邪馬台国一覧

第2488話 2021/06/12

文献史学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、「邪馬台国」大和説を鋭く批判している関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)ですが、肝心の「邪馬台国」の位置については、その論理的だった姿勢に揺らぎがみえます。たとえば、『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には「邪馬台国」の所在について次の記述があります。

〝文献史学の大勢である邪馬台国九州説〟86頁

〝邪馬台国の位置問題についても、このような北部九州を起点とする、大きな文化の流れの中にあることは明らかで、その中で近畿中部の優位性を説くことは不可能である。〟160頁

〝邪馬台国は、このような対中国外交を専権として、他地域とは隔絶した内容をもつ、北部九州地域の中においてのみ出現することが可能であったと理解するのが、やはり順当な見方といえよう。
 このような趨勢においては、邪馬台国大和説は成り立つ術はないのである。〟161頁

〝当時の中国の政治情勢をみると、日本列島の中においては、九州以外に邪馬台国の存在を考えることはできないことになる。〟171頁

〝また、『魏志』は中国正史であるため、位置問題についても、それまで特に東洋史家を中心とした解釈と大局的な観点により、文献上からは、ほぼ九州説が大勢であるといえるのが主な邪馬台国論考を通覧してみた感想である。〟188頁

 このように、関川さんはご自身の専門分野である考古学だけではなく、文献史学・東洋史・地政学など多方面にわたる関連諸学の知見も取り入れて、「邪馬台国」の所在地を北部九州とされています。ところが、北部九州のどこかという問題には答えておられません。
 その理由は、文献史学の学者が、列島内最大規模の博多湾岸遺跡群を奴国(二万余戸)に比定してしまったため、奴国以上の規模(七万余戸)の「邪馬台国」(倭人伝原文は邪馬壹国)の候補地とできる弥生時代の大型遺跡など日本列島にはなく、そのために比定地を見失ってしまったことによります。その結果、関川さんは次のような結論へと向かわれました。

〝邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに超えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟180~181頁

〝卑弥呼の宮殿の行方
 このような遺跡の現状をみると、女王が都する所とされた邪馬台国中枢に相当する遺跡は、必ずしも湾岸地域にある奴国級の大型遺跡であると想定することはできないであろう。〟181頁

〝結論は、九州説の内容を肯定するというよりも、大和説は成り立たないという、いわば消去法による邪馬台国位置論という結果になった。〟187頁

 すなわち、関川さんのような文献にも詳しい考古学者でも、文献史学の〝誤解〟に躓かれたと言わざるを得ません。
 それではなぜ文献史学ではこのような結論、「邪馬台国」の位置不明となる博多湾岸「奴国」説に至ってしまったのでしょうか。それは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』(注②)で提唱された、魏西晋朝における「短里」(1里約76m)の概念が、古代史学界にはなかったことによります。倭人伝の里程記事は短里で書かれており、それによれば、邪馬壹国の位置は博多湾岸となり、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を倭国の都に比定でき、文献史学と考古学の結論が整合できるのです。
 関川さんの古代史講演会(注③)もいよいよ一週間後となりました。この奴国の位置比定の根拠と当否について、ぜひともお聞きしたいと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2487話 2021/06/11

「邪馬台国」大和説と畿内説の落差

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」大和説が成立しないとする根拠として、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)か指摘された〝鉄器の証言〟〝伊都国の証言〟の他にも、いかにも実証的な考古学者らしい指摘が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にはあります。たとえば同書のタイトルにも用いられている「大和説」という表現です。学界では、ほぼ同じ意味で「畿内説」とも呼ばれていますが、関川さんは両者をあえて区別されています。次のとおりです。

〝畿内説と大和説
 邪馬台国の位置問題においては、九州説に対して近畿地方にその所在地を求める説を、畿内説と呼ぶことが多い。これは、主に近畿圏外からの呼び方という印象がある。
 しかし、近畿中部にあたる畿内と一言でいっても、その範囲は大和・河内・山城など、広域にわたっている。しかも、これら古代近畿の域内においても、かなりの地域差がみられるので、それらの遺跡や古墳を一律に扱うことはできない。畿内という名称自体も、以後の時代の用語である。
 また、近畿の中でも大和周辺地域では、ここ以外に邪馬台国の有力な候補地は挙げられてはいない。小林行雄も、邪馬台国の所在地を明確に大和としているので、ここでは大和説としておきたい。〟17~18頁

