内容について、詳細にわたり打ち合わせを行いました。リハーサルを兼ねて、講演に使用する写真・図約60枚について解説していただきました。

 邪馬壹国時代の弥生後期を中心として、古墳時代前期の畿内と北部九州などから出土した鏡・鉄器製造遺物(ふいご、砥石、小鉄片)・銅鐸、古墳内の石室・木郭などを紹介され、ヤマトには「邪馬台国」の片鱗も見えず、それに比べて北部九州の金属器などの先進性が、これでもかこれでもかと説明が続きました。更に、弥生後期の金属器文化が古墳時代になるとヤマトへ流入したことも教えていただきました。こうしたことを10月27日、東京(文京区民センター)で報告されます。恐らく、関東の皆さんには初めて聞く内容ではないでしょうか。

 関川先生から提供された写真をレジュメとして編集する作業に入ります。『古代に真実を求めて』28集の投稿も多数届いていますので、その査読や自らの研究・執筆、講演の準備などが重なり、10月は超多忙な日々が続きます。健康に留意して頑張りますが、「古田史学の会」を支える次の世代や後継者の発掘・引き継ぎも鋭意進めたいと考えています。皆さんのお力添えもお願いいたします。


第3332話 2024/08/07

創立30周年記念東京講演会の案内

 多元的古代研究会と古田史学の会は創立三十周年を迎え、同記念東京講演会を共同で開催することになりました。

 「ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実 畿内に邪馬台国はなかった」をメインテーマにして、橿原考古学研究所で40年間ヤマトを発掘調査した関川尚功先生と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事講師)による講演会です。

 中でも、〝畿内からは弥生時代の邪馬台国の片鱗(中国製銅鏡・多くの鉄器・北部九州の土器・首長墓など)も出土しない〟とする関川先生の指摘は、NHKを始めとする東京のメディアは報道しませんが、奈良を発掘してきた考古学者にはよく知られている考古学的事実です。関川先生の東京での講演は初めてのことであり、全国の古代史ファン・古田史学ファンの皆様の参加を呼びかけます。

〔演題・講師〕
○畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
関川尚功 氏(元・橿原考古学研究所々員)

○本当の「倭の5王」 ―不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル―
正木 裕 氏(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事講師)

〔日時〕2024年10月27日(日) 午後1時30分~4時30分
〔会場〕文京区民センター 2A会議室 (東京都文京区本郷4丁目)
〔参加費(資料代)〕1000円
〔お問い合わせ先〕046ー275ー1497(和田) 075-251-1571(古賀)
〔主催〕古田史学の会 多元的古代研究会
〔協力〕古田武彦と古代史を研究する会


第3312話 2024/06/27

関川尚巧(元橿原考古学研究所)さん

           との考古談義

 一昨日、奈良市で関川尚巧(せきかわ ひさよし)さんと長時間考古学・古代史談義をしました。関川さんは元橿原考古学研究所の考古学者で、学生時代から40年近く大和・飛鳥を発掘されてきた方です。今でも、発掘の現地指導をしているそうです。そうした永年の経験に基づいた〝大和に邪馬台国はなかった〟とする『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(注①)の著者でもあります。「古田史学の会」でも講演していただきました。

 今回の面談では、「多元的古代研究会」「古田史学の会」創立30周年記念東京講演会(日程・会場は未定)での講演依頼とその打ち合わせを行いました。「古田史学の会」からは正木事務局長・竹村事務局次長・上田事務局員とわたしが出席し、打ち合わせ後は三時間にわたり考古学や古代史について歓談が続きました。

 関川さんの遺跡発掘体験談の数々をお聞きしましたが、なかでも太安萬侶墓発掘時(注②)のエピソードはとても興味深いものでした。同墓は茶畑開墾中に発見されたとのことで、そのとき墓誌が移動したため、墓誌本来の位置が不明だったのですが、墓誌の破片の一部が本来の場所に残っていることを関川さんが発見され、その破片の場所が本来の墓誌の位置であることを確定できたとのことでした。この他にも、飛鳥や奈良県から出土した多くの有名な遺跡発掘調査に関川さんが携わられていることをうかがうことができました。

 ちなみに、「邪馬台国」畿内説は全く成立せず、北部九州であるという点は、わたしたちと完全に意見が一致したことは言うまでもありません。氏の考古学に対する情熱や真摯な学問精神は共感するところ大でした。関東の皆さんにも関川さんの講演を聴いて頂きたいと願っています。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②1979年(昭和54年)、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土した。