 このように述べ、具体的な地域差として、次の例をあげられています。

〝金属製品の少なさ
 大和地域の弥生遺跡から出土した鉄製品は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、そのほか六条山や三井岡原遺跡のような丘陵性遺跡出土の鉄鏃等、大型集落の平等坊・岩室遺跡の鉄斧をはじめ、総数10点余りにすぎない。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を超えており、それと比較しても格段に少ないというのが実態である。
 さらに、鉄器の製作にかかわる遺構や遺物は、まだ知られていない。大和では、弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示すものとなる。
 また、青銅製品については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点が報告されている。(中略)この中で最も多いのは、24点の銅鏃であり、また銅鏡がほとんどみられないことも大和の弥生遺跡総体にみる傾向である。(中略)近畿の中で、その遺跡数をみると、河内を中心とする大阪府が10カ所を越えて最多となる。
 大和地域は、近畿圏の中で金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い。〟35~36頁

 このような関川さんの、いわば「内部告発」のような指摘を読んで、わたしは驚愕しました。〝弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示〟し(注②)、〝金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い〟大和地域に、倭国女王(俾弥呼)の都、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国)が存在したとする「邪馬台国」大和説なるものが、なぜ学問的仮説といえるのか、なぜ考古学界では多数意見となるのか、わたしには到底理解しがたいのです。
 「王様は裸だ」。これが、関川さんの著書を読み終えての、わたしの第一の感想です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、昭和五四年〔1979〕)で、このことを指摘されている。


第2486話 2021/06/11

「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました。その中でも、なるほど面白い視点と思ったのが「邪馬台国」と伊都国との位置関係についての次の指摘でした。

〝邪馬台国と伊都国
 『魏志』によれば、邪馬台国の外交は伊都国を窓口としている。ここには「一大率」が置かれ、また帯方郡使が留まり、さらに魏王朝からの重要な文書・賜物の点検が行われ、その後に邪馬台国への伝送を行うところであったという。この北部九州の伊都国から近畿大和までは、帯方郡から伊都国までの距離に及ぶほどの遠距離である。
 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
 これら国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。〟177頁

〝仮に邪馬台国が大和であるならば、後の事例からみてその外港の位置は、おそらく河内潟や大阪湾岸地域であろうから、伊都国が外港である邪馬台国は大和ではありえない、ということにもなる。〟178頁

 倭国と魏王朝との外交の窓口(外港)とされる伊都国は、倭国の都である邪馬台国(原文は邪馬壹国)と遠くない位置になければならず、したがって、「邪馬台国」大和説は成立しないという論理は単純明快で、反論が困難です。このテーマは、『三国志』倭人伝に関する文献史学の論理的問題ですので、考古学者の関川さんからこうした指摘がなされていることに驚きました。このことが、同書を「わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と評した理由の一つでした。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟


第2485話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟大和説、鉄器の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注①)において、考古学の視点から、邪馬壹国博多湾岸説の根拠として、漢式鏡・鉄器・絹などの出土量が大和に比べて北部九州が圧倒的に多いことを指摘されました。「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)も『考古学から見た邪馬台国大和説』(注②)で同様の見解を述べられています。

〝邪馬台国大和自生説の困難さ
 さらに、邪馬台国が大和において自生的に出現したというのであれば、すでに弥生時代の早い段階から近畿大和が北部九州より、対外交流や文化内容においても卓越性を持っていなければならないことになる。
 しかし、3世紀以前、時期を遡るほど北部九州の弥生文化は、中国王朝との交流実態を示す有力首長墓の副葬遺物を始めとして、近畿大和と比較にならないほどの内容をもっていることは明らかである。首長墓の地域比較においても、大和地域の墳墓が、北部九州に次ぐ瀬戸内・山陰・北陸地方の大型墳丘墓にも達していないという、その事実を認識する必要がある。古墳の出現年代を遡らせ、それを邪馬台国と結びつけるということは、むしろ近畿大和における邪馬台国の自生的な成立を、さらに困難にさせることになるのである。
 このことから、有力首長墓の存在が確認できず、さらに対外関係と無縁ともいえるこの時期の大和地域において、北部九州の諸国を統属し、積極的に中国王朝と外交を行った邪馬台国のような国が自生するということは、考え難いことといえよう〟147~148頁

 鉄器の出土について、次のように述べられています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が示すもの
 先にふれたように、庄内式の終わり頃、纒向遺跡で出土した鉄器製作にかかわる鞴(ふいご)の羽口には、福岡県・博多遺跡群と同じ形のものがある。そして、ここでは半島南部の陶質土器も伴っている。これをみても、この時期の鉄器生産技術というものが、半島南部より北部九州を経て及んだものであることは疑いない。
 (中略)この博多遺跡群について重要なことは、遺跡の所在するところが、『魏志』にいう「奴国」の領域にあたることである。(中略)博多遺跡群における鉄器生産の規模は、この時期では列島内最大級という圧倒的なものである。北部九州から発する鉄器生産技術の広がりは、纒向遺跡のみならず、関東地方の遺跡まで及ぶという、はるかに広域な地域にわたっている。〟148~149頁)

 そして次のように結論されています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が、箸墓古墳の造営が始まるような時期に、ようやく北部九州からの技術導入で始まっているという事実は、やはり鉄の問題においても、邪馬台国大和説とは相いれるものではないことを示しているといえよう。〟150頁

 長く大和の遺跡を調査されてきた著者の発言だけに、誰も無視することはできないでしょう。北部九州における鉄器生産規模が圧倒的であることは、考古学者であれば誰もが知っている事実です。以前、大阪の考古学者と意見交換したときも、その方は「邪馬台国」畿内説を支持されていましたが、鉄器に関しては北部九州説が有利であることを正直に認めておられました。(つづく)

(注)
①古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
②関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。


第2484話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟九州説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には、「邪馬台国」研究史における「邪馬台国」〝非〟九州説の発生根拠や論理ついても紹介されています。学問研究においては、自説と異なる意見やその背景となる根拠と論理構造を理解することは大切ですので(注②)、関川さんの著書はとても役立ちます。読者の皆さんにも一読をお奨めします。
 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注③)によれば、江戸時代の松下見林以降の「邪馬台国」畿内説の背景として、〝古代より日本の代表権力者は近畿天皇家だけ〟とする皇国史観にあったことは明らかですが、さすがに現代では、そこまで露骨な理由は通用しませんので、どのような根拠に基づくのかを知りたいと思っていました。関川さんの著書には次のように説明されています。

〝邪馬台国「七万余戸」と弥生遺跡
 邪馬台国の所在地を北部九州の域内とすると、九州説の難点とされる主な理由に、『魏志』に伝える邪馬台国の戸数、「七万余戸」の記述がある。邪馬台国九州説においては、遺跡に対する異論が多い。その大きな理由は、邪馬台国時代の北部九州においては、戸数「二万余戸」の奴国、あるいは伊都国をはるかに越える遺跡は認め難い、ということである。
 それは大正期以来、北部九州の遺跡踏査を重ねた中山平次郎(1871~1956)が、九州説の有力候補地である筑後山門には際だった遺跡がみられないとし、邪馬台国九州説を否定した大きな理由である。
 当時、九州考古学の現状に最も通じた中山が、この踏査の結果を以て邪馬台国山門説を支持するのであれば、考古学上から中山の見解を否定することは、かなり困難な状況であったであろう。
 小林行雄も、「三世紀のことはわからないが、一、二世紀でも、また四、五世紀でも、九州地方に奴国より戸数の多い国がありえたとすることは、考古学的には不可能である。これは邪馬台国九州説にとって、致命的ともいえる難点となろう。」と述べている(小林行雄『女王国の出現』)。(中略)
 邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに越えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟179~181頁