第3271話 2024/04/16

『古田史学会報』181号の紹介

本日届いた『古田史学会報』181号を紹介します。同号には拙稿〝『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名〟と〝「倭国から日本国へ」発刊のお知らせ〟を掲載して頂きました。前者では、愛媛県東部に濃密分布する「天皇」地名や伝承の歴史的背景に、当地の有力氏族越智氏が九州王朝より天皇号を許されたことがあったのではないかとするものです。後者は「倭国から日本国へ」の紹介と、『古代に真実を求めて』の投稿規定などを転載しました。

同号一面の正木稿は、過日報道されたNHKスペシャル古代史ミステリーの報道姿勢と番組内容を鋭く批判したものです。わたしも同番組を見ましたが、それは酷い偏向番組で、放送法に定められた公平の原則を完全に無視した内容でした。正木稿でも指摘されていますが、〝「ヤマト説の解説」ですらなく「邪馬台国はヤマト、倭の五王はヤマトの大王」を自明〟とした番組でした。

同番組は明らかに意図的な「情報操作」がなされていました。それは箸墓古墳の炭素同位体年代測定値による造営年代を三世紀前半とする解説場面の右下に、その根拠とした論文名が小さな字で記されていました。それを見て、現在では不正確とされている測定値を採用していたことがわかりました。念のために録画で確認しましたが間違いありませんでした。それは次の説明文です。

国立歴史民俗博物館研究報告2011
「古墳出現期の炭素14年代測定」

この2011年の報告書は、炭素14年代測定値の補正(較正)に国際補正値intCAL09を採用しています。専門的になりますので結論のみ言いますと、この国際補正値は数年毎に見直されており、近年では2009年、2013年、そして直近では2020年に見直されています。日本で開発されたJ-CALの補正データを採用した2020年のintCAL20は特に優れており、現在の世界標準になりました。その結果、弥生時代ではintCAL09による補正値が百年ほど古く誤っていたことが明らかとなりました(注①)。

したがって、歴史民俗博物館研究報告2011「古墳出現期の炭素14年代測定」は、intCAL09による補正で箸墓古墳の築造年代を240年頃としたのですが、現在(intCAL20補正)では不正確な数値として批判され、従来の考古学編年通り300350年頃とする炭素年代測定値が最有力とされています。このことは日本の考古学者であれば知らないはずがありません。元橿原考古学研究所の考古学者、関川尚功さんも同様のことを言っておられました(注②)。

NHKの当番組では考古学者の福永伸哉氏(大阪大学大学院教授・考古学)も出ていましたから、NHKの番組作成者がこのintCAL09とintCAL20の精度差を知っていて、後で視聴者から批判されても言い逃れができるように、申しわけ程度に小さな字で画面右下に出典論文名を数秒間提示したと考えざるを得ません。本当に悪質な報道姿勢と番組でした。

ちなみに、放送法第4条には次の条文があります。

(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。こうした姿勢が、現在も全く代わっていないことがよくわかる「NHKスペシャル古代史ミステリー」でした。

181号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』181号の内容】
○緊急投稿 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル(上) 川西市 正木 裕
○倭国天皇の地位について ―西村秀己・古賀達也両氏への回答― たつの市 日野智貴
○「邪靡堆」論への谷本茂氏への疑問に答える 姫路市 野田利郎
○『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名 京都市 古賀達也
○皇暦実年代の換算法について正木稿への疑問 たつの市 日野智貴
○大きな勘違いだった古代船「なみはや」の復元 京都府大山崎町 大原重雄
○「倭国から日本国へ」発刊のお知らせ 古田史学の会・代表 古賀達也
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○2024年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2827話(2022/09/05)〝「夏商周断代工程」と水月湖の年縞〟
萩野秀公「若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国」『古田史学会報』171号、2022年。
②令和三年六月十九日に開催された奈良市での講演会(古田史学の会・主催)で、関川尚功氏は、炭素14年代測定での国際補正値(IntCAL)と日本補正値(JCAL)とでは弥生時代や古墳時代では百年程の差が生じるケースがあると指摘された。
古賀達也「洛中洛外日記」2497話(2021/06/20)〝関川尚功さんとの古代史談義(1) ―炭素14年代測定の国際補正値と日本補正値―〟


第2488話 2021/06/12

文献史学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、「邪馬台国」大和説を鋭く批判している関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)ですが、肝心の「邪馬台国」の位置については、その論理的だった姿勢に揺らぎがみえます。たとえば、『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には「邪馬台国」の所在について次の記述があります。