 この説明を読んで、わたしは「なるほど」と思いました。博多湾岸の遺跡を奴国とする以上、それ以上の規模の弥生時代の遺跡などおそらく日本列島にはないと思われます。すなわち、文献史学において、博多湾岸を奴国と比定したことが根本的な誤りであり、その結果、その文献史学の誤った通説に基づいて、考古学者が出土事実を解釈したことが、「邪馬台国」〝非〟九州説の成立根拠と経緯だったわけです。
 古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で述べられたように、『三国志』の時代に「奴」の字が「な」と発音されていた形跡はありません。倭人伝では、「な」の音に「難」「那」の字が当てられており、奴の字音は「ぬ」「の」「ど」が妥当とされました。したがって、後世に博多湾が「那(な)の津」と呼ばれていたことと結びつけて、博多湾岸を奴国に比定したことは、学問的な論証を経ていません。これは明らかに文献史学側の誤りでした。その結果、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を「二万余戸」の奴国としてしまい、「七万余戸」の邪馬壹国に比定できる規模の遺跡が〝所在不明〟になってしまったのでした。
 また考古学側も、国内最大規模の博多湾岸遺跡群を倭人伝中の国に比定するのであれば、最大戸数(七万余戸)の邪馬壹国がもっともふさわしいとする、考古学的出土事実に基づいた判断ができなかったことにも問題があります。
 なぜ、考古学側がこのような判断を現在でも採用しているのかについて、6月19日(土)に奈良新聞本社ビルで開催される関川さんの講演会(注④)の時にお聞きしてみようと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功
②〝学問は批判を歓迎し、相手をリスペクトした真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えています。これは恩師、古田先生から学んだ学問の精神です。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
④「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2483話 2021/06/09

箸墓古墳年代引き上げの是非

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で指摘されているように、弥生時代の大和からは倭国女王にふさわしい大型墳丘墓(首長墓)の出土がありません。そこで、「邪馬台国」畿内説論者が〝苦肉の策〟として採用したのが、従来は4世紀と編年されてきた箸墓古墳の年代を遡らせて、〝弥生時代(3世紀)の古墳〟とする強引な仮説です。もちろん、「学問の自由」ですから、どのような仮説の提起も許されますが、このことについても関川さんは次のように鋭く問題点を指摘されています。

〝逆行する近年の古墳出現年代
 古墳が出現する時期は、弥生時代以降のことであり、中国でいえば漢代より後のことである。考古学の対象としても、それほど古い時代ではない。このため、古墳時代に限れば、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」に対する、かつての考古学界の反応でも分かるように、過去に否定されている年代観なのである。(中略)
 古墳の年代は、古墳研究の根幹となるものであるが、それはこれまでの長い研究史の上に成り立っているものである。もし、それを変更するとなれば、確たる考古学的な年代根拠が必要となるはずであるが、それが未だに明らかにされないままに、年代のみが繰り上がっているところがやはり問題であろう。〟133~134頁

〝古墳の年代というものは、古墳から出土する多種にわたる遺物の総合的な年代観に基づいているのである。(中略)
 さらに、副葬品の中には、数の多い石製品・銅鏃、そして鉄製の刀剣・槍の武器類があり、鉄製甲冑もみられるのである。これら『魏志』にも現れないような遺物までも、3世紀―邪馬台国の時代に存在する、ということになる。このようなことは、これまでの古墳考古学の「常識」からみれば、それは簡単には容認できないはずであろう。〟134~135頁

 このように、関川さんは古墳考古学がこれまで積み上げてきた総合的な年代観とは異なる、箸墓古墳の年代を3世紀まで引き上げる近年の傾向に疑義を呈され、次のように結論付けられています。

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

更に、〝我が意を得たり〟と思った、次の解説がありました。「邪馬台国」畿内説論者が、箸墓古墳を3世紀に編年する際に根拠(注②)とした、炭素14年代測定に関する次の記述です。

〝炭素14年代決定法の問題
 古墳3世紀遡上説の大きな根拠の一つに、特に土器付着物の炭素14年代法による結果がある。さほど古くはない古墳の年代を扱うのに、このような理化学的年代決定方法に、大きく依存するということ自体が、やはり問題であろう。これでは、考古学と理化学の双方による古墳の推定年代の結果について、相互比較することができないからである。
 さらに、年代測定にあたる理化学研究者により、測定資料としては保存の良い単年性陸産植物が最適であり、何を炊き出しているのか不明な土器付着物は、年代がかなり違ってくる可能性があることが指摘されている。
 事実、単年性の植物にあたる箸墓古墳周濠の桃枝や、ホケノ山古墳石槨内の小枝の分析報告では、新しい年代の数値を示しているのに対し、同じ箸墓古墳周濠出土土器の付着物や、ホケノ山古墳の木棺材では、それより古い年代の数値が出ていることは、これまでに知られているとおりである。
 年代値の使用にあたっては、どんな測定試料か、またそれが信頼できるのか冷静な判断が必要であると、年代測定者より助言されているのが、現在の状況である。〟136~137頁

 わたしも、水城や大宰府政庁の造営年代の根拠として、出土した「炭」などの測定値を採用する際には、サンプリング条件や試料性格を慎重に調査したうえで、その測定値が何を表すのかを判断する必要があると繰り返し注意を促してきましたので(注③)、関川さんの指摘はよく理解できます。理化学的年代測定で出された数値が何を意味するのかは、サンプルの性格やサンプリング条件の影響を受けますから、測定値が自説に有利か不利かというバイアスを除外して、慎重な判断が必要です。(つづく)

(注)
①関川尚功
②ウィキペディアによれば、「陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式土器が多量に出土した。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280~300年(±10~20年)と推定している。しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになる。」と解説されている。
③古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
 古賀達也「洛中洛外日」2451、2452話(2021/05/07-08)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(2)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2471~2475、2477話(2021/05/26-06/01)〝「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(1)~(6)〟


第2482話 2021/06/08

「邪馬台国」〝非〟大和説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の著書『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を手にしてから、わたしは1時間ほどで読みました。考古学の本をこれほど速く読み終えたのは初めてのことでした。関川さんの平易で論点を絞り込んだ文体のおかげもありましたが、何よりもその根拠(事実)と解釈(意見)を結びつける論理性(論証)、すなわち学問の方法や学問的思考の波長がピタリとあったことが大きいように思います。いわば、古田先生の著作を読んだときのあの〝感触〟に近いのです。そこで、「同書は、わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と述べました。今回は少し詳しく同書の持つ論理性について紹介します。
 関川さんの「邪馬台国」〝非〟大和説の論理構造は、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国:やまゐ国)のことを詳述する唯一の同時代史料『三国志』倭人伝の記事と大和の考古学的出土事実との整合性を検証し、両者が対応していないことを自説の根拠にするという方法です。これは考古学における「邪馬台国」論の王道です。同書よりその一例を挙げます。
 倭人伝には、景初二年(238)、魏に朝貢した倭国女王(卑弥呼)に対して、「汝の好物を賜う」として、次の品々を下賜したと記されています。

 「又特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。皆裝封、付難升米牛利還。到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也。」

 こうした史料事実に対して、関川さんは大和の考古学的出土事実を次のように説明します。

 〝最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅器製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。〟67頁
 〝大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されていないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。〟71頁

 このように、倭国女王の「好物」として中国が与えた「銅鏡百枚」の片鱗も弥生時代の遺構からは出土せず、〝大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しない〟〝もともと大和には鏡の保有という伝統がない〟とまで指摘されています。
 土中で腐敗・分解しやすい「紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹」とは異なり、「金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠」は遺存しやすいはずですが、大和からは出土を見ないとされています。ですから、その結論として、「畿内ではありえぬ邪馬台国」(注③)とされたわけです。この解釈は単純明快、従って論理構造は頑強で、とても合理的な解釈です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟
③関川氏の著書のサブタイトルとして、表紙に赤字で強調表記されている。


第2481話 2021/06/07

「畿内」考古学の実証的「邪馬台国」論

 関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 日本考古学界の大勢を占めるという「邪馬台国」畿内(大和)説論者という「王様」は「裸」であることが、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)により明白となりました。関川さんの主張こそ、畿内(大和)の考古学的事実に基づく実証的「邪馬台国」論です。このことについて、同書で指摘された実例をあげて説明します。

〝はじめに
(前略)『魏志』に描かれているような、中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との抗争もあるという外に開かれた活発な動きのある邪馬台国のような古代国家が、この奈良盆地の中に存在するという説については、どうにも実感がないものであった。特に、それが証明できるような遺物も、見当たらないからである。〟1~2頁

〝大型墳丘墓がみられない大和地域
 弥生時代後期には瀬戸内海・山陰・北陸など、その中でも特に西日本地域では、丘陵上に築かれる各種大型の墳丘墓が発達することはよく知られている。しかし、大和地域ではこのような、大型墳丘墓については未だに確認されないばかりか、墳丘墓自体がほとんどみられず、むしろ、その空白地帯といえるのである。
 (中略)奈良盆地内においては、特に首長墓とみられる大型の弥生時代墳墓は、未だ明らかではないという状況が今日まで続いている。
 さらに、方形周溝墓などを含めた弥生墳墓全体をみても、副葬品はほぼ皆無という状態である。〟32頁