〝文献史学の大勢である邪馬台国九州説〟86頁

〝邪馬台国の位置問題についても、このような北部九州を起点とする、大きな文化の流れの中にあることは明らかで、その中で近畿中部の優位性を説くことは不可能である。〟160頁

〝邪馬台国は、このような対中国外交を専権として、他地域とは隔絶した内容をもつ、北部九州地域の中においてのみ出現することが可能であったと理解するのが、やはり順当な見方といえよう。
 このような趨勢においては、邪馬台国大和説は成り立つ術はないのである。〟161頁

〝当時の中国の政治情勢をみると、日本列島の中においては、九州以外に邪馬台国の存在を考えることはできないことになる。〟171頁

〝また、『魏志』は中国正史であるため、位置問題についても、それまで特に東洋史家を中心とした解釈と大局的な観点により、文献上からは、ほぼ九州説が大勢であるといえるのが主な邪馬台国論考を通覧してみた感想である。〟188頁

 このように、関川さんはご自身の専門分野である考古学だけではなく、文献史学・東洋史・地政学など多方面にわたる関連諸学の知見も取り入れて、「邪馬台国」の所在地を北部九州とされています。ところが、北部九州のどこかという問題には答えておられません。
 その理由は、文献史学の学者が、列島内最大規模の博多湾岸遺跡群を奴国(二万余戸)に比定してしまったため、奴国以上の規模(七万余戸)の「邪馬台国」(倭人伝原文は邪馬壹国)の候補地とできる弥生時代の大型遺跡など日本列島にはなく、そのために比定地を見失ってしまったことによります。その結果、関川さんは次のような結論へと向かわれました。

〝邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに超えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟180~181頁

〝卑弥呼の宮殿の行方
 このような遺跡の現状をみると、女王が都する所とされた邪馬台国中枢に相当する遺跡は、必ずしも湾岸地域にある奴国級の大型遺跡であると想定することはできないであろう。〟181頁

〝結論は、九州説の内容を肯定するというよりも、大和説は成り立たないという、いわば消去法による邪馬台国位置論という結果になった。〟187頁

 すなわち、関川さんのような文献にも詳しい考古学者でも、文献史学の〝誤解〟に躓かれたと言わざるを得ません。
 それではなぜ文献史学ではこのような結論、「邪馬台国」の位置不明となる博多湾岸「奴国」説に至ってしまったのでしょうか。それは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』(注②)で提唱された、魏西晋朝における「短里」(1里約76m)の概念が、古代史学界にはなかったことによります。倭人伝の里程記事は短里で書かれており、それによれば、邪馬壹国の位置は博多湾岸となり、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を倭国の都に比定でき、文献史学と考古学の結論が整合できるのです。
 関川さんの古代史講演会(注③)もいよいよ一週間後となりました。この奴国の位置比定の根拠と当否について、ぜひともお聞きしたいと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2487話 2021/06/11

「邪馬台国」大和説と畿内説の落差

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」大和説が成立しないとする根拠として、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)か指摘された〝鉄器の証言〟〝伊都国の証言〟の他にも、いかにも実証的な考古学者らしい指摘が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にはあります。たとえば同書のタイトルにも用いられている「大和説」という表現です。学界では、ほぼ同じ意味で「畿内説」とも呼ばれていますが、関川さんは両者をあえて区別されています。次のとおりです。

〝畿内説と大和説
 邪馬台国の位置問題においては、九州説に対して近畿地方にその所在地を求める説を、畿内説と呼ぶことが多い。これは、主に近畿圏外からの呼び方という印象がある。
 しかし、近畿中部にあたる畿内と一言でいっても、その範囲は大和・河内・山城など、広域にわたっている。しかも、これら古代近畿の域内においても、かなりの地域差がみられるので、それらの遺跡や古墳を一律に扱うことはできない。畿内という名称自体も、以後の時代の用語である。
 また、近畿の中でも大和周辺地域では、ここ以外に邪馬台国の有力な候補地は挙げられてはいない。小林行雄も、邪馬台国の所在地を明確に大和としているので、ここでは大和説としておきたい。〟17~18頁

 このように述べ、具体的な地域差として、次の例をあげられています。

〝金属製品の少なさ
 大和地域の弥生遺跡から出土した鉄製品は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、そのほか六条山や三井岡原遺跡のような丘陵性遺跡出土の鉄鏃等、大型集落の平等坊・岩室遺跡の鉄斧をはじめ、総数10点余りにすぎない。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を超えており、それと比較しても格段に少ないというのが実態である。
 さらに、鉄器の製作にかかわる遺構や遺物は、まだ知られていない。大和では、弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示すものとなる。
 また、青銅製品については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点が報告されている。(中略)この中で最も多いのは、24点の銅鏃であり、また銅鏡がほとんどみられないことも大和の弥生遺跡総体にみる傾向である。(中略)近畿の中で、その遺跡数をみると、河内を中心とする大阪府が10カ所を越えて最多となる。
 大和地域は、近畿圏の中で金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い。〟35~36頁