〝大和弥生遺跡の実態
 (前略)弥生時代において大和と河内は、同じ近畿の隣接地域でありながら、生駒山地を挟んで、河内は西方に、大和は東方に志向するという対照的なあり方を示しており、古墳時代の一体化現象とは異なるようである。
 さらに、最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅器製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。
 また、鉄器の出土も周辺地域に比べるとかなり少量であり、青銅器自体の出土や、その生産遺跡も近畿の中で特に多いということはない。〟67頁

〝大和の銅鐸と銅鏡
 (前略)大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。(中略)
 大和においては、北部九州に比肩できるような青銅祭器は銅鐸のみである。(中略)
 大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されていないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。(中略)
 このような大和の銅鐸や銅鏡が示す実態からも、大和と邪馬台国との接点を見出すことはできないのである。〟70~71頁

〝近畿大和にみられない古墳出現の基盤
 前方後円墳の出現過程の追究において、これまで最も積極的に関連調査を行い、発言してきた近藤義郎は、すでに、「……ここ四〇年このかた、弥生墳丘墓の全土的調査・研究が進んだ結果、今では大和に前方後円墳秩序を創出するほどの勢力の存在を認めることが難しくなったようだ。」と述べている(近藤義郎『前方後円墳と吉備・大和』)。
 この見解は、これまで大和地域の遺跡や墳墓の調査において感じてきたことを、結論的に示すものである。今日までの長い調査歴にもかかわらず、大和地域では、未だに大型前方後円墳に連続するような、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にある。
 その一方で、北部九州や吉備・山陰・北陸などでは、多くの副葬品を保有する、あるいは大型の墳丘をもつような墳墓などから、弥生時代の有力首長墓の存在はすでに明らかになっているのである。(中略)
 近藤が述べた、考古学的にみると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難いという事実こそが、明らかに邪馬台国大和説が成立しないことを示しているといえよう。〟141~142頁

〝北部九州弥生首長墓の系譜
 大和において、弥生時代の首長墓と認められるような墳墓と、その系譜が未だに確認できないことは、北部九州のあり方と対照的といってよい。〟142頁

 以上のように、大型墳丘墓も副葬品も中国製青銅器製品も鉄器も、皆無かほとんど出土しない大和を「邪馬台国」とする畿内説を、よりによって、それら〝無〟出土事実を知悉しているはずの考古学者たちが声高にマスコミを通じて発表し、国民はそれを歴史事実と錯覚するという日本社会の現状に、わたしは学問や真実の危うさを感じざるを得ません。「日本の歴史の背柱は歪んでいる……命をかけても、一つの真実を守る。……そういう気概は失われてすでに久しい」(注②)のです。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、2013年。125頁


第2480話 2021/06/06

邪馬台国畿内説の終焉を告げる

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「王様は裸だ」。考古学界にそう告げた一書に、ついに巡り会いました。関川尚功さんの『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)です。邪馬台国畿内説が主流を占めるとされる考古学界に対して、畿内の考古学発掘調査の第一線に長くおられた著者(注②)によるものだけに、説得力を持ち、学界に与える衝撃ははかりしれません。
 その関川さんを講師に招いて、来たる6月19日に古代史講演会(注③)を開催しますが、それに先だって、同書で示された学問的本質について紹介します。
 同書は、わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊でした。しかも平明でわかりやすい文章です。同書の結論と全体像を端的に表したのが次の記述でした。

〝近藤(義郎)が述べた、考古学的にみると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難いという事実こそが、明らかに邪馬台国大和説が成立しないことを示しているといえよう。〟142頁
〝一貫して大和説を唱えた小林行雄も、「……『倭人伝』に記された内容には、一字一句の疑いをもいだかないという立場をとれば、邪馬台国の所在地としては、当然、九州説をとるほかないのである。」と述べているとおりなのである(小林行雄『古墳時代の研究』)。〟188頁

 邪馬台国論争における、前者は考古学の、そして後者は文献史学の結論を端的に表したものなのです。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②関川氏は元橿原考古学研究所員。
③「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13時30分~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2444話 2021/04/29