 このような関川さんの、いわば「内部告発」のような指摘を読んで、わたしは驚愕しました。〝弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示〟し(注②)、〝金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い〟大和地域に、倭国女王(俾弥呼)の都、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国)が存在したとする「邪馬台国」大和説なるものが、なぜ学問的仮説といえるのか、なぜ考古学界では多数意見となるのか、わたしには到底理解しがたいのです。
 「王様は裸だ」。これが、関川さんの著書を読み終えての、わたしの第一の感想です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、昭和五四年〔1979〕)で、このことを指摘されている。


第2486話 2021/06/11

「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました。その中でも、なるほど面白い視点と思ったのが「邪馬台国」と伊都国との位置関係についての次の指摘でした。

〝邪馬台国と伊都国
 『魏志』によれば、邪馬台国の外交は伊都国を窓口としている。ここには「一大率」が置かれ、また帯方郡使が留まり、さらに魏王朝からの重要な文書・賜物の点検が行われ、その後に邪馬台国への伝送を行うところであったという。この北部九州の伊都国から近畿大和までは、帯方郡から伊都国までの距離に及ぶほどの遠距離である。
 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
 これら国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。〟177頁

〝仮に邪馬台国が大和であるならば、後の事例からみてその外港の位置は、おそらく河内潟や大阪湾岸地域であろうから、伊都国が外港である邪馬台国は大和ではありえない、ということにもなる。〟178頁

 倭国と魏王朝との外交の窓口(外港)とされる伊都国は、倭国の都である邪馬台国(原文は邪馬壹国)と遠くない位置になければならず、したがって、「邪馬台国」大和説は成立しないという論理は単純明快で、反論が困難です。このテーマは、『三国志』倭人伝に関する文献史学の論理的問題ですので、考古学者の関川さんからこうした指摘がなされていることに驚きました。このことが、同書を「わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と評した理由の一つでした。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟


第2485話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟大和説、鉄器の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注①)において、考古学の視点から、邪馬壹国博多湾岸説の根拠として、漢式鏡・鉄器・絹などの出土量が大和に比べて北部九州が圧倒的に多いことを指摘されました。「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)も『考古学から見た邪馬台国大和説』(注②)で同様の見解を述べられています。

〝邪馬台国大和自生説の困難さ
 さらに、邪馬台国が大和において自生的に出現したというのであれば、すでに弥生時代の早い段階から近畿大和が北部九州より、対外交流や文化内容においても卓越性を持っていなければならないことになる。
 しかし、3世紀以前、時期を遡るほど北部九州の弥生文化は、中国王朝との交流実態を示す有力首長墓の副葬遺物を始めとして、近畿大和と比較にならないほどの内容をもっていることは明らかである。首長墓の地域比較においても、大和地域の墳墓が、北部九州に次ぐ瀬戸内・山陰・北陸地方の大型墳丘墓にも達していないという、その事実を認識する必要がある。古墳の出現年代を遡らせ、それを邪馬台国と結びつけるということは、むしろ近畿大和における邪馬台国の自生的な成立を、さらに困難にさせることになるのである。
 このことから、有力首長墓の存在が確認できず、さらに対外関係と無縁ともいえるこの時期の大和地域において、北部九州の諸国を統属し、積極的に中国王朝と外交を行った邪馬台国のような国が自生するということは、考え難いことといえよう〟147~148頁

 鉄器の出土について、次のように述べられています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が示すもの
 先にふれたように、庄内式の終わり頃、纒向遺跡で出土した鉄器製作にかかわる鞴(ふいご)の羽口には、福岡県・博多遺跡群と同じ形のものがある。そして、ここでは半島南部の陶質土器も伴っている。これをみても、この時期の鉄器生産技術というものが、半島南部より北部九州を経て及んだものであることは疑いない。
 (中略)この博多遺跡群について重要なことは、遺跡の所在するところが、『魏志』にいう「奴国」の領域にあたることである。(中略)博多遺跡群における鉄器生産の規模は、この時期では列島内最大級という圧倒的なものである。北部九州から発する鉄器生産技術の広がりは、纒向遺跡のみならず、関東地方の遺跡まで及ぶという、はるかに広域な地域にわたっている。〟148~149頁)