6月19日(土)古代史講演会済み

       関川尚功氏、古賀達也が講演

〝考古学から見た邪馬台国大和説

       畿内ではありえぬ邪馬台国〟

 「古田史学の会」では、6月19日(土)午後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会場は奈良新聞本社西館3階です。関西例会でも使用している会場二部屋分を使用し、「三密」回避などコロナ対策を徹底して実施する予定です。
 同日に行う恒例の古代史講演会は、関西地区の友好団体との共催で行います。今回は外部講師に関川尚功(せきがわ ひさよし)さん(元橿原考古学研究所・所員)をお招きします。正木裕に代わり、古賀達也が「日本に仏教を伝えた僧—仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人—」で講演を行います。
 関川さんの近著『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年)は、大和地方の発掘調査を40年の長きにわたり行ってこられた考古学者によるものですから、古代史学界に衝撃を与えました。考古学の第一線で活躍されてきた関川さんのお話を直接お聞きできる願ってもない機会です。最新の大和の考古学について、わたしも関川さんから学びたいと思います。 

当日の午前中は「古田史学の会・関西例会」を行います。

「古田史学の会」定期会員総会・古代史講演会の案内

◆日時 6月19日(土) 13:30~17:00
 古代史講演会 13:30~16:00
 古田史学の会・会員総会 16:00~17:00
 ※御前中は「古田史学の会」関西例会 10:00~12:00

会場変更 奈良新聞本社西館3階
〒630-8001 奈良県奈良市 法華寺町2番地4会場変更

(5.19会場 大阪市福島区民センターから会場変更)

◆主催 古代大和史研究会・市民古代史の会京都・和泉史談会・誰も知らなかった古代史の会・古田史学の会
◆講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所・所員)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国
 講師 古賀達也(当会代表)
 演題 「日本に仏教を伝えた僧—仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人—」
◆参加費 無料

6月19日会場地図

6月19日会場地図奈良新聞本社
近鉄新大宮駅北600m

考古学から見た邪馬台国大和説--畿内ではありえぬ邪馬台国

考古学から見た邪馬台国大和説–畿内ではありえぬ邪馬台国


第1988話 2019/09/12

梅原末治さんの業績と不運

 「洛中洛外日記」1987話(2019/09/11)〝曹操墓と日田市から出土した鉄鏡〟で取り上げた日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)を世に発表された梅原末治さんのことは古田先生もよく話されていました。中でも、梅原さんが福岡県春日市の須玖岡本遺跡D地点から出土したキ鳳鏡の調査を行われ、同遺跡を「邪馬台国」の卑弥呼の時代とされた学問的業績を、古田先生は高く評価されていました。と同時に、梅原さんのお弟子さんたちはこの梅原論文を無視・軽視されたと、梅原さんに同情されていました。
 そのキ鳳鏡による須玖岡本遺跡の編年修正について、「洛中洛外日記」873話(2015/02/14)〝須玖岡本D地点出土「キ鳳鏡」の証言〟で紹介したことがあります。その当該部分を転載します。

【以下、転載】
 「洛中洛外日記」872話で紹介しました須玖岡本遺跡(福岡県春日市)D地点出土「キ鳳鏡」の重要性について少し詳しく説明したいと思います。
 北部九州の弥生時代の王墓級の遺跡は弥生中期頃までしかなく、「邪馬台国」の卑弥呼の時代である弥生後期の3世紀前半の目立った遺跡は無いとされてきました。そうしたこともあって、「邪馬台国」東遷説などが出されました。
 しかし、古田先生は倭人伝に記載されている文物と須玖岡本遺跡などの弥生王墓の遺物が一致していることを重視され、考古学編年の方が間違っているのではないかと考えられたのです。そして、昭和34年(1959)に発表された梅原末治さんの論文に注目されました。「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文です。
 同論文にはキ鳳鏡の伝来や出土地の確かさについて次のように記されています。

 「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であることが伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」
 「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められる。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよキ鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」

 更にそのキ鳳鏡の編年についても海外調査をも踏まえた周到な検証を行われています。その結果として須玖岡本遺跡の編年を3世紀前半とされたのです。

 「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本キ鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
 「戦後、所謂いわゆる考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ)そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
 「如上の新たなキ鳳鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえそれを問題とする人士をさえ見受けたのである」

 このように梅原氏は自らの弥生編年をキ鳳鏡を根拠に「補正」されたのです。真の歴史学者らしい立派な態度ではないでしょうか。現代の考古学者にはこの梅原論文を真正面から受け止めていただきたいと願っています。(後略)
【転載おわり】

 このように、梅原さんは海外調査や須玖岡本遺跡出土の他の銅鏡なども自らの目で精査され、キ鳳鏡の製作年代から須玖岡本遺跡の編年を3世紀初め頃と修正されたのですが、この業績はその後の考古学界から事実上の無視の運命にあってきました。そして更に今回の日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡についても、梅原さんの現地調査などに基づく「ダンワラ古墳出土」という結論について、新聞報道では〝「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。〟と述べ、〝疑わしい〟〝謎が深まった〟と読者をリードするかのような論調で記事が構成されています。ここでもまた梅原さんの業績は〝否定〟されようとしているのです。
 梅原さんは同鏡を入手したときに聞かれた「日田での出土品」という古美術商の証言に基づき、現地調査をされました。同遺物出土時に立ち会った人からも証言を得るという梅原さんらしい徹底した調査に基づかれて、この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡について発表されました。それに対して、新聞報道では「懐疑論」の一つとして、「出土地について古美術商が言うことが必ずしもあてにならない。」との高島忠平さん(佐賀女子短期大学名誉教授)のコメントを紹介されたりしています。
 高島さんのコメントが一般論として妥当かどうかは、わたしにはわかりませんが、今回のケースでは古美術商の言葉を信頼してもよいように思います。というのも、もし古美術商がウソをつくのであれば、たとえば著名な天皇陵かその周辺で出土したなどと、その遺物の値打ちが上がるようなウソになるはずです。ですから、それほど有名でもない山間の地方都市である日田市から出土したなどというウソを古美術商がわざわざつく必要があるとは思えないのです。
 更に、現地を調査したらそのような遺跡発見の事実もあったわけで、古美術商がたまたまウソで日田出土と言ったら、偶然にもその時期に日田で遺跡発見があったなどとは考えにくいとするのが、わたしの古代史研究の経験からの判断ですが、いかがでしょうか。この件、機会があればもっと深く論じたいと思います。それにしても、〝梅原さんはお弟子さんに恵まれていない〟と言ったら、高名な考古学者に失礼でしょうか。


第1943話 2019/07/18

箸墓古墳出土物の炭素14測定値の恣意的解釈

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」において、いくつもの重要な論点が発表されました。中でも卑弥呼の墓とされた箸墓古墳出土物(木材)の炭素同位体(C14)測定値による理化学的編年への指摘は衝撃的でした。その測定値からは箸墓古墳を卑弥呼の時代と編年することはできないという科学的事実を指摘されたのです。
 従来は4世紀頃と編年されていた箸墓古墳でしたが、「邪馬台国」畿内説に基づき、より古く編年したいという「動機」が一元史観論者や畿内説論者にはありました。そのようなとき、箸墓古墳周辺から出土した木材片等の炭素同位体測定の結果、3世紀と見なせる測定値が出たことで箸墓古墳は「邪馬台国」と同時代と編年され、卑弥呼の墓とする説が学界の有力説となりました。この理化学的測定結果が「邪馬台国」畿内説の有力なエビデンスとされたわけです。
 この一見〝科学的〟なエビデンスには反論しにくいと誰もが思いました。ところが服部さんはこの測定値の生データを精査され、この生データからは箸墓古墳を3世紀と編年することはできないことに気づかれたのです。というのも測定値の生データ(複数サンプル)は数世紀の差異がある数値(サンプル)群であり、その数値(サンプル)中から3世紀に一致するデータだけを根拠に編年されているという極めて恣意的なデータ解釈が採用されていたからです。
 このことについては服部さんから詳細な論稿が発表されると思いますが、出土した各木片の測定値の分布が数世紀の幅を持っているのであれば、その複数の数値の中から自説に都合のよいデータだけを採用するなどとは、およそ理系(自然科学)では許されない恣意的な方法です。
 更に服部さんは、その3世紀に対応する測定値は4世紀にも対応するもので、その一つの測定値だけを採用したとしても、3世紀と4世紀の両方の可能性があり、3世紀と断定できないことも指摘されました。このように根拠とされた炭素14による測定値の生データからは箸墓古墳の編年は不可能なのです。自説に都合のよい科学的測定データのみを採用して、自説に有利になるように解釈することは学問の禁じ手です。(つづく)