 そして次のように結論されています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が、箸墓古墳の造営が始まるような時期に、ようやく北部九州からの技術導入で始まっているという事実は、やはり鉄の問題においても、邪馬台国大和説とは相いれるものではないことを示しているといえよう。〟150頁

 長く大和の遺跡を調査されてきた著者の発言だけに、誰も無視することはできないでしょう。北部九州における鉄器生産規模が圧倒的であることは、考古学者であれば誰もが知っている事実です。以前、大阪の考古学者と意見交換したときも、その方は「邪馬台国」畿内説を支持されていましたが、鉄器に関しては北部九州説が有利であることを正直に認めておられました。(つづく)

(注)
①古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
②関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。


第2484話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟九州説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には、「邪馬台国」研究史における「邪馬台国」〝非〟九州説の発生根拠や論理ついても紹介されています。学問研究においては、自説と異なる意見やその背景となる根拠と論理構造を理解することは大切ですので(注②)、関川さんの著書はとても役立ちます。読者の皆さんにも一読をお奨めします。
 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注③)によれば、江戸時代の松下見林以降の「邪馬台国」畿内説の背景として、〝古代より日本の代表権力者は近畿天皇家だけ〟とする皇国史観にあったことは明らかですが、さすがに現代では、そこまで露骨な理由は通用しませんので、どのような根拠に基づくのかを知りたいと思っていました。関川さんの著書には次のように説明されています。

〝邪馬台国「七万余戸」と弥生遺跡
 邪馬台国の所在地を北部九州の域内とすると、九州説の難点とされる主な理由に、『魏志』に伝える邪馬台国の戸数、「七万余戸」の記述がある。邪馬台国九州説においては、遺跡に対する異論が多い。その大きな理由は、邪馬台国時代の北部九州においては、戸数「二万余戸」の奴国、あるいは伊都国をはるかに越える遺跡は認め難い、ということである。
 それは大正期以来、北部九州の遺跡踏査を重ねた中山平次郎(1871~1956)が、九州説の有力候補地である筑後山門には際だった遺跡がみられないとし、邪馬台国九州説を否定した大きな理由である。
 当時、九州考古学の現状に最も通じた中山が、この踏査の結果を以て邪馬台国山門説を支持するのであれば、考古学上から中山の見解を否定することは、かなり困難な状況であったであろう。
 小林行雄も、「三世紀のことはわからないが、一、二世紀でも、また四、五世紀でも、九州地方に奴国より戸数の多い国がありえたとすることは、考古学的には不可能である。これは邪馬台国九州説にとって、致命的ともいえる難点となろう。」と述べている(小林行雄『女王国の出現』)。(中略)
 邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに越えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟179~181頁

 この説明を読んで、わたしは「なるほど」と思いました。博多湾岸の遺跡を奴国とする以上、それ以上の規模の弥生時代の遺跡などおそらく日本列島にはないと思われます。すなわち、文献史学において、博多湾岸を奴国と比定したことが根本的な誤りであり、その結果、その文献史学の誤った通説に基づいて、考古学者が出土事実を解釈したことが、「邪馬台国」〝非〟九州説の成立根拠と経緯だったわけです。
 古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で述べられたように、『三国志』の時代に「奴」の字が「な」と発音されていた形跡はありません。倭人伝では、「な」の音に「難」「那」の字が当てられており、奴の字音は「ぬ」「の」「ど」が妥当とされました。したがって、後世に博多湾が「那(な)の津」と呼ばれていたことと結びつけて、博多湾岸を奴国に比定したことは、学問的な論証を経ていません。これは明らかに文献史学側の誤りでした。その結果、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を「二万余戸」の奴国としてしまい、「七万余戸」の邪馬壹国に比定できる規模の遺跡が〝所在不明〟になってしまったのでした。
 また考古学側も、国内最大規模の博多湾岸遺跡群を倭人伝中の国に比定するのであれば、最大戸数(七万余戸)の邪馬壹国がもっともふさわしいとする、考古学的出土事実に基づいた判断ができなかったことにも問題があります。
 なぜ、考古学側がこのような判断を現在でも採用しているのかについて、6月19日(土)に奈良新聞本社ビルで開催される関川さんの講演会(注④)の時にお聞きしてみようと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功
②〝学問は批判を歓迎し、相手をリスペクトした真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えています。これは恩師、古田先生から学んだ学問の精神です。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
④「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人